鈴木志郎康
〈プアプア詩〉における詩と詩人 03

〈プアプア〉の人格化と詩形式の崩壊に伴う表象の変化
 

瀧口遼真

明治大学文学部文学科日本文学専攻

 
 

第二章:前期〈プアプア詩〉における詩・詩人の表象ーー詩形式の成立と肯定的感情

2―1 〈プアプア詩〉の区分

 
 第二章からは、第一章の内容を踏まえ、〈プアプア詩〉における詩や詩人の表象を他のエッセイや文献と照応させながら分析する。本稿では〈プアプア詩〉を一括して分析せず、全十二作の詩を「前期」「中期」「後期」の三期に区分し、それぞれで詩と詩人の表象を分析する手法をとる。〈プアプア詩〉は作品を追うごとに「極私的分析的覚え書」で提示されている詩形式が崩れていく傾向にあり、それに伴い作中の「私」の発言や、自作に対するエッセイでの鈴木の言及にも変化が生じてくるからである。
 区分けの仕方については、第一章第一節で提示した順序を踏まえた上で、〈プアプア詩〉の形式に則っているかどうかと、作中における語り手の詩に関する言及の内容の二点を考慮し、「前期」「中期」「後期」の三つの時期に区分した。各時期の作風と該当作品については以下の通りである。

前期:〈プアプア詩〉の形式を概ねそのまま用いており、詩に関する言及も比較的肯定的な作品群
 → 「私小説的プアプア」「続私小説的プアプア」「続続私小説的プアプア」

中期:〈プアプア詩〉の形式が崩れ、詩に関しても悲観的な発言をしている作品群
 → 「私小説的処女キキの得意なお遊び」「売春処女プアプアが家庭的アイウエオを行う」「法外に無茶に興奮している処女プアプア」「羞恥旅行で処女プアプアは凍りそして発芽する」「私は悲しみに液化した処女プアプア」「プアプアが私の三十一才の誕生日を優しく」

後期:〈プアプア詩〉が終焉に向かうとともに、新しい創作への意欲が読み取れる作品群
 → 「番外私小説的プキアプキア家庭的大惨事」「美しいポーズとして最後に私小説的プアプアは死聳え立つ」

 尚、本稿では第一章で四番目に位置付けた「私小説的処女キキの新登場」を省略し、加筆後の作品である「私小説的処女キキの得意なお遊び」を分析の対象とする。
 分析の際には、さらにこれらの詩篇から、詩や詩人に関して言及していると思われる箇所を抽出する。具体的にどの表現を分析の対象としているのかは、次ページの表をご覧いただきたい

 

 

2ー2 前期〈プアプア詩〉における詩・詩人の表象

2ー2ー1 「続私小説的プアプア」における詩・詩人の表象

 
 第二節では、前期〈プアプア詩〉において詩がどのように表象されているかを分析する。前期に分類される詩篇は「私小説的プアプア」「続私小説的プアプア」「続続私小説的プアプア」の三篇である。
 先立って、まず「続私小説的プアプア」における詩形式と詩の表象を確認していきたい。「続私小説的プアプア」は〈プアプア詩〉シリーズの二作目にあたり、鈴木志郎康が設定した〈プアプア詩〉の形式をほとんどそのまま踏襲している。

 
 今夜十一時森川商店( 註1) の前を歩いていると
 妻と私とプアプアの関係が今夜のテーマになった
 妻は私ではなく私は妻でありプアプアでありプアプアは妻であり妻はプアプアではない
 妻は靴を買いプアプアは靴をぬぎ妻は大陰唇小陰唇に錠を下してキョトキョトキョトキョトと大気を盗んで
 駈け込むのにプアプアは開かれたノートブックの白いパラパラ
 ( 略)
 註1森川商店は広島市三篠町の私のアパートから十メートル位のところにある照明器具の問屋だが、とても照明器具を売っている店には見えない。まして私が「ゆ」という電光看板のついた風呂屋へ行く二十三時頃は表の戸を閉めて、照明のない看板だけが読める。
                    ( 「続私小説的プアプア」)

 
 「今夜十一時森川商店( 註1) の前を歩いていると」から始まる五行は、まず森川商店の前を妻とともに通過し靴を物色するという実体験に基づく描写があり、その際に鈴木が抱いた性的欲望―― 自分と妻の間に少女が入り込んで靴を脱ぎ、妻が性器に錠を下す―― が、〈プアプア〉を通して虚構化し、詩語として表出されている。この流れは第一章三節二項で述べた〈プアプア詩〉執筆のプロセスと変わりない。その他にも、鈴木がNHKのカメラマンとして広島市幟町中学校を訪れたことや、栄養ドリンクのCM、夫婦関係の模様などが註釈を用いて作中で引用されており、これらの出来事を〈プアプア〉が詩語に変換する流れが成立している。

 「続私小説的プアプア」の〈プアプア〉は、非常に概念的である。それは四行目の「妻は私ではなく私は妻でありプアプアでありプアプアは妻であり妻はプアプアではない」というフレーズで強調されている。すなわちプアプアとは一人の特定の人物ではなく、作者の欲望が働く方向に従って自由に形を変え得るものであり、「妻」にも「私」にもなり得るのである。本作においても、当初「幟町中学校の体育館の落成式に集った三百枚の生きた処女膜だった」と定義されながら、後半では「お前は本当に湯上りの十六才の売春婦なのか」というように変化している。
 詩の表象に着目すると、本作では〈プアプア詩〉に対する鈴木の肯定的感情が表面化している。語り手の「私」が詩人であることは、この時点では明言されていないものの、「茶の間に横臥して詩法をいらだたしくめく」る様子は、創作に伴う思索の様子を描写していると言える。続く「柔軟な詩法を見つけようと男根を握る」「勃起する男根で言葉を筆記する」は、さらに鮮明に〈プアプア詩〉を創作する詩人の姿が表れている。〈プアプア詩〉は鈴木の欲望を直接的に表出することを目的として書かれた詩群だが、男性器を握りしめて詩法を模索する「私」の姿は、〈プアプア詩〉を書き進める詩人のカリカチュアであると言えよう。すると直後の「これが私のプアプアへの愛だ」という言葉もまた別の意味を持って浮上してくる。ここで言う「プアプア」は、性欲の向かう先にあるものとしてだけでなく、〈プアプア〉もしくは〈プアプア詩〉を指していると考えることもできる。まさに「続私小説的プアプア」は、鈴木志郎康自身の〈プアプア詩〉への強い愛情の表れだと言えよう

 

2ー2ー2 その他の前期〈プアプア詩〉における表象

 
 「続私小説的プアプア」以外の詩篇においても、詩や詩人は比較的肯定的なイメージを伴って表象されている。そこには、新しい詩形式を生み出した詩人の感動や充足感も当然含まれているだろう。「私小説的プアプア」の「血をきれいにする詩法なのだ」はそういった感情の表出であると言えるだろう。前後の文脈と関係なく唐突に登場するこのフレーズは、創作活動を血液の浄化に喩え、詩法が創作活動を新鮮なものに生まれ変わらせるものになったことを読者に告げているようである。
 直接的に「詩」という言葉を使っていない場面でも、詩人の新鮮な感情が表れている詩句は随所に見られる。

 
 ガムを噛むプアプアの円い口ももう既に遠い
 音がする
 ベルが鳴る
 目覚めよ、最早東は白い
 白い何も投射されていないスクリーンだ
                    ( 「続私小説的プアプア」)

 日の出前に
 さあ万感をこめて祈ろう
 嫉妬するものは止めよう
 肉体は迷路のように私だ
 呪う念力もなく起き上る
                    ( 「続続私小説的プアプア」)

 「続私小説的プアプア」は「音がする/ベルが鳴る/目覚めよ、最早東は白い」というように、鉄道( または汽船) の出発、日の出のイメージで締めくくられており、新しい詩形式の到来に対する祝祭的な雰囲気で満ちている。「続私小説的プアプア」の「日の出前に/さあ万感をこめて祈ろう/嫉妬するものは止めよう」は、おそらく前作の「目覚めよ、最早東は白い」を踏まえての表現であろうが、同じように新しい創作時期の到来を祝う表現であることは容易に想像できよう。
 前期〈プアプア詩〉に該当する三篇では、〈プアプア〉は鈴木自身の実生活や性的欲望を「私」の行動・欲望として詩語に変換する装置の役割を果たしている。実体験から詩語に至るまでのプロセスも比較的読み取りやすく、鈴木志郎康が目指した一般的意味と個人的意味の両立が見事に達成されている。前期の詩群で〈プアプア〉が適切に機能している背景には、やはり〈プアプア〉が徹底的に概念として書かれていることがあるだろう。この点に関して分析した上野昂志の論考「『日常』を降りる」から引用する。

 
 「たとえば「プアプア」は「十五歳の少女」と関係づけられることで限定される。このことは「十五歳の少女」にとっても同様だが、ただこちらは「プアプア」という無意味なことばと関係することで、逆にその意味を拡散されてしまうのだ。同じように、「妻」あるいは「私」は、「プアプア」と関係することによって日常的な意味の文脈からとき放たれていくのである。その過程は同時に、「プアプア」ということばが人称性を強めていく過程でもあるのだが、しかしもともと純粋にことばでしかないそれは、最後の瞬間には、人称性のワクから身を翻して逃れてしまう。」xiv

 上野が述べている通り、「プアプア」という言葉が持つオノマトペ的な性質によって、〈プアプア〉は人格を持たない単なる言葉、そして概念として存在し続けられている部分は間違いなくあるだろう。だが、「プアプア」という言葉の響きの効果だけでは、〈プアプア詩〉の詩形式を維持することは難しい。作者が〈プアプア〉の人格化を回避するような操作を意識的に行なわなければ、〈プアプア〉はたちまち概念から人物へと変化し、関わる「私」や「妻」の行動は実体験から離れて完全に虚構化する。第三章で詳述する〈プアプア〉の人称化や、〈プアプア詩〉の形式崩壊は、作者による操作が不十分だったために生じた現象なのである。

 
 
注釈

 xi 鈴木志郎康『極私的現代詩入門』( 思潮社、一九七五年八月) 、136ページ
 xii 鈴木志郎康『現代詩の理解』( 三省堂、一九八八年九月) 、220ページ
 xiii 鈴木志郎康『『新生都市』から『声の生地』へ極私を開く: 前橋文学館特別企画展・第16回萩原朔太郎賞受
賞者展覧会』( 萩原朔太郎記念水と緑と詩のまち前橋文学館、2009年7月) 、32ページ
 xiv 『現代詩手帖』二十二巻八号( 思潮社、1979年8月) 、123ページ

 
論文提出年月日:2026年1月14日

 

 

 

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