口紅

 

みわ はるか

 
 

三十歳を目前に、わたしは口紅を一つゴミ箱に捨てた。誰もが知るブランドメーカーのもので少し幼さが残る淡いピンク色。まだ半分以上使える状態で残っていた。それは大学時代の友人が三年前のわたしの誕生日に贈ってくれたもの。その友人は律儀で毎年プレゼントを渡してくれる。尋ねたことはないけれどそれはなぜか必ず有名化粧品メーカーの口紅だった。まだ開けていない封の上から覗くと一年ごとに異なる色のようだ。毎日使っていてももったいなくて中々消費できずにいた。もう三本程の頂き物のそれが化粧ポーチの中を陣取っている。ただ、たくさんあったから処分しようと思ったのではない。数ヵ月前から頭の中でぐるぐると考えていた結果、自分に対するけじめとして捨てたのだ。

小学生時代、教室には木でできた机と椅子がきれいに同じ間隔で人数分並べられていた。
特に入学したての小学一年生の時には机にも椅子にも自分の名前が平仮名で大きく書かれていた。自分の存在するべき場所がきちんと用意されていた。当然のようにそこに座り、何回かの席替えを経験してもその場所がなくなることはなかった。みんな当たり前のようにそれを使っていたし、座高が合わなくなったりねじが壊れてしまった時には先生にその窮状を訴えれば無条件で交換してくれた。それは中学生の時もほぼ同じで相変わらず自分のポジションが必ず教室の中にはあって、それが普通だと思い込んでいた。教室という組織の中で自分が存在する小さな小さな城に毎日君臨していたのだ。それは音楽室や美術室、家庭科室等といった移動教室でも同じだった。大きな机に椅子がそれぞれ四脚ずつだっただろうか、班ごとに座る。なんとなく一人一人の定位置ができていて、インフルエンザのように長期間休む人が出ても必ず同じ位置が空席になっていた。体育の授業でも似たような感覚になる。机や椅子という物理的なものはないにせよ、背の順、あいうえお順、男女別々の順、その時々によって体操座りしたり前ならえの格好をしたり。そこには規則正しい配列があって自分の整列する位置があった。それは運動場だろうが体育館だろうがプールサイドだろうが同じことが言えた。十五歳までの学生生活には無条件にわたしを迎い入れてくれるる器がそこにはあった。そういう安心感みたいな感情があったのと同時に、どこか窮屈なそこにいなければいけないという切迫感のようなものも感じていたような気がする。

少し状況が変わったのは高校生になったころだ。わたしの入学した高校は同じ学区内では校風が最も自由と言われていた所だった。当時としては珍しく授業以外での携帯電話の使用は自由に認められていたし、冬に着るカーディガンの色も特段指定はなかった。教室の席は決まっていたものの、能力別で割り振られた特別授業や土曜日に希望者だけが受講するセミナーはどこに座っても何も言われなかった。その瞬間、私の中で初めての感情が生まれた。後ろから見られる目線が気になるなら一番後ろに座ればいい、眼鏡を忘れた日には前列中央を選べばいい、暑い夏は涼しい風が心地よく入ってくる窓際にしよう。どこに座ったって何も言われない、干渉されない。それがとても心地よかった。

大学生になるとそれはますます加速した。
まず個人の席という概念がない。一年生の時には全学部共通科目があり大きな講堂で何十人、授業によっては何百人という規模で講義があった。遅刻してこっそり空いている席に座っても、こっくり居眠りしていても、なんとなくさぼってしまっても誰も何も言わなかった。学年が進んで専門科目が始まった。さすがに人数は少人数制になりはしたがそこでも自分の席というものは存在しなかった。卒業という目的を達成するには授業に出て単位を取る必要はあったが、そこに出席するかしないかは自分自身に託された。単位が取れたなと確信したつまらない授業には顔を出さなくなった。その分、芝生の上でぼーっとしたり目的もなく街をさまよったりする時間に当てていた。当時その特定な場所がないということをこの上なく素晴らしいものだとわたしは疑いもしていなかったと思う。

そしてわたしは晴れて社会人となった。自分のデスクこそあったがぼーっとしていたらあっという間になくなるような幻のデスクだった。自分から学ぶ姿勢をもって能動的にならなければなかった。あっという間に後輩が入ってきてせかされた。毎日毎日一生懸命走り続けた。朝職場に行って自分の席があることに心からほっとした。消えてなくなっているのではないかとたびたび冷や汗をぬぐった。右も左も分からない入職したてのころの方がよかったとさえ感じてしまう時が増えた。平気で八段の跳び箱を跳んでいた怖いもの知らずの昔の自分のように。そんな時わたしの姿をたたえ褒めてくれた上司がいた、わたしを見ていると自分も頑張ろうと思うよと伝えてくれた同期がいた、先輩がいてくれて心強いですとこっそり教えてくれた後輩がいた。何物でもない何かに怯えていた自分が急に馬鹿馬鹿しくなった。居場所は真摯に物事に向き合っていればきちんと用意されるものなんだろうなと。どうもがいても上手くいかなくて幻の机が消えてしまってもそれはそれでいいじゃないか、その時またそこから可能性を掘り出していけばいいじゃないかと。

気持ちよく朝を迎えられるようになった。
ドキドキしていた鼓動はゆっくりと規則正しく聞こえてくる。まだまだゴールが何なのかいまいち分からない人生がこれからも確実に続いていく。毎年一つずつ年を重ねながら長い長い道のりが。今まで色んな居場所を見て様々な感情を抱いてきたけれど、これからは自分の納得できる居場所を探し続けていこうと思う。自分を進化させながらその時々にあった居場所を。

淡いピンクの口紅を捨てた日、新しい口紅の包装を丁寧に破った。クルクルとケースの下側を左手で回す。そっと顔を出したそれは少しくすんだちょっぴりラメの入った美しい赤色だった。デパコスで背筋のいいきれいなお姉さんがつけているような色合い。自分には恐れ多くて一生手に取ることのない物だとずっと思っていた。いつもより鏡に顔を近づけてそっとそれの先を唇に走らせた。なりたい大人に少しだけ近づけた気がした。

 

 

 

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