訪問者

 

みわ はるか

 
 

ピンポーンと夜の19時頃だっただろうか。
わたしの住むアパートのインターホンが鳴った。
アパートに住んでいると特段約束でもした友人でない限り訪問者なんてこない。
何かの勧誘か、NHKの受信料の請求か(いや、それはもう既にきちんと払っている)、いったい誰だろう。
おそるおそる家の中のホームカメラを覗いてみた。
そこには20代前半と思われる男女のややこわばったような緊張した顔が見えた。
2人とも小柄で男の人は中肉中背、短髪、いかにも好青年といった感じ。
女の人の方は色白で目がくりっとしていて黒髪のロングヘアーだった。
手には何か袋を大事そうに握り締めていた。
玄関の電気をつけ扉を開けた。
そこには当たり前だけれどさっきインターホン越しのカメラで見た若い2人が立っていた。
緊張した顔は変わることなく、
「昨日からここの上に引っ越してきた者です。他県から来たのでご迷惑をかけるかもしれませんがどうぞよろしくお願いします。」
と息つく暇もなく男の人は言い切った。
隣にいた女の人はぐいっと袋をわたしに差し出し、
「あの、これ、全然たいしたものではないんですけど使ってください。」
ものすごくこちらも早口でしゃべりきった。
2人は不安そうに見えた。
この辺にきっと知り合いもいないんだろう。
でもどこか覚悟を決めてここに来た2人はとてもかっこよく見えた。
聞きはしなかったけれどおそらく新婚さんなんだろうなとにぶいわたしでもさすがに気づいた。
わたしはにこっと笑って、わざとじゃなくてこれは本当に本心でそう言ったのだけれど
「わたしはここに8年程住んでいます。地元もこの近くです。分からないことがあったら何でも聞いてください。
こんな風にきちんとあいさつに来てくれる人は初めてです。ありがとうございます。うれしいです。」
その時初めて2人はお互い目を合わせほっとした笑顔になった。
さわやかで、清らかで、美しかった。
このアパートには他にも何部屋かある。
どんな人が住んでるか知らない人も多い。
せっかくあいさつに行っても適当にあしらわれてしまった場面もあったかもしれない。
あぁ、どうかこの町を好きになってくれますように。
きらきらとした楽しい毎日になりますように。
わたしはお姉さんのような気持ちになった。
2人は深くお辞儀をして自分たちの部屋に帰っていった。
その後姿はいつまでも見ていたくなるような羨ましい背中だった。
地に足を一生懸命つけて歩こうとしている歩調だった。

袋の中身は洗濯用洗剤だった。
わたしは非常に好感をもった。
実用的なものは大変嬉しい。
こんなこと言ったらおばさんだと言われるかもしれないけれど嬉しいものは嬉しいのだから仕方ない。
少しルンルンな気分になって洗面台の下のストックボックスにしまった。
今使っている洗剤がなくなってこのストックボックスの扉を開けた時、きっとまた彼らのことをわたしは思い出すだろう。
今はきっと何者でもないであろう彼らはそのころには随分大人になっているんだろうなと思う。
あいさつ程度の付き合いになることは目に見えているけれど、上の階の人達がいい人でよかったなと心が温かくなった。

賃貸住宅が立ち並ぶこの町は外から来る人が圧倒的に多くよそ者の集まりだ。
単身赴任の人、若夫婦、転勤でしばらくの間だけ家族で間借りしている人、学生。
みんなライフステージが進むにつれどんどんこの町を出ていく。
住民の入れ替わりは激しい。
それはたまたまタイミングよく見かける引っ越し業者の車や、駐車場に停めてある車がいつのまにか違っていたりすることから察しが付く。
ほとんどの人は、一時の仮住まいとして利用しているようだ。
そうであるから同じ棟であっても知らない人はたくさんいるし、昔からこの地に住んでいる人たちとの交流も皆無だ。
気楽でいいなと感じることの方が正直多いけれど、なんだか物足りなくつまらないなと思う時もある。
それはなんとなく蝉がミンミン、ギンギンこれでもかと鳴いていた昼間とはうって変わり、
淡いオレンジ色の夕暮れが空一面に広がるなんだか切ない感じと似ている。
人との距離感は難しい。
みんなそれぞれ色んな価値観を持っている。
できあがった組織に入っていくことや、他人と一緒に何かをしようとすることは煩わしいことかもしれない。
それでもやっぱり1人は寂しいな、誰かとつながっていたいなとふと思ったスーパーからの帰り道。
今日は鶏肉が安かったのでたくさん買いすぎてエコバックはいつもより重かった。
その時、空のずーっと奥の方からぽつりぽつりと夏の夕立がやってきた。
わたしは駆け足で家路へ急いだ。

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です