生身の詩人のわたしはびしょ濡れになり勝ちの生身をいつも乾かしたい気分

 

鈴木志郎康

 

 

わたしは詩人だ。
ほら、今、この詩を書いているでしょう。
仕事場でiMacに向かって、
キーボードを指先で
突っついて、
詩を書いている、
このおれは詩人だ。
現に、詩を書いている。
僕は詩人ですよ。
今まさに詩を書いています。
わしゃあ、詩人じゃ。
文字を原稿用紙に書かなくなったじゃが、
詩を書いておるぞ、
わしじゃて、いくらか認知症がかっているけど、
まだまだ、パソコンは使えるって。

詩を書けば詩人かよ。
ってやんでい。
広辞苑には
「①詩を作る人。詩に巧みな人。詩客。「吟遊詩人」②詩を解する人。
と出ている。」
ほらみろ、詩を作れば誰でも詩人になれるってことだ。
いや、いや、
ところがだね、
新明解国語辞典には、だね、
「詩作の上で余人には見られぬ優れた感覚と才能を持っている人。」
とあるぜ。
そしておまけに括弧付きで、
《広義では、既成のものの見方にとらわれずに直截チョクセツ的に、また鋭角的に物事を把握出来る魂の持主をも指す。例「この小説の作者は本質的に詩人であった」》
だってさ、魂だよ、魂。
危ない、
やんなちゃうね。
「余人には見られぬ優れた感覚と才能」
なんて、おれ、自信ないよ。
でも、
詩は誰でも書けるのさ。
子供だって詩を書けば詩人。
おばあちゃんだって詩を書けば詩人。
サラリーマン詩人。
先生詩人。
教授詩人。
主婦詩人。
至るところに詩人はいる。
定年退職して、
毎日、詩のことばかり考えてる
俺は、
正に詩人なんだ。
「余人には見られぬ優れた感覚と才能」なんてことは
どうでもよく、
詩を書いて生きてる、
生身の詩人なんだ。
生身の詩人を知らない奴が、
詩人は書物の中にしかいないと信じてる奴が、
新明解国語辞典の項目を書いたんだろうぜ。

ほら、今朝、
不器用なあなたが全部濡らして拭いたら、
びしょびしょになちゃうでしょ。
と麻理に言われちまった。
びしょびしょ、びしょびしょ、
さらに、びしょびしょ
言われた通りに、
全部は濡らさなかったから、
まあ、びしょびしょにならないで済んだんだけど。
なるほどねえ、
麻理はよく見てるね。
わたしゃ、
不器用なバカ詩人ね。
麻理の言うことを取り違えて、
ホント不器用なバカ詩人なのさ。
不器用なバカ詩人、
そう言って、
麻理と二人して、
アハハ、アハハ、アハハ。
アハハ、アハハ、アハハ。

詩人は生身で生きているんだ。
だから、この世の生身の拠り所がほしくなるんだ。
一人で詩を書いていると寂しすぎるし、
心細くなってくるんですよね。
この現実じゃ
詩では稼げないでしょう。
作った詩を職人さんのように売れるってことがない。
他人さまと、つまり、世間と繋がれない。
ってことで、
生身の詩人は生身の詩人たちで寄り集まるってことになるんですね。
お互いの詩を読んで、質問したり、
がやがやと世間話をする。
批評なんかしない、感想はいいけど、
批評しちゃだめよ。
詩を書いてる気持ちを支え合う。
そこで、互いの友愛が生まれる。
詩を書いて友愛に生きる、
素晴らしいじゃない。

ところがだね。
詩はやっぱり作られたものだから、
その出来栄えというか、
それ自体の価値なんてことが、
気になるんですね。
詩を書いたからには、
読んでもらいたい。
褒められたいんですよ。
または、他人の詩を貶して、
自分を持ち上げたいってのが人情なんですね。
いやいや、詩には歴史があるってことにもなってですね。
その詩史の何処に自分の詩は位置付けられるかなんてこともですね。
考えたりしちゃうんですね。
そこで、ようやく、
詩は商売になります。
競う心と詩作とが結びついて、
その優劣が語られる場で、
その場に入れるかどうかってことで、
その場となる雑誌が必要とされて、
その雑誌がそれなりに商売になるというわけですね。
そうすると、
詩の価値を決める権威が生まれる。
過去の詩人の名を冠にした賞が、
あちこちに作られて、
選ばれた詩集に与えられるってことになってるんですねえ。
寂しい生身の詩人に希望の光が射してくるてってわけ。
評論家おじさんや
評論家おばさんに
認めてもらいたい。
褒めてもらいたい。
なんとかして賞をもらいたい。
わたしは今までに四つも賞を頂戴してるけど、
まだまだ欲しい。
と言っても、
わたしゃ政府の賞は御免だぜ。
まあ、とにかく、日本中いろんな賞はあるから、
秋になるとこぞって詩集を出して、
底に、いや違った、そこで取り上げてもらって、
その光栄な場に登場したいって気持ちで、
自分の詩人としての名前がもっと知られたいよおって、
生身は露と消えても、
名前はさざれ石の巌となるまで残したいよおって、
わたしなんか直ぐにびしょびしょになっちゃうんです。
わたしら生身の詩人は、
苔が生えるまで、もう、
びしょびしょですよ。
びしょびしょ、びしょびしょ、
ずぶ濡れ、
生身は寂しいですから、
しょーがないっす。
ずぶ濡れ、
しょーがないっす。

しょーがないっすじゃないですよ。
そんなことに拘って、
ずぶ濡れのままでいたら、
詩を書く楽しみ、
詩が書けた喜び、
ってことが無くなちゃうよ。
生身の詩人であるわたしは、
詩を書く楽しみ、
詩が出来たあっていう喜びを、
ただ、それだけのことを、
同じ生身の詩人たちと共にしたいですね。
喜びのシェア、
シェア、シェア。

ところで、
詩人は、
国家権力とどう関係してくるのかね。
いやああ、脅かさないでよ。
今こそ、それが問われているんじゃないの。
そうねえ、
一個の生身じゃ立ち向かえねえけど、
権力の筋には乗りたくはないね。
そこで生身を乾かしたくはないね。
びしょ濡れ同志の確認ってところかな。

最近じゃ、
六月十四日の午後、
わたしの家のもともとのガレージに、
木の床を張って改造して、
みんなが集まって語れる、
麻理が運営する地域の人たちが交流する場にした
「うえはらんど3丁目15番地」に、
さとう三千魚さんの
Web詩誌「浜風文庫」の2周年と
わたしの詩集
「どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた」
の出版を祝って、
「浜風文庫」の投稿者さんたち九名と
詩集の版元の書肆山田の鈴木一民さんが集まってくれてですね。
生身の詩人が九名ですよ。
駿河さん 萩原さん 長尾さん さとうさん 今井さん 長田さん 薦田さん 辻さん、
それにわたし。
わいわいがやがやと三時間も、
楽しい時間を過ごしたんですね。
会話が進んで、
秋田の西馬音内出身のさとう三千魚さんが、何だったか忘れちゃたけど、
「わたしのような田舎者に取って東京は、、、」
と言った瞬間、
秋田県の隣りの山形県出身の、
一民さんが、
「田舎者って、そんな卑下する必要はないよ。
土方巽のように田舎者は世界に通用する可能性があるんだ。
東京モンって言ったって多くは田舎から出てきた連中なのさ。」
と、
さとうさんの田舎者発言に反発したんですね。
東京に出てきて詩を書くってことと、
郷里の家族の存在ってことの、
絡みがね、
ぽっこりと、
わいわいがやがやの中に出てきたんだ。
いいねえ。
それから、
一民さんは、
Web詩誌の横書きと詩集の縦書きを、
詩人諸君はどう考えるかって言うんですよね。
縦書きと横書きの書記の問題だあ。
いやいや、詩の風貌ってことですよ。
まあ、わたしは、
Web詩誌は紙媒体と違って無限に長い詩がかけていいよなあ、
そこに詩人の生身が出てくるって気がする、
と言って、続けて、
詩人ファンの「現代詩ガール」が生まれるかもね、
なんて言っちゃったんですよね。
バカみたい、いやバカですよ。
わいわいがやがやですね。
生身が生の言葉で話し言い合うって、
気分が盛り上がりましたね。
これですよ。
生の言葉で盛り上がって、
熱が入って、
びしょ濡れの生身を乾かすってことですね。

皆さんが、
外出できないわたしとさよならして、
新宿辺りの二次会に行ってしまうと、
残されたわたしは、
どっと寂しさに襲われたんですね。
居間に戻って、
庭を眺める。
山吹の小さなはが風に揺れているのに、
咲き続けているアジサイの花は動かない。
ふと、
息子たちの名前は、
彼らが老人になった時の
印象はどうだろうと思った。
草多(86)
野々歩(80)
と書いてみて、
白髪の二人の姿を思い浮かべる。
可笑しくなって、
うふふ。
その時、
今から
四十五年後の
二〇六〇年には、
生身の
わたしも
麻理も
もうこの世には、
いないよ。
まあ、その時まで
わしが生きてたら、
百二十五歳じゃよ。
迷惑な話じゃって。

 

 

 

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