幽霊たち

 

サトミ セキ

 
 

六月の東北の朝、湯治場の浴槽の中でわたしの腕に皺が寄り光が溜まっているのを見る。痩せた腕も濡れて光が溜まれば鈍く輝く。

殺風景な食堂で、ひとりきりで五穀粥を掬う。湯気のたつ粥をスプーンで口に入れたとき、二十三年前にお見合いをして三回だけ会った男を思い出した。
「コーヒーは飲まないけれど、ブレンド豆の比率は一口飲めばわかるんだ」
と三回目に会った彼は、そのときトヨタレンタカーを運転していた。真白い前歯に午後の日差しがきらりと反射した。わたしもが機嫌が良くなって鼻歌が思わず出てくる、運転がとても上手で雲ひとつない快晴だったから。
「ときどき、幽霊を見るんです、布団に寝転んでいるときとか天井に。将校の軍服を来て革手袋を嵌めている幽霊なんかを」

そういう彼自身が、まっさらな革手袋を嵌めてトヨタレンタカーを運転しているのであった。海の見える低い丘の上、小洒落たフレンチレストランの前に滑らかに車を停め、扉をあけて慣れない口調で予約を告げた。
「来年も『ライオンキング』をやっているそうです。あなたと見られたらいいな」
視線を泳がせ、ワイングラスを持ったまま、彼は横を向いて早口で言った。劇団四季は嫌いなんです、という言葉をフランスワインと一緒に飲み込んで、にっこりとわたしは微笑んだ。ああこのひとはいいひと、わたしと違う種類の。

その晩、夢の中に女が出現した。紫のつるっとしたドレスを着て水晶のブレスレッドを幾重にも巻いた女。三白眼の意地悪そうな瞳をさらに細め、覗き込むようにしてわたしに言った。
「あんたには合わないね、とってもいい人なんだけど、あんた、そのひとを必ず不幸にするよ、あんたは一生ひとりがいい」
(そうですよね 一緒に寝ながら 毎晩幽霊見てもいやですし)
わたしにはもったいないひとですのでご辞退申し上げます。仲人に断りの電話を入れたのは翌日だった。郷里の両親が会いに来る準備をしていたさなかになぜ、と嘆いたと人づてに聞いた。わたしより二センチほど背の低い、前歯の白いひとだった。わたしはあれきりお見合いはやめた。

二十年後のわたしが病を宣告された晩、あのひとは「大丈夫だよ」と目に涙をたたえて手を握ったりしただろうか、抗がん剤を打って、枕元の洗面器に吐き続けるわたしの背中をさすりながら、((見合い運が悪かったな))とひそかに思い、((いやいや、そんなことを思ってはいけない、いけないぞ俺は))と浮かぶそばから打ち消したりしただろうか。

(あのひとはいま、一戸建てのマイホームでコーヒーを一口すすっている。小太り妻が入れるコーヒーは今朝もうまい。ああ、肌がぴかぴかした健康妻のコーヒーを、わたしも飲みたい。
((今日はブラジル三、キリマン七だね)) 前歯の白かったひとは、たちのぼる香りを嗅ぎ、一口飲んで言っているのが聞こえる。あ、ほんのすこし歯も黄ばんできたかな。コーヒーも飲めるようになったのね。浪人中の息子は、今日も一言もしゃべらずかばんを抱えて出て行く、あのひとが三十年ローンを組んだ新興住宅地の家から。)

東北の湯治場で、コーヒーメーカーから出る蒸気の粒と、たちこめる硫黄の粒子に撹乱されて、わたしと小太り妻の粒子もまじりあう。わたしが薄い一杯のコーヒーを飲み終わるまで。
胃のなかで、コーヒーが五穀粥とうまくまじりあったら、あのひとと小太り妻の姿が消えてゆく。わたしも硫黄の蒸気のなかでゆらゆらしている脳細胞の消去ボタンを押す、これっきりのはずだった。

でもね、やっぱり幽霊を見るんです。湯治場から東京に戻ってきてもね、一人暮らしの小さな部屋の中で。軍服の将校じゃなく、三十年ローンの新興住宅地で、毎日静かに朝日をあびてごはんを食べる白い前歯の幽霊を。小太りでおいしいコーヒーを入れているもうひとりのわたしの幽霊を。

 

 

 

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