鈴木志郎康 写真集「眉宇の半球」について

 

さとう三千魚

 
 

 
 

随分とそこにある。
何度か開いてみた。
何度も、開いてみてきた。

鈴木志郎康の写真集「眉宇の半球」を机の上に置いている。

志郎康さんの写真集「眉宇の半球」と、
志郎康さんの「徒歩新聞」合本と詩集「わたくしの幽霊」と「攻勢の姿勢」などなどは、わたしの机の上に置いてある。

志郎康さんと、
わたしが鈴木志郎康という詩人のことを馴れ馴れしく呼ぶのは志郎康さんはわたしの先生だと思っているからなのだ。しかし鈴木志郎康という詩人は「先生」と自身を呼ばれるのが嫌いなので、わたしは志郎康さんと呼ぶのだ。

わたしは志郎康さんから東中野にある新日本文学会の木造の建物の詩の教室で1979年頃に詩を教わったのだった。

その頃、
志郎康さんから「徒歩新聞」という冊子をいただいていた。
赤瀬川原平さんの絵が表紙にある小さな薄い冊子だった。
また、わたしが持っている志郎康さんの詩集「わたくしの幽霊」の扉には志郎康さんのサインがある。
はじめて志郎康さんの詩集を購入してサインを書いてもらったのではなかったろうか。

さとうみちお様
 一九八〇年七月九日
      鈴木志郎康

志郎康さんの写真集「眉宇の半球」が机の上に置いてある。
「眉宇の半球」は随分とわたしの机の上にありつづけた。

わたしは志郎康さんの「眉宇の半球」について書こうとしている。
このままこれらの志郎康さんの本はわたしの机の上で、わたし一人、開いて、見れれば良いではないかとも思ってしまうが、わたしは志郎康さんの本に出会い、開いて感じたことを書き留めようとしている。
志郎康さんに新しく出会い、志郎康さんを発見するためにわたしは言葉を書き留めようとしている。

写真集「眉宇の半球」は1995年12月1日に発行されている。
編集・発行者は津田基さん、発行所は株式会社モールと写真集の奥付に記されている。

1975年から1995年の間に魚眼レンズと呼ばれる180度の画角のレンズを使用しフィルムカメラで撮影されたモノクロの写真が纏められた写真集だ。
1975年から1995年というのは志郎康さんが40歳から60歳までの間、詩集「やわらかい闇の夢」を上梓した翌年から阪神・淡路大震災があった年までだ。志郎康さんの最初の妻の谷口悦子さんが1995年に亡くなっている。

表紙には志郎康さんの掌に包まれた八重桜の花の魚眼写真が使われている。
指が太いから志郎康さんの掌だとわかる。魚眼レンズの写真は円形に写され円の周りは黒くなるから写真部分が丸くトリミングされて表紙に配置されている。
巻末の写真メモには「1992年多摩美上野毛キャンパス。新入生ガイダンス合宿に出発する朝。」と記されている。
裏表紙には、これも志郎康さんの指だろう、紫陽花の花を太い指の手が摘もうとしている魚眼写真だ。
写真メモに「1993年自宅テラスで。」と記されている。

円周魚眼レンズの写真たちは世界が丸く切り取られている。
巻末にある志郎康さんの写真メモの一部を引用してみる。

「3 1995年8月文京区白鳥橋。」

「4 撮影年月不詳。日本橋浜町付近。幼い頃の記憶と結びつく。」

「5 1975年墨田区立花、中川の土手。1945年3月10日の戦災のとき、ここを母と祖母と逃げて走った。」

「9 1993年自宅付近。トンネルは何時も取りたくなる。」

「13 1975年亀戸天神で、麻理と草多1歳。」

「21 1975年頃、江東区木場で、麻理。」

「33 1992年8月江東区森下と白河に掛かる高橋。」

「42 1993年7月札幌市。」

「46 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

「47 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

「52 1990年広島市。」

「53 1991年8月霧ケ峰高原で、野々歩。」

「59 1992年5月阿賀野川河畔の津川で。川口晴美さん。「現代詩の会」グループ旅行。」

「62 年月場所不明。」

「79 1990年西多摩郡檜原村、払沢の滝。」

「88 1992年8月江東区白河の渡辺洋さん宅での家族像。気分のいい夕方。」

「94 1992年自宅仕事場で。自写像。」

「95 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」

「96 1993年頃、自宅仕事場で。」

「97 1993年頃、自宅仕事場で。」

「98 1989年7時間半に及ぶ映画『風の積分』のフィルムの一部分のコマ。」

「100 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」

「101 1995年8月 自宅仕事場での自写像。」

「102 年月場所不明。」

頁数と志郎康さんの写真メモだけでは、写真がないからイメージが浮かばないだろう。わたしには写真集「眉宇の半球」があり、そのページを開いて写真の景色を見ることができる。

「3 1995年8月文京区白鳥橋。」

白鳥橋は飯田橋から江戸川橋に向かった首都高5号池袋線が神田川に沿って左に大きく曲がるところだろう。
神田川に丸い橋脚が垂直に立ち、淀んだ川の上に首都高が覆い被さっている。
首都高は戦後、1959年に工事が着手され1964年東京オリンピック開催前にはかなりの部分が開通している。

地方の農民など労働者の都市への出稼ぎや移動を加速させ首都高は完成されていったのだろう。

「4 撮影年月不詳。日本橋浜町付近。幼い頃の記憶と結びつく。」

真ん中に電柱が真っ直ぐに天に伸びて空には電線が縦横に伸びていてその下の電柱の両脇に下町の木造日本家屋が犇めいて並んでいる。軒下には植木鉢が並んでいる。

「5 1975年墨田区立花、中川の土手。1945年3月10日の戦災のとき、ここを母と祖母と逃げて走った。」

1944年8月に山形の赤湯に学童疎開して栄養失調で脚気になり10月に東京の亀戸の家に戻り空襲にあったのだろう。3月の東京大空襲で焼け出されたという。写真には川に沿って土手が続き土手の向こうに日本家屋が低く連なっている。

「9 1993年自宅付近。トンネルは何時も取りたくなる。」

代々木上原のJRのガード下のトンネルか?
蒲鉾のようにトンネルがありトンネルの向こうに道路が二股に分かれていてその上の空が明るい。

「13 1975年亀戸天神で、麻理と草多1歳。」

若い麻理さんが草多さんを抱いて表情がやわらかい。草多さんが笑っている。

「21 1975年頃、江東区木場で、麻理。」

木造の商店か、「ちとせ」という看板が入口の上に掛かっている。その前に若い麻理さんが立っている。

「33 1992年8月江東区森下と白河に掛かる高橋。」

川の向こうに高層集合住宅が建っている。橋を男性が自転車で渡って行く。

「42 1993年7月札幌市。」

志郎康さんがホテルの部屋のベッドに服を着たまま横たわっている。
棚に置いたカメラでタイマーを使い撮ったのだろう。

「46 1990年8月新幹線車窓の眺め。」
「47 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

ひとつは車窓から真っ直ぐに伸びた川と土手が撮されている。
もうひとつは車窓から撮されたトンネルの手前の鉄骨構造物と電線などが流れ去っている。

「52 1990年広島市。」

柵の向こうに原爆ドームがしらじらと佇んでいる。人がいない。

「53 1991年8月霧ケ峰高原で、野々歩。」

少年の野々歩さんが草むらで笑っている。山々が見える。

「59 1992年5月阿賀野川河畔の津川で。川口晴美さん。「現代詩の会」グループ旅行。」

若い川口晴美さんが河畔の岩の上に腰を下ろして微笑んでいる。背景に川が流れている。

「62 年月場所不明。」
「102 年月場所不明。」

この二つの写真メモは「年月場所不明。」とだけ記されている。
写真メモの意味をなさない。
62頁の方の写真には背の高い野の花が繁茂していてその花々の向こうに農家の納屋のようなもが見える。
102頁の方の写真には枯れた葦原が風に薙ぎ倒されたような光景が画面の全面に広がり葦原の向こうに林が見えている。

どちらも写真の光景は円形に切り取られている。

志郎康さんはこの写真集に「魚眼映像は気持ちいい」というタイトルのエッセイを寄せている。

「魚眼の写真が気に入っている。単純に撮っていて面白い。中心を通る直線以外はすべて歪んでしまうというのも面白いが、対象との間に絶対的な距離が生じてくるというところがいい。たいてい写真というのは、撮る人の対象へのこだわりが出てくるわけで、そこが面白いとされるところなのだが、魚眼はそれとは逆に対象に対する無関心が出てくるところとなる。魚眼レンズで撮ると、誰が撮っても同じになる。そこがいい、と、それ以上に素敵だという気分になれる。わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。

以前、『極私的魚眼抜け』という魚眼映画を作ったが、その時は魚眼レンズが対象世界を「中心」と「周辺」に置きかえてしまうということに気がついたのだったが、今度は『風の積分』をやってみて、「空洞」を作れるということに気がついてワクワクさせられた。

・・・中略・・・

つまり、「わたしの作品」だなんていえない。対象はまるまる自然の変化なんだから、当たり前のことだ。それをどう映像にするかというところに、「わたし」があるといっても、カメラがオートで撮っているのだから、「わたし」が立ち会っていることもなく、不在は不在である。でも、わたしがやったんだから、やった主としている。わたしがやっていて、わたしがいない。これが最高に気持ちがいいっていうことだとわかった。」

と志郎康さんは書いている。

“魚眼レンズで撮ると、誰が撮っても同じになる。そこがいい、と、それ以上に素敵だという気分になれる。わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。”

ということなのだ。

“わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。”と書きながら、
しかし、魚眼レンズで志郎康さん自身を撮った写真が写真集の最後に続いている。

「94 1992年自宅仕事場で。自写像。」
「95 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」
「96 1993年頃、自宅仕事場で。」
「97 1993年頃、自宅仕事場で。」
「100 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」
「101 1995年8月 自宅仕事場での自写像。」

そこには志郎康さんが対象物のように素っ裸になって写し出されている。
にこりともしていない志郎康さんが写っている。

「街中を歩いても、テレビを見ても、言葉やらイメージやらが多くて非常に鬱陶しい。そういう関係に毒を盛って毒を制するような関係が、これらの写真と向かい合ったときに持てれば幸いである。」

そう、志郎康さんは写真集のあとがきに書いている。

この世界には人によって作られたイメージや言葉が溢れている。
それらのイメージや言葉は人を商品や貨幣や党派などに誘導するための効果が目指されたものだろう。
それらは人々を誘導するための嘘さえもを含んでいることだろう。

「そういう関係に毒を盛って毒を制するような関係」と志郎康さんは魚眼写真のことを言っている。

「毒を盛って毒を制するような関係」とは詩や写真で我を無にして新しい我に至るということだろう。それは”無我”ということだろうか?

“無我”とは世界との関係のことだろう。
志郎康さんはそのことを”極私”と言った。
志郎康さんの”極私”は詩や写真の働きによって自己を世界に開いて自由になるということだ。

その”極私”をわたしも生きてみたいと思っている。

 

 

 

鈴木志郎康 写真集「眉宇の半球」について」への2件のフィードバック

  1. その”極私”をわたしも…」 と思います。
    この言葉を知り、作るという方向を、より明確にして、ブレないでいけるかと思います。
    ありがとうございました。

    • お言葉、
      ありがとうございます。

      志郎康さんは最期まで極私から外れませんでした。
      わたしもそう在りたいと願っています。

      さとう 拝

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