詩について

 

塔島ひろみ

 
 

まだ子どもが小さかったとき、近所の、M区内の小さな医院にかかっていた。
そこは産婦人科なのだけど、産んだあとも赤ちゃんの病気を診てくれた。
診るのは産婦人科の先生でなく、受け付けのおばさん(先生の奥さん)が、そのときだけ白衣をまとい急ごしらえの先生となって診察室にすわる。
それで私の話(子どもの症状)を聞き、子どもの口をのぞき腹をさわり頭を押し、そのあと10分ぐらいもだらだらと様子を見ながらおしゃべりしたあげく、最後は「よくわからないけどまあ少し休ませて様子をみて、治らなかったらまた来て」ということに大体なる。診断もつけないし、薬も出さない。この人は本当に医者なのか?と思う。でもそれで少し休ませると自然に治るので、なんだ、医者に行く必要もなかったなと思うけど、また具合が悪くなるとそこに行った。

子どもは保育園に通っていた。一度具合が悪くなって保育園を早退したり休んだりしたあと、園に戻るには受診の報告が必要だった。
「◯◯医院に行って、診てもらいました」と私。でも保育園はそれだけでは満足せず、「何の病気だったのか? 原因は?」と聞いてきた。「薬は?」と聞いてきた。答えられないと「今度から薬を出してもらってください」「薬を出してくれる医者に行ってください」などと言われた。「◯◯医院は、産婦人科で小児科ではないのでは?」と言われたこともあった。
おばさん先生は決して薬を出さなかった。「薬は赤ちゃんが病気と闘う力を殺してしまう」と口癖のように言った。それで私はせめて、と思って「熱が何度になったら登園してもいいでしょうか?」と聞いた。そしたらすごく悲しい表情になって、厳しい声で
「数字じゃないのよ、あなた」
と言ったのだった。

ああそうなのか。
そうだ、数字じゃないんだ、と思った。

さとう三千魚さんから詩についてのエッセイのお話をいただいて、私はどうして詩を書くのだろうか?と考えた。

言い換えのできない、他の言葉では説明できないもの。書いた人の心や気持ち。どうしようもないもの。詩とは、そんなものだと私は思っている。思っていた。

そして、この世界が本当は数字ではないから、私は詩を書くのだなあと、今、おばさん先生の言葉を思い出しながら、改めて思っている。

「数」が発見され、人間は数えることを始め、
計算すること、比較すること、予想することを覚え、科学が発展していった。
「数」を基盤に、人間は社会を組織し、整備していった。
この社会では数字が間違っていれば「ウソ」である。
この社会では、人間はウソをつくが、数字は決してウソをつかない。

だけれど子どもの体調は数字ではなかった。
てことは子どもの命は数字ではない。
だから私の命もあなたの命も数字ではない。
そして命が数字でないなら、生きているか、死んでいるか、生きてないモノか、そんな判別は、誰にも、できないのではないか。
数字が教えてくれる地球のすがた、宇宙のしくみ、さまざまな生きものの命の様。それをどうして「真実」「真理」と言えるのだろう?

私は本当の世界を知りたくて詩を書いているのだと思う。
詩の世界は「空想の世界」でなく、「本当の世界」なのだと思う。

 

 

 

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