小川のほとりで

 

白鳥 信也

 
 

小川のほとりで暮らした日々を思い返す
おだやかに降り注ぐ陽射しと
水の匂いを

いつも釣り糸を垂らし
夏の暑い日は小川に足をひたし魚たちを驚かせたものだ
夜になればカエルたちの鳴き声が響き続け
専属の交響楽団だって笑い飛ばしていた

小川のほとりには野ゼリが茂り
夕飯時になれば
セリを抜いて湧水で洗い
野生の香りごと味わったし
水底の小エビを網ですくっては食膳に並べたものだ

そこでゆっくりと死んでいきたい
そんなほとりの日々
戻れるものならあの頃に
男はそんなことを薬臭い病室で告白した

死んだ男の過去の時間には
水のほとりで暮らした日々はみあたらない
出入りの多い魚屋の裏で育ち
生臭い風が休みの日でも吹いていて
ハエの多い家だった
奥には農機具の工場があって
昼夜を問わず農機具のエンジン音が響いていた
生涯を事務机のうえで
最初は算盤でのちには電卓を叩いて過ごした

生の火花をやさしく包みこんだ
水のほとりの日々を俺も思い返す
群生する野ゼリの茎を朝露がしたたりキラキラと輝いている
小川の底ではタガメが小鮒に抱きついて血をすいとり
タガメも小鮒もまどろんでいる

 

 

 

ゴシパラヤケル

 

白鳥 信也

 
 

伯母さんが来て父親に言う
職場の行事が失敗したのはあんたのせいだと上役に
さんざぱらかつけられた
ゴシパラヤケル
父親はそうくどきすな
見ている人は必ずいるもんだっちゃっと自分の姉に言う
小学生の僕は伯母さんの持参したバナナにかぶりつく
ゴシパラヤケル
腰と腹がやけるものなのか

伯父さんが来て父親に言う
昨日の晩に桃畑に泥棒が来て
桃をごっそり盗られた
ゴシパラヤケル
父親は柵がねえからまたやられるべと自分の兄に言う
中学生の僕はその夜
桃畑の番をさせられる
夏休みの気楽さで手伝うよと言ったけれど
からだじゅう蚊とブヨに刺される
坊主頭まで刺され
かゆくて我慢ならない
こんなとき
ゴシパラヤケル
と言うものなのか

父親の三回忌に出るため
仕事を休んで東京駅から東北新幹線に乗る
法事が終わって実家の茶の間で
リンゴの皮をむきながら母親が言う
おまえたちの父親も伯父さんも伯母さんも
生まれてから死ぬまでこの町にいたから
東京生まれのあたしには
わからない言葉だらけでさ
ようやくわかるようになったころは
みんないなくなっちゃったけど
いまでもゴシパラヤケルは使えない

その場では何も言えなかったけれど
東京で僕は
思わず口から出ることがあるんだ
こんなことされちゃごしぱらやけるって

 

 

 

とぜん

 

白鳥 信也

 
 

父親より三つ年上の伯父さんは
鍛冶屋で
暗がりで火を使って鉄を溶かし
鍬や鎌をこしらえる
小学校の帰りに立ち寄ると
伯父さんは囲炉裏の脇に座って炭火をみつめている
どうしたのときいたら
とぜんとしている
という
ランドセルを置いて外に走る
裏を流れる堀の魚を見に行って戻ると
ぬしはずいらぼっぽりどこいってけつかる
という
伯父さんのいっていることはほとんどわからない

家に帰って母親に
とぜんとしている
とはどういうことかと聞いても
母親は知らないという
東京で育った母親は疎開して以来東北暮らしだが
当地の言葉をうまく使えない
父親に聞いたら
とぜんはとぜんだという

次の日伯父さんのところに立ち寄って
なにもせずにぼおっと座っていたら
ぬしもとぜんか 
かばねやみでもしたか
という

家で宿題にとりかかっている途中
机でねむりこけていると
父親が
ぼう、きどころねしているのか
かばねほしになってしまうぞ
という

そのころは声だけ
ことばの響きがとびかっていた

東京で働くようになって
水路があれば覗きこんでしまう
魚をみつけることはない
橋の上で
ぼおっとしていても
とぜんか
かばねやみでもしたか
ときいてくる人はいない

とぜんか
かばねやみでもしたかと

 

 

 

吊り革には手が届かない

 

白鳥 信也

 
 

吊り革に手を伸ばすけれども届かない
次々と乗り込む人に押され息が苦しい
必死に吊り革にとりすがった黒いダウンの男が私の吐いた息を吸っている
身体が押し付けられ苦しい苦しいから息を大きく吸う大きく肺のそこまで
ひどく混みあった中で息が行き来し
それぞれの気管と肺をめぐっている
ここにいるのに ここにいたくない
なにかがはじけそうだ
吊り革につかまりたい
吊り革に手を伸ばすけれど届かない

褐色の金属のドアを開けてただいまと言う
人の気配はするが何の声もかえってこない
しずかにコートを脱いでハンガーにかける
髪の毛と顔についているだろう花粉を払う
それから着替をする
吊り革をさがしたい
はじけそうな言葉を投げ出すこともなく飲みこむ
気管も肺も飲みこんだ言葉がひしめきあっている
静かにカーテンが閉められる
ガスの火が弱火で燃えている
手を伸ばそうとする気持ちが
ちろちろと炙られて
音もなく燃え始める

私の吐いた息はそっとどけられる
息に花粉でもついているみたいに
食卓の上ではいくつかの腕が動く
降れることもひしめきあうことも
気管や肺を行き来したりもしない
ここにいるのに ここにいない
この場所に吊り革があればいい
天井からいっぽんの垂れ下がり
どんなに揺れようと震えようと
つかんでつかまれてまじりあう
自分の心臓の音が聞こえるくらい静かな時間が
そっとどけられた息を折りたたみはじめるから
吊り革には手が届かない
吊り革には手が届かない

 

 

 

航海

 

白鳥 信也

 

 

青空のなか
へんぽんと大きな船が浮かんでいる
ゆったりと
舳先をたてて 遥か遠くをめざして進んでいく

僕もこの船に乗って旅してみたい
そう思ったら
矢も楯もたまらない
空を行く船を追いかけて
ずっと追いかけて
生きてきた
視界のなかに船がなくとも
手の届かない空を
ゆったりと航行している船がいる
と思うだけで胸がいっぱいになった

空を見上げるたびに
今日はいるだろうかと
心をときめかせ
青空の海のなか
白い雲の波をけたてて
大きな帆をふくらませた船は
どこもかしこも優美な曲線で包まれていて
そのふくらみは僕の心をざわざわさせた

あそこだ
何度指をさしても
父も母も船をみつけることはなかった
願望がつくりあげた蜃気楼だとか
飛蚊症の一種だとか
両親に連れて行かれた医者には言われ
毎朝目薬をたらされた

あんなものはいない
一人また一人と
見えるはずの船の存在を打ち消すたびに
船は心なしかふらふらして見える
哀しいというのはこのことだと思ってから
長い間 船を見つけられず
空を見上げることも少なくなった

やっぱりそんなものはいなかったのだ
きっぱりと心に決めた日
西の空を見上げたら
船がいて
燃えている
炎が噴き出て空を焦がしている
船体の上になびく帆が赤々と燃え上がっている
船は怒っているようにも
哀しみを噴き出しているようにも見えた
そのまま船は夕焼けの空に消えていった

船は今も燃えているのだろうか
風を受けて炎をなびかせ
この世界のどこかで
どんな窓からも空を見上げては
船を探している

 

 

 

みずひ

 

白鳥 信也

 

 

電車の窓から見える月が
水のように青白い
隣の席のサラリーマンたちが
同僚のふるまいをあざ笑っているのを聞いたら
えいやっと
帰宅する途中の駅のホーム
走ってきた逆方向の電車に乗りこみ
降りたことのない駅の出口でカードをかざす
起案書類ふたつ分かみしめた下唇が痛い
知らない駅前広場から道路を縫うように歩き続ける
灯りのまばらな住宅街を歩いて
人気のない堀割を横目に
真っ暗な児童公園に入る
誰もいない夜の隅にあった鉄棒
鉄棒の棒をさわってみると
ひんやりする

掘割を眺めたら暗い水が燃えている
近寄ってみると
水面が炎となってうねり燃え上がっている
周囲の木々も草々も
静々と黒々して
夜にどこまでも溶けようとしているのに
石垣に切り取られた水面だけが
小さな波を打ちながら炎上している
音がないのに音をたてて燃えている
炎のウロコが水面を揺らしちりばめられてゆく
みずひ
というコトバが口蓋の奥からこぼれる
するとマッチの火みたく月光が発火する
月光が水の皮を燃やし水が踊る
水のウロコが燃えさかる
水と夜の大気のあわせめ
揺れて輝いてめらめらと燃える
見上げれば
黒々した中空にはりついたままの月は
三日月をそいだかたちして
月光の炎を水面にはなったから
残り香のような青白いぎこちなさを
空に浮かばせている
いま
ここで

いま、ここが
水面では
音がないのに音をたてて燃え
よどんだ暗い水が変貌する
みずひの夜
月の炎が水面をとおして私に流れこんでくる
夜の隅に立ったままの私が燃える
下唇からはがれようとしない書類が燃える
今日の私のふるまいが燃える

あの鉄棒も
こんな夜はもうひんやりなどしていられないだろう

 

 

 

いちめんの

 

白鳥信也

 

いちめんのためいき
いちめんのためいき
いちめんのためいき
いちめんのためいき
いちめんのためいき
いちめんのためいき
いちめんのためいき
きこえてくるどせい
いちめんのためいき

赤や黄色や黒のいりまじった命令が
川を越えて渡ってくる

柵を用意していなかったので
命令にのしかかられてへどもどする

川の匂いのする命令は背骨を貫通し
身体じゅうのさきっぽにしみてゆく

電話をかける手になってしまう
汗のにじむ指先に

くりかえしおうむ返しする口になってしまう
泡になった唾で濡れた舌先に

濡れた何かになってしまうことは
いつもいつだって気持ちよい

いつもいつだって濡れた何かと命令のはざまに
肺腑をこそぐ風が湧く

赤や黄色や黒が渇いた絵具みたくぺりぺりとめくれあがり
指先も舌先も渇いていく

口を開いて渇いた舌を垂らしてはあはあしながら
身体は前かがみの倒れそうな姿勢になるから

ささえきれないいきが
はきだされひろがって

いちめんの
いちめんのためいきに

 

 

 

生きる水

 

白鳥信也

 

 

背丈よりも高い草が山道をふさいでいる
かきわけて進む
山陰に入り草が途切れてようやく視界を確保
もう六月の半ば
若々しい緑は濃い色に変わっている
イタドリも山ウドも太い茎に
樹木に変身しようとしている
陽当たりのよい斜面に生えている太いワラビは
どれも折り取られて傷口は黒く変色しているから
この山道に人が来たのはずいぶん前だ
水の音がする
そろそろ滝が見えるはず
数十メートルの垂直な断崖を大量の水が落下する
この山道から遠望するだけだが
水滴をふくんだ風を感じる
あたり一帯 山また山
車道から全く見えないので
滝を見ようとするとこの山道しかない
去年の春もこの山道から滝を見た
五月の終わり、雪がまだ残っていた
明るい緑に包まれ
勢いよく雪解け水がザアザアと滝を落下している
静かな春の山のなかで荒々しい水音だけが響いている
滝を眺めつづけた帰りに
ホトトギスのさえずりが聞こえたから
山道をはずれて木々のあいだをわけいる
三本の漆の木が目印だ
道はないから草を踏みしめ
奥へ
奥へ
クサソテツの若芽が群生して
明るく開けた場所にふっと出た
ホトトギスの声がやんだ
まんなかの窪地に池がある
底まで澄みきった透明な水が満ちている
その水の中を
真っ黒い魚が悠然と泳いでいる
金魚のようなひれ
鮒と金魚のあいだで宙づりされたみたい
透明な水の底にはサンショウウオが数匹動いている
ゼリー状に包まれたカエルの卵のようなものも
絡まるホースになって池のなかを揺らいでいる
池の周囲のシダ類 クサソテツも揺れている
ゼンマイの綿毛も
人はきたことがないようで魚もサンショウウオもゆったりしている

しばらく見つめつづける
帰ってもなお
私のなかを落下する水
私のなかに静かに横たわる水
揺れているもの

今年も行こうと
生い茂る草
道そのものが薄れ
滝は成長した木の枝葉でさえぎられ
一部しか見えない
落下のかけら
池の入り口をさがす
三本の漆の木がない
何度道を上り下りしても
もう

 

 

 

ため息をついてみる

 

白鳥信也

 

 

あごを引いて視線を床に落とし
まず ため息をついてみる
肺の輪郭をけずるように息をゆっくりと吐き出す
それからため息に釣り合うものはないか
探してみる

便器を前にチャックを開けて
おもむろにペニスを引き出してみる
それから小便が湧いてこないものか
体内の様子をうかがってみる

ポケットの中の小銭をつかんで
てのひらに並べてみる
一枚残らず
それから小銭の額に見合う商品はないものか
コンビニの陳列棚を探してみる

切符売り場で
脳裏に浮かんだ
サガエまでオトナヒトリ
とつぶやいてみる
それから財布を取り出そうとポケットに手を差し入れる
行ったこともないサガエがどういうところなのか
そこに行ってどういう暮らしをしてみようか
考えてみる

道端のアジサイが咲きそうだ

 

 

 

引き出しを開ける

 

白鳥信也

 

 

引き出しを開ける
ファイルをかたまりごと机にあげる
たしかにここに入れていたはずだけど見つからない
ここでもない次のでもないその次にも別の引き出しを開けるファイルを出してパラパラとめくり探すタイトルを黙って読み上げる見慣れたタイトルが次々ととびこんでくるこれでもないそっちでもないたしかに言葉を精査して作成したはずだ抽象化したうえにいくつか意味を包含させた記憶がある引き出しの奥にはさまっていないかガサガサ音をたてて探すここでもない引き出しの下にも落ちていない周囲の人間がなにをしているんだという視線を放っている気がする身体がカッカしてくる集中しなくてはだけどみつからない別の引き出しにもないどこにはさんだのか思い出せないこんなときはラクダだゆっくりと安全に進むに限る書類戸棚だろうか割り当てられた棚の扉を開けてファイルを引き出してめくり探すここじゃないここにあるのは昨年度のものだここにあるはずがないロッカーだろうかいやあそこにあるのは分野が違うほんとうに書類を作ったのだろうかあやふやになってくるラクダのようにいななきたい存在しない書類を探しているんだろうかそんなはずはないそれとも夢だったのだろうか自分を信じられる信じられない書類はあるないほそくうすいすきまを記憶がはばたいて遠のいてゆくあらかじめうしなわれた書類をさがしているのか書類が僕をふりきってコーナーを曲がって姿を消す消える場所はアラビア半島だ汗が流れる喉が渇くここは砂漠だ手の中から砂のように書類がこぼれ落ちてゆく暑い汗がぽたぽた流れ落ちファイルの山ファイルからこぼれた書類がひろがってゆくここは砂丘の底だ熱い喉が渇く砂丘の脇の茶碗を手に取るとお茶はすでに消失している茶碗の底には逃げ水の跡がくっきり書類も逃げたのだ喉が無性に乾くとぎれとぎれの記憶の書類を探している蜃気楼のように書類の幻影がみえては逃げてゆく砂の山のなかから紙らしきものが急いで砂を掘り手にすると書きつけらしきものがあるけれどもどこか知らない国の象形文字のようなものが踊っているあたりはざらざらと砂粒がまいあがり熱風がふきつける遠くで砂塵がうねりながらこちらに向かっている砂嵐の予感がみちている