診察室

 

村岡由梨

 
 

これは夢なのか、現実なのか。
わからないまま、ぼんやりとした不安の中で生きている。

ここ数年、私は警察に追われている。
私が、自宅の近くに住む資産家の高齢女性を殺して、
広い庭の片隅に遺体を埋めたというのだ。
まだある。
私が、面識のない小学校3年生の男の子を殺して、
学校の近くの遊歩道に穴を掘って遺体を埋めたのだという。

警察に捕まっても、「私は殺していません」とは言えないだろう。
なぜなら、私自身、確かに彼らを殺したような気がするからだ。

毎週水曜日、15:30発の小田急線小田原行きに乗る。

入ってすぐ右の優先席に、
胸の大きさを強調したミニスカートの女が座っていた。
脚は虫食いだらけ、下品な女だった。
私は、この女を乱暴に犯すことを想像した。
私の股間から鋭利なナイフが生えてきて、
女の陰部は血だらけになった。
絶頂に達した瞬間、女は不要な単なるモノになり、
エクスタシーと嫌悪と憎悪のグチャグチャの中で私は
醜く歪んだ女の顔を、原型をとどめないくらい何度も殴った。

空いている座席に座ると、斜め右に
タピオカをすすっている若い女がいた。
タピオカをすすりながら、片手で携帯電話をいじっている。
その女は、出っ歯で口がきちんと閉まらないようで、
前歯の隙間からタピオカが見え隠れしていた。
クチャクチャ クチャクチャ
私は耳を塞いで悲鳴をあげた。
そして女の顔をズタズタに切り裂いて、自分の耳を引きちぎった。

女が憎い。
けれど、私も女なのだ。
母親なのだ。
女の顔を何度も殴った時、2人の娘の顔が浮かんだ。
女の顔をズタズタに切り裂いた時、2人の娘の顔が浮かんだ。
この世で一番清潔な存在。傷つけたくない存在。
「人の痛みがわかる人間になりなさい」
そう言って、2人を育ててきた。
胸の大きい女にも、タピオカの女にも、
きっと母親がいるだろう。
女が憎い。
それでも娘たちを傷つけたくない。絶対に傷つけたくない。
そんな思いで、私は真っ二つに切り裂かれる。混乱する。

毎週水曜日16:30から診察が始まる。

先生とはもう10年以上の付き合いになる。
60代男性、中肉中背、
温和な顔にメガネをかけていて、
歩く姿勢がとても良い。
人間味溢れる、とても優しい先生だ。

「一週間、どうだったかな」
と、まず先生が聞いて、話が始まる。
家族のこと、義両親の介護のこと、
作品制作のこと、仕事のことなど
時には泣きながら、とりとめのない話をする。
「ここには善も悪もないから」と先生が言い、
殺す、殺される、死ぬ、死なせるなどの
不穏な言葉が診察室を飛び交う。

「これ以上怒りや憎しみに支配されたくない」
「結局は私が消えればいいんだと思う」と私が言い、
先生にたしなめられるのが、いつものパターンだ。
先生には何でも話すし、
先生も私に関して大抵のことは知っている。
私は、先生が好きだ。

カウンセリングの終了時間間際になると、
私は急激に不安定になる。
ドア一枚を隔てた外の世界はこわいことでいっぱいだから。
「○○がこわい人をいっぱい連れて復讐しに来るかもしれない」
と怖がる私を、先生はいつも「大丈夫」と言って背中を押してくれる。

診察室を出て間も無く名前を呼ばれて、
受付の女から、処方箋と領収書を渡される。
「3850円です」
一番苦しい瞬間だ。
当たり前だけれど、お金の問題なんだ。
医者と患者の関係なんだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
結局、先生や受付の女は「あっち側」の人間で、
私は「こっち側」の人間なのか、と
否応無しに思い知らされる。

そう言えば、先生は私のことをよく知っているけれど、
私は先生のことを、ほとんど知らない。
どんな食べ物が好きなのか。
何色が好きなのか。
動物は好きか。
どんな音楽を聴くのか。

良くない家庭環境で育って、精神を病んで
なんてありきたりなストーリー
私は大丈夫。
大した問題じゃない。
絶対に大丈夫。
そう自分に言い聞かせて
偽善者の皮を被って、
自分を必死に取り繕って生きてきたけれど、
マトモな人のふりをするのは
もう、無理かもしれない。

死刑判決を受けて、
独居房にいる孤独なあなたを今すぐ連れ出して
狂おしいほど交わりたい。一つになりたい。
そして、あなたが他の人にしたように、
私をメッタ刺しにして、殺して欲しい。

この詩は、午前2時過ぎにあなたとわたし宛てに書いた
歪なラブソングだ。

 

 

 

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