言文一致

 

長尾高弘

 

 

言文一致体だとか口語体だとか言うけどさ、
誰かを相手に話してるときに、
「だ」とか「である」で言い切ったりする?
たとえば、「今日は何曜日だっけ?」と訊いてさ、
「水曜日だ」って答えられたらびっくりするよね。
「水曜日である」だったらぶっとんじゃうよ。
「水曜日だよ」とか「水曜日じゃない?」とか
ただ「水曜」とか、そんなもんでしょ。
「だ」で止められちゃうのはキツイよ。
壁にぶつかってぽーんと跳ね返されるような感じがしちゃう。
「そんなこと聞くんじゃねえよ、バカヤロウ」かなんかが
ついてきてるような感じまでするよ。
普通ならさ、
相手の様子を見て、
機嫌を損ねないようにしゃべるものじゃん。
「水曜日だよ」ってさ、「よ」を付けてくれるだけで、
ちょっとほっとするんだよなあ。
逆に「水曜日だ」って、「よ」がないだけなのに
えらく横柄な感じがするよ。
「だ」でもそうなんだからさ、
「である」なんて絶対使わないでしょ。
「である」を口で言うってことで
ちょっとイメージできるのは演説かなあ。
でも、演説で「である」なんて使ってたのって、
自由民権運動とかそういう時代だよね。
今は政治家がしゃべるときでも、
「ですます」を使うと思うよ。
あの傲慢な総理大臣でもさ、
国会でマイクの前で話すときには、
「ございます」まで使ってるもんね。
そのくせ座っているところから、
「早く質問しろよ」とか汚い野次を飛ばしたりもするけどさ。
「である」はないよ。
「吾輩は独裁者である」なあんてね。
ありえない。
「である」については柳父章さんがこう書いてるよ。
《「である」という言い方は、
《実は、beingなど西欧語の翻訳の結果として、
《いわばつくられた日本語なのである。*
翻訳の結果だってさ。
つくられた日本語なのであるだって。
最初っから文章語ってことじゃんねえ。
柳父さんの文章も、
文章だから「である」てんこ盛りだよ。
そこへ行くと、「です」とか「ます」は
言い切ることがあるんだよね。
「今日は何曜日だっけ?」
「水曜日です」
こんなふうに「です」を付けて答えるってことは
対等な関係じゃないからだよね。
距離があるから言い切りの断定がびゅんっと飛んできても
手前でぽとんと落ちちゃうのかな?
でも、「ある」とか「ない」とかは対等な相手に言うんだよなあ。
「なかなかうまいことを書けたぞって思ったときに限って
あんまりリツイしてもらえないもんなんだよねえ」
「あるある!」
「ねえねえ、右から二番目の子とかどう?」
「ないない!」
ふたつ続けてでも言っちゃうよ。
「ある」なんて「である」と一字ちがいなんだけどねえ。
どこが違うんだろう?
話がばらけてきちゃったけどさ、
文章に出てくるのに、
しゃべってるときに使わねえなあってのを
あとひとつ、
逆説の接続助詞の「が」ってやつね。
「昨日は晴れだったが、今日は雨だねえ」
とは言わないでしょ、普通。
「昨日は晴れだったけれども、今日は雨だねえ」
とも言わないと思うんだよね。
「けれども」ってちょっと長ったらしいからさ、
そんなくどくど言ってらんねえよって感じだよ。
やっぱ、普通は
「昨日は晴れだったけど、今日は雨だねえ」
ってなところだよね。
別に最後は「だねえ」じゃなくていいんだけど。
でも文章で「けど」とか書いたら、
きっと呆れられるよね。
女子高生のLINEじゃないんだからって。
おっさんだってLINEじゃあ「けど」って使ってると思うけどなあ。
TwitterやFacebookでもね。
話がすっかりばらけちゃったけどさ、
言文一致体なんて言ったって、
文章の言葉は口でしゃべる言葉からは
ずいぶんずれてるってところは
最低限間違いないと思うんだよね。
前はあまり意識もしなかったんだけどさ、
最近ようやくね、
そういうことって大事だなって
考えるようになったのよ。
って言うのもさ、
詩ってのはやっぱり声を必要とすると思うんだよね。
ってことは普通の言文一致体の散文ってやつよりも
ちょっと本物の口語に近づけてみたらどうかな
ってなことも思うわけ。
でもやり過ぎると、
ちょっとうぜえよって感じになっちゃうけどさ。
そう言えば、
ちっちゃい頃、
口でしゃべったそのまんまを書くやつは
バカみたいに見えるからやめろって、
教えこまれたような気がするよ。
それで大人に褒めてもらえるように
一所懸命文章の書き方を覚えこんで、
気がついたら、
口語と文章語の区別もつかないくらいに
なっちゃったんだねえ。
変なの。

 

 

*『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年、114ページ。

 

 

 

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