西暦2016年11月12日

 

佐々木 眞

 
 

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人身事故

 

11月のある晴れた日、わいらあ、久しぶりに東京に出かけた。

ところがなんちゅうことかいのお、横須賀線が人身事故で動いてへんかったん。

朝はよう保土ヶ谷駅での人身事故で、東海道線が止まってしもうて、その影響で横須賀線も動かへんちゅう訳や。

人身事故ちゅうことは、多分誰かが飛び込み自殺をしたちゅうことで、その人は恐らくヨンどころのない事情で、目の前にやって来た電車に飛び込んだんやろうが、わいを含めたほとんどの人は、その人のヨンどころのない事情なぞには、てんで想いを馳せることもなく、むしろ自分が被った迷惑の原因をつくったその人に同情せんと、むしろちょいと憎んだりする。

「くそったれ、なんでよりによって、わいが乗ろうと思うた電車の邪魔をしくさるねん。

やるなら、どっか別の時間に別の電車に飛び込んでくれ」

ちゅう訳や。

考えてみたら、不人情な話やね。

飛び込んだんが、おのれや身内やったら、まるで違うリアクションをするに違いないけど、結局人間なんて、その程度の冷たいいきものなんやね。

しゃあけんど、その人、よりによって、なんでこんな秋晴れの穏やかな日に飛び込んだんやろな。

男かなぁ女かな。年よりかな若者かな、などど考えることもなく考えながら、わいらあ妻に頼んで、白いアクアで京急の新逗子駅まで送ってもらい、都営浅草線経由で新橋まで行くことにしたんやった。

新逗子駅から羽田空港ターミナル駅行きに乗って、上大岡で特急に乗り換えると、急に車体が揺れ始める。

この鉄道は、なぜだか広軌で他の線より線路幅が広いから、走行が安定しとるはずなんやけど、実際はその逆で、飛ばせば飛ばすほど揺れる。怖いほどに揺れる。

怖いといえば、むかし品川から新川崎まで前後左右に揺さぶられながら吊革につかまっとったら、2人の若い女の子が、青ざめた顔をして進行方向に向かって走って行きおる。

しばらくすると、坊主頭のヤクザ風の男が、血相変えてその後を追っていった。

どういうことかよう分からんかったけど、翌日の新聞をみると、電車の中で女が出刃包丁で刺されて怪我をしたゆう記事が出とった。

「誰か助けて!助けてえ!」と叫びながら逃げたけど、刺されるまでに、車内の誰も助けようとはしなかったそうだ。

そんなことだと分かっていたら、わいらあ身体を張って阻止したかどうかは自信がないけど、これをもって、当時のこの線に乗る客層の程度が知れる。

そんなことを思い出しとるうちに、電車は上大岡駅を発車した。

 

人身が事故で死んだというけれどその人身とは我が身にあらず 蝶人

 

 

弘明寺の二短調協奏曲

 

上大岡を過ぎると、すぐに弘明寺や。

平仮名で綴るとぐみょうじ、でっせ。わいらあ昔この普通しか止まらない駅から、品川まで京急で行き、そこから山手線に乗り換えて、原宿にある会社まで通ってた。

駅前はいきなり坂道になっていて、坂の途中に、生真面目な青年が経営するレコード屋さんがあった。

わいらあ生まれて初めてのクラシックのレコードを、この小さなお店で買うたんやった。

当時フィリップスというレーベルの廉価版に「フォンタナ」という1枚1000円のシリーズがあり、わいらあ、その中から旧ソ連のピアニスト、スヴャストラフ・リヒテルが演奏するバッハとモーツァルトのピアノ協奏曲を選んだんやった。

オーケストラは、バッハはソビエト国立交響楽団、モーツァルトはソビエト国立フィルハーモニー管弦楽団、指揮はいずれも旧東ドイツ出身のクルト・ザンデルリンクという人やったなあ。

A面のバッハのピアノ協奏曲第1番BWV1052を聞いた時は、ちと驚いた。

冒頭からいきなりピアノとオーケストラが全力疾走するんやけど、その響きのなんとまあ悲愴なこと。わいの心をまるごと鷲摑みにして、地獄に道連れにしていくようやった。

ああ、これがクラシックというもんか。なんて暗くて、ぎょうぎょうしいや。夢も希望もない音楽やなあ。

そう思いながらレコードをひっくり返して、B面のモーツァルトのピアノ協奏曲第20番を聞くと、これがまた陰々滅滅たる序奏ではじまりよる。

ようやくピアノが入って来ても、わいの疲れた心はますます重苦しくなる。

いまでこそ分かるけど、偶然とはいえ、この2曲は同じ二短調の曲やったから、「元気はつらつ、さあいくぞ!」というような活発で陽気な世界とは正反対の、死にたくなるような、悲愴で、厳粛な気分に満ち満ちていたんや。

なるほど「降れば土砂降り」がクラシックなんか。

聞けば聴くほど悲しい憂鬱な気持ちになるなあ。

しゃあけんど、これは今のわいの気持ちにぴったりやなあ、と思えたもんやった。

 

弘明寺の観音通りの坂道の袂にありしレコードショップ 蝶人

 

 

プールサイド小景

 

そういえば、弘明寺駅のレコード屋さんのある出口とは反対方向には、なぜかプールがあった。

秋になると、広葉樹の落ち葉が、水面をすっかり覆ってしまう小さなプールやったなあ。

会社から帰って、山の上にあるアパートに向かう途中で、急な坂を気息奄々と登りながら、高みから蛍光灯に照らされたこのプールを見おろすと、いつもわいは庄野潤三の「プールサイド小景」のラストシーンを思い出したもんや。

そして、落ち葉の間に、わいのようなくたびれはてたサラリーマンの死体が浮かんでいやせんか? 浮かんでたら、それはもしかするとわい自身ではないやろうか、と、じっと闇に目を凝らしたもんやった。

わいらあ、このプールの麓からひと山登ってあっち側に降りた、静かな傾斜地に立つアパートに住んどった。

当時のわいは、慣れない会社の仕事に疲れ、障がい児の長男の療育にも疲れ果てとった。

妻の記憶では、長男は鎌倉の産婦人科で生まれたときに産声が聞こえなかったというとるから、もしかすると出産時に障がいを蒙った可能性もある。

2歳までは特に他の子と変わった様子もなかったんやけど、モンシロチョウが舞う春の野原を、サイの子供のようにノロノロと這いまわる姿は、なにやらまだ地球が知らない動物のようで、可愛いといえば可愛いが、気味が悪いといえば気味が悪かった。

そのとき私の中の植松聖選手が、脳内でこんな歌をうたっていたようやった。

イモムシ、ゴーロゴロ、イモムシ、ゴーロゴロ

イツマデモ ソコデ ゴーロゴロ ハッテロ

オマエハ ソコデ イモムシニ ナーレ

イモムシ、ゴーロゴロ、イモムシ、ゴーロゴロ

長男はちょうどその頃から、溝の穴や、水道の水や、くるくる動くものなど、特定の事物や行為にいたく固執するようになってきた。

しばらくすると、はじめのうちは出ていた言葉を次第に失い、他人とは会話できず、ふつうのコミュニケーションがとれんようになってきたさかい、わいは時には会社の休暇をとって、カミさんと親子3人で、地元神奈川や東京近辺の様々な病院を訪ね、この奇妙な症状を示す我が子の治療方法を捜し求めたんやけど、どこへ行っても納得のいく対策案ももらえず、途方に暮れたもんやった。

 

京急の弘明寺公園の桜咲きプールに漂うわたしの屍体 蝶人

 

 

くたばれ東大医学部!

 

そんなおらっち夫婦が、横浜戸塚の療育センター(旧こども療育)の診断を請うたのは、1976年のことやった。

当時既に東神奈川の小児療育センター、東京の梅ヶ丘病院、久里浜の国立医療センターなどでは、それなりの先進的な研究によって、「自閉症心因説」や「情緒障害説」をとっくの昔に退けていたんやけど、おらっちはここに勤務していた小児自閉症専門の担当医師(東大医学部の2人の教授)の尊大な態度に驚き、あきれ果てたもんやった。

彼らは、当時もっとも非科学的で時代遅れとされていた「自閉症母源病説」を声高に唱え、

「お母さん、この病気の原因はあなたの育て方が悪かったからです!」

「ご両親の子育て方法が間違っていたために、心に傷が出来てしまったのです」

などと、おらっち夫婦を誹謗中傷しながら、偉そうに御託宣を下しやがる。

んで、おらっちは、頭に血が昇って、こう反論した。

「俺の仕事が頭を使うから、子どもが自閉症になったんだと! どういうことや。そもそも頭を使わないで済む仕事なんて世の中にあるのか! イ、イ、インテリゲンチャンの子どもが、みな自閉症になるなら、どうしてト、ト、東大のイ、イ、インテリゲンチャンのお前の子どもも、自閉症にならへんのや。言うてみろ! え、どうなんだ!」

妻も泣きながら抗議した。

「私の育て方が過保護で、そのせいでこの子が自閉症になっただなんて、とんでもないことです。私は天地神明に誓って、そんないい加減な子育てをした覚えはありません。お医者さんが、そんな無責任なことを言っていいんですか!」

東大医学部精神科からここへ派遣されている30代のエリート医師は、口から猛烈に唾を撒き散らして怒り狂うわいと、泣きじゃくりながら必死に抗議する妻に困ってしまって、50代のいかにも偉そうな顔をした先輩医師に、すがるような視線を向けた。

するとそいつは、またしてもわいのどたまに来る台詞を、平然と吐きくさった。

「まあ自閉症もいろいろありますが、結局は情緒障害ですから、まずお父さんお母さんの生き方から改めてもらわないとね」

「なに、生き方やと? お前いったい何様じゃ。糞へタレ医者のお前なんかに、わいの生き方をうんぬんされとうないわ」

その、人を人とも思わぬ言葉に、またしても怒り狂って反論するわいと、泣いて抗議する妻をせせら笑うようにして、私たちを見下していた東大医学部の阿呆莫迦教授を、わいらあ一生忘れへん。

わいは、無知の癖に傲慢そのものだったあの2人の東大教授を、いまなおどうしても許せんのや。

おのれの不勉強を棚に上げて、権威に胡坐をかき、したり顔で中世さながらの「魔女狩り」ごっこを演じていた彼らの醜悪な姿こそ、1968年に東大全共闘が打倒すべき腐敗堕落した白い虚塔の象徴だったんや。

わいは、あれから30年以上の歳月が経過した現在もなお、この2名とどこかの街道筋で鉢合わせした場合、物理的な打撃を彼奴らに与えずに通り過ぎる自信は、あらへん。

 

アホ馬鹿の東大教授の暴言に我は憤怒し妻は泣きたり1976年夏戸塚の杜に 蝶人

 

 

自閉症大研究

 

彼奴らが、その後どんな腐れ医者になり果てたかはいざ知らず、いまでは自閉症は、生後2歳半くらいまでにあきらかになる,一種の「発達障がい」ということになっとる。

その症状はいろいろあるうえに、人によっても症状が異なるので,複雑かつ面倒くさいんやけど、そこを思い切って整理すると、次のようになる。

1)自分自身や周囲の状況がよく分からない「認知の障がい」

2)自転車乗りやキャッチボールがうまくできない「運動の障がい」

3)友達との遊びができないなどの「社会性発達の障がい」

4)他人との会話ができない「言語発達の障がい」

5)水や数字や動くものなどに対する「同一性の固執」や「常同的な遊びや行動のパターン」を示す。

それから、次のようなことも分かってきた。

自閉症は自閉的と考えるのは間違いで、自閉症児の「自閉的要素」要素は、自閉症の症状のほんの一部に過ぎん。

実際に自閉症児は、自閉的どころか、むしろ多動児であることが多いんやね。

また自閉症を「心の病気」と考えたり、子育てや母子関係のスキンシップなどの「情緒の欠如」としたり、テレビの見過ぎやカギっ子、おばあちゃん子が自閉症児をつくるとする見方もすべて誤りである。

このような非科学的な決め付けや思い込みが,自閉症研究を遅らせ、親たちに過大な負担を強いたんや。

今年105歳になる,聖路加病院名誉院長の日野原重明という偉もんはんは、自閉症を風邪やガンなんかと同じ範疇の「病気」だと思っているらしいが、とんでもない話やで。

自閉症は、病気ではない。精神病や精神分裂症でもない。「心因」ではなく、「身体因」にもとづく障がいや。具体的には先天的な脳の機能的・器質的障害、中枢神経機能の障がいなんや。

脳機能の統合化プロセスにおけるなんらかの発達障がいを持って生まれた自閉症児の症状は重篤で、その症状は各人各様やから、画一的な対応をすることはできんちゅうわけや。

では、そんな自閉症児にどのように対応するのか?

自閉症の原因は、脳の機能障がいと考えられてはいるものの、残念ながら、現在のところ根本的な治療方法は発見されとらん。

しかし特に症児の幼少期には、言語、知能、運動、社会的習慣の各側面において健常児に比べて成長が遅れている部分をできるだけ刺激して改善できるように家庭、学校、地域、医療、行政などが協力して取り組めば、成人後とは比較にならないくらい長足の進歩を遂げることができるという訳や。

ああしんど。

ともかく、あの植松聖選手のように、障がい者を皆殺しなんかせず、むしろ健常者よりあんじょう大事に大事にして、障がいのあるなしに関わらず、共生共存できる世の中にしていくのが大事やちゅうことやね。

 

障がい者はこの世の宝 皆殺しせず共に生きよう健常者たちよ 蝶人

 

 

自閉症研究の現在

 

ところで、その後の自閉症の研究はどうなったんか。

進んだともいえるけど、全く停滞しているともいえる。

進んだというんは、自閉症にお仲間がどんどん増えていったゆうことや。

初めのうちは、うちの長男に該当するような知的障がいのある古典的なカナー型症候群が多かったんやけど、80年代に入ると、例えばアスペルガー症候群(カナー型のような言語障がいや知的障がいがない、いわばお利口さんの高機能の自閉症)が発見され、世間でも大きな話題を集めたんや。

アスペルガー症候群の他にも、自閉症の同類項がまるで雨後のタケノコみたいに発見され、中には「アインシュタインやモーツァルトも自閉症だった」とか、「私は自閉症です」「私も自閉症でした」などとと突然カミングアウトする普通の健常者まで続出して、もはやなにが味噌だかなにが糞だかさっぱり分からん状態になってしもうた。

自閉症を長い虹の孤を持つ「スペクトラム症候群」として、その該当範囲を拡大したり、さらには境界線児童や学習障害児や注意欠陥多動性児まで全部ひっくるめて「広範性発達障がい」なんちゅう、戦時中の大政翼賛会のような巨大なお題目を発明する奴まで出てきた。

これでいくと、身体や精神にちょっとした遅れや異常があれば、みな「発達障がい」というレッテルが貼れることになる。

しまいには、わいらあ一家が昔からお世話になっていた自閉症研究の草分けのS先生までもが、「人間みな発達障がい者」などとのたまいはじめたので、わいらあ、世も末だと思うに至ったんや。

 

カナー氏はカナー症候群をアスペルガー氏はアスペルガー症候群を発見したり 蝶人

 

 

喫煙、人を密殺す

 

ところで、自閉症の大本山ともいうべき「日本自閉症協会」では、最近どんな動きをしてるんやろう。

協会の前会長は、石井哲夫氏やった。
30年前のその昔、私は超ベテランの石井選手などが主張する、自閉症児の障がいをただありのままに受け入れようと主張する「受容療法」に批判的やった。

そんな悠長なやり方やのうて、自閉症の症状と障がいのもっと本質部分に肉薄し、脳障がいの損傷部分を活性化する、いわば「積極的な療法」を重要視していたわけや。

しゃあけんど、障がい者に対して強制的にかかわる際の反発や逆効果などを考慮すると、半世紀後の「大人になった」今では、こういう受け身の対応も、それほど間違っていたわけではないな、と再評価しておったんや。

ところがこの石井会長、数年前にフランスの学者・研究グループが「自閉症遺伝説」を唱えはじめると、「わしも自閉症の原因はどうも遺伝のような気がする」などと訳のわからんことをのたもうて、突如会長を辞任されはった。

そのせいかどうか知らんけど、自閉症協会の自閉症定義ないし解釈では、おらっちがこれまで述べた脳の器質障害というこれまでの説明を削除してしもうたから、いずれは自閉症遺伝説の新しい看板を掲げるのかもしれん。

ダウン症の原因が第21番染色体の異常であることは昔から知られているけど、「自閉症遺伝説」を唱えはるなら、自閉症はどこの遺伝子のどういう異常で発生するのか、さっさと言うてもらおうやないか。

遺伝によって自閉症になるのなら、今までお前さんやおらっちが、身体を張って力説してきた「自閉症脳機能障がい説」との関係、整合性はどうなるんじゃ。
ほれ、言うてみなはれ。ほれ、ほれ、言えんじゃろうが。

あんたに言えんなら、脳科学研究者としてマスコミで有名な養老孟司はん、なんにでも首を突っ込む茂木健一郎はん、ダサイ服を着とるけど頭の良さそうな中野信子はん、ちょっくら助けてくらはいな。お願いしまっせ。
わいらあ北朝鮮拉致被害者の親御さんとおんなじで、もう先が長うないうえに、くたびれ果ててしもうた。

まあざっとそんな体たらくやから、この半世紀の自閉症研究は、進化どころか退化しているかもしれんちゅうわけや。

最後にひとこと。

おらっちは、かつてはたちから27歳までの足掛け8年間、猛烈なヘビースモーカーで、まあ強度のニコンチン依存症やった。
ほいでもって、1日両切りピース50本のその猛毒が、間接喫煙した妻の胎内に入って自閉症の脳障がい児を誕生させたと確信しておる。

そやさかい、これからの時代を担う若い人たちには、どうしても禁煙してほしいんや。
それがわいらあの遺言。

ああ、あかん、あかん、また脱線してしもうた。

 

モザールもアインシュタインも耕君も味噌糞一緒に発達障がい 蝶人

 

 

新橋の女

 

いまから40年前のにがい思い出に、ひとり胸の奥深く激高しているうちに、電車は新橋に着いたわいな。

新橋駅のカラスモリ口といえばちょいと懐かしい思い出があるなあ。

いまは昔の東京五輪の開会式のとき、わいらあ上京して毎日アルバイト生活に明け暮れていたんやけど、五輪委員会のパーティのボーイをやっとったときに、配ぜん係の女子の中に楚々とした美人がおってなあ、わいらあ彼女に取り入ろうとカナダの代表団の役員はんからもろうた楓のバッジをあげたんやけど、「ありがとう」と御礼を言われてそれっきり。

その周旋会社が新橋のここいらへんにあってなあ、もしや彼女がこの事務所に現われるんやないかと、あれからも時々覗いてみたんやけど、そう簡単に問屋が卸すはずもなく、哀れとうとうそのままになってしもうたんや。

なんだか惜しいことをしたような気が今でも時々するんや。

それはともかく新橋に来ると、なんでか知らんけど天丼が食いとうなって、よく「てんや」に入ったもんや。

ほんで今日も確かこのへんにあったなあと思うて、カラスモリ神社の入り口を過ぎて歩いていくと、そのちょっと先に天丼「てんや」の暖簾がでとった。

まだお昼前なんでがらがらやったけど、「いらしゃい、お好きな席におかけください」と妙なアクセントで迎えられ、その顔をよく見ると、中国か台湾の女の子やった。

店内には他にも中国系の女の子が働いていて、2人でぺちゃくちゃ中国語でおしゃべりするので、気になってしゃあない。

店長は日本人やったけど、接客する人間が中国人やったら、その店のイメージが中国になってしまう。

わいらあ別に中国人をどうこう思う訳やないけど、人件費が安いからというて、みだりに外国人を使うのはやめてほしいと、天丼屋の「てんや」の為に思うたことやった。

500円の並み天丼はいつもと同じ味やったけど。

新橋の蒸気機関車広場では、古書市の最終日で北隆館の「原色蛾類幼虫図鑑」2800円也に、ちょいと心惹かれたなあ。

心を鬼にして帝国ホテルに向かうおうとしたんやけど、日比谷がどっちの方角なんか耄碌してきててんで分からんようになてしもうたんで、恥ずかしながらおのぼりさんになって交番で尋ねたら、若いお巡りはんもおのぼりはんとみえて、

「帝国ホテルなんて分かりません」

というもんやさかい、あわてて奥から出てきた中年のお巡りはんが、区分地図を出してきて親切に教えてくれた。

わいらあ、もう完全に浦島太郎やなあ。

 

楚々として見目麗しきひとなりき東京五輪開会式の青い空 蝶人

 

 

日比谷公園、松本楼、フランス映画社など

 

まだ時間があるので、美術館へ行こうかなと思ったんやけど、内幸町の交差点あたりでキョロキョロ見回しても、見つからへん。

その代わりというてはなんやけど、進行方向左手に日比谷公園が見えてきた。

格調高い公会堂は、工事中、懐かしい野音は、入口が封鎖されて入ることができんかった。芥川也寸志の交響曲や、「全国の学友諸君!」のシュプレヒコールが聞こえてきたような気がしたけど、あれは空耳アワーやたんかいな。

好天の土曜日とあって、公園はおおぜいの善男男女や家族ずれが、楽しそうに散歩している。

イチョウの黄色や紅葉したモミジや碧や赤が、雲ひとつない青空に鮮やかに映えとる。

ああ、秋やなあ。

すると、左手に見えてきたのは松本楼や。

確か今から半世紀ほど前に、フランス映画社の創立安十周年だかを記念する祝宴がここで開催されて、わいらあも招待されたんやかど、浅いつながりしかないおらっちに恐れ多いとおもうて、欠席してしもうたんやけど、あの頃が世界の名画をビシバシ本邦に紹介してきたフランス映画社の、全盛期だったんやろうなあ。

輝かしい伝統を誇るあの会社が、たしか3200万の負債のために倒産した、ちうニュースを聞いたときは、ショックやった。

わいが金持ちなら、代わりに払ってあげたのに、と不遜なことまで考えたんやけど、ほんまなんとかならんかったんやろうか。

あれからもう何年も経つけど、社長の柴田さんはどうしてはるんやろう?

元気かなあ、いや元気なはずはないわな、などと思いながら、花や樹木に囲まれてまるでお伽噺に出てくる洋館のように綺麗な松本楼を遠くに見ながら遠ざかってゆくと、菊人形ならぬ菊の展覧会が開催されておった。

白や黄色の大輪の花が、ここを先途とばかりに美しく咲き誇っていたが、いくら眺めてなんでこの菊が一等章でこれが2等賞なんか、さっぱりわからん。

やっぱり見る目が無い者には、猫に小判なんやろな。短歌と同じやな、などと取ってつけたように思いつつ、帝国ホテル3階の富士の間に向かったんやった。

 

そこここに生魂宿る菊人形 蝶人

 

 

富士山大賞

 

「富士山大賞」ちゅうのは、日本一の富士の山を顕彰する短歌を募って、優秀作品を選ぶという、いいか悪いかさっぱり分からんイベントなんやけど、わいらあこの夏、たまたま審査員の東直子さんがフェースブックで告知されているのを見かけて、早速ネットで応募したん。

なんで応募したかとゆうと、審査員長が岡井隆、審査員が東さんのほかに穂村弘、三枝昂之の両氏だというのんで、ああええなあ、と思ったからや。

ほしたら10月になって「あなたはんは見事佳作に当選されました。おめでとうございます。ついては授賞式を行いますので、御来場ください」ちう手紙が舞い込んできたといううわけ。

自慢じゃないが、これまでわいらあ、短歌だけやなしに、賞と名のつくもんを貰ったことがまったくない。佳作は佳作でちと残念やけど、賞は腐っても賞やから、まずはおめでたい。

それに行けば、あこがれの岡井大先生の御尊顔を拝し奉り、謦咳に接するることもできるかもしれん。

千載一遇のチャンスとはこのことやんか。万障繰り合わせてでも出席しよやないか。

そう思うて、鎌倉くんだりから出張ってきたんや。

 

富士山に歓声あげる僕ら乗せ修学旅行車激しく傾く 蝶人

 

 

ユ、ユ、ユ! ユ、ユ、ユ!

 

しゃあけんど、岡井先生のおそば近くにはべり、審査員の先生方の講評を受けるという光栄に浴されたのは、遥かなる高みの壇上にい並ぶ大賞、準大賞、優秀賞受賞のエリートはんだけで、残念ながらその他佳作のわいらあは、大広間のテーブルに陣取って、ただただ壇上に拍手を送るだけ。

せめて双眼鏡を持ってくればよかったなあ、と切歯扼腕した次第やった。

彼方から遠望する岡井大人は、矍鑠とされてお元気そうで、マイクを通しての声も、力がありやした。

氏は最近、富士吉田で講演をなさったようで、その講演は、かの山部赤人の「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」という万葉集の歌の解説から始まったそうやけど、開口一番

「「田子の浦ゆ」の「ゆ」といううのは、いったい何だ。どうしていきなりユがついているのだ。ユ、ユ、ユ!」

と、大声で叫ばれたので、満座はユベシのように静まり返りやした。

ユ、ユ、ユ! ユ、ユ、ユ!

そんなこと今まで一度も考えたことがあらへんかったなあ。

ユ、ユ、ユ! ユ、ユ、ユ!

評論家の加藤典洋氏が、文章を読むときに、ほんのちょっとしたことに気づいて「そんなことってあるだろうか?」と思うて「わからなくなる」。

そしてその生まれたばかりの驚きに立ち止まり、「世界をわからないものに育てる。そういう時間が大事だ」と力説されてたけど、これはまさしくそれやないか!

「ユ」に立ち止まって、ゆっくり考えんと、万葉集も短歌も始まらへんちゅうわけ。

さすが、わいが敬愛する大歌人やなあ。

岡井うしは、なおも講演を続けようとされ、わいも息を呑んでその続きを待ったんやけど、氏はそんな話を延々と続けたら、審査委員長の挨拶にはならへんことに賢明にも気がつかれたとみえて、

「ユ、ユ、ユ! ユ、ユ、ユ!」

の叫びは、虚しく不意の間の天井あたりへ消えていった。

 

ユユユユユ、ユユユユユユユユ、ユユユユユ田子の浦よりうち出でてユユ 蝶人

 

 

タカマツノミヤヒデンカオンウタアア

 

審査員の講評が終ると、今度は宮内庁掌典職の堤公長という人が壇上に出てきて、大賞、準大賞、学生最優秀賞を宮中歌会始のあの乗りで音吐朗々と講じはじめたので、朝が早かったわいが、ついうとうとしていたら、周りの人々がいきなりテーブルから立ちあがった。

何事ならん、と耳を澄ますと、

「タカマツノミヤヒデンカオンウタアア」

と、掌典職がのたまわっているようだ。

タカマツノミヤヒデンカとは、高松宮喜久子妃殿下のことならんか。

見れば、受賞者の披講の時には着席していた連中が、皇族の誰かの短歌が始まるや否や、いきなり起立して、なにやら居住まいを正しているではないか。

すわ何事なるか?

司会者も、堤氏も、それを要請することもないのに、民草どもが、いそいそと立ちあがるとは、いったいどういう了見をしておるんや。

わいが座ったまま会場をゆっくり見回すと、驚いたことには、会場にいるすべての人が起立している。

座っているのは、わいだけやんか。

何事におわしますかは知らねども、かねてより人の上に人をつくる天皇制という制度の一日も早い廃棄なしには、本邦に棲息する人間の自由も平等も自立もありえないと信じているおらっっちは、急にその場につどっている人たちに大いなる違和を感じ、

 

なにゆえに人の上に人が立つ人間は生まれながらに平等なのに 蝶人

と、吟じながら、ひとり席を立ってホテルを出たんやった。

 

 

バーキンのバーキン

 

思えばこの帝国ホテルは、結婚式を挙げたあとで、妻とはじめて泊まったホテルや。

当時の夫のジャック・ドワイヨンと来日したジェンバーキンが、わいが半日鎌倉を案内してあげた御礼だといって、ホテル内の日比谷花壇で買ったクリスマスリースを買って贈ってくれたホテルや。

「アンアン」の莫迦な編集者が、バーキンの私物のエルメス特製のバッグ、バーキンを、新館に通じる道路に地べたに置いて撮影しようとしたので、おらっちに怒鳴られたホテルや。

宝塚劇場の前に押し寄せた群衆を掻き分け、有楽町に向かって歩いていると、わいらあ、たしかここらへんでバーキンと食事をしたことがあったなと思い出した。

知人と3人でフランス料理屋に入ろうとしたら、ボーイが彼女のジンーズをじっとみてから「只今満員ですのでお断りします」とほざいたんや。中を覗いたらガラガラやったのに。

それで仕方なく隣の大衆的ななんでもあり食堂に入って、わいらあ3人で寿司、天ぷら、すき焼きを食べ放題に食べたんやが、その食堂もそのレストランも、いまは跡かたもない。

それは80年代のはじめのことやったが、いまでは覚えているのはわいだけやろう。

それは今日と同じような、素晴らしいお天気の午後やった。

気を取り直したわいは、JR有楽町駅から上野まで乗って公園口から歩道を渡った。

土曜日の午後とあって、ここも大勢の男女が群れ集ってる。

文化会館では、午後3時から滞日中のウィーン・フイルが、ワグナーの「ワルキューレ」をやるそうだ。

S席67000円で一番安い席でも17000円もする。イヴァン・フィッシャーは、そんな悪い指揮者やないが、到底わいのような貧乏人は、お呼びではない。

 

さようなら さいならさいなら さようなら もう二度と会わないだろうジェーン・バーキン 蝶人

 

 

やあ、ルターはん!

 

進行方向右手を覗くと、こないだ世界遺産に登録されたばかりの国立西洋美術館で、「クラーナハ展」をやっとった。

クラーナハ。はてな?

名前は聞いたような気がするけど、作品をみるのははじめての絵描きさんやな。

1472年に生まれて、1553年に81歳で死んだ、ルネサンス期のドイツ人やそうやけど、なんと宗教改革のリーダーとして知られるルターと、ほぼ同時期に生きた、と知れば、なんとなく親しみもわいてくるなあ。

芸術の前では、名前も経歴もどうでもええけど、実際に作品の前に立つと、そのリアルな写実に、あっと息を呑んでしまう。

あの宗教改革のルター夫妻なんて、500年前の人物が、目の前に実際に佇んどるようで、わいらあ思わず「やあ、ルターはん!」と呼びかけてしもうた。

神聖ローマ帝国カール5世なんて、厳めしい肩書やけど、こんな浅ましい顔つきの男やったんか。

これではどこかの国の宰相とええ勝負やんか、と言いたくなってしまう。

しかし、美女の裸体のプロポーションなんかは、上半身がちと寸詰りやし、目の表情もちと偏執の気味があるさかい、この節流行の微細カメラ的描法とはちと異なるけど、もしかすると、鎌倉期に頼朝や重盛の肖像を描いたという藤原隆信や江戸時代の渡辺崋山、現代の舟越保武を先取りする超絶的リアリズムかもしれんなあ。

しゃあけんど、被写体が同時代の人物やのうて、歴史上あるいは神話的人物像、例えばヴィーナスやサロメ、とりわけ「ホロフェルネスの首を持つユディト」なんかを描くとなると、その女体に独特の奇妙なエロスの味付けが加わって、見る者を限りなく蠱惑するんやねえ、これが。

ホロフェルネスを誘惑して、酔わせて、その首を斬った寡婦ユディトの絵は、古来多くの画家によって描かれてるけど、クラーナハのユディトの冷たいニル・アドミラリなまなざしは、嗜虐主義者の谷崎潤一郎ならずとも、世の男どもの愚かな劣情を、ゆらゆら揺り動かしまっせ。

うっすらと目を開いたホロフェルネスはんを見てみい。、こう呟いているみたいやないか。

 

こんな美女なら、首なんかちょん斬られても、余は満足じゃ。 蝶人

 

 

ゴッホ対ゴーギャン

 

もう印象派なんかさんざんみたからどうでもええけど、せっかく上野に来たんやから、ちょっと覗いてみるか、というようなノリで乗り込んだ都美術館やったけど、これが想定外におもろかった。

何がやねん?

ゴッホ対ゴーギャンという2人の男の構図が。

アルルにやってきたゴッホはんは、海でも、山でも、野原でも、家の中でも、じゃんじゃん書きまくりよる。ここを先途と、命懸けで書きまくっとる。

それはわいの故郷綾部の偉人、出口なおはんの御筆先からほとばしる生気を、まの当たりにしているようや。

出口王仁三郎はんの、めくるめく色彩世界の陶器をみているようや。

例えば1888年に描かれた「耕された畑(畝)」を見てみい。

これでもか、これでもかとキャンバスに荒々しく部厚く部厚く塗りたくられた油絵の具のうねりの中に、ゴッホの、

「いまこの瞬間を生きるんや!」

ちう、赤裸の叫びを、わいは見る。

聞く。

打たれる。

それは、ほとんど狂気にすれすれの異常な叫びで、実際に彼はこの直後に狂うてしもたんやけど、それでも絵は、異様なまでに純粋で、美しい。

アルルのゴッホが、命懸けの生の極限を生きる、その姿が、そのまま芸術に転化していたとすれば、すぐ傍にいたゴーギャンは、迫りくる死に向かって、日々衰弱していく、己の絶望そのものが芸術やった。

ゴッホの「恋する人」は、生の祭壇への生贄であり、ゴーギャンの「アルルの洗濯女」の背中には、すでに死霊が取り憑いてる。

この2人の天才の心身の奥深く喰い入った生と死は、背中合わせで共同生活しながら、陰陽2つの見事な花を、アルルで咲かせていたんやね。

 

南仏のアルルの真昼に咲き誇る2本の向日葵生と死の花 蝶人

 

 

エピローグ

 

ゴッホ対ゴーギャン展を見終わると、もう夕方やった。

上野公園のケヤキに落ちる夕日が、長い陰をつくっとる。

動物園のパンダも、そろそろねんねぐうする頃や。

菊、公園、短歌、展覧会。今日ひとひの幸に感謝しながら、

わいは、とぼとぼJR上野駅に向かったんやった。

 

 

 

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