村岡由梨
透析を終えた全盲のおじいさんの隣に座って、目を閉じてみる。
世界は真っ暗闇になった。
暗闇に沈んで、世界が揺れているのを知る。
その振動に、少し酔う。
暗闇の中、私は光を探した。
光を。
ある晴れた日、
下北沢のモバイルショップの順番待ちで
些か居心地が悪くなった私は、
スマホで空を撮っていた。
雲の隙間に瞬く光の美しさを、覚えておきたかった。
楽しそうに行き交う人たちの中にいて、
私は孤独で
どこまで行っても孤独で
無意味な存在だった。
ぼんやり自分の両手を見つめても
透明で、何も見えなかった。
1.「水色のアイシャドウの女」(錯綜する時間の中で)
あの日、意識を失った私が目を覚まし、光を感じたのは
病室のベッドの上だった。
自分の部屋に積み重なった
白い箱と黒い箱の一部が消えて
残りが宙に浮き、
「現実」が足元から瓦解した恐怖に耐えられず、
私は、大量服薬したのだった。
運び込まれた病院で、一人の看護師に出会った。
むせ返るように化粧が濃く、異様に体の小さい女だった。
車椅子に乗せられ、手足の自由がきかない私に、
女は分厚い本を渡し、それを読むように、と言った。
私はそれを読み、女にその内容を話そうとした。
すると、女は言った。
「そんな本、無いわよ」
そんなことあるはずがない。
たった今、あなたが私に渡した本だ。
喉がしまるような感じがして声が出ない。
「違う」「違う」と喉を振り絞って声を出そうとする私を見て、
女は必死に笑いを堪えて
「しっかりしてくださいよぉ」
と嘲った。
次に女は、私に紙を渡し、何か字を書くように、と言った。
私はそれに応じた。
けれど、次の瞬間、書いたはずの文字が、
糸がほどけるように消えてしまった。
私はそれを女に訴えた。
女は言った。
「どこに紙なんかあるのよ」
確かに紙は無くなっていて、
私は泣きながら「違う」「違う」と訴えた。
私は車椅子から崩れ落ち、必死でその部屋から逃げようと地面を這った。
しかし、その女は先回りをし、
出口に立ちふさがり、
苛立ちと嘲笑を含んだ声でこう言った。
「ねえ、いい加減にしてくださいよぉ」
ねえ、どこに野々歩さんなんているのよ。
どこに眠ちゃんなんているのよ。
どこに花ちゃんなんているのよ。
みんな、本当は、いないのよ。
あなたも、本当はいないのよ。
野々歩さん、白黒の部屋のドアを開けないで。
不吉な鳴き声をあげて、
足元の金網に細い足を絡め、
グロテスクに体をねじって死んでしまった、私の小鳥。
グロテスクに体をねじり、奇妙に歩行する眠。
カッターで真一文字に目を切り裂かれて、悲鳴をあげる花。
あんなに慈しんできたものたちに、戦慄する私。
自分のドッペルゲンガーを見た者は死ぬ、と言う。
私が再び私と遭遇した時、私は死ぬのだと思う。
2.「診察室」(2009年2月)
まだ3歳だった眠の手を引いた私と、
まだ幼い花を抱っこひもで抱いた野々歩さんが
診察室に初めて入ったのは、
2009年2月のことだった。
先生は言った。
「あなたたち家族の『これから』の青写真を頭に思い描いてください。
それに近付けるよう、これから色々と始めて行かなければならないんです。」
先生にそう言われて、私は、未来の私たちの家族写真を想像した。
そこには、美しく成長した眠と花がいて、
中年になっても相変わらずな野々歩さんがいた。
でも、そこに私の姿が無かった。
「私だけいない。透明で、何も見えません。」
激しく泣く私を、小さな眠が心配そうに見上げて言った。
「ママ、だいじょうぶ?」
腰から下が、崩れ落ちるような恋愛をして愛し合って
娘の眠を身ごもった。
壊れかけの小さな冷蔵庫。
小さなテーブル。
不揃いの食器。
ままごとのような生活。
そして、次女の花も生まれて、
私たちは「家族」になった。
時折、美しい夢を見る。
娘たちが、黄緑色の精液の草原で寝転びながら、
透明な私の膣から伸びる白黒の臍帯で
あやとりをして遊んでいる夢。
時折、幸せな夢を見る。
小さな娘たちが、
「コンブにする?おつけものにする?」なんて言いながら、
パパのために大きなおにぎりをこしらえている夢。
時折、怖い夢に追いかけられる。
ゆりはどこだ!ころしてやる!
おとうさんが、わたしをさがしてる。
わたしは、いきをひそめて、かくれてる。
みんなが、わたしをわるいにんげんだっておこってる。
おまえはわるいにんげんだ。
おまえはうそつきにんげんだ。
おまえは おまえは おまえは
おまえは、だれだ?
お前は、誰だ?
私は、誰だ?
私は誰。
わたしは わたしは わたしは
わたしは
「ママがそんなに苦しくて死んじゃいたいなら、死んじゃってもいいんだよ。
すごく悲しいけど、ママの人生はママのものだから。」
まだ幼かった娘が、優しく諭すように言ってくれたことがあった。
こんなことを言わせてしまった自分が情けなくて許せなくて涙が溢れた。
私には、辛くなったり悲しくなったりする資格なんか、ない。けれど
泣いている私を抱きしめて、あなたは言う。
「大丈夫。大丈夫だよ。」
全盲のおじいさんの隣に座って、目を閉じた私。
世界は真っ暗闇になった。
この次、目を開ける時、世界はどんな風に変わっているだろう。
今度は私が、泣いているあなたを抱きしめる。
抱きしめて、背中をさすって、そして言う。
大丈夫。きっと大丈夫だよ、と。