加藤 閑
彼女というのは実在の女性ではない。書物の中の女性である。
最初に置かれた「固さと脆さの成熟」のフランソワーズ・サガンなど、著者である彼女そのものと言えそうに思えるが、実は『私自身のための優しい回想』の中の私=サガンである。網野菊をとりあげた「青蓮院辺りで、足袋を」も私小説なのでともすれば網野菊その人と思いかねないが、もちろん「光子」に他ならない。
48編の短い文章が収められている。女性誌「クロワッサン」の2005年4月25日号~2007年4月10日号まで、2年に渡って連載された。女性誌に堀江敏幸というのが意外の感があったが、文芸誌の相次ぐ廃刊でいま編集者らしい編集者は文芸誌以外の媒体に身を潜めているという話を耳にする。
著者自装だが、いつもながら行き届いた本づくりだ。写真の撮り方から配置、刷り色、文字づかい等、この人はどこでこういうことを身に着けたのだろうと思わせるほど整っている。ほとんど単色と言えるくらい色を抑えているのに、カバーの写真のインクの微妙な色のうつろい。帯や扉に用いた用紙と文字の選択も、この本にはほかに考えようがないと感じさせる。だが、何よりも本文組みのバランスの良さが、どちらかというと控えめな表紙のデザインを助けるように、安定感をもたらしている。
この本を読んでわたしが感じ取るのは、雰囲気というしかないくらいのわずかな感覚なのだが、常に行間にひそんでいるある種の親密さと著者のほのかなエロティシズムである。
親密さはおそらく、堀江敏幸というひとが読書体験から書いた一連の文章が集められているということに起因している。読書を語るということは、自分の精神形成史を語ることであり、そのときどきの境涯や感情をたどりなおすことに他ならない。それにここにある文章は、書評に重なる部分もあるが、書評よりも創作(多分に私小説的な)に近いところも少なくない。
そのうえ、文章のそれぞれに影を落としている(ときには直接登場する)著者の姿や発言、心の動きなどが、書評と言うには物語性を帯びすぎている。たとえば、「いびつな羽」と題されたローリー・ムーアの「ここにはああいう人しかいない」を取り上げた文章にある次のような言葉。「だれかといっしょにいようとしてそれが果たせないからこそ孤独なのであり、その原因が相手にではなく自分にあるとわかっているから、よけいに腹立たしいのだ。」
48編、2年に及ぶ連載だから、さすがに最初のころと後の方では微妙に印象が違う。連載がはじまったばかりの頃の文章がかなり意図的なのに対し、終わりの方は本の作者に寄り添う度合いが強くなっている。文章を読む面白さは前者の方が強いが、取り上げた本を読んでみたいと思わせるのは後者の方だ。
この本で取り上げられている本を2冊買った。安西美佐保『花がたみ…安西冬衛の思い出』(沖積舎)とヴァレリー・ラルボー『幼なごころ』(岩崎力訳、岩波文庫)である。未読であれば網野菊も買っただろうが、去年のはじめに読んでいた。いずれもこの本の後半に出てくる本ばかりだった。
『花がたみ』の著者、安西美佐保は詩人安西冬衛の妻。堀江敏幸が「測候所とマロングラッセ」で触れている、電通広告賞審議会に出席した際の竹中郁とのやりとりは、この本の冒頭の「はじめに」と題されたもっとも短い章にある。そしてここに描かれたエピソードがこの本一冊のすべてを語っていると言っていい。
内容は、原本、引用文どちらを読んでもすぐわかるものなのでここには記さない。この小さなエピソードは、妻美佐保が書こうとした安西冬衛の人となりと二人の互いを想う気持ちを表していて余りない。著者は、失礼ながら文章を書くということに当たってはまったくの素人と思われるが、堀江敏幸も書いているように、そのたどたどしさが彼女の一途な気持ちを具現しているようで胸を打たれる。
『幼なごころ』について書かれた「名前を失った人」の書きだしはとても魅力的だ。
「好きになった人が身につけているものに、そっと触れる。もちろん、だれも見ていないところで。コート、マフラー、帽子、ハンカチ、鞄。あるいは、彼が、彼女が、さっきまで座っていた、まだ少しあたたかい椅子に腰を下ろす。肌と肌が合ったわけでもないのに、モノを通して想いが伝わってくるような気がする。けれど、そんなふうに近くに寄ることもできない場合には、どうしたらいいのだろう?(中略)名前だ。名前をつぶやけばいいのである。その人のすべてが、名前の響きに、意味に、文字のかたちに代弁されているからだ。」
思春期になるかならないかの頃に、こうした悩ましい思いにとらわれなかったひとがいるだろうか。こういうふうに書かれた本をどうして読まずにいられよう。
ラルボーの『幼なごころ』は、『彼女のいる背表紙』に関わりが深い本のように思える。
『彼女のいる背表紙』が表紙に著者自身の撮影になる写真を使っているのに対し、『幼なごころ』は各短編の扉に訳者の撮った写真があしらわれている。そのうえ解説を書いているのが他ならぬ堀江敏幸その人である。
相前後して同じ著者の『ゼラニウム』(中公文庫)を読んだ。異国の女性(多くはフランス人)との出会いを描いた6編の短編が収められていて、主人公はどれも著者を髣髴とさせる。同じ頃の作品である『雪沼とその周辺』とか『いつか王子駅で』(いずれも新潮文庫)に比べると、エッセイや身辺雑記を思わせる部分がないではない。しかし、これらはれっきとした小説である。『彼女のいる背表紙』の文章から受ける印象に近いものを感じることがあるのは、女性誌に連載された短文の多くが小説に擦り寄っているからではないだろうか。わたしにとって『彼女のいる背表紙』は、小説ではないのに作者が小説家であることを強く感じさせる本と言える。