夢素描 20

 

西島一洋

 
 

鉄球について

 

ここに直径60センチほどの鉄球がある。40年くらい前に拾った。

浅間山荘事件の時の鉄球によく似ていると思って、拾った。

名前があるというわけではないが、僕はこの鉄球に非殺生の力を感じるので、名前があるのかと聞かれると、安易にアヒンサと答えてしまっている。

中は空洞で、少し水が溜まっている。転がしたり、振ったりすると、その水が鉄球の内側を優しく撫ぜる音がする。しゅるらん、しゅるらん、しゅん、という感じの音。

重そうに見えるが、意外と軽い。展覧会のため韓国に郵送しようとして、その時に初めて重さを量った。重さ制限をこえていて、送れなかった。およそ、25kgである。

車で運ぶこともあるが、キャリーに乗せて歩いて運ぶ事が多い。国内だけでなく、ニューヨークやサンフランシスコなどの行為の時にもキャリーで持っていった。

晒し木綿を括り付けて、運ぶというか、転がしながら一緒に歩くという時もある。夏の炎天下、自宅から犬山のキワマリ荘まで17km、五条川を歩きながら鉄球を引っ張りながら遡ったこともある。翌日、強烈な歯痛。歯医者に直行。奥歯を噛み締めすぎて、溜まっていた歯石が歯茎に食い込んでいるとのことだった。

余談だが、子供の時から、歯磨きの習慣が無く、それでも虫歯が一本も無いというのが自慢の種だった。歯石が溜まっているのは知っていた。というよりも、歯石が溜まって、時折、その塊がゴソっと取れる時の快感に至福を感じていたくらいだった。このキワマリ荘までの17kmをきっかけに、歯を磨くようになった。歯間ブラシも使う。一転変わって、今や歯磨きの快感を享受することになった。

鉄球に戻る。

40年ほど前に、北陸、福井の原発内の浜で拾った。漂着物である。高いフェンスで覆われた立ち入り禁止の浜だった。

原発で勤めている絵描きの友人がいて、原発内の浜が美しいということで、10人くらいだったかな、写生会となった。

僕は元より原発に反対であるし、放射能も怖かったから、参加したくは無かったが、つい押し流されて、その浜に入ってしまった。浜に入る前に、原発の施設を通過しなければならない。被曝の計測の装置があり、入る時と出る時にチェックがあった。

押し流されているという軟弱な自分に対しての自己嫌悪は強くあった。

確かに美しい浜だった。両抱えできないほどの、極太の老松が浜にたくさん連なって林になっていた。土地名も美浜という。原発の立地は、もともと人口が少なく、したがって人に汚染されていない風光明媚な場所ということになる。原発は、そういうところに作るのだ。人口が少ないから反対する人も少ない。原発ができてからは、さらに人が訪れることもなく、浜は、時の痕跡を逆説的だが自然な形で残している。

写生会ということだったが、僕は絵を描く気には全くならない。浜をうろうろしていると、さまざまな漂着物がある。大砲の弾のようなものもある。なんの道具か、もしかしたら兵器の朽ちたものか、やたら錆びた鉄製のものが多い。大陸から日本海の浜に流れ着いたのだろう。

で、そのような雑多な漂着物の中に、この鉄球があった。

浅間山荘の鉄球をすぐに連想した。僕はほとんど無意味にこの鉄球を持って帰ろうと思った。しかし、この原発の浜は、フェンスに囲われており、監視カメラもある。持ち出すことは困難だと思われたが、意外にすんなりとフェンス外に持ち出す事ができて、誰かの車に積んだ。まあ、原発で働いてる友人の知り合いという事で、監視もあまかったのだろう。

で、福井から名古屋に持って帰ってきたものの、この鉄球自体が放射能に汚染されていないか、心配だった。

したがって、おためごかしかもしれないが、家族とは少し離れた、自宅裏にある三階建ての建物の屋上に置いていた。

ここからが若干複雑になる。

(複雑になる前に、さらに複雑な言い訳というか、成り行きとというか、まあ、孑孑彷徨変異というか。夢素描について、少し説明したい。端的に言うと、夢日記では無い。夢の記憶を辿る時の、思考回路を援用し、現実の記憶を構築する行為だ。したがって、夢そのものを筆記するときもあれば、夢でなく現実を筆記するときもある。この作業は同じ地平なのだ。端的にと言いながら、さらに分かりにくいかもしれないが、自分の思考回路というか、感覚に嘘はない。まあこれ以上、とりあえず今は説明しない。時間さえあれば、ちゃんと説明できるということだ。素描だから作品概念は無いものの対象化の作業はできるだけしている。)

鉄球を拾った当時、1980年代前半頃だと思う、僕は、飯田美研との濃厚な交流があり、彼等の考え方に強い影響を受けてもいた。

飯田美研というのは、長野県飯田及び豊丘村とかその周辺の現代美術家の活動体である。西村誠英と木下以知夫がその中核か。

西村誠英は、メールアートを通じて各国から紙片の廃物を集め、そこに文字(漢字の「死」の上に何か記号が書いてある)を書き埋め尽くし、それを細かく破っては、さらに糊でくっつけ、さらにそれを破り、それを繰り返すという作業(行為)を連綿と続けていた。西田哲学に強い影響を受けていたと思う。

木下以知夫は、廃物となったガードレールを山から拾ってきて、それを大きなハンマーを全身で叩きつけるという作業(行為)を連綿と続けていた。禅の思想が背景にあったのかもしれない。ある時作業中に、突然、柿の実が、自分の首筋後ろに落ちた時に「覚」があったとのこと、これは僕でもなんとなく分かる。

彼等飯田美研は、なぜ、こんな行為を続けているのか、僕なりに、よく分かっていた(つもり)。

彼等飯田美研は廃物、とりわけ人工廃物と、対話(闘って)していた。長崎や広島の原爆についても、人の営為の虚しさと限界について語っていたように思う。いや、もっと深い。

彼等飯田美研は、やたらと造語を使うので、とても難解だ。特に、書かれた長文の文章を読み解くには相当のエネルギーを要する。僕が、無学だからかもしれない。でも、僕は、感覚的に、飯田美研の言っていることを、断片的にせよ理解していた。

例えば、彼等飯田美研の言う「物力(ぶつりょく)」。

よく見ると、目の前にあるもの、そしてその周辺、さらにはそれを取り囲むものは、全て人工物で横溢している。全て人間が人間のために作ったものだ。まあ、厳密に言えば、作ったと言うより加工したものだ。

具体的に言うと、今、これを書いている状況では、手の先にiPad、それを支える空き箱、空き箱に入った飲み残した薬、消しゴム、ペン、すぐ横にはコンセントがいくつも刺さった電源、ちょと奥に目をやれば、ビデオカメラを修理しようとして本体から外した極小のビス、刺身皿大の陶器皿五個に分類して入っている、その横に冬だから使っていない電気蚊取り線香、上の棚に目をやれば、置き時計、ふと横を見れば、ベランダの掃き出し窓、その窓の向こうには、道をはさんで3階建てのマンションのまどのあかり。

何が言いたいかと言うと、生活用品も家も道路も人間のためにだけ存在させられている。彼等飯田美研の論法で言えば、物が人間の抑圧を受けて存在している。物力は封じ込められている。かなり分かりにくいかなあ。でも、僕は分かる。

ゴミとは人工廃物。人間が人間のために自然を加工して、人間が使用し、そして要らなくなって、打ち捨てられたもの。

彼等飯田美研はそこに、人工廃物に、物力が生じると言う。つまり、人間の抑圧を受け続けてきた物が、ゴミとなることによって、人間の抑圧から解放されて、本来の物力を取り戻すのだ。ゴミは人間にとっては廃物だが、物にとっては人間の抑圧からの自由解放で、本来の物力が生じるのだ。彼等飯田美研はその物力をリスペクトする。

だから、彼等飯田美研は、ゴミのリサイクルもジャンクアートも否定する。リサイクルは、ゴミとなってせっかく人間の用を離れて自由になったのに、もう一度人間の束縛を受けなければならない。ジャンクアートも然りである。せっかく自由になった物を拾い集めて、再びアートという人間の勝手な幻想のもとに束縛を与える、この矛盾。彼等は、愚直にも廃人となって、ゴミとの直接の対話の行為を選んだ。ジャンクアートではない。僕はそれが正しいと思う。とても苦しい修行のような行為だ。

僕は鉄球を拾った。

拾った時点でもう、間違いを犯していたかもしれない。せっかく人間の抑圧から逃れて自由になって、海を漂い、たまたま海岸で休んでいたのだろう。それを、僕が、拾って、無理矢理、福井から名古屋に持ち帰った。

安易だった。街の中をゴロゴロ転がせば面白いかなあ、その程度だった。

だが、飯田美研の人工廃物に対しての接し方を見ていたから、僕は、持ち帰った鉄球を側に置きながら、何もすることができなかった。鉄球との対話はした。自己問答のようなものではあるが、僕はまさしく鉄球と対話していた。

対話は続けていたが、何も出来ずに、五年程が経過した。僕にできることは、もう、海に還すしかない。というより、そのつもりになっていた。

五年ほど経過した頃に、ある展覧会があった。北川フラムが日本での受け入れ先となった「アパルトヘイト否!国際美術展」である。美術展の経緯や内容の説明は省くが、この展覧会は世界だけでなく日本では各地を巡回した。

名古屋展では僕が受け入れの事務局的な役割になってしまった。なってしまったというのは、当初市民運動家達中心の運営の催し物にということで、動き始めたけれど、彼らの動きに無理があって、結局美術家達側の僕が動かざるをえなかった。マネージメントとか、本当に大変だった。心身ともにクタクタになったし、もう二度とこのようなことに関わりたくないとさえ思った。

ただ、名古屋展は、この国際美術展を受け入れるだけでなく、同時に名古屋の美術家に呼びかけて、同時にメッセージを発信したいと思った。そして、「from our hearts」という展覧会を企画した。これは、事前に岐阜の美術館や名古屋のギャラリーで開催し、さらに国際展の行った名古屋国際センターで同時開催した。おそらく国際的にも異例なことだったと思うが、単にこの国際美術展を受け入れるだけでなく、自らも発信したいという想いが形になったのだと思う。

で、その美術展に、自分の等身大の人形を作り、その人形の上に鉄球をおいた。人形は寝っ転がって、鉄球を抱えている。正確にいうと、三回あった美術展のギャラリーでの時に出品した椅子の上に座っている人形を、最終の国際センターでの展示には寝っ転がして、鉄球をポンと置いた。

ポンと置いた時に、5年間対話していたことが少し分かった。僕は今まで、この鉄球と対話と言いながら、対等ではなく、僕の所持品としての物(ぶつ)だった。でも、この時、理屈ではなく、吹っ切れた。僕はこれまでこの鉄球を所持品と思っていた。それが違うということが分かった。

所持品という概念はすっ飛んでしまった。もっと言えば、主従の関係で言えば、一緒にいる時は、鉄球が主であり、僕が従であるという感じかな。できれば対等でいたいが、何故かしらまだ鉄球はそれを許してくれてはいない。まあ、僕としては、側に居させてくれているだけで嬉しい。僕の鉄球と関わる一連の行為は、追悼と懺悔である。追悼は永遠、懺悔は無限。

吹っ切れた僕は、それまでと一転打って変わって、鉄球を相当手荒く扱うようになった。一日中晒しで引っ張って、路上を転がしたり、建物の屋上からぶん投げたこともある。丈夫な鉄球であるが、結果、長年の間にかなり傷ついて、でこぼこになってきた。

最近はあまり見ていないが、10年くらい前だったか、何度か続けざまに、鉄球の夢を見た。そのほとんどが、鉄球が、紙風船がしぼむように、クシャクシャになってしまうという夢だった。

40年も一緒に居ると情が湧く。今でも路上を転がしたりはするが、昔よりは丁寧に優しく接している。

 

 

 

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