西暦2015年水無月蝶人酔生夢死幾百夜
佐々木 眞
私が勤務している会社は地道に米を販売する地味な会社なのに、社長がとつぜんとち狂って若者向けの2種類の新製品を発売し、それぞれにマスコットキャラクターをくっつけて売り込むのだと張り切っている。6/1
しかもその会社の社長は、私にはすでに愛妻があると知りながら、会社の同僚の若い女性を私にくっつけ、一日も早く結婚させようと様々な策謀を巡らせているのだった。6/1
バスの添乗員のおばさんが、さきほどからバスを待たせたままウロウロしているので訳を聞いたら「モメントを買いたいの」というので「モメントってなに?」と聞いたら「モメントいう名前のミネラルウオーターです」という。
「そんならこんなところでウロウロしていないで、最寄りの自販機かスーパーかコンビニへ行って早く買いなさい。あんたのお蔭でみんな迷惑しているんだよ」と言ったのだが、バスガイドのおばはんは、相変わらずそこらをウロウロしているのだった。6/2
正月3日神君家康公の天下太平を祈念して、俺たち6人の船乗りが波高き江戸湾に乗り出したが、無数の宝船があたりを埋め尽くし、足の踏み場もない大混雑じゃった。6/3
ごろつき政権になってからというものは、貧富の差はますます甚だしくなり、富裕層はもはや普通の日本語をやめて世界の富裕層にも通用するフユウ語、すなわち新たに改定されたネオエスペラント語を使用するようになった。6/4
絶大な人気を誇るその流行作家は、講演と読者サービスを行うことになっていた当日のイベントに無断で欠席したのみならず、それっきり私たちの前からぷっつりと姿を消してしまった。6/5
あの美貌の誉れ高き高等娼婦を、幕末明治の革命家たちが誰ひとりものにできなかったことが、その後のこの国の歴史のついに咲かなかった薔薇の蕾のごとき存在になってしまったことを、私だけが知っていた。6/6
葉山の御用邸の近くに住む画家に招かれて、彼のアトリエ兼別荘のあちこちに飾られた作品を見物した。ベランダに置かれた1枚では、金髪の少女がボートに乗って逆巻く海に向かって漕ぎだそうとしていたが、荒波に呑まれてたちまち見えなくなってしまったので、初めて絵ではないと分かった。6/7
空谷の跫音に驚いたのか、ケーブルカーは突如嵐のように前後左右に揺れ動きはじめたので、パニックに陥った私は、指に唾して窓に「HELP!」と書いたのだが、これでは外からは意味不明だと気づき、ではどう書けばいいのかと焦っていた。6/8
京橋駅の改札口で「斎藤さんは?」と尋ねると、切符もぎりの隣にいた人の良さそうな中年のひょろながい男が、「斎藤さんはまだですが、私を覚えていますか?」と答えたので、はていったい誰だろうと考えていると「20世紀フォックスの○○ですよ」と懐かしい声がするのだった。6/9
蒸気機関車が煙を吐きながらホームに滑り込んでくると、愛犬ムクはいきなりひらりとジャンプして、線路の向こうに消えてしまった。急いでその跡を追うと、ムクは国鉄と交差する私鉄の線路を疾走していたので、焦った私はタクシーを摑まえて追いかけた。6/10
今年の「デジタル版ゆく年くる年」の番組製作は「インディーズ青年組合」が担当することになったのだが、そのハイライトとなる歳時記カレンダーの正月号を見たら、31コマのすべてが高島易断の運勢本歴と同じ内容だったので驚いた。6/11
私が絹のように柔らかな寒冷紗で出来た捕虫網をサッと一閃すると、その中にワシントン条約で捕獲が禁止されている色とりどりの貴重な蝶や鳥や昆虫が、どっさり飛びこんできた。6/12
吉田吉雄という今年68歳になる無名のカメラマンに、24カットの写真撮影を依頼した無謀さを後悔し始めていた私だったが、彼が寄越した撮影済みのポジをルーペで覗いた途端、それがまったくの杞憂だったと分かった。6/13
村の長老が、郷土への燃えるような愛を築くために、若者たちのさらなる克己と献身を求めたので、私たちは性器を何度も扱いて俵の中に気を遣った。6/14
村祭りの自由走60キロの部で優勝したのはいいけれど、その御褒美に「村の女性の好きなひとりを一夜自由にしてもいい」と村長から言われて、長らく不能の身の私は、はてどうしたものかと大いにうろたえていた。6/15
どうやらふとしたことからもののはずみで人をあやめてしまったらしい。それなのにおらっちはしらぬかおのはんべいをきめこんでいるらしい。こまった、こまった。いやだ、いやだ。6/16
或る朝目覚めると広場は人で一杯だったが、よく見ると彼らの下半身は一輪車と化していて、「ギュギュギュ、ケチョ、ケチョ、ケチョ」という台湾リスの鳴き声のようなペダルを踏む異様な物音が鳴り響いていた。6/17
ぼろぼろの船に乗ってようやくこの小さな港まで辿りついた人々は、航海日誌に船の名前と船舶番号を記入すると、そのまま短い一生を終えてしまうのだった。6/18
「私たち真夜中に峠を越えてこの村にやって来たんですけど、蛍が星の数ほどきらきら輝いていたんですよ」と、その貧しい一家の人たちは興奮さめやらぬ口調で語るのだった。
伊藤忠ふぁっちょんシステムの新ブランド開発会議に♪ラリラリラーンと出席したら、むかしの会社や知り合いの業者の人たちが大勢並んでいて、私がなにかヒジョーニ重要な発言をするのではないかと期待するような表情で注視しているので困ってしまった。6/18
よれよれのまっ黒けの服を着たネズミ男が「♪ア、ちょっと待ってね、ア、ちょっと待ってね、ソウリのノウリはまっ黒け」と歌い始めると、その後から大勢の子どもたちが、「♪ア、ちょっと待ってね、ア、ちょっと待ってね、ソウリのノウリはまっ黒け」と楽しそうに歌いながら歩いていく。6/19
うちの社長が夜店で買ってきた「経営バイブル」というテープは、映画監督&俳優のクリント・イーストウッドが吹き込んでいるのだが、”Go ahead. Make my day.”ばかり連発するので、我われ社員の評判は芳しくなかった。6/20
デモは終わったが、ここはどこだ。チャイナタウンがあったのでNYか? いや巴里かも知れない。どっちでも構わないが、私は山手線の恵比寿辺りに行きたいので、電車もバスも走っていない入り組んだ路地から路地へとひたすら歩き続けたが、誰も見かけなかった。6/21
最近亡くなったその老人には、ざっと数えて103件の偉大な事績があったにもかかわらず、葬儀でそれに触れようとする者は誰一人居なかった。彼の残り少ない遺族ですら。6/22
私は京響指揮者の広上淳一になりきって、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲を夢中で振っていたのだが、どう考えてもかのムラヴィンスキー老には及ばないまでも小澤征爾よりましだと思っていた。6/23
「しかし鯨のシャッポに宣伝ビラをとりつけることについては、このアメリカ人の契約書にはっきり記されているからいくら君が反対しても無駄なことだよ」と私は、もっさりした風貌の菅官房長官そっくりの男に告げた。6/23
確かにCD1枚当たり183円は安いけれど、チャイコフスキーの6枚組はもう既に買ってあるから、そのダブリを勘定に入れると少し割高になる。ではその結果一枚当たりいくらになるか計算しようとして、私は算盤を探し求めた。6/24
夏休みに隣の家に亡きクラウディオ・アバド一家がやって来て、庭でバーベキューなどを楽しんでいるようだが、アバド本人はかつてシカゴ交響楽団と入れたチャイコフスキーをじっと聴いている。もしかすると彼は、チャイコフスキーの再録音を考えているのではないだろうか。6/24
マッチを擦りながらこの有名な海峡にやって来たのだが、ドローン、ドローンと物凄い荒波が立ち騒いでいる。一度飛びこんだら浮いてくる者は誰もいないと聞かされた私は、マッチを擦りながらまた怯んだ。6/25
戦後最大の思想家と称される人物が、「ともかくリーマンを勤めおおせた人はそれだけで一大事を成し遂げた人である」とご託宣を下されるのを聞いた長屋の八っさんや熊さんが、「んなら、おいらだって一大事を成し遂げた人物だあね」と意気込んだ。6/26
宿舎前の花壇があった場所には、この軍団から出陣した若者たちの最後のメッセージが残されていたが、私の二人の息子のものもそこにあった。6/26
私の同僚の兵士がやはり同僚の女兵士と一般人多数を人質にして宿舎に立て篭もったので、私は上司からその解放を命じられたのだが、いったいどこから手をつけたらいいのだろう。6/27
右翼と左翼の超過激派が昼すぎから激論を交わし続けて3時になったので、いったい誰がお茶を入れるのだろうとハラハラしながら見守っていたら。竹取の翁がかぐや姫に命じてしずしずと茶碗を運ばせたので。胸をなでおろした。6/27
ずいぶん昔に退職したヨシダ君の作品が、かつての彼の席にまだ置かれていたが、それは「ひと」「とり」と題された小さな彫刻で、今日退職するヤマガタ君は「これを見ながら、何度も涙を流しました」と、私らに別れのスピーチをした。6/28
非常に重い障がいを持つ息子なので、彼がたまたま黄色い泥水の沼に呑みこまれてしまったときにも、このまま天国に召されたほうが彼の仕合わせではないかと思って、すぐには助けに行かなかったのだが、すぐに考えを改め、次の瞬間には全速力で現場に駆け付け、死に瀕した息子を抱き上げたのだった。6/29
ちかごろ叩き上げの大工の棟梁が、東大卒の若い絶世の美女と結婚したのだが、朝な夕なに有頂天になって舞い上がり、以前のように早起きできなくなって、とうとう仕事に支障が出るようになってしまった。6/29