千年演劇

 

工藤冬里

 
 

音楽が演劇の一部であることによって欠損を生きるのであれば
写真は死の一片であることによって充足を希求する
詩にはそうした充填がない
言語は神の一部であったが二重の意味で疎外されているからだ
ひとつはバベルであり
あ、サクラが散りはじめた
もうひとつは千年演劇に関わる言語をduolingoでは習得出来ないということなのだ
詩人は城外で犬と共に泣いたり歯ぎしりしたりするしかない
いまはそれを過度的に詩と呼んでいるだけだ
元気でなければ詩は歌えない
ところがいまは元気ではないことの領域でしか書き言葉は息をしていないのだ
それは充足の欲望とも違う
希望はないからだ
コミュニケーションの運動のみをあげつらうのは道教的現象学的経絡的であって命を賭けるに値しない
それに決着をつけるためにきみは若い頃
余はかかる思想に拠りては未だ行動すること能わず、とか言ってさんざん格闘したはずだ
それにしちゃガラ刑をライフワークとか帯つけて売ってるわね
あ、ホンダのn/が通った
ひかりは溢れているが
アルシーヴの密室で感染することが優先されるいま
サクラは黒い

今朝
怖れに満たされて女は走った
マルコのアルシーヴはそう結ばれている
そこにはスピードだけがある
サイケデリック・スピード・フリークはそこを目指した
なんだかんだ言ってその話かよ
だからコロナでこうなろうって話しでもないんだよね
えーっ、ギトギト水田商店自主休業かよ
演劇は美術と一緒でなんだかんだ助成もらって演劇とは何かみたいなところに突き進んでるけど、そもそも実験演劇って必要なのかな、とおれは思うわけ
雅歌劇鼎談風ね
音楽だと実験音楽というジャンルがあって
FBで日本のそういうの避けてるわよねあなた
でも演劇の一部という意味で言うと、実際は実験音楽じゃなくて音楽実験、つまり音楽を使った水爆実験みたいなものしかやる意味がないんじゃないかな、というところがあるんだけど、
演劇は初めから包括的なものだから、これは実験演劇じゃなくて演劇実験です、というずるい言い方は成立しないんだよね
いくら参加型にしたってそれは越えられない
美術は越えようとしてるけどね
でもそれはもはや美術じゃなくてただの運動で、金が動いているからに過ぎない
音楽の側から言わせてもらうと、音楽は演劇の一部とか謙遜に言ってあげてるわけなんだから、演劇には、なんか、こう、デーンと構えてて欲しいわけよ(笑)
でもじゃあ演劇は永遠かというとそうでもない
ローマのコロシアムでライオンに殺される側はじぶんたちを規定して、世に対して劇場の見世物であれ、と書いているんだけど、ミレニアムに於いては世そのものがなくなっていて、逆に彼らこそが復活してくる死者を迎える世そのものの側になってるわけだから、そこにはもはや演劇は存在しないはずなんだ
人類史に通底する大きな物語というレンズを通した光が焦点を結ぶまでが演劇で、彼らを含むたくさんの出し物が来るべきものの予表として置かれたわけだけど、彼らは演芸場で言えばトリで、それ以降は逆ではあるけれども暗室に映しだされる実体としての世界しかないんだ
演劇が存在しないってことはその一部ですとか言ってた音楽も存在しなくなるんだろうか
劇というものは二千年前からもう上演されなくなっていて、真の演劇というその意味のなさの殻のなかで音楽は宿を借りて住んでいたということになる
3月分の図書館の給料7千円だった
4月はゼロ
野菜売ってないので庭の蕗と野蒜食べてる
いまは骨壺作ってる
それに今まで撮った画像データ全部に「アルシーヴ」という曲を被せたUSB(まあ、映画ですね)を入れてバンキャンで売る
前にも「休日出勤」という曲と「worth to see」という写真集の入ったマイクロsdを専用の白磁の蓋物を作って売ったら久万美とかで変にウケたことがあって、それを思い出してやってみている
それで終わりにしたい

 

 

 
#poetry #rock musician

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