不確かさを確かめる

中村登詩集『笑うカモノハシ』(さんが出版 1987年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

第3詩集となる『笑うカモノハシ』は前の2冊に比べてぐっと言葉の運びに飛躍が少なくなり、意味が辿りやすいものになっている。同時に論理の筋道や構成がずっと複雑になっている。比喩を使って物事を象徴的に示すのではなく、時空をじっくり造形することで詩が展開されていく。『水剥ぎ』の頃には、一見解き難く見える暗喩が現実の一場面一場面を鋭く名指していた。3年後の『プラスチックハンガー』では非現実的なイメージを遊戯的に軽やかに展開する中、ふとした瞬間に生身の現実の吐露に立ち戻るという仕方で、虚構と現実の間を越境する面白さを打ち出す書き方だった。『笑うカモノハシ』では、物語を散文的な言葉遣いでかっちり展開させ、その物語を、思惟する作者の姿の比喩として使っている。
ここで中村登の生活の変化というものを考えてみたい。鈴木志郎康がまとめたウェブページ「古川ぼたる詩・句集」によると、中村登は1951年に生まれ、和光大学を卒業後、大学の仲間と印刷所を始めたそうである。1974年に結婚し、1979年に東洋インキ製造株式会社に入社とある。和光大学は当時左翼運動の盛んな大学だったので、中村登もその影響を受けたかもしれない。普通の就職を避けて起業したがうまくいかず失業。結婚し子供ができ、若くして一家の大黒柱になった中村登は結局、就職することになる。『水剥ぎ』における過激な暗喩は、不安定な生活への激しい不安が直接反映されていると考えられる。性にまつわる詩が多いのも若さ故ということであろう。『プラスチックハンガー』の詩は、会社勤めに慣れ、子供たちはまだ幼いながらも手がかからなくなってきて、心に余裕ができた頃に書かれている。言葉の運びに遊びが多くなっているのはそうした心境のせいもあるだろう。そして『笑うカモノハシ』では、30代半ばに差し掛かり、ぼんやり見えてきた老いや死について想いを巡らせ、世の中を俯瞰して見ようとする態度が見られる。まだ十分若いが青年期を過ぎ、自分を取り巻くものについて客観的に考えてみようという感じだろうか。こうしてみると、中村登が環境や生理的な変化に即応し、作風を変化させていることがわかる。

思考の詩と言っても、詩的な修飾によって思索を綴っていくのではなく、「笑うかも」とトボけながら、その時々の思考の姿を肉感的に描いていくのである。
まずは冒頭の詩「あとがきはこんなかっこいいことを書いてみたかった」を全行書き写してみよう。

 

空0現実とは気分
空0
空0波動の連続体であるという
空0大胆な仮説が
空0自分の欲望
空0から
空0見えた世界を呼びとどめる

空0呼びとどめ
空0どちらに行けば極楽
空0でしょう
空0どちらさまも天国どちらさまも地獄世界は
空0あなたの思った通りになる
空0思った通り
空0風のように、鳥のように、花のように、苦しみにも
空0千の色彩、千の
空0顔がある

空0千の色彩、千の顔が
空0「いたかったかい」
空0馬鹿げた質問だが
空0わたしには他に
空0話しようがなかった。

(『日本語のカタログ』『メジャーとしての日本文化』『メメント・モリ』映画『路(みち)』のパンフレット『ジョン・レノン対火星人』より全て引用)

 

()の注釈から、全体が複数のテキストからのコラージュで成り立っていることがわかる。他の中村登作品には見られない「かっこいい」言葉が並んでおり、そしてそのことをタイトルで示している。言葉についての言葉、つまり「メタ詩」だが、照れながらも彼の関心事を率直に語っているようである。現実は「気分/の/波動の連続体」、主体のその時々の気分が現実を決定する、天国も地獄も気分次第、現象は千変万化するがそれも主体の気分を反映したもので、それ以上は話しようがない、大意としてはこんな感じだろうか。ここで中村登は、万物は常に流転するといった哲学を語っているのでなく、自分という存在の頼りなさ、不確かさについて語っている。世界に触れるのは自身の感覚と身体を介してしかできない、それは自分という存在の頼りなさや不確かさを実感することと同じ……。この感慨は「扉の把手の金属の内側に/閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う」(「便所に夕陽が射す」より)と書いた『水剥ぎ』の頃から登場していたが、この詩集では「不確かさを確かめる」ことをメインテーマに据えている。

「自重」は互いに関連のない4つのシーンを集めた詩である。その4連目。

 

空0声を聞いて
空0声の刺激に
空0鼓動をかくし
空0ドアにかくれてトイレで
空0手淫、
空0勃起しはじめるものの
空0わけのわからなさ、男根というものが
空0わけのわからないものになって三年経ち四過ぎ
空0なにもかも
空0なにも知らないというままで
空0わたしは
空0この男のなかから
空0消えうせることになってしまうのか

 

トイレに籠って自慰をする、普通の男性の生理的な行動と言えるだろうが、そんな自分の行為を作者は「わけのわからないもの」と位置づけている。子作りを終え、微かに性欲の衰えも自覚されている。自慰行為をするといっても以前ほど行為に没頭できなくなり、妙にシラけた気分になってしまう。30代にもなればそういう覚えは珍しくないし、普通は仕方のないこととして流してしまう。が、中村登はそれを注視し、自分を「この男」に置き換え、更にそこから消え失せる想像をする手間をかける。何らかの結論が出たわけではなく、非生産的極まりない想像だ。しかし、「不確かさを確かめる」ことに憑かれた中村登はそれをやらないわけにはいかない。

不確かなもの、曖昧なもの、あやふやなもの、を追求するという点で徹底しているのが「夢のあとさき」である。

 

空0さっきまで草か木になるんじゃないかって
空0思っていたと中村がいうと
空0へェーいいわね花になるなんて思えたのは
空0十七八の娘の頃だけだったわ
空0という森原さんが
空0この間たまたま清水さんと
空0向い合わせになってね
空0清水さんはねこう頭の上に
空0いっぱい骨があるんですって

 

詩人同士と思われる仲間たちとワイワイお喋りするところから始まる。どうやら話題は死んだらどうなるか(!)という物騒なもの。しかし、話のノリは軽い。こんな調子でだらだらと会話が続いた後、会合が終わり、話者は妻と待ち合わせの場所に行こうとして道に迷ってしまう。

 

空0池袋では出口がいつもわからなくなる
空0待ち合わせたスポーツ館の方へ行く出口がどれなのか
空0わからなくなっていつもちがう方へ出て
空0いちど出てからこっちじゃないかと探して
空0引き返してから反対側へ出てでないと行けない
空0カミさんと池袋に行ったことがないから
空0カミさんと池袋に行く中村は
空0きっと
空0なじられる

 

詩の後半はこのようにまただらだらと、待ち合わせの場所に辿り着けない(結局電話をして迎えに来てもらう)愚痴のようなものを綴る。この「だらだら」は意図的なものであり、口調としては弛緩しても詩の言葉としては緊張感がある。だらだらした時間も確実に生きている時間の一部であり、後から見ればだらだらしているが、直面したその時その時は抜き差しならぬ現実そのものである。中村登はそうした時間の質感の不思議さを、自分の身に即して書き留めようとしている。

「胸が雲を」は家族の間に流れる空気の機微を描いている。個であり群でもある、という当たり前と言えば当たり前の関係を、わざと突き放し、「不思議なもの」として眺めている。

 

空0ボクとカミさんはそれぞれ
空0立ったり座ったり横に曲がったりして
空0たまに止まっていると
空0ここがどこなのか見失うことができる
空0自分が誰なのか見失うことができる
空0常々独身に戻って
空0気ままに人生をやりなおしたいと思っている
空0ボクが
空0「別れようか?」
空0「あなたがそうしたいと思ってんならわたしはいつだってOKよ」
空0いとも簡単に答える
空0そんな簡単に別れて後悔しないのか?
空0もっと深刻に理由(わけ)を探したらどうだ!
空0「どうして別れたいの?」
空0「だってあなたが先に別れようか? っていったんじゃあない」

 

互いに信頼し合っているからこその微笑ましい会話だが、夫婦と言えども個と個なのだから、どちらかが強く望めば別れることは実際に可能なのだ。冗談であっても口に出してしまうと複雑な想いが残る。そこに、「もっていたオモチャを/遊び相手にくれてしまった/子供」が戻って来る。子供がいると家族という形が安定して見えることは見えるが、

 

空0オモチャをなくしてしまったボクたち三人の子供の胸の中
空0自転するものがある

 

父親と母親と子供ではなく、子供と子供と子供がいる、と言い換える。別々に生まれ、別々に死ぬ、頼りない個が集まっているだけなのだ。三人とも、「ここ」とか「誰」とかを「見失うことができる」のである。中村登の築いた家庭は強い愛情の絆で結ばれているが、それでも個である限り、物理的にいつか離れ離れになることを免れることはできない。

そして「チンダル現象」は、物理としての現実を俯瞰した視点で問題にした詩である。

 

空0子供たちがチンダル現象だ、といっている。

空0宇宙の写真をみたことがある、とてつもない宇宙の、その写真のなかでは、太陽さえも、

空0チリかホコリのようなものだ、った。

空0窓から射しこんできた光の、なか、微小な粒子が、ゆらいで、舞い、うっとりと、光の河

空0が、にごっている、あの天体の写真のよう。

 

チンダル現象とは、光が粒子にぶつかって散らばった時に見える光の通路のことで、木漏れ日などがそうだ。この詩は一行ごとに空行が挿入されており、チンダル現象の光の進路を摸しているように見える。世界の成り立たせる原理について、以前の詩には見られなかったような抽象的な思索を繰り広げていくが、それで終わらず、自身の存在について想いを巡らせていく。詩の中ほどに「生物が、海から、あがってきた」ことを「無残な記憶」とした上で次のような見解を述べるのだ。

 

空0それは、わたしたちが、このネコや、このヒトである、そのことが、すでに、
空0そのことで、力の抑圧なのだった。

 

本来水の中にいるのが自然だったのかもしれない生物にとって、陸にあがって生活するということ自体が抑圧ということ。これは作者の実感からきたものだろう。平穏な毎日の中に何かしらの抑圧を感じる。社会のせい、人間関係のせい、という以前に、自分の力では如何ともし難いもっと根源的な原因があるのではないか。詩の最終行は「チリか、ホコリにすぎない、微小な球体の表面では、信じ、なければ、開かれない、無数の扉が虚構のことに、思えてくる」と、測り難い自然の営みへの畏れが語られる。

「水の中」でも、世界の理についての見解が披露される。

 

「 子供にせがまれてつかまえたその川の子魚を飼っている。水槽に入れて、エサをやった後はしばらく眺めている。と、魚と目が合ってしまう。魚は川の中にいればひとの顔を正面から見ることなんてことはないだろうにと思ったその時、魚がぼくとは全く違う別の世界の生き物であることに、あらためて気がついた。魚は水中の生き物だ。そしてぼくは水中では生きていけない生き物だ。 」

 

魚の目から見た自分の姿。本来ならあり得ないはずの出会いの形。中村登はここで自分という存在を自然界の秩序の中で相対化してみせる。水槽で魚を飼うという、自然の秩序を乱す行為によって逆に秩序の形が見え、そこから自分の存在の特異性が見えてくるのである。
俯瞰した視点で自分の存在とは何かを問えば、一個の生命体であるというところに行き着くが、生命体には寿命があり、その儚さが意識に上らざるを得ない。

「水浴」は、子供が生まれたばかりの子猫を拾ってきたことの顛末を、句読点を抜いた散文体で描いた詩。子猫は弱っていたがスポイトで与えた牛乳を次第に吸うようになっていく。

 

「 よしよしとしばらく腹のふくらみをなでよしよしと頭をなでていると抱いている手にしっとりと暖かいものが流れ出し次にはポロッと米粒くらいの黄色いウンコをするのでぬれタオルで尻をふいてやり目のあたりをたぶん親猫が舌でそうするだろうように指でさすってやっていると予定していた海水浴に行く日も近づいてきているしこのままネコの子を置いて出かけるわけにもいかないしもう行かないものと決めている七日目の晩右目が半分ほど開き左目がわずかに割れたように開き牛乳をあたため用意している間中も抱いている手のひらをなめ 」

 

子猫が死の淵から生還していく様子が細かな描写でもって描かれる。最後は「湯ぶねに水を張り行水よろしく水を浴び体重計にそっと頭を下げて下腹をわしづかんであと三キロ三キロと股間を見おろすむこうからとっ、とっ、とっ、とっ、とっ、とくるものに目のまえがくらむ」と、子猫が元気になった様子を示す。楽しみにしていた海水浴をあきらめ子猫の介護に尽くす家族の暖かさに胸を打たれるが、より印象的なのは、生き物が死と隣接していることを念頭に置いた作者の描写の仕方だろう。目の前の生き物が死んでしまうかもしれないというびくびくした気持ち。子猫が元気になって良かったという事実よりも、生は死を内包している、その観念を浮かび上がらせるために、せっせと細かな描写を積み重ねているように見える。

生命の在り方への関心が個体差という点に向かうこともあれば、

 

空0うちにもどって
空0娘、一九七四年二月十二日生。
空0その娘の母、一九四九年二月四日生。
空0十二才の足と
空0三十七才の足と
空0見くらべて
空0十二才の足の方が大きくて平べったい
空0歩いた道のちがいが
空0足に出ていて
空0三十七才のは
空0ころがってた石ころ
空0つかんだままの
空0甲が張ってて小さくて
空白空白空白空白(「やり残しの夏休み自由課題」より)

 

生命の連関について、神秘的なスケールで考えてみたりもする。

空0きのうまでは見ていて見ることがなかった
空0ないところに咲いた花が
空0死んだ祖先の魂ではないのか
空白空白空白空白(「花の先」より)

空0樹木のような意識は、個体を通って、個体を離れてもなおつながっているような
空0意識は、目には見えないけれども、ある日、花が咲いたように、思いもよらないところに、
空0パッと開かれるのを、どこかに感じているから、花に呼ばれるように花見をしにいく。
空白空白空白空白(「花の眺め」より)

 

これらの詩は、自分という個体がこの世のどのような秩序の中で位置づけられているかについて想いを巡らすものである。そして、そうしたテーマを自分の頭の中の出来事として完結させるのでなく、身近な人とのつきあいを通して展開した作品もある。

 

「 トーストでなくてふつうのパン、ウインナ、目玉焼、トマト、三杯砂糖を入れた紅茶を三杯、それだけを食べて、頭をとかす、ウンチをする、それから八時半頃、歩いて野田さんは出社する、朝はセカセカするのがキライだから、まわりはほとんど商店街だ、 」
空白空白空白空白(「八百年」より)

 

野田さんは会社の同僚のようだ。出社から退社までの様子を、事実だけを列挙し、感情を廃したとりつくしまのない調子で淡々と描写していくが、最後の2行で見事に「詩」にする。

 

「 月ようから金ようまで、野田さんは、こうして、もう、八百年は経ってしまっている感じがする、八百年か、と野田さんは言った。 」
空白空白空白空白(「八百年」より)

 

家と仕事場を往復する単調な毎日を、「八百年」という言葉が、非日常的な響きのするものに変えていく。実際は「八百年」というのは雑談の中で冗談のつもりで出た言葉なのだろう。しかし、句読点のない、読点だけでフレーズを切る無機的なリズムの中では、「八百年」は平凡な毎日がそのまま虚無に通じていくかのようだ。

 

「 陽射しが、すこし、弱くなって、Tシャツ、ビーチサンダル、で、すごせる、野田さんは、朝、おそくおきて、奥さんの、尚子さんが、家のことをすませたら、林試の森に、出かける、オニギリ十二、三個、麦茶、オモチャで、出かける、オニギリはだから、玉子くらいの大きさで、林試の森は、目黒と品川の境、近くに、フランク永井の邸宅があったり、 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

 

「八百年」と同様の調子で始まるこの詩だが、中ほどから印象的な展開が始まる。

 

「 太陽の光が、差しこんで、チリにあたって、濃くなって、ちょうど、写真のなかの、星雲のようで、野田さんは、無数の、チリの、チリのひとつの、うえに、なにかの、はずみで、ピクニックに来てしまった、朝の、光の、波打際で、光を追い越させている、と、尚子さんも、秋一郎くんも、生きている写真だ、あっというまに、なつかしくなって、 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

 

陽が差し込んだのをきっかけに、家族の楽しいイベントが一転して物理現象に還元され、更に神秘体験のような状態に入ってそのままエスカレートしていく。

 

「 木立の緑が、光って、カメラ、野田さんは、もう、自分が、カメラになってしまって、いる、光が、濃くなって、そこが、じんじん、じんじん、チリのようなものを、吸い込んで、吹き出して、ものすごいスピードで、止まっている。 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

「ものすごいスピード」で「止まる」とはどういうことか。今「生きている」のに「写真」で「なつかしくなる」とはどういうことか。普通、人は、ピクニックをする時は日常生活の論理で考え行動し、宇宙の原理について考える時は、日常を脇に置いた、科学的ないし哲学的な構えを取る。それらをつなげては考えない。だが、ピクニックも宇宙の現象の一つであることに間違いない。中村登は「詩の領域」を設定し、平穏な日常の風景が神秘体験と化す離れ業をやってのけるのである。

「密猟レポート」は、こうした超越的なアイディアを、ナンセンスなストーリーを通して綴った詩である。

 

空0今夜、Nさんらとクルマで
空0東北自動車道をとばし、
空0野鳥を密猟しに山に入ります。
空0夜を高速で飛ばすのは
空0まったく神秘な気分です。
空0ひかりのふぶくなか
空0なつかしい地面をただようのです。

 

ふざけた口調で、ホラ話であることを読者に明らかにする。このまま間の延びた調子で密猟の様子で語っていくが、後半、話は不意に脱線する。

 

空0先日のわたしは
空0酒を飲みながら
空0友人の家の水槽に
空0変なことを口ばしっていました。
空0ゆらゆらと水槽で泳いでいる
空0金魚を見ているうち
空0ふっと
空0太陽もウジ虫も
空0区別がつかなくなっていました。

 

そして突然、次のような取ってつけたようなエンディングを迎える。

 

空0わたしたち4人は銃をもっていなかったため
空0熊にやられて死んでしまいました
空0わたしたち4人が死んでも自分たちがここに
空0ほんとうは何をしにきたのかわかりませんでした。
空0わたしたち4人が死んでも自分たちが
空0この地上にほんとうは何をしにきたのかわかりませんでした。

 

仲間と鳥の密猟に行き、ふと意識が飛んで別のことを考え、最後は熊に食べられて死んでしまい、その死について自問するが答えが見つからない……。ナンセンスなホラ話の形を取っているが、この詩は人の一生を戯画化したものだろう。例えば地球を通りがかった宇宙人から見れば、地球人の一生などこんな感じなのではないだろうか。何のために生きているかは遂にわからないが、自分を取り巻く世界の不思議について問わずにはいられない。忙しい暮らしの合間にふっとできた、ユルフワな哲学の時間のイメージ化である。

中村登と一緒に同人誌をやっていたこともある同年代の詩人さとう三千魚にも、類似した傾向の作品がある。

 

空0で、
空0朝には
空0女とワタシの寝息が室内にひろがっています。
空0朝の光が、
空0室内いっぱい寝息とともに吐き出された女とワタシの、感情の粒子
空0に、斜めにぶつかり、キラキラ、光っています、室内いっぱいひろ
空0がった女の、感情の粒子とワタシの感情の粒子もまた、ぶつかり、
空0朝の空間に光っています。
空白空白空白空白(「ラップ」より)

 

平凡な日常の一コマをあくまで日常的な軽い口調で、宇宙の中で起こる物理現象に還元する、そしてその測り知れなさに戦慄する。中村登と共通する部分を持っていると言える。しかし、さとう三千魚の詩の言葉がその測り知れなさに向かって高く飛翔していくのに対し、中村登の詩は地べたに降りていく。さとう三千魚の詩においては、「女」や「ワタシ」は人間としての実体を離れ、高度に記号化されて「粒子」として昇華される。だが中村登の詩は、どんなに抽象的な方向に頭が向いていても、最後は身体を介した、ざらざらした暮らしの手触りに戻っていくのである。妻も、子も、猫も、同僚も、記号化され尽くされることはなく、個別の生き物として存在する。広大な宇宙の隅っこにしがみついている、温もりある生き物としての不透明感を維持しているのである。その核にいるのはもちろん中村登自身であり、自らの矮小さへの自覚が、世界の不確かさを確かめようとする態度に顕れているのである。

詩集の末尾に置かれた「にぎやかな性器」は、不確かな世界の中で共生し、命を紡いでいく生きとし生けるものへの賛歌である。中村登自身ももちろんその一員だ。それでは、全行を引用して本稿を閉じることにしよう。

 

空0にぎやかな鳥の鳴き声
空0にぎやかな蚊のむれ
空0にぎやかな葉むら
空0にぎやかな性器

空0なぜわたしはにぎやかな鳥の鳴き声なのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな蚊のむれなのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな葉むらなのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな性器なのか知らない

空0鳥はなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0蚊はなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0葉むらはなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0性器はなぜ知らないわたしがにぎやかである

空0ふあっきれいにぎやかな鳥の鳴き声
空0ふあっきれいにぎやかな蚊のむれ
空0ふあっきれいにぎやかな葉むら
空0ふあっきれいにぎやかな性器

空0鳥のにぎやかな鳴き声の性器はまたうつくしい
空0蚊のにぎやかなむれる性器はまたうつくしい
空0葉むらのにぎやかなむれる性器はまたうつくしい
空0にぎやかな性器はまたうつくしい

 

 

 

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