佐々木 眞
血を流しながら書き綴られた村岡由梨の第2詩集は、読めば血が出る22篇だ。
私は、この真率で、真情溢れる、痛切な詩行を読みながら、改めて詩とは何かと考えていた。
最初に浮かんだ考えは、詩とは「見守りボッド」のようなものではないか、というまことに幼稚なものである。
病ゆえに絶えざる自殺願望に取り付かれ、陸橋を渡りながら、何もかもを、愛する家族さえも見捨てて、硬い車道に身を投げようと思う作者を、詩は、「跳べ」とも言わず、「止めよ」とも言いわず、黙ってじっと見つめている。
その時、詩はまるで天体をぐるぐる経めぐりながら、地上に蠢く微細な存在、生きとし生ける森羅万象を、ことごとく把握しながら、じっと見つめている。
見守っている。
詩はもとより、人間と同じく無力で、そもそも無用の存在であるが、人間がそこにあって、心身に刻み付けられる体験する喜怒哀楽をしかと見届け、激しく流動する事態を、一時的に棚上げして、半永久的に保存することもできるのである。
なぜ詩を書くのか?と問われた谷川俊太郎は、「書いてくれという注文があるからです」とユーモラスに答えたが、村岡由梨は、「私が詩を書くのは、まっとうな人間になりたいからです」(「No.46」より)と、まっすぐに答えている。
詩を書くことによって、まっとうな人間になることはできないかもしれないが、 まっとうな人間になりたいという願いを、詩は、そして天は、嘉して受け止めてくれるだろう。
まっとうな人間になりたいと祈り続ける人を、
詩は、そして天は、
ずうっと優しく見守り続けてくれるだろう。