吊り革には手が届かない

 

白鳥 信也

 
 

吊り革に手を伸ばすけれども届かない
次々と乗り込む人に押され息が苦しい
必死に吊り革にとりすがった黒いダウンの男が私の吐いた息を吸っている
身体が押し付けられ苦しい苦しいから息を大きく吸う大きく肺のそこまで
ひどく混みあった中で息が行き来し
それぞれの気管と肺をめぐっている
ここにいるのに ここにいたくない
なにかがはじけそうだ
吊り革につかまりたい
吊り革に手を伸ばすけれど届かない

褐色の金属のドアを開けてただいまと言う
人の気配はするが何の声もかえってこない
しずかにコートを脱いでハンガーにかける
髪の毛と顔についているだろう花粉を払う
それから着替をする
吊り革をさがしたい
はじけそうな言葉を投げ出すこともなく飲みこむ
気管も肺も飲みこんだ言葉がひしめきあっている
静かにカーテンが閉められる
ガスの火が弱火で燃えている
手を伸ばそうとする気持ちが
ちろちろと炙られて
音もなく燃え始める

私の吐いた息はそっとどけられる
息に花粉でもついているみたいに
食卓の上ではいくつかの腕が動く
降れることもひしめきあうことも
気管や肺を行き来したりもしない
ここにいるのに ここにいない
この場所に吊り革があればいい
天井からいっぽんの垂れ下がり
どんなに揺れようと震えようと
つかんでつかまれてまじりあう
自分の心臓の音が聞こえるくらい静かな時間が
そっとどけられた息を折りたたみはじめるから
吊り革には手が届かない
吊り革には手が届かない

 

 

 

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