@150210 音の羽  詩の余白に

 

萩原健次郎

 

 

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獣の足跡を追う仕事をしていると、自分の中に蠢く律動に対して正直になる。
猿の背に発信器を装着する。山の端から、麓を滑空するように動いている動線をたどる。
付近の農家から、作物を荒らす被害がでていて、その苦情にこたえるかたちで、私のような職業が成り立っている。
滑空するように蠢いているかと思えば、まる一日、まったく移動しないときもある。疲れているのか、死んでいるのか、あるいはそこに獣たちの食物があるのか、想像をしてみるが、深く考えない。
発信器は、一頭に付ければいい。獣たちの首領が、大家族を引き連れているから。
鹿の場合は、番が多い。雄と雌。どちらか一方が老いていることがよくある。
猿の群れとこの鹿の番が、ひとところで動線が交差するときが稀にある。双方ともに、動きが留まらないところをみると、諍いの類はほとんどないように思える。
この私に、発信器を付ければどうだろうか。獣たちの動線を探る、変わった職業の、人間の動線。
ふだんは、麓を巡回し、山並みを見つめている。肉眼では、獣たちは樹木に隠れてその姿を確認することはできない。ただ、私には、緑色のLEDで浮かび上がる細い線の絵図が見える。見えるのは、それだけ。
いつも無音。煩わしいことに、頭の中では、奇妙な不協和音ばかりが重なる弦楽の音楽が流れている。
あるとき、首領猿の動線が、数日にわたってまったく止まってしまうことがある。
その地点を確認し、藪の中へ入っていく。至近距離に近づいても、まったく動こうとする気配は確認できない。その時点で、歩を早める。死んでいるのだ。
この私に、発信器を付けていればどうだろうかとまた想像してみた。動いてる緑色の電子線は、猿ではなく生きている私だけなのだ。
私の生は、だれに発しているのだろか。
電子の信号は、私と言う身体が、土中に溶けてしまったとしても、発することをやめないだろう。
獣たちも、私もこの山並みの宙空に交差する、破線を生きている。
毎日、山を眺め歩いていて、私は獣たちの声を聞いたことがない。
ただ、軋む弦音の擦りきれる悲鳴のただ中にいる。
きょう、私は空模様のわずかな変化に気づかなかった。
修学院山の、重なり合う常緑の墨色に、霙がまっすぐの白線を描いていた。

 

 

 

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