はり、まぼろしの

(「いと、はじまりの」補遺)

 

薦田愛

 
 

つつっと落ちた色水が
浴室の隅をほの暗く染める
春の終わり
編むよりも織るよりも
縫うことの好きな女の子すなわち母が
ミシンに向かうらしかった
向かうのだと買ってきた布を
水とおししたのだろう干してあった
換気扇の音がむやみにおおきい

型紙を起こしたのを知っている
けれども
縫い始めたのを知らない
何を縫うのかも
いいえ
知っていた
きいた

丈の長いスカートが
探しても探してもなかなかないのよ
たまにあっても
フレアがおおすぎるのや柄物ばかりと常づね
かこつ母のクロゼットに並ぶのは
くるぶし丈の黒もしくはグレーないしチャコールグレー
昔はちがったベージュや焦げ茶ワイン色なんかもあったのに

シルバーパスで都バスを東日暮里三丁目で降りて
日暮里繊維街の店から店
きっと早足で
チャコールグレーの無地、みつかったんだ
これならって思えるのがあったんだね
縫えるのだから、好みにあわせて
仕立てればいいんだもの
コートにスーツ
ウェディングドレスまで仕立ててきた洋裁師にとっては
スカートなんて
お茶の子さいさい
などとまで簡単ではないにしても
傘寿の今は

みえづらくなってね、とくに黒いもの
裾をまつるにも針先ですくった布のうえの針目がみえない

(みえないというので目をこらすうち気づく
おもむろに
「縫う」という字は
「糸が逢う」のだと
空白――糸が布に
空白――糸がボタンに
空白――糸が鋏に
空白――糸が糸に
空白――糸がひとに
空白――糸がミシンに
そして
空白――糸が針に
空白――針に)

それでね
言わなくちゃと思ってたんだけど
ミシンの糸は二本、でも
針は一本。一本よ。
――え?

読んでくれたんだね「いと、はじまりの」
ミシンが出てくる新しい詩。
書きあげるたび紙で渡したり携帯に送ったりしているから
何でも言ってくれるのはありがたい
とはいえ、ちょっと緊張する

ほかのことはまぁ、いいとして
うんうん
糸は上と下、二本あるけど、
針は一本。
いっぽん?
そう
にほん、じゃなくて?
うん。
そうか、そうなのか――
ミシンは賢くて、
一本の針は二本の糸を連れてくるのよ
えっと、上の糸は針の穴に通すけど、
下の糸はどうなってるんだっけ?
それがねえ、どんなしくみになっているのかわからない
でもとにかく
針は一本だからね
一本の針で二本の糸を使って縫うのよね
詩のなかでは
ミシンの糸って二本、針も二本、ってあったから
わかる人なら、あれおかしいって思うでしょう
もしかしたら、これは変わったミシンで
ふつうなら一本の針、二本の糸のところ
二本の針がついているのかしらって
ふしぎに思うでしょうね
そうなの――ということは
それぞれ針に糸を通したふたりが
出逢って一緒に布を縫ってゆくのではなく
ひとりが糸をとおした一本の針で
もう一本の糸をたぐり寄せ
縫いあげてゆくのね
とするなら
母と出逢ってふたり物語を仕立てあげてゆく父は
何を手にして、どこに立てばいいのか

糸いっぽんを通した針が
さしつらぬく布と
布に隠れた穴の下ふかく設えられたうつろ
もういっぽんの糸を迎えにsawing machineの針は
いちぶの迷いもなく穴の奥ふかくへまっすぐ押し下げられてゆく
母の手で

ぽかんとしたまま話を畳んで出かける
ぽかんと晴れたそら
ひもときはじめた物語の続きをみうしない私は
今日踏み出す足を決めかねている

 

 

 

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