やわらかい場所

 

長田典子

 

 

川沿いのフェンスにもたれて
幸せだった
汽水域を越えて
水鳥のように
飛び立って行けるのではないか
まだ見たことのないどこかへ
そう思えた

夏の終わりの日曜日
自由の女神を見にフェリーに乗ったのだった
リバティ島に向かって
フェリーの屋上は
人であふれていて笑顔だった
見たことのない何かを所有する欲望に
目を輝かせていた

近くで見ると思った以上に巨大で
横幅があって
強そうだった
マッチョな体躯に圧倒された
女神なのに

ニホンでは
長い間
悪夢に悩まされていた
茶色く淀んだ川の水面から
頭だけ出してもがいている夢を繰り返し見ていたころ
水の中で手や足は完全に萎えて感覚さえなかった
また別の夢では
なにをやっても酷いことが起き
叫び声を上げてもなお
悪い運命に翻弄されるばかりなのだった

ここに来てからは
悪夢を見ることはなくなった
わたしは
満員のフェリーに乗る観光客のひとりとなり
汽水域をなぞって
ゆるゆると
自由の女神を見るために
リバティ島へ
そして
かつて移民局のあった
エリス島へと
移動した
とても平凡で穏やかな行為として

胸元に毎日
花びらのタトゥーを刻み込み
数を増やし続けながら
こうあるべき自分
という想念にとり憑かれていた
耐えていた
痛くても
こうやって
生きていかねばならないのだから
と……

移民博物館では
ヨーロッパから
飢饉や貧困を逃れて
長い船旅の果てに
たどり着いた人々の写真
山のように積まれたボストンバッグや荷車
健康診断に使われた医療器具
などを見て回った
人々は長い列を作って並び
いくつもの部屋を通過し
たくさんの尋問にパスせねばならなかったが
傷みを
汽水域を
越えて
大陸では
失敗しても失敗しても貪欲に新天地を求めて
移動していった人たちがいた
マッチョだ
マッチョな人生だ

帰り道
地下鉄の車内はがらんとしていて
わたしはぼんやりと
あの人の
やわらかいペニスを思い出していた
慈しむべき身体の一部として
口に含んだときのことを
差し出された手の甲に
口づけをしたときのことを
指のいっぽんいっぽんを
順番に舐めて
そっと噛んだりしたときのことを

出国したのは
受け身ではなく
慈しもうと思ったから
能動的に
この場所にいる
わたしを
愛したい
もう何も心配しなくてもいいと
思いたかった
何も
考えずに
ひゅーん、と
飛んで行けたら

そうだ
自由の女神のマッチョな体躯だ

タイムズスクエアや5番街には
全身を緑灰色にペインティングした
肥満体の自由の女神が出没している
観光客と一緒に記念写真を撮らせるたびに
チップを巻き上げていた
ニホンの
パチンコ屋や量販店にも
似たような像が置いてあったっけ
マッチョな人生なんて
どこにでもあるのかもしれないな

仮装という存在
仮想という想念
から
解放されよう

マッチョに
飛び立つのだ
マッチョに
って、
単純すぎるよね

川沿いの
フェンスの向こう側には
生まれたての
赤ん坊のような
慈しむべき
やわらかい場所があるようで
差し出された手の甲に
くちづけをし
指のいっぽんいっぽんを
順番に舐めていくような
れんあいかんけい
のような
時間があるようで

ひゅーん、と
飛んで行きたい
汽水域を
超えて

 

 

 

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