工藤冬里
上京したのが同じ頃で、早速というか「セチュアンの善人」も観に行ったし、本屋には目の前に内臓アルトーと背骨ブレヒトがいたし、いくつかの河原テント芝居にも出入りしていたのだから、僕らはいつか三丁目で串を抜いて平等にした七寸皿で劇団喰いしていたかもしれないのだ。
演劇が音楽の上にあるというのは最早自明のことだが、そのような立場にありながら音楽を使う演劇は音楽のインスピレーションの問題を背骨に関しても内臓に関しても棚上げしてきたように思う。その間に音楽は行くところまで行ってしまい、脳内インスピレーションを解体するところまで進んだ。
そうした冷酷なコロナ後の情況下で、正義感の強い一子さんの、シャンソンでもスペクタクルでもなく(「ひとりアームジーク」とも「水牛」とも少し違う)「ソング」が今更ながら「ソング以外」を刑事告訴してみせたのが本作である。プレカリアート・コンニャク・ベルカントは終わりを迎えた中央線の身体であり、倍音を旧世界に収監されたまま、獄窓から若かった頃の自分の腐乱死体が流れていくのを見る。僕らは串を抜いたうたの腐乱死体が流れていくのを見る。
#poetry #rock musician