今日も駄目の人

 

根石吉久

 

 

私は、百姓の真似事をやる他に、英語塾もやっている。主にインターネット上で、スカイプというソフトを使っているので、生徒の住所はあちこちだ。かつては北海道から九州まで、今は山形県から福岡県までか。よくわかっていない。一度も顔を合わせたことのない人たちにレッスンしているので、なかなか住所も覚えられない。レッスンを始めるときに、一応住所を教えてもらってあるが、手紙でも出すようなことがなければ住所を調べることもない。
スカイプを使うのにカメラを使うと、音声が途切れたりすることがあるだろうと思いレッスンでは音声だけでつなぐ。この場合、都合がいいのは、私の顔や着ているものが相手にわからないことだ。
畑で百姓をやっていて、軽トラックに戻って時間を確認したら、レッスン開始まであと10分しかないというようなことが何度かあった。百姓仕事の道具もやりかけの仕事もほったらかして帰宅する。シャツにモミガラがくっついているし、手の指の爪の先には黒い土が入っているし、顔は日に焼けてまっくろけのケだし、ぼさぼさアタマだし、要するに英語のレッスンのコーチにはとうてい見えない。カメラを使わないでいてよかったと思う時は、そんな事情の時でもある。
ところが、通塾の生徒の前で姿を見られないままレッスンすることはできない。仕方がないので、畑から舞い戻ったばかりの格好でレッスンすることがある。泥のついたシャツ、泥のついた手、砂埃でジャリジャリする顔や首。

入塾したばかりの生徒が、私の格好を見て馬鹿にしたような顔をすることがある。

そういう生徒は、なるべく早く退塾してもらうようにしている。がんがん怒鳴りつけたりもする。英語なんかやる以前の問題が親にあるのだと思う。泥がついていたり、砂ぼこりが髪の毛の間から落ちて、机の上がジャリジャリしたり、英語で言うところのred neck であったりする者を、小馬鹿にするような目つきで見る者の家の中でも、親たちにそういう感覚があるのだと思う。言ってみれば、第一次産業の格好を馬鹿にする感覚と言えばいいのか。第一次産業の人口がどれだけ減っても、泥や砂を馬鹿にするような者は、俺がお前の英語を馬鹿にしてやんだよ。そんな根性のやつが英語なんかできるようになったってろくでもねえし、くだらねえ。

その昔、家を自作したので、コンクリートをよく練った。コンクリートも服に付着するとなかなか取れない。
東京で娘が学生をやっていた頃のある日、現場でコンクリートを練ったまま、着替えもせずに新幹線に乗った。新宿の紀伊国屋の前で待ち合わせていたので、紀伊国屋の前で娘が現れるのを待った。なかなか来ない。かなり待ってから、娘が人混みの中に立ち止まってこちらを見ているのをみつけた。こちらから娘に近づいて、なんで立ち止まっているんだと訊いたら、「わかんないの?」と言った。「お父さんの周りだけ、人が何十センチも離れて立ってるんだよ。汚い服に触るといやだから」と娘が言った。そういえばそうだったかもしれないが、別に気にもとめなかった。
住んでいる千曲市というのは田舎で、田舎にいれば人が10センチとか20センチのところまで近づいて来るなんてことはまずない。長野駅に行けばあるだろうか。長野駅でも30センチやそこらは人と人が離れている。50センチや60センチ離れていることだっていくらでもあるので、紀伊国屋の前でも60センチや70センチ人が離れていても普通だと思っていた。

新宿を歩きながら、レストランの脇を歩きながら、「ここで飯食うか」と聞いたら、「駄目だって」と言われた。曇りのないガラスから店内を見ると混んでいたので、あまり味で外れないんじゃないのかと思ったのに。

私は今日も「駄目だって」のままだ。
今日は里芋の種芋を土の中に埋めた。

 

 

 

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