薦田 愛
どさっ、とではなかった
ぐぐり、といった
腰をおとした指定席、新宮駅を
紀勢本線名古屋行き特急はのこして
シンパイのこして
伊勢の手前、多気へと
速度をあげる
ぐぐり、といった
窓ぎわへ母を促し通路の側へ
おとした腰の全重量を
おろしたての晴雨兼用折り畳み傘が
受け止めていた
ぐぐり、といった
駅弁買う前に、おはぎをみつけた
秋彼岸
これでいいよね、お昼
じゃらじゃらっとパックを鳴らして母が
しまったのに
カフェがあった 駅前
窓がおおきい
入る?
いいね、と母。コーヒーのみたい
そうだよね、喉かわいた。
雨もよいの丹鶴城址へ宿から五分
蚊柱に遭遇、退却して浮島みっせいする緑
徐福公園はあきらめ、でもほら
この道の先が速玉大社、昨日のバスで行った
ナギの大樹があったよね
のぼっておりて歩きまわって宿へ
入念な母はすっかり荷造り
ぎりぎりに出るのはシンパイだから
そろそろ行こうと促すので
どさっ、と放り込み
ぐぐい、とファスナーひいて
じゃあ行こう、とキャリーを立てたら
だまっている
どうしたの
キーがない
一枚でいいです、と返してもよかったのに
渡された二枚をうけとってしまった
いっしょにいるから使わないのに
一枚でドアをあけ、ホルダーに置いて灯りをつける
もう一枚は母が
その一枚が
ポケット全部みたの
だまっている手が休みなくうごいている
くちをひきむすんで
ちょっと怒っているようにみえるけど
気がせいてるんだ
知っているのに、できることはないか
焦れてきいてしまう
だまってて 考えてるんだから
気がちる
そうだねそうだった
きゅうっと狭くなる
通路
黒い表紙の宿泊約款ひらくくらいしかできないな
あ、いざとなればって、このくらいで
いざはくやしいな 三千円でいいのか
だいじょうぶだよ、あなたが言うように
早め早めにしていたからまだ三十分、
いや、一時間ちかくある
過ぎたってどうってことない
できることがないと心はおちつくのか
あわてる気質は同じなのに
一枚でたりるのに
一枚しか使ってないのに
その余りのもとめない一枚のために
まっしろになって くちひきむすんで
あわてなくっちゃいけないなんて
うーん納得できない
なんて言葉にできずに
うなっていたら母が
モノクロギンガムチェックのブラウスの
胸ポケットを
なに。え、なに?
うーん、こんなところに入れるなんて
ふだんしないことどうしてしたんだろう
つぶやく母の
肩がなで肩にもどる
まっしろになってくちひきむすんで
あっとおもってなで肩にもどって
よかったあっとゆるんで
お腹すくからなにか、と探しながら駅まで
水ひとくち飲まずに
厚切りトーストとコーヒー、
駅前カフェの
私は紅茶
熊野新報写真特集
くつろぎすぎて
あと十五分
改札へキャリーをひいて
指定券と、もう一枚
きのう途中下車してハンコもらった乗車券
もらわなかったかもしれない
もらわなかったって?
返してもらってないかもしれない
だったら返してもらわなきゃ
すみませんきのう昼過ぎ着の特急で
途中下車のハンコをもらうはずの
乗車券が一枚返されてないみたいで
あと十二分で出る名古屋ゆきの指定券もってて
二人のうち一人の乗車券はあるので
昨日の分の切符がまだあるなら
まじってないか探してほしいんです
わかりました探してみましょう
奥へゆくひと 検札にたつひと
つぎつぎに荷物もつひとたちが改札をとおって
ホームへ階段へと
あと十二分の針をおしてゆく
階段のぼって向こうのホーム
キャリーをさげて五分かな
ありましたっ
紙片をつまんで駆けてくるひとはいない
かわりに
調べてみたのですがありません
指定の席に乗っていただいて
ひきつづき調べて出てこなかった場合
あらためてお支払いねがいます
そんなぁっと
言いさしにしてとおる改札あと四分
いやだ、
かすかな悲鳴
え、声にならない
これ、と言ったろうか
困りきった指が
さぐりあてていた裏の黒い一枚
胸ではなく
バッグのうすいポケット
ハンコもらってそのまますとっと入れたんだね
むりもない
バスの乗り場へ気持ちがいってたから
いやだ、もう
そんな、よくあることだよあなたはきちんとしてて
自信があるからがっかりする
緊張したり疲れたりして
たまぁにうっかりしたのは
だめなひとの気持ちをわかるためかもよ
半ば母に半ば以上は
うっかりすぎる自分の肩もつように
くちひきむすんだまま
目をつむって母は
ぐぐり、といった
晴雨兼用折り畳み傘の
曲がりを直そうとして折れたのを
いいですか、と預かっていった
二見の宿の仲居さん
お伊勢さんをめぐる一日は
これで使えますよとガムテープを巻いて
包帯みたいだけど、だいじょうぶ
まぶしい秋分の
玉砂利ふみしめて
外宮から内宮、駆け足で
ああ、でもやってしまったみたい
なに、と母
デジカメ
お抹茶いただいたとき手首から外したたぶん
バッグの中じゃないの
いや、あそこだとおもう
駅の写真でも撮っててね
宇治山田駅のベンチにひとり
さぐってもひろげても、ああやっぱり
近鉄特急名古屋行きまで二十五分
内宮らしきところへ電話
あの、忘れものしたみたいです
デジカメ、ニコンの
クールピクス、ですか銀いろの
そうです、それです。送ってくださいますか
お手数ですが
いいですよ。持ち主のところへかえるのが一番ですから
ありがとうございます
あったよ、と告げて
よかった、とひとこと
やっぱりね、親子だね、いや
あなたはなくしてなかったけど
私は忘れちゃったしね
新宮のせんべい伊勢のまんじゅう
折り畳めない傘をキャリーにおさめ
近鉄特急名古屋行きの
窓は暮れはじめたところ
わたしのところでも麻理とわたしとで交互にやっている物忘れ、「ない」「どこ」の瞬間の空白が伝わってきました。
ご自身の身近な経験と重ねて読んでくださり、ありがとうございます! とても嬉しいです。
なくしたり忘れたりした時の心もとなさや、まっしろになったりかぁっとしたりする感覚、いやですね。うっかりすぎる私は、なくしものにだいぶ慣れて、まっしろが軽くなっているかもしれません。