ミミズ談義

 

根石吉久

 

写真-641

 

ミミズのことを書こうかと思った。
畑にまたミミズが増えているのである。

畝の脇に通路を作るのに、ポリエチレンのシートを敷き、その上を刈った草で覆ってみた。ポリエチレンのシートは、生ごみ処理用に売られている大型の黒い袋の二辺を鋏で切って作るのだが、開けば90センチ×160センチのシートができる。
90センチは歩くだけの通路には広すぎるので、シートの端を折って下に入れ込んでしまう。これを敷いたら、通路に草が生えて歩きにくくなる問題はまったく解決した。それだけでなく、畑が見通せるようになった。どこに何をやったか、どこが途中までやったままになっているかが見えるようになった。

労力が消失しにくくなったのである。

一つの仕事をしていて、畑の別の場所に行くと、先に片付けなければならない別の作業が見つかることがある。みつかったものを優先してやっているうちに、先にやっていた仕事がわからなくなる。草が生えて、先にやっていた仕事の場所自体がわからなくなることもある。特に梅雨の時期から盆にかけて、どんどん伸びる草がやりかけてある仕事とその場所をわからなくしてしまう。去年までは、草を刈って通路で乾かし、土の中に埋めることを繰り返していたのだが、草を肥料にして草を育てていることになることが多かった。
畑がいつも見渡せると、そういうことがなくなり、労力を消失することがなくなった。去年までと今年とはまるで違う。

シートの上を刈った草で覆うのは、シートが風に飛ばされないようにするためである。草がクッションになって、歩いて疲れないという利点もある。
草は乾いてからも何度も足で踏まれるのでだんだん細かくなっていく。通路の枯れ草はシートによってその下の土と遮断されるので、靴が泥で汚れるということもなくなった。
畑の帰りにコンビニに寄りコーヒーを頼むようなことをしたとき、店の中で靴が泥だらけであることに気づき気がひけたことがあった。今年からそれもない。

今は畝にポリマルチをしないことを試している。ポリマルチをしてもしなくても、畝にはミミズがいない。畝の土に混ぜる有機資材を、刈って乾かした草からモミガラに変えたが、そのことによる変化はない。枯らした草にせよモミガラにせよ、堆肥にしないで、直接土と混ぜたところにはミミズは増えないようだ。

通路に降った雨が畝の方に流れるように、通路と畝の境目になるところでポリエチレンのシートの端をめくり、土を畝に上げて、わずかな傾斜を作るという作業をすることがある。その作業をしていて、通路と畝の境に限ってミミズが増えていることに気づいた。シートの端に近いところは、シートの下にもいるがシートの上にいる数の方が多い。乾いた草が踏まれて、5センチに満たないくらいの枯れ草の層ができるが、その層の下、ポリエチレンシートの上にミミズがいる。通路の草をめくると、ポリエチレンの上をミミズが逃げる。

今は六月で雨が多い。
水を含んだ枯れ草の層の下にいるのは全部ドバミミズだ。

五月にほとんど雨が降らなかった。その間はミミズを見なかったが、雨が降り始めたら、通路と畝の境目あたりの枯れ草をめくれば必ずドバミミズを目にするようになった。10センチくらいの長さのやつが多い。

YouTube で炭素循環農法を広めている人が、ミミズのいる畑はよくない畑だと言っているのを聞いたときはびっくりした。畑にミミズが多いと言って自慢している人は恥を自慢しているようなもんだと言うのだった。
畑をやっている友達にその話をすると、友達もびっくりした。ミミズの多い畑を駄目だというのは初めて聞いたと言うのだ。

その後、シマミミズとドバミミズは住んでいるところが違うなと思った。人間の都合で、有機物の分解過程を腐敗と発酵に区別するが、シマミミズは明らかに腐敗に傾いた土の中にいる。シマミミズのいる土は臭い。

堆肥を積んであるのを見なくなった。今では、「普通の農業」は農機具会社、農薬会社、化学肥料会社に飼われているが、日本人が百姓仕事を熱心にやれた頃は、堆肥の裾にはシマミミズがいたものだ。
子供の頃、鮒を釣る餌を手に入れたいときは、堆肥の裾を木の棒でほじってシマミミズをつかまえた。棒で土をほじると腐敗臭がした。

炭素循環農法の偉そうなおやじが、ミミズのいる畑はよくないと言っているのが、シマミミズのいる畑のことならわからないでもない。シマミミズのいるところは確かに浄化された土とはほど遠い状態の土だ。見るからに酸っぱそうな感じの土だ。食ってみたことはないが・・・。

シマミミズは大きくても7、8センチの長さで、ドバミミズよりはずっと小型だ。ドバミミズの大きいやつは二十センチを越えるようなやつがある。

ドバミミズにはのんきなところがあって、雨が降ると安心して道の上などに這い出す。急に晴れて強い日差しにさらされ、潜り込める柔らかい土がみつけられずに死んでいるのを見ることがある。子供の頃は死んだドバミミズを見て、単にでかいミミズだと思っていただけだった。それがドバミミズという名前を持っていると知ったのはいつのことなのか思い出せない。
子供の頃は、シマミミズとドバミミズが住む環境が違うことには気づいていなかった。シマミミズとドバミミズを名前で区別することはなかったが、違うミミズだとは思っていた。要するに、小さいミミズと大きいミミズという風に区別していた。肌の光の撥ね具合で、違うミミズだということはわかった。

ドバミミズはたまに見るだけだから、どこにどんなふうに生きているのかは謎だった。子供がドバミミズをつかまえることができるのは、ドバミミズが子供の目の前に来たときであり、子供がドバミミズのいるところに行くことはできなかった。この場合の子供とは、ひとまず10歳前後の俺一人のことである。

堆肥を見れば、シマミミズのいるところだと知っていたから、シマミミズは住所不定ではなかった。堆肥のあるところに定住するからシマミミズをつかまえるのは簡単だった。
ドバミミズは住所不定というか、流れ者なのかと思っていた。雨の後、道の上でドバミミズが死んでいるのは、流れ者の行き倒れという感じがあった。シマミミズに較べれば、ずうたいというくらいにでかいので哀れであった。

川口由一の農法を本で読み、真似したみたことがある。真似はごく一部で、「草は刈ってその場に置く」というやり方だけを真似したのだった。朝方寝るような暮らしをしている者には、明るくなったら畑にいるような真似はできなかった。
「草は刈ってその場に置く」をやってみてわかったことは、刈って置いた草の下にドバミミズが増えることだった。ははあ、ドバはこういうところにいるやつだったのかとようやくわかった。いつ自分が大人になったのかはわからないが、ドバミミズの棲んでいるところは、おおざっぱに言って、大人になってからわかったのだった。

草を刈ってその場に置くと、草にもよるが、土と草が接触する部分ができる。根元で刈れば枯れる草なら土とよく接触する。芝草のたぐいは、根元で刈っても、切った茎の芯からまた草の体になる薄い緑が伸びてきて、前身だった枯れ草を持ち上げてしまうから、刈った草と土が接触しにくい。
ドバミミズは、枯れた草と土が接触するところを這って湿った枯れ草を食っているらしい。枯れ草の層は、たとえ3センチばかりの薄い層でも、その下にいるドバミミズに直射日光が射さないようにしてくれる。つまり日光に対する屋根になる。晴れた日には土の中から水気があがってくるから、枯れ草の下部には湿り気がある。そういうところにドバミミズがいる。あんまりみんな乾いてしまったら、ドバミミズは土の下にもぐるだろう。
芝草を刈ったところは、芝草の新しい芽が柱になって屋根は空中「低く」持ち上がってしまう。刈れば新しい芽を出さない草なら、枯れ草の屋根の下部はドバミミズの餌になる。ドバは、屋根の下にいて屋根を食っているのだ。

ドバミミズの餌、乾いた草が水を吸ったものは発酵も腐敗もしていない。発酵と腐敗の中間の状態、どっちかに傾く前のニュートラルな状態の草をドバミミズは好むのではないかと思う。

ドバミミズは活発である。こんなに移動するのかとわかったのは、畝の草を刈っている時だった。「草は刈ってその場に置く」ということをやっていると、ノコギリ鎌が畝の草を刈る震動が土に伝わる。ドバミミズはそれを嫌う。土の中から這いだし、遠くへ逃げようとして這う。けっこうきびきびと這う。しきりに逃げようとする。

ドバミミズの棲息環境がわかった頃は釣りをしていたので、ナマズやコイを釣る餌を手に入れるのに、ドバミミズのこの習性を利用した。畑に行き、畑仕事をするためではなく、釣り餌を手に入れるために、畝の草をノコギリ鎌で刈るのだ。ドバミミズがあわてて這いだしてくる。速く動くから草の間を這っていてもわかる。それを拾うと、10分もかからずに3時間や4時間釣りをするための餌は簡単に手に入るのだった。

酸っぱそうな嫌な臭いがする土、腐敗過程の中にある土の中で、ろくに動きもせずまどろんでいるシマミミズと、緊急事態を感じてしきりに動くドバミミズはまるで違う。
シマミミズは棒で掘り起こされてもろくに動かない。5センチ前後の体をノローとさせるだけだ。場所を移そうなんて気は全然ない。
ドバミミズはずうたいがでかいくせに、移動をいとわない。這うのが速い。シマミミズのように伸びたり縮んだりして進むのではない。長いまま這う。蛇のような鱗はないが、体をくねらせて進む。ドバミミズには明らかに意志というものを感じる。

子供の頃、シマミミズのことを単にミミズと呼んでいた。その頃、ドバミミズには呼び名がなかった。でかいミミズというだけのことだった。ドバミミズ、略称ドバだが、ドバという呼び名は、釣の本かなんかで読んだのかもしれない。

これだけ生活環境も生活態度も違うものを、ひとくくりにミミズと呼んで、「ミミズのいる畑はよくない畑」などと言う炭素循環農法のおっさんは、あまりにも大雑把だと言うしかない。こんなおっさんが好き勝手を言って、シュタイナーだのなんだのとテツガクテキなことをぬかすのを聞くと笑ってしまう。炭素循環農法自体が大雑把で、シマミミズのようにまどろんでいるのだ。

シマミミズとドバミミズくらいはちゃんと区別しろ。そうじゃないと、炭素循環農法自体がシマミミズだ。反農薬でやるかいがない。俺のことじゃない。炭素循環農法にとってかいがないのだ。
川口由一なら、シマミミズとドバミミズの違いのことはすぐにわかってもらえるだろうと思う。川口の農法が俺に一番役だったのは、鯉の釣り餌を手に入れることだったにしても・・・。
川口がシマミミズとドバミミズを区別しないということはないだろう。福岡正信はどうだろう。あの人は大雑把というのではなくおおらかなのだが、シマとドバは区別しないかもしれない。

ドバミミズのいる土は臭くない。枯れ草が湿った臭いはするが腐敗臭ではないし、発酵臭でもない。
ドバミミズの糞ははっきりそれとわかるくらいの大きさがある。丸い糞だが、直径で2ミリくらいある。片手で掬うだけですぐ集まるくらいにポリエチレンのシートの上にいっぱい糞をしてあるところでは、糞を畝に移して土とまぶしてしまう。何が「ミミズのいる畑はよくない畑」かよ。臭わないドバミミズの糞は、そのまますぐに土になる。それが悪い土だとはとうてい信じられない。「俺、ドバミミズの味方です」であるのであるのであるのである。

ドバミミズの糞を畝の土に混ぜてやれば、畝の土は良い土になるんだよ、炭素循環農法のおっさん。ドバミミズの糞を微生物がまた食ってくれるんだよ、おっさん。

炭素循環農法に限らない。川口由一だってそうだ。理屈にとらわれたら、そこでまどろんだシマミミズになるのだ。

いきなりだが、吉本隆明だってそうだったと思う。晩年の談話をメディアがねじ曲げた可能性は考えられるが、それ以前に、朝日新聞や岩波書店を毛嫌いする一方で、原発村から原稿料をもらっていた。そんなことにつべこべ言う気もないが、亡くなる前の発言は、自分が長年言い続けた理屈に自分がとらわれてしまっていたと思う。あの事故を直視して、事故そのものから考えていったとは思えない。起こったことをあまりにも速く判断し、被害を小さく見積もってしまった。ただいま現在15/06/30でも、被害の規模は本当はわかっていないのだ。

吉本は科学に対する信仰と科学者に対する信頼が強すぎた。科学者連中も金で転ぶんだということは多分一度も書いたことがないのではないか。科学者が白を黒と言うことはあるのだ。福島第一原発事故直後に雨後の筍のようにテレビに出てきたやつらを見よ。
そんな連中は科学者でもなんでもないと言うのなら、それはその通りだ。しかし、吉本はいつも科学者には甘かった。

福島第一原発が爆発した後、「原発をやめれば猿に逆戻りだ」という発言を読んで、冗談じゃねえと思った。

吉本は、京都奈良くんだりの四季の風情だけ言葉にする詩人どもを否定したかったのかもしれない。その頃にでも、四季を歌わずに、四季に従っていた百姓たちはいた。百姓たちから搾取したのでなければ、キゾクドモは歌など歌っていられなかった。
その百姓たちがどんなふうに土とつきあっていたかは、記録としては何も読んだことがない。そういうものはまるで残されていないのかもしれない。だからあてずっぽうを言うしかないが、その時代では、土の浅いところに枯れ葉などの有機物を混ぜ続ける「古代農法」とそんなに距離はなかったのではないか。鎌倉か江戸かは知らないが、牛や馬を使って土の深いところまで耕すようになって「古代農法」は廃れたのではないか。記録がない限り、自分が今やっている農法からのあてずっぽうを言うしかないのであてずっぽうを言っている。

「古代農法」という語は、炭素循環農法からの借り物であることはお断りしておかなければならない。

炭素循環農法が「有機物を土の浅いところに混ぜる」と言うとき、「浅いところ」というのがミソである。何度も当てずっぽうで申し訳ないが、「浅いところ」というのが「古代農法」の眼目だろうと思う。それは「耕す」とか「耕起」という観念とは違う。単に「混ぜる」というだけのものだ。5センチから10センチ程度の土を動かすだけなのだ。

土が軟らかくなってくれば、何の道具も要らない。手で混ぜるだけでできる。それを古代の人々が知らなかったとは考えにくい。

「古代農法」というものがあったとして、それはただ想像することができるだけだ。これが農の原形だろうというものを、想像し、やってみることができるだけだ。

奈良時代や平安時代あたりでも、「混ぜる者たち」は「歌う者たち」とはまるで違うものを見ていたのだと思う。眺めて歌う者と、土の硬さや柔らかさを触ることで知る者とは、まるで違うものを見て(観て)いたのだと思う。同じ四季を相手にしていたのであっても、目や耳で「観る」者たちと、手で触って「観る」者たちがいたのだと思う。
身分も糞もなく、その違いはあったのだと思う。

吉本の言葉には、こちらの胸のまんなかにずどんとくる言葉がある。だけど、ずっと読んでいるうちに、なんか違うんじゃねえかというわだかまりがたまってくるのは、吉本が農を知らなかったということなのだろうと思う。おそらく科学ほどには農を知らなかった。そんなことは、俺が東京の下町の暮らしを、暮らしそのものとして知らないことと同じで、知っていたからどうだというのでもない。それは体に根付く前の知識に過ぎないというだけだ。

吉本さんは農村を知らないんじゃないかと正津勉が言ったことがあり、その通りだと思ったことがある。今は、それも違っていたと思う。吉本は農政も農村も知っていたと思う。隣の家の晩飯のおかずまでわかるようなところは、東京の下町も農村も同じだ。それに対する嫌悪や愛着は同型ではないかもしれないが、慣れの度合い、親しみの度合い、それに対するひそかな反発の度合いというところでは同じようなものがある。
吉本は農政も農村も知っていたが、農そのものは知らなかったのだと思う。俺の中にわだかまってくるのはそれだけのことだ。それはしょうがないことなのだ。

俺が読んでいる吉本隆明は、土佐の松岡祥男さんが発行している「吉本隆明資料集」のシリーズだけだが、喉に魚の骨がひっかかったような感じがあって読み続けることをやめることができない。そういう種類のわだかまりがある。

農って何だ。土という基体に触るものだ。土に触る体が知るものだ。土に触る体が知っていくものだ。それは書くという作業に似ていないか。自分が書いた言葉を自分が読んで、反芻される過程が書く作業にはある。
固かった土が軟らかくなっていくプロセスに触り続けることは、畑という原稿用紙にびっしりと字を書くようなことではないか。反芻は、目の前にあり、しかも向こうにある。書くという行為がこっちにあるものなら、農は向こうにある。
菌が世代交代を繰り返し、ミミズが小動物が反芻し、また菌に返す。言葉も、菌であり、ミミズであり、小動物である。目に見えたり見えなかったりし、育ったり育たなかったりする。

俺の農は、市場経済に取り込まれる前のものだ。いや、鍬や鋤や牛や馬以前のものだ。そこにポリエチレンのシートを一枚噛ませただけのものだ。

これは体力のない人にもできる。基本形だけだったら、道具も要らない。ああ、200円で買えるノコギリ鎌一本くらいはあった方がいいか。農薬も科学肥料も農業機械も使わずに、少なくとも自家消費分の野菜を作ることはできる。

農ってのは、タオってことだなとは思うが、それで話が通じるニホンの現在ではない。ひとまず、ドバミミズにかぶせられるフウヒョウヒガイをひっぺがすことくらいから始めるしかないのだ。

 

 

 

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