「浜風文庫」詩の合宿 第一回

(蓼科高原にて)2017.11.11〜2017.11.12

 

 

浜風文庫では2017年11月11日〜12日に、
「蓼科高原ペンションサンセット」にて「詩の合宿」を行いました。

さとうの発案で参加者各自にて自身の詩と他者の好きな詩を各1編を持ち寄り、
各自の声で朗読を行うこと、
また、その後に、
各自がタイトルを書いた紙をくじ引きしてそのタイトルで15分以内に即興詩を書くこと、
そのような詩を相対化しつつ再発見するための遊びのような合宿を行いました。

参加者は、以下の4名です。

長田典子
薦田 愛
根石吉久
さとう三千魚

会場は浜風文庫に毎月、写真作品を掲載させていただいている狩野雅之さんの経営されている「蓼科高原ペンションサンセット」でした。

■「蓼科高原ペンションサンセット」

大変に、美味しい料理と自由で快適な空間を提供いただきました。
大変に、ありがとうございました。

今回は、合宿の一部である即興詩を公開させていただきます。

(文責 さとう三千魚)

 

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「平目の骨を数えて」

 

長田典子

尖る麦茶、ビシ、ビシ
尖る蜜柑、ピチ、ピチ
尖る骨、ガラ、ガラ
平目の目は上を向いているからね
だけど骨は尖っているんだ
知らなかったね
平目はおべんちゃら言いながら
ほんとは尖っているんだ
尖れ、尖れ、尖れ
平目よ、尖れ!
おべんちゃら言うな、尖れ!
いや、尖るな。
俺の箸が捌いて骨を数える
骨の数だけ空を突き刺す!
麦茶を突き刺す!
蜜柑を突き刺す!
平目よ、
雨の中に立ってろ!

 

※長田典子さんには即興詩の制作前に以下の詩を朗読されました。

長田典子さんの詩「世界の果てでは雨が降っている」
鈴木志郎康さんの詩「パン・バス・老婆」

 

「サルのように、ね」

 

薦田 愛

朝いちばんの光をつかまえるのは俺だ
ぬれやまない岩肌をわずかにあたためる
月の光をつかまえるのは
我先にと走りだす低俗なふるまいなど
しない俺の尻の色をみるがいい
みえないものに価値をおく輩も近ごろ
ふえているときくが
俺はゆるすことができない断じて
そっとふれてくるお前が誰だか知って
はいるがふりかえりはせずに
くらがりの扉をあけにゆく
ひとあしごとに
たちのぼる
くちはてた木の実のにおい
世界はめくれてゆく
俺のてのひらによって
紅あかと腫れあがる
初々しさにみちて

 

※薦田 愛さんには即興詩の制作前に以下の詩を朗読されました。

薦田 愛さんの詩「しまなみ、そして川口」
河津聖恵さんの詩「龍神」

 

「ビーナスライン」

 

根石吉久

ビーナスライン
雨の中に
光って
どこへ行ったか
南の空が明るく
西の空は暗かった
雨の中に
立っている女だった
立ってろと
サトウさんが言った

 

※根石吉久さんには即興詩の制作前に以下の詩を朗読されました。

根石吉久さんの詩「ぶー」
石垣りんさんの詩「海とりんごと」

 

「下着のせんたく」

 

さとう三千魚

明け方には
嵐だった

朝になったら晴れてしまった

それから
車のガソリンを満タンにした

52号を走ってきた
八ヶ岳を見た

下着をせんたくした

 

※さとう三千魚は即興詩の制作前に以下の詩を朗読しました。

さとう三千魚の詩「past 過去の」
渡辺 洋さんの詩「生きる」

 

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ベッドで

 

根石吉久

 

 

こころがあったらしく
あったところが空洞になって
こころがなくなって
しまった

こころが
なくなったのか
こころが
空洞にかわったのか
わからない

空洞だとかんじているのは
こころだろう
こころはなくなって
なくて
ある
のか

奥村さんが言った
こころは
また
生える

生えてくるまで
ない

こころが
なくなったと
かんじたときまで
こころは
なかった

そのかん
かんいっぱつ
くうどうになったせかいで
はんざいしゃになることを
まぬがれて
よかった


そういうことか

 

 

 

ミミズ談義

 

根石吉久

 

写真-641

 

ミミズのことを書こうかと思った。
畑にまたミミズが増えているのである。

畝の脇に通路を作るのに、ポリエチレンのシートを敷き、その上を刈った草で覆ってみた。ポリエチレンのシートは、生ごみ処理用に売られている大型の黒い袋の二辺を鋏で切って作るのだが、開けば90センチ×160センチのシートができる。
90センチは歩くだけの通路には広すぎるので、シートの端を折って下に入れ込んでしまう。これを敷いたら、通路に草が生えて歩きにくくなる問題はまったく解決した。それだけでなく、畑が見通せるようになった。どこに何をやったか、どこが途中までやったままになっているかが見えるようになった。

労力が消失しにくくなったのである。

一つの仕事をしていて、畑の別の場所に行くと、先に片付けなければならない別の作業が見つかることがある。みつかったものを優先してやっているうちに、先にやっていた仕事がわからなくなる。草が生えて、先にやっていた仕事の場所自体がわからなくなることもある。特に梅雨の時期から盆にかけて、どんどん伸びる草がやりかけてある仕事とその場所をわからなくしてしまう。去年までは、草を刈って通路で乾かし、土の中に埋めることを繰り返していたのだが、草を肥料にして草を育てていることになることが多かった。
畑がいつも見渡せると、そういうことがなくなり、労力を消失することがなくなった。去年までと今年とはまるで違う。

シートの上を刈った草で覆うのは、シートが風に飛ばされないようにするためである。草がクッションになって、歩いて疲れないという利点もある。
草は乾いてからも何度も足で踏まれるのでだんだん細かくなっていく。通路の枯れ草はシートによってその下の土と遮断されるので、靴が泥で汚れるということもなくなった。
畑の帰りにコンビニに寄りコーヒーを頼むようなことをしたとき、店の中で靴が泥だらけであることに気づき気がひけたことがあった。今年からそれもない。

今は畝にポリマルチをしないことを試している。ポリマルチをしてもしなくても、畝にはミミズがいない。畝の土に混ぜる有機資材を、刈って乾かした草からモミガラに変えたが、そのことによる変化はない。枯らした草にせよモミガラにせよ、堆肥にしないで、直接土と混ぜたところにはミミズは増えないようだ。

通路に降った雨が畝の方に流れるように、通路と畝の境目になるところでポリエチレンのシートの端をめくり、土を畝に上げて、わずかな傾斜を作るという作業をすることがある。その作業をしていて、通路と畝の境に限ってミミズが増えていることに気づいた。シートの端に近いところは、シートの下にもいるがシートの上にいる数の方が多い。乾いた草が踏まれて、5センチに満たないくらいの枯れ草の層ができるが、その層の下、ポリエチレンシートの上にミミズがいる。通路の草をめくると、ポリエチレンの上をミミズが逃げる。

今は六月で雨が多い。
水を含んだ枯れ草の層の下にいるのは全部ドバミミズだ。

五月にほとんど雨が降らなかった。その間はミミズを見なかったが、雨が降り始めたら、通路と畝の境目あたりの枯れ草をめくれば必ずドバミミズを目にするようになった。10センチくらいの長さのやつが多い。

YouTube で炭素循環農法を広めている人が、ミミズのいる畑はよくない畑だと言っているのを聞いたときはびっくりした。畑にミミズが多いと言って自慢している人は恥を自慢しているようなもんだと言うのだった。
畑をやっている友達にその話をすると、友達もびっくりした。ミミズの多い畑を駄目だというのは初めて聞いたと言うのだ。

その後、シマミミズとドバミミズは住んでいるところが違うなと思った。人間の都合で、有機物の分解過程を腐敗と発酵に区別するが、シマミミズは明らかに腐敗に傾いた土の中にいる。シマミミズのいる土は臭い。

堆肥を積んであるのを見なくなった。今では、「普通の農業」は農機具会社、農薬会社、化学肥料会社に飼われているが、日本人が百姓仕事を熱心にやれた頃は、堆肥の裾にはシマミミズがいたものだ。
子供の頃、鮒を釣る餌を手に入れたいときは、堆肥の裾を木の棒でほじってシマミミズをつかまえた。棒で土をほじると腐敗臭がした。

炭素循環農法の偉そうなおやじが、ミミズのいる畑はよくないと言っているのが、シマミミズのいる畑のことならわからないでもない。シマミミズのいるところは確かに浄化された土とはほど遠い状態の土だ。見るからに酸っぱそうな感じの土だ。食ってみたことはないが・・・。

シマミミズは大きくても7、8センチの長さで、ドバミミズよりはずっと小型だ。ドバミミズの大きいやつは二十センチを越えるようなやつがある。

ドバミミズにはのんきなところがあって、雨が降ると安心して道の上などに這い出す。急に晴れて強い日差しにさらされ、潜り込める柔らかい土がみつけられずに死んでいるのを見ることがある。子供の頃は死んだドバミミズを見て、単にでかいミミズだと思っていただけだった。それがドバミミズという名前を持っていると知ったのはいつのことなのか思い出せない。
子供の頃は、シマミミズとドバミミズが住む環境が違うことには気づいていなかった。シマミミズとドバミミズを名前で区別することはなかったが、違うミミズだとは思っていた。要するに、小さいミミズと大きいミミズという風に区別していた。肌の光の撥ね具合で、違うミミズだということはわかった。

ドバミミズはたまに見るだけだから、どこにどんなふうに生きているのかは謎だった。子供がドバミミズをつかまえることができるのは、ドバミミズが子供の目の前に来たときであり、子供がドバミミズのいるところに行くことはできなかった。この場合の子供とは、ひとまず10歳前後の俺一人のことである。

堆肥を見れば、シマミミズのいるところだと知っていたから、シマミミズは住所不定ではなかった。堆肥のあるところに定住するからシマミミズをつかまえるのは簡単だった。
ドバミミズは住所不定というか、流れ者なのかと思っていた。雨の後、道の上でドバミミズが死んでいるのは、流れ者の行き倒れという感じがあった。シマミミズに較べれば、ずうたいというくらいにでかいので哀れであった。

川口由一の農法を本で読み、真似したみたことがある。真似はごく一部で、「草は刈ってその場に置く」というやり方だけを真似したのだった。朝方寝るような暮らしをしている者には、明るくなったら畑にいるような真似はできなかった。
「草は刈ってその場に置く」をやってみてわかったことは、刈って置いた草の下にドバミミズが増えることだった。ははあ、ドバはこういうところにいるやつだったのかとようやくわかった。いつ自分が大人になったのかはわからないが、ドバミミズの棲んでいるところは、おおざっぱに言って、大人になってからわかったのだった。

草を刈ってその場に置くと、草にもよるが、土と草が接触する部分ができる。根元で刈れば枯れる草なら土とよく接触する。芝草のたぐいは、根元で刈っても、切った茎の芯からまた草の体になる薄い緑が伸びてきて、前身だった枯れ草を持ち上げてしまうから、刈った草と土が接触しにくい。
ドバミミズは、枯れた草と土が接触するところを這って湿った枯れ草を食っているらしい。枯れ草の層は、たとえ3センチばかりの薄い層でも、その下にいるドバミミズに直射日光が射さないようにしてくれる。つまり日光に対する屋根になる。晴れた日には土の中から水気があがってくるから、枯れ草の下部には湿り気がある。そういうところにドバミミズがいる。あんまりみんな乾いてしまったら、ドバミミズは土の下にもぐるだろう。
芝草を刈ったところは、芝草の新しい芽が柱になって屋根は空中「低く」持ち上がってしまう。刈れば新しい芽を出さない草なら、枯れ草の屋根の下部はドバミミズの餌になる。ドバは、屋根の下にいて屋根を食っているのだ。

ドバミミズの餌、乾いた草が水を吸ったものは発酵も腐敗もしていない。発酵と腐敗の中間の状態、どっちかに傾く前のニュートラルな状態の草をドバミミズは好むのではないかと思う。

ドバミミズは活発である。こんなに移動するのかとわかったのは、畝の草を刈っている時だった。「草は刈ってその場に置く」ということをやっていると、ノコギリ鎌が畝の草を刈る震動が土に伝わる。ドバミミズはそれを嫌う。土の中から這いだし、遠くへ逃げようとして這う。けっこうきびきびと這う。しきりに逃げようとする。

ドバミミズの棲息環境がわかった頃は釣りをしていたので、ナマズやコイを釣る餌を手に入れるのに、ドバミミズのこの習性を利用した。畑に行き、畑仕事をするためではなく、釣り餌を手に入れるために、畝の草をノコギリ鎌で刈るのだ。ドバミミズがあわてて這いだしてくる。速く動くから草の間を這っていてもわかる。それを拾うと、10分もかからずに3時間や4時間釣りをするための餌は簡単に手に入るのだった。

酸っぱそうな嫌な臭いがする土、腐敗過程の中にある土の中で、ろくに動きもせずまどろんでいるシマミミズと、緊急事態を感じてしきりに動くドバミミズはまるで違う。
シマミミズは棒で掘り起こされてもろくに動かない。5センチ前後の体をノローとさせるだけだ。場所を移そうなんて気は全然ない。
ドバミミズはずうたいがでかいくせに、移動をいとわない。這うのが速い。シマミミズのように伸びたり縮んだりして進むのではない。長いまま這う。蛇のような鱗はないが、体をくねらせて進む。ドバミミズには明らかに意志というものを感じる。

子供の頃、シマミミズのことを単にミミズと呼んでいた。その頃、ドバミミズには呼び名がなかった。でかいミミズというだけのことだった。ドバミミズ、略称ドバだが、ドバという呼び名は、釣の本かなんかで読んだのかもしれない。

これだけ生活環境も生活態度も違うものを、ひとくくりにミミズと呼んで、「ミミズのいる畑はよくない畑」などと言う炭素循環農法のおっさんは、あまりにも大雑把だと言うしかない。こんなおっさんが好き勝手を言って、シュタイナーだのなんだのとテツガクテキなことをぬかすのを聞くと笑ってしまう。炭素循環農法自体が大雑把で、シマミミズのようにまどろんでいるのだ。

シマミミズとドバミミズくらいはちゃんと区別しろ。そうじゃないと、炭素循環農法自体がシマミミズだ。反農薬でやるかいがない。俺のことじゃない。炭素循環農法にとってかいがないのだ。
川口由一なら、シマミミズとドバミミズの違いのことはすぐにわかってもらえるだろうと思う。川口の農法が俺に一番役だったのは、鯉の釣り餌を手に入れることだったにしても・・・。
川口がシマミミズとドバミミズを区別しないということはないだろう。福岡正信はどうだろう。あの人は大雑把というのではなくおおらかなのだが、シマとドバは区別しないかもしれない。

ドバミミズのいる土は臭くない。枯れ草が湿った臭いはするが腐敗臭ではないし、発酵臭でもない。
ドバミミズの糞ははっきりそれとわかるくらいの大きさがある。丸い糞だが、直径で2ミリくらいある。片手で掬うだけですぐ集まるくらいにポリエチレンのシートの上にいっぱい糞をしてあるところでは、糞を畝に移して土とまぶしてしまう。何が「ミミズのいる畑はよくない畑」かよ。臭わないドバミミズの糞は、そのまますぐに土になる。それが悪い土だとはとうてい信じられない。「俺、ドバミミズの味方です」であるのであるのであるのである。

ドバミミズの糞を畝の土に混ぜてやれば、畝の土は良い土になるんだよ、炭素循環農法のおっさん。ドバミミズの糞を微生物がまた食ってくれるんだよ、おっさん。

炭素循環農法に限らない。川口由一だってそうだ。理屈にとらわれたら、そこでまどろんだシマミミズになるのだ。

いきなりだが、吉本隆明だってそうだったと思う。晩年の談話をメディアがねじ曲げた可能性は考えられるが、それ以前に、朝日新聞や岩波書店を毛嫌いする一方で、原発村から原稿料をもらっていた。そんなことにつべこべ言う気もないが、亡くなる前の発言は、自分が長年言い続けた理屈に自分がとらわれてしまっていたと思う。あの事故を直視して、事故そのものから考えていったとは思えない。起こったことをあまりにも速く判断し、被害を小さく見積もってしまった。ただいま現在15/06/30でも、被害の規模は本当はわかっていないのだ。

吉本は科学に対する信仰と科学者に対する信頼が強すぎた。科学者連中も金で転ぶんだということは多分一度も書いたことがないのではないか。科学者が白を黒と言うことはあるのだ。福島第一原発事故直後に雨後の筍のようにテレビに出てきたやつらを見よ。
そんな連中は科学者でもなんでもないと言うのなら、それはその通りだ。しかし、吉本はいつも科学者には甘かった。

福島第一原発が爆発した後、「原発をやめれば猿に逆戻りだ」という発言を読んで、冗談じゃねえと思った。

吉本は、京都奈良くんだりの四季の風情だけ言葉にする詩人どもを否定したかったのかもしれない。その頃にでも、四季を歌わずに、四季に従っていた百姓たちはいた。百姓たちから搾取したのでなければ、キゾクドモは歌など歌っていられなかった。
その百姓たちがどんなふうに土とつきあっていたかは、記録としては何も読んだことがない。そういうものはまるで残されていないのかもしれない。だからあてずっぽうを言うしかないが、その時代では、土の浅いところに枯れ葉などの有機物を混ぜ続ける「古代農法」とそんなに距離はなかったのではないか。鎌倉か江戸かは知らないが、牛や馬を使って土の深いところまで耕すようになって「古代農法」は廃れたのではないか。記録がない限り、自分が今やっている農法からのあてずっぽうを言うしかないのであてずっぽうを言っている。

「古代農法」という語は、炭素循環農法からの借り物であることはお断りしておかなければならない。

炭素循環農法が「有機物を土の浅いところに混ぜる」と言うとき、「浅いところ」というのがミソである。何度も当てずっぽうで申し訳ないが、「浅いところ」というのが「古代農法」の眼目だろうと思う。それは「耕す」とか「耕起」という観念とは違う。単に「混ぜる」というだけのものだ。5センチから10センチ程度の土を動かすだけなのだ。

土が軟らかくなってくれば、何の道具も要らない。手で混ぜるだけでできる。それを古代の人々が知らなかったとは考えにくい。

「古代農法」というものがあったとして、それはただ想像することができるだけだ。これが農の原形だろうというものを、想像し、やってみることができるだけだ。

奈良時代や平安時代あたりでも、「混ぜる者たち」は「歌う者たち」とはまるで違うものを見ていたのだと思う。眺めて歌う者と、土の硬さや柔らかさを触ることで知る者とは、まるで違うものを見て(観て)いたのだと思う。同じ四季を相手にしていたのであっても、目や耳で「観る」者たちと、手で触って「観る」者たちがいたのだと思う。
身分も糞もなく、その違いはあったのだと思う。

吉本の言葉には、こちらの胸のまんなかにずどんとくる言葉がある。だけど、ずっと読んでいるうちに、なんか違うんじゃねえかというわだかまりがたまってくるのは、吉本が農を知らなかったということなのだろうと思う。おそらく科学ほどには農を知らなかった。そんなことは、俺が東京の下町の暮らしを、暮らしそのものとして知らないことと同じで、知っていたからどうだというのでもない。それは体に根付く前の知識に過ぎないというだけだ。

吉本さんは農村を知らないんじゃないかと正津勉が言ったことがあり、その通りだと思ったことがある。今は、それも違っていたと思う。吉本は農政も農村も知っていたと思う。隣の家の晩飯のおかずまでわかるようなところは、東京の下町も農村も同じだ。それに対する嫌悪や愛着は同型ではないかもしれないが、慣れの度合い、親しみの度合い、それに対するひそかな反発の度合いというところでは同じようなものがある。
吉本は農政も農村も知っていたが、農そのものは知らなかったのだと思う。俺の中にわだかまってくるのはそれだけのことだ。それはしょうがないことなのだ。

俺が読んでいる吉本隆明は、土佐の松岡祥男さんが発行している「吉本隆明資料集」のシリーズだけだが、喉に魚の骨がひっかかったような感じがあって読み続けることをやめることができない。そういう種類のわだかまりがある。

農って何だ。土という基体に触るものだ。土に触る体が知るものだ。土に触る体が知っていくものだ。それは書くという作業に似ていないか。自分が書いた言葉を自分が読んで、反芻される過程が書く作業にはある。
固かった土が軟らかくなっていくプロセスに触り続けることは、畑という原稿用紙にびっしりと字を書くようなことではないか。反芻は、目の前にあり、しかも向こうにある。書くという行為がこっちにあるものなら、農は向こうにある。
菌が世代交代を繰り返し、ミミズが小動物が反芻し、また菌に返す。言葉も、菌であり、ミミズであり、小動物である。目に見えたり見えなかったりし、育ったり育たなかったりする。

俺の農は、市場経済に取り込まれる前のものだ。いや、鍬や鋤や牛や馬以前のものだ。そこにポリエチレンのシートを一枚噛ませただけのものだ。

これは体力のない人にもできる。基本形だけだったら、道具も要らない。ああ、200円で買えるノコギリ鎌一本くらいはあった方がいいか。農薬も科学肥料も農業機械も使わずに、少なくとも自家消費分の野菜を作ることはできる。

農ってのは、タオってことだなとは思うが、それで話が通じるニホンの現在ではない。ひとまず、ドバミミズにかぶせられるフウヒョウヒガイをひっぺがすことくらいから始めるしかないのだ。

 

 

 

今日も駄目の人

 

根石吉久

 

 

私は、百姓の真似事をやる他に、英語塾もやっている。主にインターネット上で、スカイプというソフトを使っているので、生徒の住所はあちこちだ。かつては北海道から九州まで、今は山形県から福岡県までか。よくわかっていない。一度も顔を合わせたことのない人たちにレッスンしているので、なかなか住所も覚えられない。レッスンを始めるときに、一応住所を教えてもらってあるが、手紙でも出すようなことがなければ住所を調べることもない。
スカイプを使うのにカメラを使うと、音声が途切れたりすることがあるだろうと思いレッスンでは音声だけでつなぐ。この場合、都合がいいのは、私の顔や着ているものが相手にわからないことだ。
畑で百姓をやっていて、軽トラックに戻って時間を確認したら、レッスン開始まであと10分しかないというようなことが何度かあった。百姓仕事の道具もやりかけの仕事もほったらかして帰宅する。シャツにモミガラがくっついているし、手の指の爪の先には黒い土が入っているし、顔は日に焼けてまっくろけのケだし、ぼさぼさアタマだし、要するに英語のレッスンのコーチにはとうてい見えない。カメラを使わないでいてよかったと思う時は、そんな事情の時でもある。
ところが、通塾の生徒の前で姿を見られないままレッスンすることはできない。仕方がないので、畑から舞い戻ったばかりの格好でレッスンすることがある。泥のついたシャツ、泥のついた手、砂埃でジャリジャリする顔や首。

入塾したばかりの生徒が、私の格好を見て馬鹿にしたような顔をすることがある。

そういう生徒は、なるべく早く退塾してもらうようにしている。がんがん怒鳴りつけたりもする。英語なんかやる以前の問題が親にあるのだと思う。泥がついていたり、砂ぼこりが髪の毛の間から落ちて、机の上がジャリジャリしたり、英語で言うところのred neck であったりする者を、小馬鹿にするような目つきで見る者の家の中でも、親たちにそういう感覚があるのだと思う。言ってみれば、第一次産業の格好を馬鹿にする感覚と言えばいいのか。第一次産業の人口がどれだけ減っても、泥や砂を馬鹿にするような者は、俺がお前の英語を馬鹿にしてやんだよ。そんな根性のやつが英語なんかできるようになったってろくでもねえし、くだらねえ。

その昔、家を自作したので、コンクリートをよく練った。コンクリートも服に付着するとなかなか取れない。
東京で娘が学生をやっていた頃のある日、現場でコンクリートを練ったまま、着替えもせずに新幹線に乗った。新宿の紀伊国屋の前で待ち合わせていたので、紀伊国屋の前で娘が現れるのを待った。なかなか来ない。かなり待ってから、娘が人混みの中に立ち止まってこちらを見ているのをみつけた。こちらから娘に近づいて、なんで立ち止まっているんだと訊いたら、「わかんないの?」と言った。「お父さんの周りだけ、人が何十センチも離れて立ってるんだよ。汚い服に触るといやだから」と娘が言った。そういえばそうだったかもしれないが、別に気にもとめなかった。
住んでいる千曲市というのは田舎で、田舎にいれば人が10センチとか20センチのところまで近づいて来るなんてことはまずない。長野駅に行けばあるだろうか。長野駅でも30センチやそこらは人と人が離れている。50センチや60センチ離れていることだっていくらでもあるので、紀伊国屋の前でも60センチや70センチ人が離れていても普通だと思っていた。

新宿を歩きながら、レストランの脇を歩きながら、「ここで飯食うか」と聞いたら、「駄目だって」と言われた。曇りのないガラスから店内を見ると混んでいたので、あまり味で外れないんじゃないのかと思ったのに。

私は今日も「駄目だって」のままだ。
今日は里芋の種芋を土の中に埋めた。

 

 

 

どんづまりから帰宅する

 

根石吉久

 

 

写真-528

 

2月、親父がものを食べなくなり入院した。10日ほど入院したら回復し退院した。一週間ほどして一人で歩けなくなり、意識が混濁した。最初の病院では、MRIなどの検査はしなかったので、別の病院へ入院した。脳出血。量は多くないので手術はせす、点滴と薬で止めるとのこと。受け応えができたりできなかったり。話の途中で黙りこむ。気がふさぐとかではないらしく、話が途中のままだと思いながら顔を見ていると、何もなかったかのようにぽうっとしている。ついさっきまで話の途中まで話していたことも忘れている。
話を変えて別の話をする。

3月の原稿は休ませてもらい、さとうさんに頼んで、「月初め」に書くというのを、しばらくは「不定期」に書くということにしてもらった。お袋も別の病院に入院している。

桜が咲き始めた。曇り空。時々雨が降る。どこへ行くとも決めずに、一人で軽トラックででかけてきた。

アメリカンドラッグて、ネオシーダー2パック。駐車場に車を停め、ここまで書く。まだどっちへ行くとも決めてない。ガソリンが少ないから、まずはガソリンを入れる。

ガソリンスタンド手前、セブンイレブンの駐車場に車を停め、火をつけたネオシーダーを全部吸う。火をつけたものを口に咥えてガソリンスタンドの敷地内に入ると、セルフの給油所でも建物から人が飛び出してくることがある。

スカイエナジー、レギュラー、3700円余り。そのまま国道18号。戸倉の町を抜ける。抜けたところで、フロントガラスに雨滴が一つも当たらないのに気づく。土手伝いに畑へ。左に河原。右に集落。左に柳。右に桜。河原はまだ死の色が支配している。広い面積が枯れた葦や茅に覆われている。大きな色の塊は柳だけ。薄い緑だがあざやか。

土手の上に車を停める。ケースから種を一袋だけ出してポケットに入れ、土手を降りる。F1春蒔大根というそっけない名前のもの。ニチノウ、350円、原産地中国。親父が何かの菜にかけたトンネルが目に入る。この前、ここに来た時も、これを見るのがつらかった。冬の終わりごろ、親父がかけたトンネル。もう畑で親父に会うことはないだろう。
とにかく大根の種を蒔くだけにするつもりだった。車で畑の中まで入らず、土手に停めたのもそのつもりだったからだ。種蒔きをし、そこに被せてあった80センチ×180センチのマルチを通路に移動させ、風にやられないように藁をその上に敷いた。通路にノビロが勝手に芽を出していたのをみつけ、畝の上に移し、株のまわりの土にモミガラをまぶした。ネギの株元には去年の秋の終わりにモミガラをまぶしておいた。そこに草が大きくなりかけている。土が柔らかいので、簡単に草は抜ける。
親父が作って、冬の間に弟の家族が食べ残したネギから今年の葉が伸びている。あれを植え替えなくちゃな、などと思い、大根の種だけ蒔いて車に戻るはずが、あれこれと始めてしまっている。車の荷台にはノコギリ鎌などの道具が載っているので車を土手に停めれば仕事ができないはずだったが、土が柔らかくなったところは素手で仕事ができてしまう。
雨が降り出した。切り上げて車へ戻る。
平和橋を渡り、八幡のセブンイレブンの駐車場。100円のコーヒーを飲みながらここまで。コーヒーを買うとき、泥のついた手のままで買った。反応する店員もいるし、気にしてないことをよそおってくれる店員もいる。こっちも気にしているし、気にしてないことをよそおってもいる。トイレで手を洗ってもいいのだが、白い磁器の手洗い場がとても汚れる。掌に水を溜めてあちこちにかけたりしていると、床がびしょびしょになる。自分の手が店員の手に触らないように気をつけながら、つい泥のついた手で買い物をする。

体が少し湿気っぽい。

八幡辻を左折。千曲川左岸の県道を走り上山田へ。上山田入り口の神社の脇にある公衆トイレで小便をするのを忘れたことに、上山田の土手を走りながら気づいた。桜は咲き始めだと思っていたが、どこへ行ってもいっぱいに咲いている。咲き始めだと思っていたのは、曇り空で寒かったせいか。久し振りに四十八曲がりを登ってみるかと思い女沢橋を右折。八坂を抜け山道へ。山を半分くらい登ったところにトンネルが現れた。こんなトンネル知らないと思って入ったら、真っ直ぐに長い。どんどん走って、出たら筑北村。びっくりした。四十八曲がりは車で越えるのでも峠を越えた気がしたものだし、ちょっとした難所を越えた気がしたものだが、これはもう、山の腹をズドンと抜いてしまったのだ。
あっけなく、楽。
蕎麦処さかいはすでに閉店後。ようやくトイレ。隣接している地元産農産物の販売所で、切り干し大根のおやき二つ、あんこのおやき一つ買う。坂井郷土食研究会製。店のおばちゃんに、トンネルができていてびっくりしたと言ったら、もうずいぷん前にできていると言われた。長野の冬季オリンピックの頃だとのこと。外の自動販売機で、ダイドーあったまレモン買う。車でおやき食う。

花に誘われてというようなことではなかった。何もする気になれないから、ふらついていただけだ。畑に寄って種を蒔くような浮気もしたが、後は脇目も振らずふらついた。

蕎麦処さかいの駐車場に停めた車から冠着荘の湯殿が見える。一風呂浴びる時間はない。家まで一時間近くかかるだろう。今5時10分。6時から仕事。ここが今日のどんづまりだ。

信号の数最少経路をたどって帰宅。6時10分前。

 

 

 

流れて浮かぶ

 

根石吉久

 

 

写真-498

 

また寝床でiPhoneで書いている。体に力が入らない。

去年の12月にやったぎっくり腰を正月に悪化させた。なんとか歩くことはできたが、おっかなびっくりで、一進一退を繰り返した。1月半ば頃から、一進一退ではなくなり、急によくなった。月の終わり頃には、普通に体を動かせるようになった。連日、千曲川の河原でチェーンソーを回し、ニセアカシアを切り倒した。玉切りにした幹を軽トラックの荷台に積むのも怖くなくなった。

ぎっくり腰の快復では、あれがよかったのかなと思っているものが一つある。

ある日、昼頃目をさまして、寝床で腰痛体操の一つをやった。仰向けに寝て、曲げた膝小僧を腹の上あたりまで持ってきて掌で保持する。その日は、片膝ずつやったように覚えている。片膝ずつやってから、両膝を一度にやったのだったと思う。
曲げた膝を掌で1分くらい保持してから脚を伸ばしたら、体が別の動きをしたがるようだった。朝起きた時、体が自然に伸びをしたがるのと同じ感じで、そのときは脚を真っ直ぐに伸ばして、かかとを押しやる動きをしたくなった。布団をこするように、腰から遠くなる方へかかとを押しやると気持ちがよかった。自分で動かしているとも言えるが、体が動きたがるので、それに従っているだけとも言える。

今日も、これを書いたり中断したりして、中断している間、iPhoneを放り出して体を動かしてみる。

右脚だけ腰痛体操をした。腹の上あたりに曲げた膝小僧を保持していると、そのうちに尻の筋肉が、ピンと張った感じになる。膝小僧を保持する手の位置を変えて、張りを少しゆるめる。ピリピリした痛みが出てくるようなことはしない。筋が延びていく感覚が痛みに変わる境目に注意し、痛みに変わる寸前に保持したり、もう少しゆるめたりする。一度ピンと張った筋はそのままにしておくと、そこからまた延びるが、そこでさらに延ばすようなことをすると、その日はなんともなくても、翌日に筋が傷んでいるのがわかったりする。
張った筋が延びたら、延びた分の全部は使わない。小さいアソビの部分を作る。それを今、右脚だけやってみたが、途中で生欠伸がひとつ出た。脚を伸ばすと、やはりかかとを動かしたくなる。かかとが腰から遠くなるように数回動かした。
左膝も同じようにやってみた。やはり踵を動かしたくなったので動かした。脚を真っ直ぐに伸ばしている時間を長くして、わずかに腰を浮かせるようにすると、脇腹から脇の下の筋まで延びるのがわかる。今日は起こらないが、腰のあたりが急に温かくなったこともある。

今日は足の裏が冷たい。脚の筋を伸ばすと足の裏に汗をかくことがよくある。体調のいいときは、汗が出てくるのが気持ちがいい。今日は違う。寒気があり、汗が足の裏を冷やして体温が奪わるのがわかり、それが気持ちが悪い。
炬燵で足を温めてくることにした。炬燵に座る時、脚を炬燵の中でほぼまっすぐにし、尾てい骨に体重をかけないようにした。尾てい骨を少し後ろに送り、大腿の裏側や尻の肉に体重を乗せるようにする。体が固いので、脚の裏側が張ってつらくなる。体を左右にゆっくり振り、体重を右の尻、左の尻にかわるがわる乗せると楽になる。
脚が温まってきたので、iPhoneを炬燵板に置き、脚の筋を揉む。
脚の冷えは楽になった。体の芯にある冷えが取れているわけではない。脚の裏に触ってみると、冷たい汗が出てくるのがわかる。濡れて冷たい。
ふくらはぎ、大腿を揉む。大腿は筋のかたまりとかたまりの間に指先を差し込むようにして揉む。これも、痛みにならないくらいの力に加減する。
足の指すべてを手の指でいろいろな方向に動かす。やはり冷たい汗が出てくる。
足の小指と薬指の間に手の小指を根元まで差し込み、薬指と中指の間に手の薬指というように、順次すべての指を差し込み、掌と足裏で「握手」するようにする。掌が右手なら、足は左足と「握手」する。「握手」したまま、手で足首をゆっくり回したりもする。
これは、中島暁夫さんが送ってくださった「50歳からのきくち体操 菊池和子 海竜社」という本に載っていたものである。中島さんは、浜風文庫の前回の記事を読んで、この本を送ってくださったのだった。寝床や炬燵でどう体の筋を延ばすか、いろいろ試し始めた時に送ってもらったので、グッドタイミングだった。本にはかなりな数の体の動かし方が載っているが、その中からいくつかを取り込んだ。足裏と掌の「握手」とその状態のままでの足首回しは自分ではとうてい思いつかなかった。

脚が温まったので、寝床に戻る。両膝抱え1分くらいをやる。かかとを送るのは既にやってあるので、かかと送りは数回で気が済み、肩の裏側や肩甲骨のあたりを強く布団にこすりつけたくなる。こすりつけると気持ちがいいのは、流れが悪くなっていた血が流れ始めるからだ。

このあたりからは言葉で書くと七面倒な、あるいはとうてい言葉で書き表せないような「非直線的」なぐにゃぐにゃした動きが多くなる。不定形ないろんな動きが連続したり、初めてのポーズも出現したりする。体が動きたがるのに従っているだけになり、軟体動物になったようだ。
どんなに体の固い人でも、軟体動物になることはできる。動きが痛みにならない範囲で体の欲求に従って動くだけだから、誰でも柔らかい動きになる。痛みにならない範囲の可動域だけ使って軟体動物になる。

ナメコにもなれる。なりたくない人もいるだろうが、謹厳実直な人にも、なってみることをお勧めしたい。誰にもその人なりの軟体動物のイメージというものがあるものと思うが、それが体現されるのである。目は閉じていた方がいい。目を開いてしっかり見ていたら、きゃあとか、ひゃあとかいうような変な格好をしていたりするかもしれない。そもそも、あんまりぐにゃぐにゃしながらしっかり見ているということは不可能に近い。目は閉じていていい。体内感覚だけを感じていればいい。

きくち体操では、目を開いて見ながらやらなければいけないと書いてある。きくち体操はその辺が直線的だ。足首を回す動作などは円運動だが、基本にスポーツ系の考えがあるようで、直線的だと感じる記述があちこちにある。私の寝床軟体体操では、血液やリンパ液がどう流れたがっているのかを感じ取り、血液やリンパ液が流れたがるように流れさせるのが肝心なのである。目を閉じている方が体内の血の流れの感覚はよくわかる。血が流れたがり、体が動きたがるので、その欲求に従っていると、次々と普段やらないようなポーズを体が勝手に作る。魚になったり、ミミズになったり、名も知らない動物になったりする。一通り体が動きたがるようにやらせておいて気が済んだ頃には、体の各部にうまく血が流れていくのがわかる。
1月の半ばごろ、これを体が勝手にやり始め、その頃からぎっくり腰は一進一退ではなくなった。急によくなっていった。

ここまで書いたのが4日前だった。
4日前、書くのを中断し、左腕の上に上体をかぶせ、上体の重さを使って、下になった腕を圧迫したら、頭の中がぐらぐらした。
ぐらぐらしたのがあきらかに強い目眩のせいだと直後にわかり、次に吐き気がした。また脳虚血発作かとすぐに思った。上体を仰向けにして静かにしていると、目眩と吐き気はおさまった。もう一度上体の重さで腕を圧迫したら、同じ目眩が起こるかどうか試してみた。すぐに目眩と吐き気が来た。また仰向けになる。またおさまっていく。3度目をやってみた。同じだった。目眩と吐き気。仰向けになって、真剣に考えていた。何なのか、これは。
去年の夏、脳虚血発作をやったのだから、もっとも濃厚な疑いは脳虚血発作の再発ということだった。梗塞は起こっていないか。手のひらを握ったり、脚を片方ずつ動かしてみる。いつものように動くし、特に変わった感じもしないが、仰向けになっていても、壁や天井の平面が小さな波になり質感がぼやける。弱い目眩が続いている。吐き気も戻ってきた。枕元の iPhoneを取り上げ、娘の iPhoneに電話した。娘が来て、救急車を呼ぶかと言う。 いやだなあ、また入院か、いやだなあと、とにかく入院を嫌がっている自分がいた。救急車を呼ぶべきかどうか迷っていた。ベッドの上にゆっくり半身を起こしてみた。見えているものがぐるぐる回り出す。娘は篠ノ井の厚生連へ電話していた。救急車でなくても、救急の患者として受け付けるとのこと。なるべくなら、サイレンの鳴る車に乗りたくない。ベッドの上に半身を起こしていても、頭を動かさないでいると目眩と吐き気はおさまってくる。もしかしたら歩けるかもしれない。ゆっくりとベッドから降りて床に立ってみた。なんとかなる。お前の運転で病院へ連れて行ってくれと娘に言う。
病院まで20分くらいの間も、目眩は起こったりおさまったりした。
病院のベッドにいても、頭を上げたりすると目眩が起こり、見えているものが輪郭を失い、吐き気が強くなった。
CTの撮影をやってもらった。当直の年老いた医師から診察を受ける。CTの写真にはおかしなところはないとのこと。脳じゃなくて、耳じゃないかと医師が言った。当直医では、耳鼻科の検査はできないとのこと。点滴を二袋受けた。二袋目を受けているとき、吐き気がなくなっていることに気づいた。それを言っても看護師は取り合わなかった。この看護師は、メニエルだと思っているらしいのが言葉の端々にうかがわれた。メニエルと診断されたことがあるかと、病院に着いてすぐに聞かれたので、ないと答えた。看護師は私の症状を言うのに、メニエルという語は使わない。目眩はねえ、突然始まって、その後は長くつきまとうから辛いんだよと言った。看護師の言うことのポイントを付き合わせると、メニエルの症状というものがイメージできた。暗い気持ちになった。車椅子で病室へ移る。
点滴を受けている途中で、勤めから帰って駆けつけた妻が娘と交代した。23時過ぎ、孫を寝かせるために娘は帰宅。妻も翌日の勤めがあるので、午前1時頃帰宅。一人になったら、じきに寝入った。
朝食の時間になったらしく起こされ、食べられるかと聞かれた。食べられると答えて、目眩も吐き気もなくなっていることに気づいた。
厚生連の病人食はひどい。金をかけないことに非常に熱心。農協系の病院なので、味のしない安い牛乳は白飯のメニューにも付いてくる。そんなことは、今になって思うことで、その時は眠気にまみれて、何も思わず飯を食い、すぐまた眠った。いくらでも眠れそうなのだが、やれ血圧だ体温だ入院手続き書類だ担当看護師の挨拶だと小刻みに起こされる。小刻みに起こされ、小刻みに眠る。
昼飯だと起こされた時、一時間くらい前に朝飯を食ったばかりだと思った。小刻みなのによく寝たらしい。昼飯も強い眠気にまみれて食った。食ってすぐ寝た。点滴に睡眠薬かなんかが入っていたのかどうか。
MRIの機械が予約がいっぱいだと、小刻みに起こされたとき誰かに聞いていたので、検査が受けられるようになるまで、とにかく寝ていればいい。いくらでも眠れるのだ。
夕方起こされ、MRIの撮影。いつもながら、MRIが作動する音は不気味。20分が倍ほどにも長く感じる。その後、病室にいったん戻ったのか、MRIに続いて脳神経外科で検査結果の説明を受けたのか、記憶が混濁していて思い出せない。
平山医師から、MRIでも、脳に異常はみつからないとと言われる。ほっとする。平山さんは去年の夏の脳虚血発作のとき、私を診てくれた医師だ。
前日、病院に着いた直後、症状を自分で書くための書類を渡され、そこに左腕に上体をかぶせて圧迫することを3回繰り返したこと、そのたびに強い目眩が起こったことを書いたが、そのことを平山さんが言い出した。腕か胸にかけて、血管が細くなっているところがないかどうか、MRIで調べるとのこと。造影剤を使うとのこと。身の内が、かっと熱くなるあのいやな造影剤だなと思う。明日は明日の風が吹く。それよりも、脳に梗塞や出血がないことを今は喜べと思い、医師にお礼を述べて病室に戻った。
家に電話。脳に異常がなかったこと、胸や心臓のMRIの予定のこと伝える。
その後、何をどうしていたかよく覚えていない。iPhone でフェイスブックを見たりしたが、入院のことは書き込まなかった。昼間寝すぎたせいで、夜が更けても眠くない。一日を通じて目眩が起きていないことがうれしい。細切れに起こされた一齣で、メニエルだったらこういうふうにスパッと目眩と吐き気が止まるというふうにはならないと言っていた。それは喜んでいいことだが、それだと今回の目眩の原因が不明のままだ。
脳には異常がない。メニエルの症状とも違う。何だったのだ。見ていたもののすべてが輪郭を失い、ぐるぐる回りだしたのは、何が原因なのだ。そういえば、どの看護師さんかわからないが、目眩というのは原因がわからないケースが多いのだと言っていた。看護師さんは、入れ替わり立ち代り、いろんな人が来る。誰が誰なのか、名前を覚えられない。今日の担当の人は昨日の人と違う。
最初に診察してくれた当直の内科医が、耳じゃないかと言っていたことを思い合わせた。私の妹が目眩と吐き気で長く苦しんだことを、娘が言っていたのも思い合わせた。妹は人に薦められて医者を変え、それでよくなった。
明日、胸のMRIに異常がなかった場合、続けてこの病院で耳鼻科の検査を受けるべきかどうか。平山さんは、胸の血管に異常がなければ退院してもいいようなことを言っていた。夜中になっても眠れないまま、そのことを考えた。それもしかし、あくまでも胸の血管に異常がなかった場合の選択肢だ。異常があれば、入院は長引くことになるだろう。

眠れないまま朝になる。単に病人食だからというのではないひどい飯を食う。少しうとうとした。MRIの検査だと起こされる。検査室は寒い。足に造影剤の注射を打たれた。腕に打つのと比べものにならないくらい痛い。じわんと一挙に身の内側が熱くなり、撮影が続く。
今、書いていて気づいたが、あれはMRIではなくCTの機械ではないか。勘違いしていたのだ。MRIは狭いプラスチックの洞窟のようなところに人体が入る。足に造影剤を打たれて痛かったので、意識がはっきりしていたせいだろうが、機械の形状をよく覚えている。神社の茅の輪くぐりに使う茅の輪のようなもの。一重のドーナツみたいなもの。ドーナツの空っぽのところを私の胸が動いた。CTだ。今回の入院では、二度放射能を浴びた。
造影剤を使った胸の検査の結果も、1時間ほどでわかり平山さんが病室まで来てくれた。異常はなかったと伝えてくれた。身の内でほどけるものがあった。安心した。
その安心の中で、耳の検査は妹がかかった耳鼻科の医師に診てもらおうと決めた。退院すると平山医師に伝え、平山医師がうなづいた。
家に電話したら、妻は休みで家にいた。3時過ぎに迎えにきてくれることになる。パジャマを脱ぎ、着替える。無断で病院の外に出る。国道を渡り、篠ノ井駅の方へ歩く。アラビアンという喫茶店に入り、コーヒーとピラフを頼む。テレビを見ていたら、妻が来る時間が近づいたので病院に戻る。
帰宅の途中の車の中から妹に電話。耳鼻科医院の場所と電話番号を教えてもらう。
帰宅。横になる。
前の日、病院のベッドに寝ながら iPhoneで英語のレッスンを休みにすることを、「素読舎連絡専用掲示板」に書いた。帰宅したのでパソコンが使える。Skype を立ち上げておいて、やはり「連絡専用掲示板」に、今日もレッスンは休みにすると書いた。一人、Skype で呼ぶ生徒がいたので、Skype で休みにすると伝えた。仕事机の側のベッドで、入院していたことをフェイスブックに書いた。

それが退院した日だから、土曜日か。
昨日が日曜で、2月8日か。
さとうさんには、浜風文庫の原稿が遅れると電話で伝えてあったが、あれは入院の翌日、病院のベッドでだったのか。わからなくなった。金曜日あたりの記憶が混濁している。一日じゅう眠くて寝ていた日だ。

退院二日目。日曜日。車で木を切り倒している千曲川の河原の林へ行った。何をするでもなく、冬枯れの林を眺めた。チェーンソーを回すのは、しばらく休もうと思った。疲れたら休んで、疲れをためないようにしていたつもりだったが、やはりたまってしまったのだろう。気づかなかったのだろう。
疲れは、はっきり感じるときの方が回復する。内にこもった疲れになると、疲れていることを感じなくなる。それがヤバいのだ。
一人で林の中にいて、買ってきたコーヒーを車の中で飲む。少し歩く。木の幹を眺めながら、こいつは来年倒してやろうなどと思う。夏になったら、木に這い登るアレチウリを根元で抜いて、ニセアカシアの葉に光を当ててやろうなどとも思う。テーブルと椅子を持って来て、この林でバーベキューをやろうかと思う。
入院する前も、木を切り倒さない日でも、この林には毎日のように来ていた。木の幹と枝と、枯れたまま付いている葉を眺めた。林と林の向こうに広がる河原。遠くの土手と、その向こうにある山並み。河原にいると、人家が見えなくなる。
30分とか1時間くらいでいい。この林の中にいるのが好きなのだ。誰が植えたわけでもなく、出水が運んできた種が芽を出してできたニセアカシアの林。土手を車で通るだけの人は知らないが、人の手で作ったわけではない林の中に、径60センチ、70センチくらいのニセアカシアが生えている。人にそれを言っても、河原にそんなに大きな木があるのかと言われる。多分河原の広さのせいだろう。土手から見るだけだと木は小さく見えるのだろう。倒せば、ばきばきばきと、どでかい音が轟く。どうと横たわる木。ほとんどいとしい。
夜、通塾の生徒の練習を少し見たら、ものの輪郭がなくなるほどではないが目眩があった。9時過ぎに温泉に行く。腹から下だけお湯に浸かって、頭から血を下げる。帰宅して、フェイスブック。入退院のことを書いたものに、多くのひとがコメントしてくれてあったが、その中に耳石のことを書いてくれた人がいた。退院の話をしたとき、平山さんが確か「石」と言っていたが、これのことだなと思った。なんだか、耳の中に石があるというような話だった。それがずれることがあるという話だった。石がずれると目眩になるそうなのだ。初めて聞く話だった。
フェイスブックに書いてくれた人は、旦那さんの耳石がずれたのだそうだ。耳石は、疲れているとずれやすいのだそうだ。目眩で歩けなくなった旦那さんの頭を医者が揺さぶって、ずれた石を元の位置にはめたら、旦那さんはその場で立ち上がってすたすた歩き出し、そのまま退院してしまったということだった。
平山さんの話をもっとしっかり聞いてくればよかった。早く退院したくて、熱心に聞いていなかったが、石のずれというのがまさに私のケースなんじゃないか。

月曜日、今日。
もし耳石がずれたんだとしたら、寝床ぐにゃぐにゃ体操をしていた最中にずれたわけだ。ぐにゃぐにゃ体操をするのは少し怖い。しかし、またやってみた。同じポーズをしても何ともない。ぐにゃぐにゃ体操で、一進一退を繰り返したぎっくり腰が、後戻りしなくなってたのだから、ぐにゃぐにゃした方がいい。ぐにゃぐにゃすべきだ。
そう思っていいものか。しばらくは、おっかなびっくりやるのがいいのではあるまいか。

体感だけが繰り返され、変化してまた繰り返され、丸くなり、ねじれ、伸びて、ひねられ、つながり、止まる。止まれば血がどっと流れる。暖かく広がる。言葉を欠いて、血が動く。言葉が浮かんでも、何の構文にもならない。言葉の先に言葉をつなげようとしない。老廃物と一緒に、言葉が流れてしまうきもちよさ。意識がぽっかりと浮かんでいるだけだ。

私がいなくなる。

 

 

 

あけまして、ぎっくり

根石吉久

 

写真-462

 

1月6日。

また、ぎっくり腰だ。
一年の計は元旦にありとは、嫌なことを言うものだ。今年の元旦は、12月にやったぎっくり腰が悪化した日だった。ただ寝ているしかなかった。

何度か炬燵で書いてみようとしたが、痛くて駄目なので、寝ながら、iPhone で書くことにした。

寝ていると前兆のようなものがあったとわかる。わかるのはいつもぎっくり腰をやった後である。あれかと思い当たるのだが、あるいはそんなものはいつでもみつかるものなのかもしれない。体を動かせなくなって、とにかく寝ているしかなくなり、過去の数日を思い巡らせていれば、何かしら前兆のようなものは見つかるのかもしれない。
しかし、今回はそれがなかったのだ。うんこ座りというか、ヤンキー座りみたいな格好をしたら、いきなり来た。

思い切り大雑把な言い方をする方が原因がわかる。体の冷えだ。これだけはいつも見つかる。今回もそれはあった。寒かったから、ストーブの前でうんこ座りにしゃがんだのだった。
うんこ座りと言っているのは、和式便器を使うときの姿勢なので、だんだん通じなくなっていく言い方かもしれない。駅などで、ヤンキーがうんこ座りをしていた頃があったが、最近は見かけない。ヤンキー座りというのも通じなくなっていけば、あの座り方をどう言えばいいのか。野糞座りか。
年末も近くなって、うんこというか、ヤンキーというか、野糞というか、その座り方をしただけで来た。ただそれだけだった。体に力を入れたわけではない。簡単に壊れた。

起きたときに、すでに寒かったのだ。体が縮こまって、筋が硬くなっていたのだろう。

安い焼肉を食っていて、歯で筋が噛み切れないときがある。出刃包丁で微塵切りにすれば食えるのだろうが、そういう肉はうまくないので、そんな工夫をしてもしょうがない。
自分の尻の肉を掌でつかんで、人食い人種もこのケツは食えまいと思うことがある。顎がくたびれて口の動きを止めるか、不味いと顔を顰めて吐き出すだろう。そのくらい筋が硬く縮まっているときがある。そういう時は、体の芯の方に寒気がある。

子供のころから、血行が悪かった。小学校2年の時に、小児リウマチというのをやり3ヶ月ほど入院した。あれも血行が悪いせいだったのかもしれない。
リウマチというのをネットで調べてみたら、今でも原因がよくわかっていないらしい。学芸会の劇の役をやらされて、連日冬の体育館で練習させられたせいだと自分では思っている。冷えても時間が短かければまだいいのだが、どこにどう身を置いても駄目だという感じで冷えていった感覚は今でも覚えている。しかし、他の生徒は入院したわけではないから、やはり私が特に冷えやすかったのだろう。体もクラスで一番小さかった。
私の兄弟は、私以外は人並み以上に背がある。体が冷えると訴える者もいない。私一人が体が小さいのは、冷えで縮こまってしまったのかと思う。
ちなみに、親父の兄弟は9人いたそうだ。生き残ったのは3人で、他は子供の頃に死んでしまったそうだ。親父は末っ子だから、詳しいことは親父も知らないのかもしれない。話したがらないことは、こちらも訊かない。貧乏だったということだろう。子供は冬の寒さで死んだのではないかと、なんとなく思っている。

女房は土佐の生まれだ。私と東京で知り合い、長野に住むようになった年、初雪を見て雪だあと喜んではしゃいだ。今では土佐でもドカ雪が降ったりする変な天候があるが、女房が育った頃は、年に一度か二度、あるいは全然降らないくらいのものが雪だったらしい。女房が見ている雪を見て、「こんなもの」と私が吐き捨てるように言ったので、女房は顔が一瞬凍りついた。
芯に冷えが出来がちな私には、長野の冬は端的に凶悪なものだ。盆地の底冷えがきつい。年寄りが死ぬのも、底冷えした日の朝が多い。私は今では盆地の底冷えをはっきりと憎んでいる。

去年の夏頃、セルフ整体のことを書いたが、セルフ整体をやっても、筋が硬くなってしまっているときはまるで効かない。そこで、試しに自己流のストレッチングをやってみた。
寝床の中で仰向けに寝たまま、膝小僧を手で持って胸の方に軽く引く。これは代表的な腰痛体操だが、自己流では引く力をごく弱くする。筋が緩んでくると、膝小僧が胸に少し近づくが、このとき手に力を入れて胸の方に引いたりしない。どこかにピンと張った感じが生じたら、逆に張ったところを緩めるように膝小僧の位置をわずか戻す。ピンと張る前くらいの位置を探す。そうやってさぐりながら、90秒くらい同じ姿勢を保ってから、ゆっくりと脚を伸ばす。
これを初めてやった日は、よほど血行の悪かった日なのか、体に血が流れ始めるのがはっきりわかった。いつも下半身ばかり冷える感じがあるが、腰周りに血が流れると冷えが弱まる感じがある。筋も柔らかくなり、やたらにあくびが出る。人喰い人種もこのケツなら喰えるかなと思う。脇腹などを自然と伸ばしたくなるが、その場合も筋が張る寸前の位置を探りながら同じ姿勢を保つ。張った感じになったら少し戻してやる。
血が通うようになってからセルフ整体をやると、筋と肉が分離したみたいな筋の硬い感じはなくなり、痛みと気持ちよさが半々、あるいは痛み4分気持ちよさ6分くらいの感覚が生まれる。筋が硬くなっているときは、その感覚は生まれない。

1月7日

炎症が治まってから、歩くのは割と早く出来た。一進一退があるが、調子のいいときはすたすたと歩ける。普通に歩けるので、もう直ったのかと思うことがある。しかし、炬燵が駄目だ。炬燵にあたって30分もすると、辛くてじっとしていられなくなってくる。なんだ、まだ壊れたままじゃないかとがっかりして、寝床に入る。
歩けるので庭で軽いものを動かすくらいのことは出来る。今日は、薪ストーブの焚き付けにするものを屋根のあるところに何回か移動させた。夕方、風が冷たくなってきた頃、なんとなく腰の具合が悪くなった。国民温泉に行き、お湯に三度浸かったらよくなった。
昨日も同じような感じだった。夕飯を炬燵で食べているときに辛くなったので、松代温泉に行き、ぬるいお湯に長く浸かったら、帰りには痛みがなくなっていた。
炎症にまではならないが、小さくぎくっとなるズレのようなものは、徐々に減ってきている。このズレは何なのだろう。ズレの後、違和感があるが大事にはならない。伸びたりして、変な方に行っていた筋が戻る動きだろうか。炎症を起こさないので、寝込んだり杖が必要になったりすることはない。しかし、ズレがあったときの感覚は、ぎっくり腰をやったときの感覚とそっくりなので、こいつが生じるようになり始めた頃は、またやったかと思い、目の前が暗くなるような気がした。しかし、なんともない。違和感はあるが、歩けたりはする。機械に喩えれば、歯車の歯が擦り減って、ギアが噛み合わなくなったようなことなのかとも思う。そういうことだとすると、この先はますますヤバイ。サボらずに、また歩くことを始めた方がいい。腹も出てきている。

炬燵が駄目なので、寝床で書くしかない。iPhone なら左手一つで持ち、右手一つというか、右手の中指一本で書ける。キーボードがなくても、苦にならなくなってきた。ゆっくりやればいいだけのことだ。
ぎっくり腰のことなんかやたら書いても、ぎっくり腰をやったことのない人には、さぞかし退屈なことだろう。というより、途中で読むのを放り出してしまうだろう。申し訳ない。私は今はぎっくり腰のことしか関心がない。
原稿が遅れたのも申し訳ない。
養生します。

 

 

 

 

安直ピザ屋開業宣言

根石吉久

 

写真-415

 

この間の冬の終わりに、屋根だけあって壁のないごく簡単な物置からいきなりチェーンソーがなくなった。おかしいなと思ったら、薪割り機もなくなっていた。薪はほぼ一冬分作った後だった。
薪割り機はともかく、チェーンソーは夏でも使うかもしれないなと思った。杏の木を切ってくれと人に頼まれたままになっていたし、切ることになっていた桑の木もあった。
この桑の木は、畑の近くにある。人が桑の木の根元に対してえらく力を入れて仕事をしていた。すぐ脇を通って、軽トラを止め、何をしてるのか聞いたら、帯状に樹皮を剥いで木を枯らすのだと言う。固まって生えている五、六本全部やるつもりだという。枯らした木を何かに使う予定があるかと聞いたら、葉が茂って畑に陽が当たらなくなるから枯らすだけだとのこと。
直径で20センチ程度の木だから、チェーンソーで切れば簡単に片がつく。俺が切り倒して片付けましょうかと言うと、やってくれるかと言う。すぐはできないけど、そのうちってことでいいということになった。
枯らして立ったままにしておくつもりだったのは、切り倒したものを見つかると、国土交通省の河川パトロールに怒られるんじゃないかと思ったからだと、近所の畑の人は口を開いた。もし、あんたがみつかった時に、あんたが怒られてくれるかと言うので、いいですよと返事をした。文句を言われるんなら俺が文句を言われるのでいいと請け負った。
しかし、チェーンソーがないんでは仕事ができない。請け負ったのをいつまでもやらないでおくわけにもいかないと思ったので、ネットでゼノアの「こがる」というのを注文した。
チェーンソーは注文して二、三日したら到着したが、ダンボールの箱を開ける気にならず、部屋の隅に置いたままにしておいた。春が終わり夏が終わり、秋まで終わってしまった。いよいよまた薪をいじらなければならない季節になった。
義理の弟から電話があり、二トン車一台分の木があるが要るかと言うので、要る要ると言ったら三十分後にどさどさとダンプカーから家の脇に落としてくれた。全部ケヤキで、こりゃあ大変だと思った。一番太いやつは、直径で一メートル近い。配達に来た宅配便の人がケヤキを見て、百年くらい経っているだろうと言った。
翌日、「こがる」というやつのダンボールを開けて、ガイドバーとチェーンを取り付けてネジを締めた。こんな小さいチェーンソーで、あのケヤキを始末できるのか。
「こがる」というのは、よく果樹農家が使っている。評判はよくて、なかなか具合がいいというのを何度か聞いたことがある。もう歳も歳だし、小型で軽いチェーンソーがいいかと思い、「こがる」を買ってみたのだったが、いきなりもらったものが直径一メートルもあるケヤキだった。
ケヤキは堅い。
力の入れ方がこれまで使ってきたものと違うので、最初はとまどったが、機械に教わりながら慣れていくと、刃が新しいせいもあるだろうが、ざくざくと切れる。なにより具合がいいのは、スイッチの位置だった。握っていたハンドルから手を動かさなくてもスイッチが切れる。
単純なところをよく考えてある。
土や石のある近くまで切って、いったんチェーンソーを止めて、木から抜くのに片手で簡単に持ち上がるのも楽だった。丸太をほぼ切ったところでやめて、裏返して切り離すことは多いから、スイッチの位置がいいだけでどれほど楽になるか。片手で丸太からチェーンを抜けるだけでどれほど楽になるか。チェーンを抜きながら、もう片方の手で丸太を裏返せる。
一番太いケヤキは、周りに他の大物が転がっているので、まだ片づかないが、やれるとメドがついた。一番でかいやつを眺めて、うん、やれると頷いた。

ケヤキを片付けたら、次は請け負ってからやらないで放っておいた桑だ。

「こがる」が急に可愛いと思えた。機械を可愛いと思ったのは初めてだ。なにしろ小さい。全長で30センチくらいの感じがするが、いくらなんでもそんなに小さくはないだろう。しかし、使っているとそんな感じだ。

小型で軽いからといって、危ない機械は危ない機械だ。腕や脚がなくなるだけの大怪我に結びつくことはいくらでもありうる。「こがる」をキガルに扱ってはいけない。しかし、取り回しが楽だと、その分安全度が増す。年寄りにはいい。

チェーンソーのタンクに二度ガソリンを入れて、燃料を使い終わったらその日の作業をやめる程度に使うと、翌日にひどく疲れが残るということもない。気をつけて使えば、体力がなくても十分に使える。
薪屋をやって、よそ様の家の分まで薪を作るとかいうことになれば別だが、自分の家の一台の薪ストーブで焚く分の薪、つまり自家用の薪を作るには、こいつが一番いいんじゃないか。
私のところには薪ストーブが二台あり、塾がある日は二台焚くが、このチェーンソー一台でストーブ二台分の薪を用意することはできる。使い始めてまだ二日だが、勘で、できるな、と思っている。林業で使い連続的に大木を切り倒すようなことをするのでなければ、こいつで十分だ。
石釜用の薪だって、これ一台あれば運搬が楽だ。石釜を熱くするために最初にセガを焚く予定だが、材木屋に持参して、材木屋の敷地内で軽トラに積むのに具合のいい長さにセガを切るのにもいい。

「こがる」の出来の良さに励まされたということだろうが、ようやく薪割り機を買う気になってきた。
両方とも盗まれて、俺はそうとうフテクサレていたんだなと思った。

石釜で焼き芋を焼いて、焼き芋屋になろうと思っていた。

数年前の脳梗塞の続編なのかどうか、夏に脳虚血発作というのをやり、また入院した。その前に、ぎっくり腰で動けなくなった。チェーンソーや薪割り機を盗まれたあたりから、踏んだり蹴ったりが続いた。

焼き芋にする芋もろくに穫れなかった。

石釜でピザを何回か焼いてみた。スーパーに売っている二百円台のやつを買ってきて焼いてみたら意外にうまい。脳梗塞をやっているので、やたらにピザなんか食ってはいけないので、焼いてみるたびに少しだけ食ったのだが、これ、いけるんじゃねえかと言うと、女房が食べながら上等上等と言う。
焼き芋屋をやる前にピザを焼いて売るか。ピザ屋といえば、自分のところで生地を捏ねたり、イースト菌にこだわって生地を膨らませたりするものだと思っていたが、日本水産のマルガリータでいいじゃないか。安直ピザだ。
捏ねるところからやって、いいバランスをつかまえるまで本格的にやる気がないのは、私にも女房にも娘にも孫にも、揃いも揃って、あるだけの人数全部が、あんまり料理のセンスはないからだ。遊びで自家用に作るのなら、そのうちにやってみてもいいが、スーパーで買ってきた日本水産のマルガリータのバランス以上のものが、そんなに簡単に作れるとは思っていない。
石釜で焼いたピザがうまいのは、石釜と薪のせいだ。そこそこであるはずの日本水産マルガリータでも、食べた人が「うまい!」と声を出すのは、日本水産の手柄もあるだろう。しかし、石釜と薪の手柄が大きいと我田引水したいところだ。遠赤外線がどうのこうのと理屈を言えば言えるが、電気やガスのオーブンで焼いたものとの一番の違いは、木が燃えて煙が流れ、煙がつけてくれる味だと思う。軽いスモーク味がチーズや肉などといいバランスを作るのだろうと思う。
焼き芋屋だと冬の間だけの商売だしな、とも思った。焼き芋は焼けるまでに四十分から一時間くらいかかるしな、とも思った。焼き芋はお客さんが来る時には焼けていなければ駄目だが、ピザだとうまくやれば十分から十五分くらいで焼ける。そのくらいならなんとかお客さんは待ってくれるのではないか。それは、お客さんから注文をもらってから焼き始めることができるということだ。ということは、売れ残りが出ないということだ。ピザからやるのがいいんじゃないか。

焼き芋屋をやるのは、売れ残りを食べさせる鶏を飼い始めてからだ。ちゃんと畑で芋が穫れるようになってからでいい。放射能検査を芋一つずつに施してない千葉・茨城の芋を焼く気にはなれない。

ネットで冷凍ピザというのを調べた。賞味期限は一年だとあった。
スーパーで売っているものは、冷凍ピザではなく冷温ピザが多い。簡単に言えば、冷凍庫に保存するものか、冷蔵庫に保存するものかの違いである。
スーパーではよくピザを安売りしている。賞味期限が近づくと安売りするのだ。これを買ってきて、すぐ冷凍してみた。冷温ピザを勝手に冷凍してみた。これで実質的な賞味期限はぐんと延びる。
冷温ピザを冷凍したら食ってまずいのかどうか。二週間くらい冷凍庫の中に放っておいてから石釜で焼いてみた。
いけるじゃないか。食えるよ。食えるよっていうか、普通に冷温ピザを焼いたようになるよ。っていうか、うまいよ。
コツは、冷凍したピザを焼く前に、こちんこちんになったピザを裏返して、生地の裏を水で濡らすだけのことだ。後は凍ったままのピザをちんちんに熱くした石釜にそのまま入れて焼いてしまう。味が悪くなることはない。まあ、私の味覚のセンスはどうってことはないレベルだが、どうってことはないレベルにおいて、あくまでも私はとってもおいしいと思う。

果たして、通用するかどうか。

というのは、六百円の値段をつけるつもりなのだ。スーパーの安売りはねらわず、なるべく新しいものを買ってきて冷凍するとして、ピザの定価と冷凍の電気代と車のガソリン代で三百円くらいになるとおおざっぱに見積もる。その倍額の六百円の根拠は、石釜で薪を焚いた分の労賃なのだ。薪を焚く労賃と薪を作っておく労賃なのだ。

セガを材木屋から運んでくる時はチェーンソーを使うが、チェーンソーで切ったところに隣接して10センチくらいは微量だが機械油が付着する。だから、ストーブ用の薪の長さ分五十センチは切り離して薪ストーブ用の薪にする。石釜に使うものは、すべて丸鋸の刃を上向きに取り付けた台で切る。これだと機械油が木に付着することはない。
つまりは、チェーンソーで切った薪と、丸鋸の刃で切った薪を別に積むということになる。そういう手間まで含めて、スーパーで買ってくる安直ピザ一枚で三百円いただこうという魂胆なのである。

石釜で薪を焚き、高いピザ(千円以上もする)を食わせるピザ屋はあるが、チェーンソーの機械油が薪に付着することまで考えているところはない。今の時代に普通に作った薪で焼いたピザだと、ごく微量ではあるものの、客は機械油を食うことになる。
自家用に屋根に載せた太陽光パネルで丸鋸の刃はいくらでも回る。薪割り機も動く。中部電力に売る電気が減るだけだ。中部電力とはなるべく金のつき合いをしたくない。まだ原発を動かそうとしている会社だ。今のところ、夜に使う電気のバッテリー代わりに使うだけの会社だ。糞食らえ、東京電力、九州電力、それと、中部電力。

自宅で作った電気で、機械油の付いていない薪はいくらでも作れる。

安直ピザ、果たして、通用するかどうか。

うまくいけば焼き芋屋になれる。

どうぞ、世間の優しい皆様、私を焼き芋屋にして下さい。

 

 

 

タンコロ、セガ、鶏、芋

 

根石吉久

 

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書きたいものというものがない。
やるべきことはうじゃうじゃある。
今回は、やり残してあること、今後やるべきことを書き並べて、冬越しの準備の準備くらいに役立ててしまうことにする。

どうやら、一年の区切りというのは、私の場合は正月とか春の初めにあるわけではない。木を切り倒すとか、切り倒したものを切ってタンコロにするとか、タンコロを割って薪にする作業が始まると年が改まるのだ。だいたい11月の初めがその時期である。いじる薪は、直近の冬に焚くものではない。一年後の冬に焚く分をいじり始める。

薪割機を盗まれたことがやはり相当のショックだったのだと思う。盗まれてから、薪割は一度もやっていない。
故障したのを直すのに、長野の外れまで二度往復し、ようやく直って自宅に持ち帰ったらすぐに盗まれた。
チェーンソーも一緒に盗まれたので、しばらくぐずぐずしてから、ネットでゼノアの「こがる」というのを買った。こっちは買ったきり、ダンボール箱を開けてない。半年以上、新品のまま放置してある。そろそろ、箱を開けて機械を取り出さなくてはならない。

泥棒よ。おまえさんは知ったこっちゃないだろうが、こっちはほんとにやる気がなくなった。

今年の春、おやじの田の隅を借りて作ったビニールハウスの骨を解体した。やる気がなくても、やらなければならないことはある。そのとき、木の切れ端が出たから、台に丸鋸を逆さに取り付けたもので木を切った。丸鋸をとりつける台は市販のものだが、それを載せる台は木で自作した。自分の体が立った高さで、木を丸鋸の刃にあててジャーンと切れるようにした。丸鋸を固定して、木の方を動かして切るのだ。
作ったのは昔のことだ。昔のことでも、安直で手軽なグッドアイディアは覚えているものだ。もう10年以上使っている。市販の鉄製の台は、30年以上使っている。丸鋸が動かなくなったので、3年ほど前に新調した。
一週間前、この台で長く放置しておいた板状の木を切った。梅雨の雨の中に放置したので、腐りかけた木がかなりある。それでも、割った木ではなく、切った木だけでも11月の寒さくらいならしのげるかもしれない。しかし、これを焚いてしまうと、焼き芋を焼く分はない。

薪も要るが、焼き芋屋の看板を作らなくてはならない。なんだか新しい看板を掲げる元気が出ない。
屋号なし。「焼き芋」という文字だけを掲げることにする。
塾の看板はある。夜に蛍光灯が灯る60センチ四方くらいの中古の看板がもらえたので、それを取り付ける鉄の柱を親類の業者に立ててもらった。夜になると「英語 素読舎」と灯る。その鉄の柱に「焼き芋」と書いた板を取り付けてしまおうと思う。

去年、石釜を作った。この釜でピザを何回か焼いた。ピザと焼き芋の両方を焼けるように設計したつもりだったが、どちらかと言えばピザ用にできてしまった。
ドラムカンを切断して作った焼き芋用の釜もある。これは5年ほど前に作ったものだ。こっちの方が芋を焼くにはいい。これを稼働させることにする。去年作った石釜はセガで熱くしておいて、ドラムカンで焼いた芋を保温するのに使えばいい。先にドラムカンの釜で芋を焼き始めてから、石釜を暖めるための火を焚き始めればいい。

そうなると、セガが大量に要ることになる。松のヤニが燃えた臭いが芋に移らないかと心配したが、ドラムカンの釜は火室で燃えた空気が釜を通らず、そのまま煙突へ行く。熱がドラムカンの尻を焼くだけで、ドラムカンの中を煙が通ることはない。燃料がセガで済むなら、体が楽だ。なあに、セガを切るだけなら量を作れる。

セガはたいがいベイマツだ。ベイマツと呼んでいる松は、アメリカだけでなく、カナダやロシアからも来る。筏状に組んだものを海に浮かべて船で引っ張ってくるらしい。

セガと呼んでいるものは、丸太から柱を切り出したときに出る端材のことである。丸いから丸太だが、そこから四角の柱を切り出すと半月状の端材が出る。
昔は風呂を焚くのに、わずかな金を払って材木屋から買ったものだが、今は産業廃棄物扱いになっている。
「里山資本主義」という本で、セガで発電している材木屋の話を読んだが、小さい材木屋は発電用の設備を持つこともできない。しかし、製材すればセガは出る。だから、軽トラックでもらいに行くと、いくらでももらえる。
焼き芋と取り合わせるべきものはセガだ。

また看板のことがアタマにちらちらする。
屋号なし、「焼き芋」という文字だけの看板にするのはそれでいいが、夜の客のために裸電球をぶらさげようかと思う。どうせ、午前中は店は開かないのだ。夜中に、英語の教材を作らなければならないから、午前中は起きられない。

裸電球は20個くらいぶら下げれば、それだけで目を引く。それとも、一つだけの裸電球の方が寂しくていいか。
今年、屋根に発電パネルを載せたので、裸電球の電気くらいは後から増やすことはできる。

問題は芋だ。
苗を買って畑で作ってみたが、どれほども穫れていない。
ぎっくり腰でひと月以上、脳虚血発作の入院でひと月以上、畑に行かなかった。ぎっくり腰と脳虚血発作の間も、ぼうっとして、我が身が使い物にならず、畑に行かなかった。従って、梅雨の間と夏の間、全然行かなかった。その間に、草が伸びた。
ポリマルチをしたので、サツマイモが完全に草に覆われるというまでにはならなかったが、通路に生えて畝に伸びた草とサツマイモの葉が混在した。陽が十分に当たらなかったせいか、掘っても芋がろくにない。まだ掘りあげず、土の中にある分が多いが、これまで掘りあげた様子からすると期待できない。孫が友達を何回か連れてくれば、みんな食ってしまう程度の量だろう。

芋を買わなければならないのか。それが問題だ。
千葉や茨城の芋は放射能を吸っているかもしれない。国はまともな検査態勢を作らなかったので、野菜類にどれだけの放射能があるかは闇の中だ。誰がどれだけ放射能を体に入れるかはロシアンルーレットだ。山陰方面の芋もスーパーでみかけたが高い。どうすればいいのか。

まだ、鶏を飼ってない。それも問題だ。
売れ残った芋は、鶏の餌にしようと思っていたのだ。

だいぶ酒が入った。
山形の英語の生徒さんから送ってもらった「男山 純米 大吟醸 澄天」。うまい。
飲みながら書けば、文章というものはだらけるだろう。
だらけて問題があるか。
ない。

問題は、鶏を飼ってないことと、芋が穫れないことだ。
だけども、問題は、傘がない、と井上陽水が歌った。傘がないのは、軽トラをコンビニの入口近くに駐めて、店内にすばやく飛び込めばいい。軽トラは傘になる。この傘は電気で走らせたいが、まだ自動車メーカーが、電気で走る軽トラを作っていない。三菱だったか、一社あるだけ。

屋根のパネルで発電した電気を中部電力に渡さず、バッテリーに蓄電したい。自宅で発電する量は、自分で使う量の倍以上あるので、バッテリーに蓄電できれば車を走らせることもできるだろう。電力会社とは縁を切りたい。電力会社は法律に甘やかされて腐っている。

鶏を飼ってないのは、中村登さんが死んじゃったからだ。
ツイッターとフェイスブックをほぼ同時に始めたら、中村さんと連絡が取れ、昔の「季刊パンティ」という雑誌を取ってあるかと聞かれた。あるだけ郵送したら、中村さんの弟さんが飼っている烏骨鶏の卵をいっぱい送ってくれた。
烏骨鶏飼おうかなと中村さんに言ったら、弟さんに卵を孵してくれるように頼んでもらえることになった。雛が孵ったら、雛をもらいに埼玉まで軽トラで行くことになっていた。鶏小屋を作るのが遅れたので、まだ親鶏に卵を抱かせるのは待ってくれと中村さんに伝えてまもなく、中村さんが亡くなったと佐藤さんから電話をもらった。

葬式には行かなかった。その人が死んだと納得できない時、行かなくてもとがめられない葬式には行かない。鶏小屋を作るのも放置した。納得できないので放置したのかどうかも納得できない。鶏小屋なんか作らないぞ。だから鶏がいないぞ。だから、売れ残りの焼き芋を食わせる鶏がいないぞ。中村さんもいないんだな、と、納得しようとしている。まだやってる。

「季刊パンティ」は、奥村さんと中村さんと私とでやっていたのだった。まさかなあ。奥村さんも中村さんも俺より先に死ぬとは。なんとなく人間が脆弱なので、俺が先に死ぬと思っていたのになあ。

「猩々蠅」は、俺改め私が、でしゃばって出版するつもりでいた。
ネット上に書かれたものなので、一年の年末から年始に向かって読むようになってしまっているのを、年始から年末に向かって読むように整序したかった。縦書きで読めるようにもしたかった。やりかけたが、脳梗塞のせいで両方ともできなくなった。なんだか気力がなくて、何もしたくない。他の印刷もしなかったら、印刷機を貸してくれていた事務機屋が「もう貸しておくわけにはいかない」と言いだし、印刷機を持って行ってしまった。

でも、本ができた。
奥さんの節さんの骨折りで、私の望んでいたことがすべて適えられた。縦書きで、年始から年末に向かって読める。
十年以上にもわたって書かれたものなので、分厚い本になった。このところ、この本ばかり読んでいる。ときどき、声をたてて笑う。生きていた奥村さんがいる。奥村さんの声が聞こえるように思うことが何度もある。

節さん、お役に立てず、済みませんでした。奥村さんが死んだことも、本が出て納得しはじめました。

ぐずぐずしている。
本当に焼き芋屋は始まるのだろうか。
セガの確保、ドラムカン釜と石釜の分担のバランス、そっち方面は問題がない。
そうか、いろいろ考えなくてはならないんだな。家の中のストーブと、芋を焼くためのドラムカン釜と、芋保温用の石釜と、3つ焚くのかと今わかった。焼き芋屋をやるんなら、今年の冬は忙しいぞ、と、それが今わかった。

セガの処理は見通しが立つ。セガがあれば大丈夫だ。端材だから、新しい木でもじきに乾く。

そうじゃない、問題は、鶏だ、芋だ。忙しい。
鶏だ芋だと、騒いでいるだけだというのが、もしかしたら問題だ。忙しいと言ったって、騒ぐのに忙しいだけじゃないかという思いが生じると、しゅんとなる。なるほどなあと思う。しゅんとなって、心が落ち着くように原稿を書き始めたわけではないが、なるほどなあと思う。書くということも、ヤクニタツんだなあ、と。

ヤクニタタナイからイインダと思っていたのに。
まあしかし、ひるがえって、要するに、火を焚きたいだけか。

 

 

 

トヤン父子

 

根石吉久

 

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結局何をやってきたのだろうとときどき思う。

若いとき、詩を書いたことがあったが、あれは詩だったんだろうか。もしかしたら、日本語を使った語学みたいなもんじゃなかったんだろうか。日本語で何か書いてみる練習みたいなことをしたんじゃないだろうか。

大学に入った頃に、自分が文章を書けないことに気が付いたのだった。書いてみると、書きたいことと言葉になっていくものとが、ずれる。いまだ言葉にならないもの、言葉にならずにもがくものと、実際に言葉になっていくものとが、ずれる。ずれるというより、もっと差がでかい。時によっては、うらはらじゃないかと思うくらいに違うものが出てくる。
一致することがあるのかと思った。学校じゃ、思った通りに書くだとか、考えたことを素直に書くだとか言っていたような気がするが。
考えたとして、考えたものはもう言葉になっているのか。言葉以前のものか。その両者が混ざり合ったものか。どうも混ざり合っている。ときどき言葉の断片みたいなものが動くが、シンタックスは待機状態であり、言葉の断片以外に動くものは、「充実したからっぽ」みたいなものだけだ。まだ言葉にならないが、言葉になる直前のもの、もがくもの。
言葉になろうとするものは動きはするようだ。この状態で思った通りに書くだとか、考えたことを素直に書くだとかはありえない。
「充実したからっぽ」をどう言葉に変換させるのかがあるだけだ。変換させるとき、「充実したからっぽ」がどこかを通る。どこを通るのか。
「充実したからっぽ」は、言葉というより言葉の芽みたいなものだ。まだ具体的な言葉ではない。同語反復みたいだが、からっぽというのは、言葉としてからっぽなのだ。具体的な言葉ではないから「からっぽ」なので、何かに充ちていたり、もがいたりする。
それが、どこかを通るようだ。一番わかりやすい言い方は、意識の浅いところ、中間のところ、深いところという3つくらいの層を言ってみることだ。あくまでも便宜的にそう言ってみるだけで、本当のところは何を(どこを)通るのかよくわからない。
新聞記事などを読むと、こういうものは意識の浅いところを通っただけの文章だなと思う。意識のもっとも深いところを通った言葉は、詩の言葉ではないだろうか。それよりもっと浅いところに、各種散文の言葉の出所があるのではないだろうか。
浅いところを通った言葉ほど、言語に攫われている。「人攫い」という言い方があるが、言語による「言葉攫い」が行われるのだ。新聞記事などを読んでいるとそう思う。言語は、シンタックスであり、構造であり、規則であり、言葉にとっての死でもある。
法律の条文などを読んでみれば、そこに言葉を感じることはない。こりゃあ、言語にすっかりやられた後の何かだと思う。用語が普通には目にしないようなものだから難しそうに、偉そうに見せかけているが、言葉としては最下等のものだ。その下等な質を水で薄めると、パターンに犯された新聞記事その他ができる。
この種の文は、「充実したからっぽ」が何かを通ったものだということはない。それが、あらかじめない。最初から、シンタックスや構造が記者に「書かせている」。記者は自分が書いているつもりなのかもしれないが、書かせられているのだ。新聞記事特有のシンタックスや構造やパターンというものがあり、それらが記者に「書かせている」のだ。何の事件について書こうと、もう最初からなにごとかが決まり切っているのだ。
新聞記者たちが、記者クラブという名前だったか、どこやらに集まって、警察の発表をそのまま記事にしてしまうのは、新聞記事の性質に根がある。言葉から遠く、言語に近い新聞記事の書記の性質には、疑う力を奪い、うすら馬鹿を作るものがある。記者をも読者をもうすら馬鹿にしてしまう性質がある。
新聞記者がうすら馬鹿にならないためには、記事を書くかたわらで、たとえ発表しない手記のようなものでも、意識の深みを通る言葉を書き続ける作業を手放すわけにはいかないのだが、不毛な忙しさの中でそれを確保する者の数はまるで少ないだろう。圧倒的にうすら馬鹿の数が多くなるだろう。

やっぱり、書こうとしたものとは別のものを書いている。書き始めた時、新聞記事のことなど書くつもりはまったくなかったのに、新聞記事のことなど書いている。そういうことが起こるのは、私の場合は、考えに枝葉が生えるからだ。生えたら繁茂させてしまうからだ。
やはり、書かされているのか。

学校で作文を書かされたことはあるが、いやいやながら何か書いた。何を書いたかすべて忘れた。書きたくて書いたわけではないから、何を書いてもよそごとというか、他人事というか、他人になって何か書いていたのだと思う。なんとなくこんなふうに書けば、よい子でいられるのだという感じだけはあって、作文を書いている間は、他人としてのよい子をやっていたのだと思う。しかし書いたものは、すべて忘れた。

一つ思い出した。
小学校の何年の時かは忘れたが、炬燵で宿題の作文を少し書いて、全然字数が足りなくて、続けて書くことがなくて、困っていた。親父がどういうわけかのぞき込んで、「俺が書いてやる」と言ったのだった。そんなことは前にも後にもない。親父は私の勉強なんかに興味を持ったことはなく、宿題だの作文だのにも関心はなかったのに、その日だけは違った。いや、その日だって、私の宿題や作文に興味があったのではなく、私が書きかけたものが牛についてのことだったからだ。
その頃、家では牛を飼っていた。乳牛ではなく、農耕用の牛だった。田植えの前に田の土を起こすのに、牛に鍬を引かせたのだ。牛のことはぼんやりと覚えている。全身が黒に近い茶色だったような気がする。
牛の出産の時のことの方が、牛の姿よりよく覚えている。祖母と母がお湯をわかして、大量のぬるま湯を作ったりしていたのは、生まれる牛の子を洗うためだったのかどうか。親牛の尻から(尻だと思っていた)子牛が下半身だけ出ている状態のことも覚えている。獣医も来ていて、大人の男二人で、子牛の体を持ってひっぱり出そうとしていたのも覚えている。ちょっくら出てこなくて、男二人は汗をかいて本気だった。なんとか無事にひっぱり出すと、子牛は小さい牛だった。かわいいと思った。
子牛はすぐ立てたのだったかどうか。しばらくは藁の上にでも寝ていたのだったかどうか。なんだかよろよろしているが、立っている子牛を見た覚えがあるような気がする。よろよろとして、やっと立っていた感じを覚えているような気がする。大人たちが子牛の体を洗ってやっているのを見た覚えがないから、祖母たちが作ったぬるま湯は母牛の膣を拭いてやるためだったのかどうか。私は人間のやる仕事をろくに見ていなかった。生まれてきたものが小さいのに完全な牛であるのを見ていただけだった。かわいいと思った。
子牛が雄だったら、子牛が売られていく。子牛が雌だったら、親牛が売られていく。とにかく、家には雌を残す。また子を産ませるために雌を残す。
作文には、親牛が売られた日のことを書いたのか。親牛が売られてからそんなに日数は経っていなかっただろう。
牛の世話は親父がしていたのだろう。餌をやり、糞の始末をやり、土手草を食わせるために、朝と夕に、家と土手の間を往復する時は、鼻輪につないだ細綱を親父が持って、牛が歩くのに合わせて、一緒に歩いたのだろう。だろう、だろうとやたら書いてしまったが、親父が牛と一緒に歩いているのを見た覚えがないのだ。見た覚えがないのに、親父と牛が一緒に歩く速度はわかるのだ。
子供の頃、私は「トヤンとした子供」だったそうだ。トヤンとした状態は、ぼうっとしている、放心状態になっている、心ここにあらずの状態であるということである。そのせいかどうか、とにかくいろいろのことをどんどん忘れた。とにかく、ほとんどのことが後に残らないのだ。残るわけがない。トヤンとしている子供には、外部というものが入ってこないのだ。入ってこないものを忘れることはできない。だからどんどん忘れたというのは、仮構された記憶であって、実際はただただぼうっとしていたということなのだろう。ぼうっとしている子供には、自分がぼうっとしているという自覚もないので、幼少の自分や小学校時代の自分というものは、ゆらめくかげろうそのものだ。意識に閉じこめられて、ただゆらめいていたのだ。何かよっぽどせつないことでもあったのか。
記憶というものは、果たして一つ二つと数えられるものかどうかわからないが、もし数えられるなら、私は人々の標準と比べて、圧倒的に数が少ないと思う。
今は、歳をとって、脳梗塞をやったり、脳虚血発作をやったり、そんなものをやらなくても、人の名前を忘れたり、階段を降りていく途中で、なにをしに階段を降りているのだかわからなくなったり、もうやたらと忘れたり、ものがわからなくなったりするが、子供の頃から、なにもかもどんどん忘れていくことは着実にやっていたのだ。仮構でもいい。とにかく私はどんどん忘れた。つまり世の中のことを忘れていた。
作文だって、唯一覚えているのは、その内容や文章ではない。私が書きかけていたものをのぞき込んだ親父が、俺が書くと言ったので、びっくりしたから、そのびっくりしたことを覚えているのだ。作文を覚えているのではなく、作文にかかずらった親父を覚えているのだ。

そうじゃなくて、あれは最後の牛が売られた時だったのかもしれない。いつからか、家には牛がいなくなった。あの時がその時だったのではないか。
子牛が生まれた後、親牛が売られたのなら、さびしい気持ちはあっても、子牛の世話をすることで紛れただろう。あれは、子牛が生まれた後に売られたのではなく、牛を飼うのをやめた時のことだったのかもしれない。そういう暮らしの変化なども、私はものごとに関連づけて覚えるということがないのだった。
いずれにせよ、親父はさびしかったのだ。長年牛と暮らして、牛がいなくなって、さびしかったのだ。だから、私の書きかけの作文を読んで、「俺が書いてやる」と言い出したのだ。書きたかったのだ。
今になって思えば、親父は私の作文を書いてよかったのだ。書きたい人が書くのが一番だ。私は書きたくはなく、どちらかと言えばおっくうでいやだったのだから、親父が書くのがなによりである。
それからまた一週間とか二週間がたった。学校の教室で、先生が私の名前を言い、いい作文だとほめてくれた。そうだろうと私は思った。親父は書きたくて書いたのだから、いい作文を書いたに違いない。親父が書いた作文を読んだのか読まなかったのか、それさえ私は覚えていない。牛が車に積まれて行ってしまったのか、他人に鼻輪を引かれて歩いて行ったのか、それさえ私は覚えていない。その両方がイメージとして記憶になっているのであり、どっちかと決める手がかりがない。
親父は何を書いたのか知らないが、字の手癖はどうしたのだろう。トヤンとした子供が書くような幼い字を親父が書けたはずはない。親父が別の紙に書いたのを、私が作文用のノートに書き写したのか。親父が口述するのを私が筆記したのか。しかし、そんな複雑なことをした記憶もない。なんにせよ、私はその作文を読んだ覚えがないのである。よくやったぞ、とうちゃん、とは思ったが、作文自体には興味はなく、何がどう書かれていたのかが全然わからないのである。
親の心というものは、子供にはわからないものである。
だいたい小学校3年か4年の頃だったと思うが、3年生なら3年生が、牛が売られていく日に何を見て、どう思ったかを親父は創作したのだろう。そういう創作をやって、淋しさを紛らわせたのだろう。わけもわからないほど激怒して怒鳴りつけるとき以外は、感情というものは見せないのである。
息子の作文の代筆をやった親父も親父だが、その作文を褒められて、自分が褒められたかのように、へへへなどと言っていた息子も息子である。
それが学校時代を通じて、作文について私が覚えている唯一のことだ。作文はたくさん書かされた覚えはあるが、ものの見事にすっからかんである。

私は19歳の時に、語学をやった。語学ばかりやっていた。半年ばかり、世界史の暗記をやり、それだけで大学に入った。国語というのもあったが、ほとんど何もやらなかった。高校の頃、国語だけはできて、廊下に名前が張り出されたりした。どうしてだろうと考えたら、思ったことを書かないからだなと気づいた。設問者がどう書かせたがっているのかを考えて、こういうふうに書かせたいんだろうと思って書くと点がいいのだった。自分の考えを書くのではない。設問者の考えを書くのだ。ある日、俺はいやなやつじゃねえかと思った。文章そのものを読んでるんじゃなくて、いや、それもやることはやるが、何よりも設問者の腹を読んでるだ。ろくなもんじゃねえ。自分をそう思った。自他共にそうであると思うので、今でも国語の点が取れるようなやつはろくなもんじゃねえと思うのである。

あの頃、語学がなんであんなに面白かったのだろう。
四六時中英語をやっていた。寝て起きて、英語をやって寝るという感じで、一日に15時間くらいやっていたんじゃないだろうか。半年以上かかったが、代々木ゼミナールという予備校の模試で、3万人中3番くらいになった。半年前までは、3流受験校の250人中240番くらいだったのだから、面白がってやると、がらっと変わってしまうもんなんだなと思った。
語学が面白かったのは、イメージが面白かったのだ。
英単語一つでも、日本語を媒介にしてイメージを作り、イメージを独在させて日本語を脱ぎ捨てるようにしていると、こういうものって初めて出会うな、というものがやたらにある。つまりは、イメージというものが作れるということ、作ってみるとそれまで知らなかった珍しいものができるということ、それが面白かったのだ。こういう言語を使う人たちのアタマの中は、こんなふうに動くのかということもうすらぼんやりとだが推測できる。これは、全然違うな。こんなふうな考え方で何か考えたことは全然ないな、こりゃ面白い、全然違うので面白いと、面白がってやっていたら、どんどん点があがったということで、英語をやっている間は大学入試のことは忘れていることが多かった。大学入試で要求されることがないようなこともやった。今から考えるとずいぶんおかしな音も混じっていたのだが、口の動きを鍛え込むようなことをやった。大学入試用に限定しないでやったら、結果的に大学入試用の点が伸びたので、本当にやったことは、面白がるということだけだった。

その後、大学に入って、自分は文章が書けないんだなとわかったのだった。それがわかったのは、語学をやったせいだと思っている。語学をやらなかったら、新聞記者かなんかになって、与太を書き散らしたかもしれない。言語に書かされるコトバをコトバだと欺いて、欺いていることにすら気づかず、欺かれていたかもしれない。お利口なあいつらのように。

言語は死だ。
幼少時にその死を内在させてしまうのが人間だ。
いや、そこから言葉が芽吹くかどうかだ。
人間は姿形のことじゃない。芽吹きのもがき。それが言葉にならないまま、発芽玄米のように食われてしまっても、芽吹きがもがいている時間は、そこに人間がいる。

学校の勉強がよくできたようなやつには、意識の表層だけをさっさと流れる言葉もどきを書くものが多い。

親父は、何を創作したのだったか。
創作したのだったら、ずいぶん手の込んだことをやったことになるが、あの親父にそれができたのか。
親父がとうてい学校の勉強ができたとは思えない。
なにしろ、激怒する時以外は、大人のくせにトヤンとしているのだ。はしこさがまるでないので、お袋は時に地団駄踏むようにくやしがった。

言語は欺く。言語は導く。
やってみなければ、言葉が芽吹くかどうかはわからない。
私は親父のことなど書く気は全然なかった。
いつのまにか書いていた。
牛のことも。

さて、タイトルを考えよう。
考えた通りに素直に書いてみよう。
一度くらいは、先生に言われた通りやってみなければ。