夢素描 23

 

西島一洋

 
 

嘘つき

 

小学校三年か四年の頃だと思う。10歳、1962年頃か。

家業はうどん屋だったので、うどん粉と小麦粉とメリケン粉は同じものだということは、当然のごとく知っていた。ある時、通学団で学校へ行く時か、家へ帰る時か忘れてしまったが、僕が皆に「うどん粉と小麦粉とメリケン粉は一緒だよ。」と言うと、こぞって「嘘つき。」と皆が言う。

皆は、うどん粉と小麦粉とメリケン粉は違うものだと思っていたのだ。僕が、何度も、強く主張すればするほど、「嘘つき。」の連呼は激しくなる。泣いた記憶はない。とてつもない理不尽さに怒りを感じて憤怒の極みになったが、暴れたり大声を出したりはしなかった。ただただ、歯を喰いしばって、耐えていた。

僕はどちらかと言うと、おどけ者で、皆を、驚かせたり、楽しませたり、よくしていた。突飛なことを言ったり、やったりしていた。イソップの狼少年のように普段から人が困るような嘘をついて、自分自身が喜んでいたわけではではなく、まあ、他の人のためにおどけていた。嘘のようなことを言ったりやったりして、でもそれは他愛のないことばかりで、皆もそれを分かっていて喜んでいた。と思う。多分。おそらく。

この時は、おどけたり、喜びそうなことを言ったりしたわけではない。ただ、当たり前のことを、さらっと言っただけだ。

これとは別の話だが、意図的に嘘をついたことはある。その時は、嘘をついたという感覚がなかった。小学校一年の時だから、7歳、1960年か、う?計算違うか?、まあ良い。

小学校一年だったことは、間違いない。というのは、伊勢湾台風のあった年だからだ。なぜ、はっきり覚えているかというと、名古屋の南の方で、水害で家を流されたりした人達が、僕の通っている小学校に避難してしばらく暮らしていたが、その避難所になった場所が、僕の学校の一年生の校舎だったからだ。一年生の校舎だけ、平屋で別棟だったから、使い勝手が良かったのだろう。

伊勢湾台風の直後、一年生の国語の作文の授業で、課題が「伊勢湾台風の思い出」というのがあった。思い出となるほどには、時間は経っておらず、まあ、今から考えると、ドギュメンタリーを書け、ということだったのだろう。小学校一年生という年齢にとっては、かなりきつい作業を要求されたとも思う。

あの時、つまり、伊勢湾台風の渦中、(僕の家は鶏小屋を解体して出てきた古材で作ったボロ屋だったが)瓦一枚も飛ばされず、ガラス一枚も割れなかった。たまたま、風上に大きな家があって、その建物の陰で助かったからだろう。名古屋市千種区と昭和区の境目のところだったが、僕の家以外の周辺は、かなりの被害状況で、屋根が丸ごと飛ばされた家もあった。全く被害のない家は皆無だったと思う。電信棒も倒れていたし、根こそぎ倒れている木もあった。

僕は、全く被害のない自分の家のことを、良かったと当然思うには思ったが、一方、変な心情が生じていて、悔しくもあった。台風一過の翌日、学校へ行くと、みんなが、瓦が飛んだ、ガラスが割れた、などなどと、自慢(?)し合っている。何の被害もなかったことが悔しかったのだ。おそらく、僕は、黙っていた。おどけ者で、しゃべり好きの少年が、無言でいるのは皆にとっても異様だっただろう。もしかしたら、よっぽどの被害があって、悲しみに打ちひしがれていると誤解されていたのかもしれない。この辺の心情は、変ではあるが、今でも理解できる。

作文で、僕は、嘘をついた。いや、正確には、作文というのは嘘を書いても良いと思っていたのだろう。小説という概念は、小学校一年生の僕には持ち合わせていなかったが、虚構を書いても良いと、勝手に思っていた。

内容で、はっきりと覚えているのは、自分の家の被害状況を克明に筆記したことだ。もちろん、被害は受けてないので、全て捏造であるが、捏造という概念すらも無い。

当時、台風が来るとなると、近所全員、全家屋が、戸板を材木で、窓や扉に、釘で打ちつけ、建物を防御した。あたりは、まるで学生運動で校舎に砦を作ったバリケードが連鎖するような風景である。あの、釘を打ち付ける響く音の記憶も濃厚だ。

僕の家も、南側の、扉や窓は、そのようにガンガンと材木を釘で打ちつけたが、何故か西側の一間ほどの引き戸だけは無防備だった。その引き戸の透明ガラス越しに、外の台風の様子が見れた。看板とか、瓦とかが、飛んでいるのも見える。雨もたたきつけていた。ずーっと、ずーっと、見ていた。

作文では、『その扉の透明ガラス越しに、外の様子を見ていると、飛んできた看板が、ガラスを割って家の中に飛び込んできた、僕達は咄嗟に逃げたので、怪我は無かったが、家の中はみずびたしになった、しかし、隣の家の陰になっていたからか、瓦一枚も飛ばなかったというのは、不幸中の幸いだった。』というようなことを書いた。そのように書けば、先生も含めて、みんなが感心すると思って書いたのだ。

案の定、その作文は、とても優れているということで、先生に褒められて、皆の前で自分で朗読させられた。とっても、自慢だったし、嘘をついている感覚は皆無だった。

蛇足かなあ。
もうひとつ、下駄箱のザラ板の話を思い出した。

小学校二年生。1961年。(ま、どうでもいいけど、僕の記憶の中では、そうなっている。1961が、反対から読んでも、1961、それに気が付いたのが小学校二年生の時、感動してみんなに言ったが、みんなは無関心だった記憶がある。)

で、小学校二年生の時、僕は、特に、美意識や道徳意識も無く、毎日、下駄箱あたりの掃除をしていた。掃除当番でも無い。そのような役割があったわけでも無い。ただ、なんとなく、毎日、掃除していた。

ホームルームか、なんか他の授業だったかは忘れた。先生が、「毎日、下駄箱の掃除をしている子がいます。素晴らしいですね。とっても良い行いです。皆もこういうこと見習って下さい。」と言った後、「やってる子は、手を挙げてください。」というので、僕は、勢いよく手を挙げた。僕は、褒められることを目的にやっていたことではないけれど、若干恥ずかしかったが、胸を張って「はい」と言って立ち上がった。

なんと、先生は、「こういう事は、黙ってやるから素晴らしいのです。人前で言うことではありません。正直に人前で言ってしまっては、駄目です。」と、言う。

僕は、手を挙げて、と言うから、素直に手を挙げたまでだった。その時、子供の時、すぐ反論はできなかったが、今から考えても、理不尽だ。

端的に言うと、僕は嘘つきは嫌いだし、嘘をつくのも嫌いだ。

 

 

 

夢素描 22

 

西島一洋

 
 

林裕己が19歳の時に、僕は彼と出会った。

 


真ん中のが、林裕己。左が関智生。一番右が西島一洋。1988年。おそらく、ED LABOへ乗り込む直前だと思う。

 

80年代半ば、だと思う。

林裕己は、茂登山清文と共に、師勝の僕の自宅にやって来た。

僕は絵描きなので、小さなぼろい家だったが、一応12畳の仕事場、つまり、アトリエがあった。ただ、アトリエとは名ばかりで、ゴミだめのようになって、そのゴミを踏みしだき二人を招き入れた。

林裕己、19歳。今でも、時折会ったりしてはいるが、不思議と、僕の中では、彼は19歳のままだ。初対面のイメージが強すぎて、未だに、19歳。

林裕己は、当時、名古屋芸術大学の学生だった。茂登山清文は僕と同い年で、美術雑誌「裸眼」を共同編集発行するメンバーの一人だった、そして、林裕己が通っている大学の教員でもあった。茂登山清文は、林裕己を僕に引き合わせたかったのだろう。ただし、その当時、茂登山清文はデザイン科に新設の造形実験コースの教員、一方、林裕己は洋画科の学生、つまり茂登山清文の直接の教え子ではない。林裕己が、学科を超えて、突出する存在だったのだろう。僕に林裕己を引き合わせたかった理由は、なんとなく分かった。茂登山清文は、林裕己を、優れた天才のアーティストと見抜いていた。

林裕己は、汚なかった。最近のホームレスは、結構身綺麗な人が多いが、いわゆる昔の乞食のようだった。ズボンは破れ、汗と油でゴテゴテになり、布では無いような準個体となって身体に纏わりついている。眼鏡の片方のレンズが複雑に割れて、それをセロハンテープで繋いである。臭かったかもしれないが、臭かったという記憶は一切ない。おそらく、見かけによらず清潔にしていたのだろう。

初対面。何を話したか忘れてしまったが、とにかく凄いやつだと思った。

数日して、夜中に、玄関の扉をどんど叩くやつがいる。インターホーンがあるのに。まあ、しょうがない、扉を開けると、おどおどとした林裕己が居た。何かあったんだろうと思って、まずは、僕の仕事場に招き入れた。

彼は、訥々と話した。

「怖いんです。下宿に帰るのが怖いんです。きっと、何か居る。怖くて帰れないから、来ました。」と、彼は言った。

本当に、幻覚や幻聴があるのだろうと察した。僕は、この時、何を彼に言ったか覚えていないが、後日というか、随分経ってから、それこそ何十年も経ってから、その時の事を、彼から聞いた記憶がある。

「今が、一番素晴らしい。」と、僕が言ったらしい。

この彼の今の心の状態、つまり幻影も見るほどに落ち込んだ精神の状態の美しさを、僕が愛でたようだ。なんとなく、そういう記憶はある。だいたい、おそらく、ぼんやりとした記憶では、僕は、村山槐多に心酔していた時期があり、デカダンスとか、そんな気風を彼から感じ取っていたのは間違いない。

その後、林裕己は、僕のところによく来るようになった。ような気がする…、というのは、記憶が途切れ途切れで、連続的な記憶として、物語のように書き起こすことができないからだ。したがって、断片的な記憶を、時系列を無視して、書こうと思う。

林裕己のところにも行った。

岩倉の石仏にある元繊維工場の女工達が暮らした木造の極めて古い寮である。この辺り、戦前から戦後にかけて、一宮を中心として、ノコギリ屋根の工場が林立し、日本の毛織物業界の中心地でもあった。戦後に化繊が勃興してからは、毛織物は衰退の一途だった。今もノコギリ屋根の工場跡は、まだ意外とたくさん残っている。女工達の寮も、探せば、まだ残っているかもしれない。

この辺りは、女工哀史の現場でもあったろう、たくさんの女工が全国から集まり、寮生活で過酷な労働を強いられていたのだろう。その女工達が住んでいた寮である。近所の子供達からはお化け屋敷と言われているとのことだった。何部屋もあり、彼以外にも寄宿しているのが数人いたと思う。

なるほど、そこはお化け屋敷といった風貌の建物と佇まいであった。彼は、草の生えた前庭のある四畳半くらいの部屋に住んでいた。前庭に面して古びた彼の自作の木の看板があったように思う。なんとか古道具屋と書いてあったかなあ。でも、人通りがあるわけではない。実際に、古びた木の車輪とか、なんか他にもこちゃこちゃ置いてあったような気がする。何せ、地元の子ども達から、お化け屋敷と言われているくらいの、ほぼ廃屋に近いという建物の風貌である。古道具屋は、ぴったり、といえば、ぴったり。

彼は、つげ義春を愛していた。正確にはつげ義春の作品の情景を愛していたのだろう。僕は今でもつげ義春の作品は好きだ。(つげ義春は、生活苦からだろうが、最近芸術院会員になって年金250万円をもらうようになった。芸術院会員を彼が受諾したことは、若干ガッカリしたが、しょうがない。病身の息子さんの介護もやっているようだ。)

電気は通っていた。彼の小さな部屋には、小さな冷蔵庫があって、そこから人参が芽を出し、ニョキニョキと育って、扉の淵から、茎や葉っぱが飛び出ていた。

風呂は無かったのだろう。名古屋芸大の近くに、西春高校というのがある。深夜、彼は、この高校のプールに、柵を乗り越えて、ここで体を洗っていた。まあ、不法侵入で、犯罪でもある。

彼の制作場は、共同部屋の、12畳か、もっとそれより大きいか、まあ、おそらく女工の寮の時代には、食堂として使っていたのかなあ、暗かった、広いのに40Wの裸電球ひとつという感じだった。共同部屋なのだが、彼がひとり独占していた。

巨大なレリーフがあった、というか、制作中であった。バルサをカッターで1センチ✖️5センチくらいに細かく切り、テーパーを作り、六角形の小さな筒を、たくさんたくさん、作っていく。漆での塗装を施したあと、組んでいく、巨大な蜂の巣作りだ。コツコツとした手作業の集積である。まさしく、自閉的行為。彼はどちらかというと、手先が不器用なのか、カッターで傷だらけになっての作業であった。この作品は、発表されたかどうか記憶にない。でも、凄いよ。本当に鬼気迫るというか凄いの一言に尽きる。

行為と痕跡、そしてその集積だ。

ただ、この巨大な蜂の巣のレリーフは、彼が、この下宿から引っ越す時に、全て、粗大ゴミで捨てたとのこと、これも凄い。命懸けで作り続けた作品を、捨てる。これは、凄いが、僕にはできない。

彼はいつも突然来る。実は当時の僕の家は名古屋芸大から近いのだ。近くにフジパンの工場もある。彼は、フジパンの工場で働いていて、白衣のまま、僕のところに来た。しかも、白衣が真っ黒け。あまりにも汚いので洗濯してあげると言って、洗濯機に放り込んだ。その頃、生まれたばかりの子供の大量のおしめの乾燥をする必要があったので、僕も貧乏だが、乾燥機があって、乾燥機にも放り込んだ。

乾くまでの間、と言いながら朝まで話したっけ、で、何を話したか、良く覚えていないが、彼の昔の作品というか、行為というか、いろいろ聞くことになった。

さて、ようやく、これからが本題かなあ。

というのは、林裕己から、今回彼と彼の家族が共同で発行しているフリーペーパーへの原稿依頼のテーマは、「80年代、90年代のパフォーマンス」ということなのだが、記憶が曖昧で、時系列で書くには難しく、林裕己について書けば、色々、記憶が蘇ってくるのではないかと思って、書き始めた次第。

林裕己は、僕のところに来る前にも色々やっていた。学生らしく、作品ファイルもあって、見せてもらった。これも内容が濃い。門のやつなんか、三丁目伸也とかぶるが、というより混同?…、まあよい、重厚で迫力ある作品の記録だった。

後天性美術結社というのがあった。林君と出会う前だ。

後天性美術結社というのは、中島智、落合竜家、原充諭。名古屋芸大の三人だ。林君とはひとつ違いの上だ。彼らの活動は、ぼんやりとは聞いていた。というのは、中島智が、「シニア研」という読書会に参加しており、僕も一緒だったから、中島智から、いろいろ聞いていた。

後天性美術結社は、名古屋の街頭や地下街などで、一年ほどで約80回の、路上行為を行なった。僕の中で記憶が混同しているかもしれないが、一度だけ見たような気がする。というのは、彼等3人はいたような気がするが、何かやっていたという記憶がない。場所はASGがらんやに続く道で、10数人が移動している。ときおり、止まり、というか止まるほどゆっくりになって、彼等3人以外で、黒い背広を着て裸足の男一人が、緩慢な動きをしながら移動して行く。その男が浜島嘉幸であった。僕の記憶ではおそらく、後天性美術結社が彼を担ぎ出したと思っている。

あと先になると思うが、名古屋芸大美術学部には、ややこしいが美術部というのがあって、部室もある、部費も出る、その当時彼等3人が、この美術クラブの中心メンバーで、その部費を使って、名古屋市博物館を借り、「場の造形」という展覧会を企画して開いていた。出品者は学生だけではなかった。堀尾貞治も参加したりしていた。後天性美術結社は、その狭間で発生したのだと思う。

後天性美術結社は、展覧会も開いている。展覧会名は忘れたが、時計仕掛けのオレンジとかガラスの動物園、という感じの語呂のタイトルだったような気がする。ふと、漬け物という言葉も去来したが、違うか。まあいい、忘れたが、結構印象に残っている。行ってはいない。だから、何も書けない。場所は三重県立美術館だった。大きなポスターも作っていたように思う。

中島智は、当時、国島征二主宰のギャラリーUで個展をした。座布団を十数枚重ね、石膏漬けにし、宙空に、吊り下げられている。白い厚手の綿布でテント小屋のようになってもいた。当時も残る家制度に対する闘いのような強烈な作品であった。美術手帖にも写真入りで取り上げられた。

中島智は、その後、アフリカと沖縄に長い間、滞在して、地元の祭りというか、その精神のありかの研究に入り、帰ってきて、東京で、確か現在、武蔵美と慶應で教鞭をとっている。分厚い本も出版している。

落合竜家は、名古屋芸大の美術学部の教員の鈴木Qと共同でアトリエを借り、制作三昧。原充諭は、今は、エビスアートギャラリーを主宰。

で、何が言いたいかというと、この後天性美術結社を勝手に一人で受け継いだのが林裕己なのだ。例の、場の造形展も引き継いでやっていたようだ。僕が林裕己と出会う前のことである。

林裕己が中心となってやった「場の造形」展の記録ファイルには、彼自身の巨大な絵画の前で裸でモヒカンガリの彼が鎮座していた。彼の話では、この時、博物館の周りに縄を張り巡らしと言うか、縄でぐるっと建物を縛り、それを引っ張る、ということや、エレベーターの中にござとちゃぶ台を持ち込み、そこでお茶を飲むとか、極めつきは、下ネタになってしまうが、会場の中心で、空き缶にウンコをする、という行為、また当時、同時並行して、友人のオートバイの後部座席に乗って、粉洗剤を、町中にばら撒く行為、公衆トイレででの大量な落書き行為、まあ、違法行為でもあるが、ということの話の中に彼がギリギリに追い詰められている精神状態を察した。

関智生。彼は、林裕己の親友である。そして、僕と同じく、林裕己の天才力を認めていた。関智生は、失恋してから抜群に良い作品を描くようになった。そして今も、優れた作品を描き続けている。イギリスの芸大に県費で留学して、三年か四年か滞在、その芸大のスリーA、つまり、最高得点で卒業。このあと書こうと思うが、彼は、体現集団Φアエッタの初期メンバーである。というか、林裕己、関智生、西島一洋の3人で体現集団Φアエッタは誕生した。

僕は、絵は仕事だと思っていたが、行為、というのか、よくゴソゴソしていたが、名称不能行為という感じで、70年代からやってきたが、あまり、仕事という意識は無かった。でも、なんとなく、次の個展のイメージがあって、案というのか、それが、蓑虫割皮、であった。

その当時、紡錘形というイメージがあって、まあ今でもあるんだけど、その紡錘形を内側から切り裂くというのをやろうと思っていた。で、具体的に個展のイメージはあった。「行為と痕跡の連続とその集積」という長ったらしいタイトルで、具体的に何をやるかというと、大量の古新聞が積んであって、まず人が包めるくらいまでの大きさまで糊でくっつける、人を包むのであるから一枚では破れてしまうので、何枚も重ね糊で貼って結構丈夫なものにする、乾燥するのに時間がかかるので、もう一つ、もう一つ、と順番に30ほど作る、で、今度は乾燥したゴテゴテして古新聞で作った物の上に、全裸で寝っ転がり、体をそれで包んで接着する、ここに紡錘形が誕生する、息穴だけは確保する、小刀を一本持ったまま包まれている、そうして、小刀で内側から切り裂いて出てくる、脱ぎ捨てた皮は、床に置く、そうして、それを30回ほど繰り返して、つまり、途中で眠くなったら、殻の中で寝る、トイレと食事のことまでは、あまり考えていなかったが、おそらく行為が何日間にも及び、おそらく一週間、連続した時間の行為になるので、その辺のところも大事だが、なんとかなるだろうとは思っていた、まあ後で考えるとして、というう若干詰めの甘いところもあったが、まあともかく、結果、30ほどの抜け殻が生ずる、それを床に、整然と並べる。まあ、ただ、それだけのアイデアだ。

いつものように、林裕己は突然来た。
そうして、「何か一緒にやりませんか」と言う。
文頭の茂登山清文が、西春にある元銀行の古い木造家屋で、ED LABOというのを立ち上げることになった。

 

ようやく、体現集団ΦAETTAの始まりの前あたりまでに辿り着いた。
連休を待って集中的に執筆しようと思ったが、集中力が続かない。
遅筆になってしまった。
若い頃は、内容はともかく、いくらでも書き進めれたが、今は、途中で止まってしまう、書き上げてからの推敲ではなく、途中に前のところを何度も読み返し訂正するという作業がやけに多いのだ。

とっくに原稿締め切りを過ぎているから、言い訳はやめよう。

今日からは、一行でも、1時間ずつでもよいから、書いて、少しでも早く、入稿できるように、頑張ります。

で、とりあえず、途中までの原稿送ります。

前に、というか、ついこの間、二ヶ月ほど前かな、浜風文庫に結構長文の原稿を書いて送ろうとしたら、コピーと間違えて、全文削除してしまった。慌てなければ復活の方法もあったのだろうが、あたふたして、何か試しているうちに、完璧に消えてしまった。がっくり。

という経験があるので、それに、いつ死ぬかもしれないし、未完成というより、書きかけの原稿だが、コピペして送ります。

2022年3月6日

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以下メモ1

林裕己の言葉。
「古い事ばかり持ち出すけど大そうじ、大目に見てね。ぼくは西島さんと出会い感激し、関智生君も加わり、体現集団アエッタが始まった。西春に茂頭山氏と教え子達(椿原章代/古橋栄二/福原隆三他)がオープンしたギャラリーにゲリラで乗り込む。アクシデントで自分の足を自分で小刀で切り七針を縫う出血、炭まみれの裸身でホワイトキューブに体当たりを繰り返した。行為中、音や時間が通常の知覚を越えた不思議な感覚の中にいた。少しだけその日のTVニュースにも映ってた。」

以下メモ2

自分のメモ。

アエッタは組織でもなく集団でもない。

◆アエッタの現場の生成に遭遇した人たち◆ 
(作成中/1988年~2009年現在) 
アエッタは行為者とその行為の現場に遭遇した人との区別をしない。場の生成が重要であって、行為者とそれを見ている人たちは同じ地平であると考えている。また遭遇した人たちというのは、自ら意志的に訪れた人もいれば、文字通りたまたま通りかかっただけの人もいるが、同じく同じ地平であると考えている。したがって、名前を把握できない人たちも、つまり通行人や素通りの人たちも、多数いるが、当然のことながらそれは省略する。 

林裕己、関智生、草壁史郎、岡本真紀、三浦幸夫、森淳、辻元彦、徳田幹也、 瀬口正樹、近藤はつえ、落合竜家、室田火とし、安井比奈子、原充諭、野中悦子、土井美奈子、竹田英昭、米谷久美子、高木康宏、関原夕子、森有礼、小川由紀子、伊藤光二、黄色原人、松澤宥、水谷勇夫、岩田正人、三頭谷鷹史、鈴木敏春、山田武司、加藤好弘、岩田信市、海上宏美、浜島嘉幸、古橋栄二、水上旬、岡崎豊廣、西島一洋、…さらに続く。

上記の遭遇人たち、これは書き出しのほんの一部で、現在記憶をたよりに可能な限り少しずつ追加作業中である。
また、上記の人たちもどこでいつアエッタに遭遇したか覚えていない人たちもいるかもしれないが、少なくとも僕(西島一洋)は覚えている。
ある行為をする人、そこに訪れた人、そこにたまたま居合わせた人、遠く離れていても交信する人、それらすべての総体によって生成される場の様態のことである。
集団のあとに空集合φを置いているのは、そういう意味である。
共同幻想としての集団の概念は否定しないが、集団であることには一切こだわっていない。
したがって、たった一人の行為の場も成立するし、行為者のいない場も成立する。
ほぼ、日常の生活と言っても過言でない。

φAETTA記録目次へ≫

【体現集団φAETTA(1988-∞)】について

1988年 西島一洋、林裕己、関智生の3名よって創始

アエッタの現場は規定を持たない。 
日常そのものが現場にもなりうる。 
したがって、記録は作成しているがおのずから十全ではない。 

集団の後ろに空集合を置く。 
したがって、上記の3名以外のアエッタも当然生成される。 
記録には100名を超えるアエッタの生成があるが、組織でもなく集団でもない。 
完璧なアナーキーな活動様態である。 

「体現」は開かれた表現の領域としてのパフォーマンスアートとは一線を画しており、 
むしろ表現という幻想の抑圧から逃れる旅を続けているといった方が適切かもしれない。

 

 

 

 

夢素描 21

 

西島一洋

 
 

水の音

 

地下道だ。古いコンクリート壁の割れ目から地下水が滲み出て、ポタリポタリと落ちている。

ポタリポタリというのは、本当の音ではない。犬がワンワン、猫がニャアニャア、蛙がケロケロなど、という常套擬音というわけでもないのだが、ポタリポタリではないことだけは確かだ。音を描写するのは難しい。

ここにしよう。近くの廃屋に寝泊まりし、ここに、七日間、日の出から日没まで、鎮座し、この水の音を筆記しよう。

地下道は、約50mが二本、十文字に交差している。その交差している少し横に、この水の滴りがある。落ちる音は、微かなのだが、わずかに地下道の洞に響いているようにも聞こえる。

水が落ちる落差は、10cmほどだから、ポチャンというより、ポタリという感じだ。音採集行為でもあるのだが、この音を正確に文字で描写することは、難しい。

ただ、僕は、ここにいて、七日間筆記行為を続ける。描写もするが、音を聞きながらの自動筆記である。文字だけでなく、記号や楽譜のようなものや絵のようなものにも変異していく。それは、意図するものでなく、落ち葉が風に吹かれて、落ち葉の溜まりを生じ、風の痕跡というか落ち葉の集積というか、そんな感じである。

地下道の壁からポタリポタリと落ちる水の音。壁に向かって、小さな黒いちゃぶ台を置く。ちゃぶ台の前に一畳ほどのござを敷く。ござの上には直径60cmの鉄球と、七日間座り続ける古い煎餅座布団。

ちゃぶ台の上には、筆記するための巻き紙。障子紙だ、幅35cm長さ20m。今は一本五百円以上もするが、当時は三百円ぐらいだった。和紙なので丈夫い。濡れても破れない。七日間の間に巻き紙何本書いたか記憶にない。おそらく、数本だと思う。

筆記具は、ペンテルの筆ペン、一応顔料インクとしたが、途中でインクが無くなってしまって、水で薄めて使った記憶がある。文房具屋に顔料インクのスペアを買いに行った記憶もある。ここの場所ではないが、雨の日は筆ペンは無理なので、油性ボールペンで筆記した時もある。ここは、地下道だから雨が降っても大丈夫。

1日目。

日の出より、水がポタリポタリと落ちている地下道の壁に向かって鎮座する。

上記の通り、鉄球とござとちゃぶ台と筆記具。これらは、ここから徒歩30分くらい離れた寝泊まりしている廃屋から、キャリーで毎日引っ張って運んでくる。そして、この地下道の、この水の落ちる場所に設置する。行為は日没まで続け、これらの道具類は、その日の行為後、片付けて、またねぐらまで持ち帰る。

そして、水の落ちる音を聞き、連綿と、巻き紙に書き続ける。草野心平の蛙の声の筆記とはちょっと違うが、まあ似たようなもんだ。違うところは、この水の音、音ばかり記述するにはあまりにも単調で、情景描写も筆記することになる。

日の出頃、つまり、この日の行為の始める頃、この地下道にお爺さんがやってきた。このお爺さんと最初何を会話したかは忘れた。このお爺さんは、毎日、早朝家を出て、この辺あたりを掃除しているとのこと。奉仕活動というか、ボランティアというか、まあ、お爺さんが勝手に毎日、毎朝掃除しているのだ。

彼が箒とちりとりは持っていた記憶はあるが、ゴミ袋の記憶はない。なんでだろう。

まあ、ともかく、このお爺さんと、毎朝、七日間、会うことになった。僕は、壁に向かって鎮座しているだけなので、しかも横に鉄球が置いてあるし、変人だろうと思われたかもしれないが、お爺さんは、気さくに僕に声をかけてくれてた。

「何やってるんですか?」とお爺さんは僕に問いかけた。僕は、ことの仔細を丁寧に答えた。お爺さんは、不思議とすぐに理解してくれて、「頑張ってください。」というエールまで貰った。

朝夕の通勤通学時間になると、普段ひとけのない地下道がこの時だけはわずかに賑やかだ。僕の後ろを、何人もの人が通り過ぎて行く。子供達は、屈託ないので、寄ってくる。「トトロを描いて」というので、分からんけどこんなもんだろうとさっさっさと描いた。鉄人28号は子供の頃から描き慣れているので、これもついでに描いた。

2日目。

お爺さんは今日も来た。みかんを三個ほどくれた。嬉しかった。

3日目。

お爺さんは、自分を描いて欲しい、と言うので、描いてあげた。巻き紙のその部分を破ってあげた。この日も、何か忘れたけどお爺さんからの差し入れがあった。

4日目。

お爺さんが、お爺さんの奥さんに、僕が描いたお爺さんの絵を見せたら、奥さんが「これをタダで貰ってきてはいけないよ。」ということで、今日、お爺さんは僕に三千円渡そうとする。僕は、「そういうつもりで描いたのではないので、受け取れない。」というと、がっくりとした顔をしていた。帰ったら、奥さんに叱られるのかもしれない、受け取っておいた方が良かったかなあと、あとで少し後悔する。

5日目。

お爺さんは、今日も一緒だった。お金は受け取れないという僕のことを気遣って、飴玉を一袋持って来た。しょうがない、ありがたく頂いた。

6日目。

お爺さんは、今日も、何かを持って来た。バナナだったかなあ。記憶は曖昧だが、とにかく、毎日の差し入れ。

7日目。

この場では、最後の日、お爺さんは、やっぱり何か持って来た。
僕は、お爺さんが帰ったあと、お爺さんのことを思って、裸になり、ふんどしを締め、鉄球を地下道の中、サラシで引っ張ってゴロゴロ転がした。その反響音は、地下道にこだました。

水は静かに、ポタリポタリと落ちていた。

 

 

 

夢素描 20

 

西島一洋

 
 

鉄球について

 

ここに直径60センチほどの鉄球がある。40年くらい前に拾った。

浅間山荘事件の時の鉄球によく似ていると思って、拾った。

名前があるというわけではないが、僕はこの鉄球に非殺生の力を感じるので、名前があるのかと聞かれると、安易にアヒンサと答えてしまっている。

中は空洞で、少し水が溜まっている。転がしたり、振ったりすると、その水が鉄球の内側を優しく撫ぜる音がする。しゅるらん、しゅるらん、しゅん、という感じの音。

重そうに見えるが、意外と軽い。展覧会のため韓国に郵送しようとして、その時に初めて重さを量った。重さ制限をこえていて、送れなかった。およそ、25kgである。

車で運ぶこともあるが、キャリーに乗せて歩いて運ぶ事が多い。国内だけでなく、ニューヨークやサンフランシスコなどの行為の時にもキャリーで持っていった。

晒し木綿を括り付けて、運ぶというか、転がしながら一緒に歩くという時もある。夏の炎天下、自宅から犬山のキワマリ荘まで17km、五条川を歩きながら鉄球を引っ張りながら遡ったこともある。翌日、強烈な歯痛。歯医者に直行。奥歯を噛み締めすぎて、溜まっていた歯石が歯茎に食い込んでいるとのことだった。

余談だが、子供の時から、歯磨きの習慣が無く、それでも虫歯が一本も無いというのが自慢の種だった。歯石が溜まっているのは知っていた。というよりも、歯石が溜まって、時折、その塊がゴソっと取れる時の快感に至福を感じていたくらいだった。このキワマリ荘までの17kmをきっかけに、歯を磨くようになった。歯間ブラシも使う。一転変わって、今や歯磨きの快感を享受することになった。

鉄球に戻る。

40年ほど前に、北陸、福井の原発内の浜で拾った。漂着物である。高いフェンスで覆われた立ち入り禁止の浜だった。

原発で勤めている絵描きの友人がいて、原発内の浜が美しいということで、10人くらいだったかな、写生会となった。

僕は元より原発に反対であるし、放射能も怖かったから、参加したくは無かったが、つい押し流されて、その浜に入ってしまった。浜に入る前に、原発の施設を通過しなければならない。被曝の計測の装置があり、入る時と出る時にチェックがあった。

押し流されているという軟弱な自分に対しての自己嫌悪は強くあった。

確かに美しい浜だった。両抱えできないほどの、極太の老松が浜にたくさん連なって林になっていた。土地名も美浜という。原発の立地は、もともと人口が少なく、したがって人に汚染されていない風光明媚な場所ということになる。原発は、そういうところに作るのだ。人口が少ないから反対する人も少ない。原発ができてからは、さらに人が訪れることもなく、浜は、時の痕跡を逆説的だが自然な形で残している。

写生会ということだったが、僕は絵を描く気には全くならない。浜をうろうろしていると、さまざまな漂着物がある。大砲の弾のようなものもある。なんの道具か、もしかしたら兵器の朽ちたものか、やたら錆びた鉄製のものが多い。大陸から日本海の浜に流れ着いたのだろう。

で、そのような雑多な漂着物の中に、この鉄球があった。

浅間山荘の鉄球をすぐに連想した。僕はほとんど無意味にこの鉄球を持って帰ろうと思った。しかし、この原発の浜は、フェンスに囲われており、監視カメラもある。持ち出すことは困難だと思われたが、意外にすんなりとフェンス外に持ち出す事ができて、誰かの車に積んだ。まあ、原発で働いてる友人の知り合いという事で、監視もあまかったのだろう。

で、福井から名古屋に持って帰ってきたものの、この鉄球自体が放射能に汚染されていないか、心配だった。

したがって、おためごかしかもしれないが、家族とは少し離れた、自宅裏にある三階建ての建物の屋上に置いていた。

ここからが若干複雑になる。

(複雑になる前に、さらに複雑な言い訳というか、成り行きとというか、まあ、孑孑彷徨変異というか。夢素描について、少し説明したい。端的に言うと、夢日記では無い。夢の記憶を辿る時の、思考回路を援用し、現実の記憶を構築する行為だ。したがって、夢そのものを筆記するときもあれば、夢でなく現実を筆記するときもある。この作業は同じ地平なのだ。端的にと言いながら、さらに分かりにくいかもしれないが、自分の思考回路というか、感覚に嘘はない。まあこれ以上、とりあえず今は説明しない。時間さえあれば、ちゃんと説明できるということだ。素描だから作品概念は無いものの対象化の作業はできるだけしている。)

鉄球を拾った当時、1980年代前半頃だと思う、僕は、飯田美研との濃厚な交流があり、彼等の考え方に強い影響を受けてもいた。

飯田美研というのは、長野県飯田及び豊丘村とかその周辺の現代美術家の活動体である。西村誠英と木下以知夫がその中核か。

西村誠英は、メールアートを通じて各国から紙片の廃物を集め、そこに文字(漢字の「死」の上に何か記号が書いてある)を書き埋め尽くし、それを細かく破っては、さらに糊でくっつけ、さらにそれを破り、それを繰り返すという作業(行為)を連綿と続けていた。西田哲学に強い影響を受けていたと思う。

木下以知夫は、廃物となったガードレールを山から拾ってきて、それを大きなハンマーを全身で叩きつけるという作業(行為)を連綿と続けていた。禅の思想が背景にあったのかもしれない。ある時作業中に、突然、柿の実が、自分の首筋後ろに落ちた時に「覚」があったとのこと、これは僕でもなんとなく分かる。

彼等飯田美研は、なぜ、こんな行為を続けているのか、僕なりに、よく分かっていた(つもり)。

彼等飯田美研は廃物、とりわけ人工廃物と、対話(闘って)していた。長崎や広島の原爆についても、人の営為の虚しさと限界について語っていたように思う。いや、もっと深い。

彼等飯田美研は、やたらと造語を使うので、とても難解だ。特に、書かれた長文の文章を読み解くには相当のエネルギーを要する。僕が、無学だからかもしれない。でも、僕は、感覚的に、飯田美研の言っていることを、断片的にせよ理解していた。

例えば、彼等飯田美研の言う「物力(ぶつりょく)」。

よく見ると、目の前にあるもの、そしてその周辺、さらにはそれを取り囲むものは、全て人工物で横溢している。全て人間が人間のために作ったものだ。まあ、厳密に言えば、作ったと言うより加工したものだ。

具体的に言うと、今、これを書いている状況では、手の先にiPad、それを支える空き箱、空き箱に入った飲み残した薬、消しゴム、ペン、すぐ横にはコンセントがいくつも刺さった電源、ちょと奥に目をやれば、ビデオカメラを修理しようとして本体から外した極小のビス、刺身皿大の陶器皿五個に分類して入っている、その横に冬だから使っていない電気蚊取り線香、上の棚に目をやれば、置き時計、ふと横を見れば、ベランダの掃き出し窓、その窓の向こうには、道をはさんで3階建てのマンションのまどのあかり。

何が言いたいかと言うと、生活用品も家も道路も人間のためにだけ存在させられている。彼等飯田美研の論法で言えば、物が人間の抑圧を受けて存在している。物力は封じ込められている。かなり分かりにくいかなあ。でも、僕は分かる。

ゴミとは人工廃物。人間が人間のために自然を加工して、人間が使用し、そして要らなくなって、打ち捨てられたもの。

彼等飯田美研はそこに、人工廃物に、物力が生じると言う。つまり、人間の抑圧を受け続けてきた物が、ゴミとなることによって、人間の抑圧から解放されて、本来の物力を取り戻すのだ。ゴミは人間にとっては廃物だが、物にとっては人間の抑圧からの自由解放で、本来の物力が生じるのだ。彼等飯田美研はその物力をリスペクトする。

だから、彼等飯田美研は、ゴミのリサイクルもジャンクアートも否定する。リサイクルは、ゴミとなってせっかく人間の用を離れて自由になったのに、もう一度人間の束縛を受けなければならない。ジャンクアートも然りである。せっかく自由になった物を拾い集めて、再びアートという人間の勝手な幻想のもとに束縛を与える、この矛盾。彼等は、愚直にも廃人となって、ゴミとの直接の対話の行為を選んだ。ジャンクアートではない。僕はそれが正しいと思う。とても苦しい修行のような行為だ。

僕は鉄球を拾った。

拾った時点でもう、間違いを犯していたかもしれない。せっかく人間の抑圧から逃れて自由になって、海を漂い、たまたま海岸で休んでいたのだろう。それを、僕が、拾って、無理矢理、福井から名古屋に持ち帰った。

安易だった。街の中をゴロゴロ転がせば面白いかなあ、その程度だった。

だが、飯田美研の人工廃物に対しての接し方を見ていたから、僕は、持ち帰った鉄球を側に置きながら、何もすることができなかった。鉄球との対話はした。自己問答のようなものではあるが、僕はまさしく鉄球と対話していた。

対話は続けていたが、何も出来ずに、五年程が経過した。僕にできることは、もう、海に還すしかない。というより、そのつもりになっていた。

五年ほど経過した頃に、ある展覧会があった。北川フラムが日本での受け入れ先となった「アパルトヘイト否!国際美術展」である。美術展の経緯や内容の説明は省くが、この展覧会は世界だけでなく日本では各地を巡回した。

名古屋展では僕が受け入れの事務局的な役割になってしまった。なってしまったというのは、当初市民運動家達中心の運営の催し物にということで、動き始めたけれど、彼らの動きに無理があって、結局美術家達側の僕が動かざるをえなかった。マネージメントとか、本当に大変だった。心身ともにクタクタになったし、もう二度とこのようなことに関わりたくないとさえ思った。

ただ、名古屋展は、この国際美術展を受け入れるだけでなく、同時に名古屋の美術家に呼びかけて、同時にメッセージを発信したいと思った。そして、「from our hearts」という展覧会を企画した。これは、事前に岐阜の美術館や名古屋のギャラリーで開催し、さらに国際展の行った名古屋国際センターで同時開催した。おそらく国際的にも異例なことだったと思うが、単にこの国際美術展を受け入れるだけでなく、自らも発信したいという想いが形になったのだと思う。

で、その美術展に、自分の等身大の人形を作り、その人形の上に鉄球をおいた。人形は寝っ転がって、鉄球を抱えている。正確にいうと、三回あった美術展のギャラリーでの時に出品した椅子の上に座っている人形を、最終の国際センターでの展示には寝っ転がして、鉄球をポンと置いた。

ポンと置いた時に、5年間対話していたことが少し分かった。僕は今まで、この鉄球と対話と言いながら、対等ではなく、僕の所持品としての物(ぶつ)だった。でも、この時、理屈ではなく、吹っ切れた。僕はこれまでこの鉄球を所持品と思っていた。それが違うということが分かった。

所持品という概念はすっ飛んでしまった。もっと言えば、主従の関係で言えば、一緒にいる時は、鉄球が主であり、僕が従であるという感じかな。できれば対等でいたいが、何故かしらまだ鉄球はそれを許してくれてはいない。まあ、僕としては、側に居させてくれているだけで嬉しい。僕の鉄球と関わる一連の行為は、追悼と懺悔である。追悼は永遠、懺悔は無限。

吹っ切れた僕は、それまでと一転打って変わって、鉄球を相当手荒く扱うようになった。一日中晒しで引っ張って、路上を転がしたり、建物の屋上からぶん投げたこともある。丈夫な鉄球であるが、結果、長年の間にかなり傷ついて、でこぼこになってきた。

最近はあまり見ていないが、10年くらい前だったか、何度か続けざまに、鉄球の夢を見た。そのほとんどが、鉄球が、紙風船がしぼむように、クシャクシャになってしまうという夢だった。

40年も一緒に居ると情が湧く。今でも路上を転がしたりはするが、昔よりは丁寧に優しく接している。

 

 

 

夢素描 19

 

西島一洋

 
 

死、その2

 

カヌーを見ると死んだ水野を思い出す。先程、僕が運転する4トン車の左横に信号で止まった赤い車。ルーフに赤いカヌーが一艘、ちょんと載っかっている。

水野は僕のひとつ下。高校の時、美術クラブで一緒だった。呑気なやつだった。喋り方もおっとりしている。「暑いなあ!」と言うと、必ず「夏だも…」と、若干だみ声で返ってくる。とりつくしまのないやつだ。

高校を卒業してからは、滅多に会うことはなかった。風の噂で、奈良でカヌーの小さな店を開いているということは、聴いていた。

いつだったか、夕刻、テレビをぼんやりと見ていると、唐突と言えばその通りだが、彼の死がニュースで流れていた。チャンネルを変えても、あちらこちらで流れていた。

彼はカヌーのツアーを主催していて、カヌーで沖に出たところ、参加者の一人が帰ってこなかった、彼はその人の助命と探索をするために再び一人で沖に出て行った、そして、その参加者は無事戻ってきたが、彼は戻ってこれなかった、彼は死んだ。責任を感じて必死に探したのだろう。

彼の死骸は相当傷んでいたらしいが、通夜での棺桶の中の、仰向けになった彼は、若干フランケンシュタイン状態ではあったが、それなりに綺麗に修復されていた。

さて、それが、いつだったか、記憶を順に辿って行こう。

昔であることには違いないが、大雑把に簡単に、そしてあっさりと「昔」…、ということで落着するわけには、いかない。「昔」でお茶を濁すことは許されない。つまり、その記憶の厚量というか、その濃厚さは尋常ではない。

おそらく、自分以外にとってはどうでも良いことに違いない。だが、いつだったか、が、気になる。

で、そのどうでも良いことをだらだらと書く。

僕が、あの家に住み始めたのは、二十九歳の時。長女が生まれる僅か数ヶ月前。長女が生まれたのが、1983年。その頃、僕はテレビを意図的に見ていなかった。

僕は基本的にテレビ嫌い、正確に言うとテレビは苦手、というよりも、テレビは僕の性質に合っていない。

どういうことかというと、一旦、スイッチを入れて、テレビを見始めると、何も手につかない、テレビに没頭してしまう、ただぼんやりと見ているだけなのだが、テレビを見ることしかできない、釘付けになってしまう。

しかも、何時間も何時間も離れることが出来ない。見たくもない番組でも釘付けになってしまう。完璧なテレビ依存症なのだと思う。だから、鼻っからテレビを見ない。

僕は、あの家に行ってから、テレビは持っていたが、アンテナも繋がなければ、もちろん電源も。

あの家に行ってから三年が経った。何故、三年というのを覚えているかというと、長女が女房の腹にいる時、あの家に住むようになった。そして、その長女が生まれ、三歳になった時、テレビ愛知の開局で、気になっていた写真家(名前が出てこない)が出るというので、それを見るだけのためにテレビをアンテナに繋いだ。

長女は、この時、三歳になって、実質テレビを初めて見る体験をした。実家とか、友達の家とかで、僅かな時間ではあるが、見る体験はしていたと思うので、テレビそのものの存在を知らなかったわけではない。

しかし、テレビの映像を見るという行為は、彼女にとっては強烈だった。テレビの映像に釘付けになって、動かない。まなこを見開いて、ただ、ただ、見入っている。

あまりにも、まばたきをしないので長女に、「目をパチパチとしなさい。」と言うと、自分の小さな両手を平手にし、目をバチバチと叩いた。

と、言うことは、つまり水野が死んだニュースを見たのは、1986年以降ということになる。ただ、僕の記憶では、僕は、ぼんやりとテレビを眺めていた。見入ってはいなかった。

まあ、記憶を辿るのはここまでか。

この頃は、体現集団ΦA ETTAの草創期、美術雑誌裸眼の編集発行や、アパルトヘイト否国際美術展の運営など、精力的に動いていた時期でもあった。

いずれにしても、水野は死んだ。ただ、それだけのことである。

下の名前が思い出せないので書かずにいたが、思い出した。三郎、さぶろうである。水野三郎か…。

水野のひとつ年上、山田省吾というのも死んだ。つい最近のことだ。つい最近と言っても、僕は知らなかった。

山田省吾は、僕の中では友人の中で濃厚な関係を持った一人、トップスリーの内に入る。つまり僕の親友三人衆のうちの一人である。

なのに、省吾を死んだことを知らなかった。

今年、つまり2021年の春だった。僕は、花粉症をこじらせて、苦しかった。それに加えて、虫歯が化膿し、鼻から脳天にかけての強い痛み。熱も37度5分越え、それが三日以上続き、ついには38度5分以上の高熱も出た。

一般の医者がもうやっている時間でもなかったので、時間外もやっている済衆館病院に電話をすると、高熱で新型コロナの可能性もあるからか、対応できないとのこと。結局、救急を通じて、小牧市民病院を紹介してもらい、診察してもらった。新型コロナの検査をしたわけではないが、症状から、副鼻腔炎、つまり蓄膿をこじらせていると診断され、翌日、町医者の耳鼻科に行った。

翌日のニュースで、昨夜最初に問い合わせて断られた済衆館病院で、昨日新型コロナの院内感染があり、数人が感染したらしい。それで、昨夜の済衆館病院の電話の応対が変だったのだろう。

副鼻腔炎だけではなく、虫歯の痛みも酷かったので、歯医者にも行った。歯医者は、その後、治療のため何回も通った。

何回目だったか忘れたが、その歯医者で、高校の時の同窓生、西安秀明にばったりあった。彼は、近くに住んではいるが、滅多に会うことはない。

西安は、「久しぶりだなあ」の後の開口一番、「省吾が死んだこと知ってる?」と言う。僕は知らなかった、唐突だった。

省吾というのは、山田省吾、高校時代の美術部で一緒だった。高校を卒業してからも受験のため、名古屋亀島にあるYAG美術研究所に何年かは一緒に通った。

何故か、苗字では呼ばなかった。山田とか、山田君とかと、そのように呼んだ記憶が全く無い。呼び捨てで、省吾だった。

あとで、西安が、省吾が死んだ日と死因をメールで送ってくれた。死亡日は前年2020年の11月2日、死因は胆嚢癌。

省吾は片目、つまり隻眼だった。どちらの目かは忘れた。すこぶる画面の中のヴァルールが整った美しい絵を描くやつだった。天性のものがあった。

僕が勝手に推察するには、片目の人は、両目で見るような立体感というか空間の三次元性が希薄だ。もちろん、片目でも、体を動かして、目の位置をどんどん変えれば、立体的空間感は把握出来る。両目が見える人は、常に、物が立体的に見えるのだ。意識せずとも。僕が思うには、この立体的な空間感に惑わされて、画面全体の調子とかヴァルールとかが狂ってくるのだと思う。

ともかく、省吾は死んだ。ただ、それだけのことである。もう会えない。それも、ただ、それだけのことである。

歯医者で同じ西安に、今度は僕の方からの死の情報「平松が死んだこと知っている?」と言った。彼は知らなかった。

平松明は、省吾と同じく、僕の中ではトップスリーの友人の一人だ。死亡日は2021年1月27日、死因は間質性肺炎。葬式は家族葬ということで行っていない。

平松は、小学校も、中学校も、高校も一緒だった。しかも、すぐ近くに住んでいた。しかし、不思議なことに、小学校も、中学校も、高校も、彼との付き合いは、皆無に限りなく近いほど、ほとんど無かった。

平松と付き合い始めるようになったのは、十九歳の頃だったと思う。僕は、飯田街道沿いの木造モルタル造りの古い六畳一部屋のアパートに住んでいた。

ある朝…、だったか、ある夜だったか、忘れた。部屋の出入り口の扉を中から開けると、暗い木の廊下に、汚い男が一人うずくまっていた。それが、平松明だった。

「帰って来た。」と彼は言った。「もう何時間もここに居た。」とも言った。状況はうまく掴めなかったが、とりあえず、僕は、彼を部屋の中に招き入れた。

ゆっくり、話を聞くと、彼は、東京から自転車で野宿しながら、ここに辿り着いたとのことだった。生家はすぐ近くなのに、何故家に帰らずに、僕のところの、しかも廊下なのか。僕の部屋のドアをトントンすることもなく。まあ、その辺は、いい感じということで端折ります。

彼は、東京の明治大学に通っていたのだが、自らの意思で中退したとのことだった。学生運動の内ゲバで、明治大学の校門のところ、目の前で、ツルハシでヘルメットの上から突き通し、つまり、そういう殺人現場を見たことや、学生運動の追い詰められた過激で情緒不安定な状況を話してくれた。

それからは、僕は同性愛者ではないが、男の裸が好きで、彼は僕の絵のモデルを快く引き受けてくれて、彼の裸をたくさん描いた。

平松明は多彩なやつだった。物言いは、ゆっくりおっとりしている、声は低く大きい。

その後、平松明と、彼の友人日置真紗人と、僕の三人で、ぴしっぷる考房という生活共同体を作った。雑誌ぴしっぷるを編集発行し名古屋の文化を担うくらいの思い入れと勢いがあったが、赤字が続き、主にデザインと印刷で収入を得ていた。三年ほどは続いたが、仕事も乏しく、生活も苦しく、解体した。

平松は、百貨店丸栄の奉仕課、つまりエレベーターガールと結婚して、五人くらいの子供を作った。

いつからか、あまり会うことが無くなった。いつだったか、そう、おそらく、水野が死んだ頃と同じ頃だったと思う、久しぶりに彼から電話があった。「躁鬱病なんだ。笑うことが全く出来なくなった。」この言葉は、不思議と今も覚えている。

そうか、平松明も山田省吾も死んだのか。そうなると、あと一人か。つまり、僕の中での、親友三人のうちの二人が死んだ。あと一人は生きているのだろうか。あと一人というのは、後藤久彰である。

後藤に連絡をした。後藤久彰は生きていた。彼は、平松の死も、省吾の死も、知らなかった。

生きてて良かった。もしかして、死んでるかしらんとも思っていた。まあ、彼についても、書きたいことは山ほどあるが、生きていたので、端折ります。

ただ、一言、彼、つまり後藤久彰は、優れて良い絵を描く。今は、描いていないかもしれぬ。

後藤久彰は生きていた。ただ、それだけのことだ。

 

 

 

夢素描 18

 

西島一洋

 
 

汚泥の夢

 

あまり書きたくない。
したがって読みたくもないだろう。
しかし、夢の記憶の中で重きを置いているので、通過儀礼としても書かなければならない。

とても多い。
夢の中のかなりの比重を占めている。
したがっていろんなパターンがある。

大きく分けると、ふたつ。
ひとつは、トイレを探している。
ふたつめは、汚泥の中を泳いでいる。
筆は進まないのに、膨大な夢の記憶がある。
しょうがないので、それぞれに三つづつ書くことにしよう。
三つということに特に意味はない。

トイレを探している。
その1。
その2。
その3。

汚泥の中を泳いでいる。
その1。
川、運河、人工河川。
流されてゆく。

その2。
その3。

と、ここまでというか、後で書こうと思い、題目だけメモった。元々筆が進まないので、ぼんやりとした時間だけが進む。

ふと、たけちゃんのことを書こうと思う。

たけちゃんのうちは貧乏だった。
トイレが、うちの外にあった。
便器は大きな壺で、壺の三分の二くらいが土に埋まっていた。
扉はあったが、腰扉だった。
僕はここで用を足したことはないが、ほぼ野糞と変わらない。
田舎ではない。家の前は飯田街道、角地なのでトイレのある方も道に塩付通に面している。人の往来は多い。

たけちゃんは、僕の小学校の時の同級生、僕のうちから飯田街道を挟んで向こう三軒に住んでいた。小学校の時のと接頭語を付けたのには意味がある。たけちゃんは中学生になったのかどうか記憶が無い。たけちゃんは、その辺あたり、つまり小学生から中学生になるはざま、春休みでは無いが、小学校卒業してから中学校が始まるそのはざま、そして中学校が始まっても中学生としてのたけちゃんの記憶は無い。もうすでに中学校に通う体力が無かったのか、そしてそのはざまあたりにたけちゃんは死んだ。死因は栄養失調だった。たけちゃんは映画どですかでんに出てくる主役の少年に姿形がとても良く似ている。

計算すると、たけちゃんが死んだのは1965年くらいかな。僕がたけちゃんのうちの前に引っ越したのは、小学校に上がると同時だったから、六年間ぐらいは一緒によく遊んだ。

たけちゃんは六年生の時、突然引っ越しをした。正確にはたけちゃんの家族全員が引っ越しをした。

と、ここまで書いて、たけちゃんのことを書いたメモがあることを思い出し、iPad のメモ内をたけちゃんで検索してみると、見つかった。今回は、排便つながりで、たけちゃんのうちのトイレの記憶から、たけちゃんのことを書こうと思ったが、見つかったメモとほぼ同じなので、それをそのままコピーして貼り付けます。重複した箇所や、たけちゃんのうちの便器のことを壺と言ったり、甕と言ったりしているが、これから書こうとする内容がほぼ一致しているので。ややこしいが、こうやって、記憶を辿るという行為は、夢の記憶を辿ることと同じことだと思っている。たまたま見つかったのはiPad のメモ内だが、僕の記憶では、それとは別にさらに過去に数回は書いた記憶があるので、そのメモも探したい。単なる白紙に書いたメモや、原稿用紙のもあると思う。

以下が今回見つけた昔に書いたたけちゃんのことについてのメモです。(どうやら、この時の記憶のきっかけは、傘だったようです。)

『もちろん、僕らが学校に通う時は、番傘の子はいなかったと思う。蝙蝠傘、黒くて、厚い布の濡れるとけっこう重いやつです。
向かいのたけちゃんの家が蝙蝠傘の修理屋だった。たけちゃんとはよく遊んだ。
でも、傘を直してもらった記憶もないし、おそらく、そういうことになっていただけのような気がする。
気がするというか、大人になってみて、分かった。
たけちゃんの家は知らない男の人たちが、入れ替わり出入りしていた。
たけちゃんのお母さんは売春婦で、売春宿だったんだ。
トイレは、外に甕が埋めてあって、それだけだった。一応扉はついていたが、腰までの扉だった。
たけちゃん一家は、僕たちが12歳くらいの時、引っ越しをした。川名中学校の近くにあるアパートだった。役場が、貧困家庭用に用意した施設でもあった。
ぼくも中学生になって、川名中学校に通うようになって、たけちゃんの家に行ったこともある。小綺麗だった。
数ヶ月後に、たけちゃんは死んだ。栄養失調とのことだった。
ちょっと戻る。
たけちゃんが、引っ越ししたあと、たけちゃんの家が解体される前に、同い年の友達数人で、探検に行った。探検というより、ボロ屋に入るのは子供達にとっては単に面白い遊びだった。
腐った畳というか、土のたたきというか、あまり区別もできないほど、建物の中は荒れ果てていたが、おそらく、一家はたけちゃんを入れて5人くらい。こんなところで生活していたんだ。考えてみると、たけちゃんとはよく遊んだが、家の中に入ったことはなかった。
ただ、僕たちは、嬉々となって、探索すると、大量の注射針が見つかった。僕たちは、宝物を探し当てたように、腐った畳や土をほじくってはいっぱい集めた。
大人になって考えてみると、おそらくは、たけちゃんのお父さんとかお母さんは、ヘロインとかヒロポンの中毒者だったのだろう。』

以上が昔、たけちゃんについて書いたメモ。

相変わらず、汚泥の夢の記憶については筆が進まない。
しかし、なぜ、たけちゃんのことを思い出したのだろう。
やはり、たけちゃんのうちの便器…だろうなあ。

 

 

 

夢素描 17

 

西島一洋

 
 

富岡荘物語 その2

 

夏の夜。深夜、午前二時頃だった。

5キロほど離れたところにある銭湯の帰り。自転車だった。パトカーに追い回され、富岡荘の路地に逃げ込んだ。別に何も悪いことをやってはいないので、「その自転車止まりなさい」というパトカーからの声を完全無視、逃げ切ったか…と一瞬思った。

しかし、警官数人はパトカーからかけ降り、狭い路地にドタドタと入って来た。警官達はしつこく、狭い暗い階段を駆け上がり、僕の部屋の前までくっついて来た。富岡荘二階の5号室が僕の部屋だ。警官達は何か言っていたが、僕は一切無視を通した。僕が鍵を開けると、警官達はバツが悪そうに目を見合わせ立ち止まったが、謝りもせずのそのそと帰って行った。

実言うと、この時、若干、警官を挑発していた。たまたま遭遇したパトカーを見て、わざと一気に自転車のスピードを上げたのだ。自宅の富岡荘のすぐそばだったこともある。このところ、職務質問ばかり何度も受けて辟易していた。ほんとうに面倒臭いとその都度思っていた。

また今回、挑発行為に及んだのは、度重なる職務質問の少し前に、理不尽な警官と口争いだが喧嘩したことがあったので、潜在意識として、警官に対する不信感が募っていたからであろう。

それは、深夜、銭湯に向かう時に警官に呼び止められた時のことである。深夜二時までやっている銭湯、ただ、急がないと閉まってしまう時刻だった。

僕はその当時、朝10時から夕刻6時までは松坂屋というデパートの電気売り場の店員として働いていて、その後ほぼ連続で、夕刻6時過ぎから深夜1時くらいまで大統領というキャバレーでボーイとして働いていた。

毎日、長時間汗だくで働いているので、風呂には入りたい。風呂が唯一の心身復活の場である。アパート富岡荘には風呂は無い。つまり銭湯に行くのが必須でもあった。

ただ、近くの銭湯は、12時過ぎには閉まってしまう。5キロほど離れたところにある銭湯は午前2時までやっている。仕事を終えてからでも間に合う。でも、ギリギリなのだ。

その銭湯に自転車で向かう深夜、同じく自転車の警官に呼び止められた。銭湯が閉まる時間ギリギリなので、職務質問に付き合っている時間は無い。ということで、とにかく銭湯まで一緒に来て、僕が風呂から出て来るまで待ってくれ、と伝えたが、意に解さない。押し問答で、とうとう喧嘩になった。結局、あの日銭湯に行けたかどうか、記憶に無い。記憶にあるのは、あの警官の言い草。「俺は今警官だが、もとヤクザだった。」ということで、なんか脅しを感じたこと、それに、こんなことに時間を費やして風呂に入ることもできなくなることに、僕は完全に腹を立て、「許せん」ということで、殴りはしなかったが殴る寸前までいった。結局は、仲直りして、握手までしたが、おそらく、銭湯の閉店時間には間に合わなかったと思う。

ということで、このところ、警官に対して、不信感というか、形一片で、融通が効かんという、なんとも理不尽さを実感していたので、先の、警官挑発に至った次第である。

で、この富岡荘の、狭い暗い急な階段のすぐ上には、和式便所が二つ。木のドアで、いわゆる鍵は無く、内側から小さな真鍮製のフックをかける。

で、この便所から派生する、排泄の夢の記憶を辿ってみようと思い、警官云々を前書きにした。

排泄の夢の記憶は、次回にしよう。

 

 

 

夢素描 16

 

西島一洋

 
 

部屋

 

十九歳から五年ほど、木造モルタルアパートの二階に住んでいた。六畳一部屋で、西側の窓の突き出しが、洗面台というか流し台というか、ガスコンロも置ける台になっている。一畳ほどの押し入れもある。南側にも窓がある。陽当たりは良い。一ヶ月の家賃は確か七千円だった。

南の窓の下は、飯田街道で、車だけでなく人の通りも多い。窓の正面はアイスキャンディー屋だ。売ってはいるが、主に菓子屋向けのアイスキャンディー製造所だ。そして、そこは三叉路でもあり、名古屋の市バスの停留所が往復で四つもある。つまり、窓下はバス停、とても交通の便が良いということだ。

部屋の真下の一階は饅頭屋だったが、息子の代になって途中で洋菓子店になった。洋菓子店になった時はびっくりした。通っていた美術研究所から夜に帰ると、南の窓がオレンジ色のテントで覆われている。スチールの骨組みに張った本格的なビニールテントである。もちろん、洋菓子店の店名のロゴも描いてある。朝になると、悲惨だった。部屋の中がオレンジ色なのだ。もちろんすぐに取り外してもらった。

西側の窓の下は路地というか狭い通路になっている。この通路の奥には、別棟のやはり木造モルタルのアパートがある。ここも人の出入りは多い。この路地を挟んで三階建ての鉄筋コンクリートの建物がある。美容院だ。一階が駐車場で、二階が美容室になっていて、三階は店の主人と家族、それから住み込みの若い女性従業員数人が住んでいる。西の窓と美容室の窓とは対面で、僕の部屋からは美容室の中がすっかり見えた。

深夜のある時、覗くつもりでもなく、ふと見ると、若い女性従業員が淡い黄色のネグリジェ姿で鏡に向かって髪を研いでいる。しかも、衣服に落ちた毛を払おうとしたのか、裾をまくし上げ、下半身が露わになった。僕は慌てて、部屋の電球を消した。

東隣の男性の部屋からは深夜、麻雀の音がする。北隣の女性の部屋からは男女のまぐあいの声がする。そして、床下からの洋菓子店のバニラの匂いが部屋を充満している。

ベッドは自作だった。1センチ厚のベニア板で造った。とこ下は、収納スペースだった。寝れれば良いので、市販のベットより幅はぐんと狭い。そのかわりと言ってはなんだが長さは充分にある。このベッドの上に敷く布団は、古い布団をはさみでジョキジョキ切って、縫って繕った。可動式の簡単な手すりもつけ、ベットから落ちないように工夫もした。

このベッドはそのまま飛ぶこともできた。寝たまま、宙空に浮かび、飛び交うことができた。

寝っ転がった状態で、足元の向こうが、ドアだ。このドアには、小さなガラスがはまっている。20センチ✖️30センチくらいの縦型長方形。すりガラスではないけれど、ギザギザのガラス。このガラスには、女性を僕が描いた肖像が貼ってあった。その女性とは現在の妻である。

どっと、今に跳ぶ。

寝っ転がって、目を瞑る。
そうして、あの部屋の、あの、空間感を、イメージしてみる。
そうすると、あの、出窓の台所も、ドアの向こうの黒光りした短い廊下も、ボロボロとあちこちが落ちてくる土壁も、南側窓下の群衆の強烈な労働歌も、畳、そういえば、鏡、自画像を描くために壁に取り付けた大きな鏡板、1メートル✖️2メートルくらい、大枚をはたいて買った、西側の窓が部屋の内側に突然倒れた、ガスコンロに長いホースをつけて、部屋の中央で焼肉中、びっくり、布団の下に、一万円札を何枚も並べてはさんで、ちり紙交換で、最初の月は二十万円、次の月は三十万円、古新聞紙、1キロ三十円した時だった、それにしても、バニラの匂いはきついなあ、麻雀の音も一声かけてくれればいいのに、あーうるさい、うるさい、まぐあいの声はしょうがない、それにしても、こっから、飛べるのかしらん、よし、飛ぼう、で、というか、このベッドだと、簡単に宙空に浮かぶ、そして、天空に、スイ、スイーッと、…。

そんなところかな。

入子状という言葉の意味を知らない。
知ろうとも思わない。

奥に、もう一つの部屋があって、その部屋はやけに広い。
というか、その部屋の向こうに、さらにもう一つ部屋があって、その部屋は押し入れのように狭いし、ベニア板でかこまれていて、極めて殺風景なのだが、そこに寄り添うことにする。

なぜか、暖かい。
ただ、光はない。

 

 

 

夢素描 15

 

西島一洋

 
 

野原(草叢)

 

牛蛙が鳴いている。
断続的にあちらから、こちらから。

断続的ではあるが、そのひとつひとつの声は、長い。

低いのもあるが、時折間違えたように、高いのもある。
高いというか、突っかかったようで、
間歇泉のように、不規則だ。

おそらく、一度だけ食べたことがある。
一度だけだ。
もうニ度と食べたくないと思ったわけでは無い。
普通にうまかった。
でも、食べるときに、あの声は聴こえなかった。
心の中でも聴こえなかった。

牛蛙の姿は知っている。
捕まえたこともある。
殿様蛙の色を鈍くしたような感じで、確かにデカイ。
これを見て食欲は湧かない。

牛蛙は本当に牛が鳴いているような声を出して鳴く。
低く、大きい。
夕刻というか、日没後の薄明かりのなかで、壮絶に鳴き合う。合唱ではないが、地から盛り上がったようなうねりがある。

でも、静かだ。
確かに鳴いていてうるさいはずなのに、静寂を感じてしまうのは何故だろう。
もとより、この声は無かったのではないか。
幻聴ではないか。

幻聴だ。
幻聴だ。
正しく幻聴だ。

耳鳴りみたいなものか。
大きくあくびをしよう。
できるだけゆっくりと。

肩が痛い。
腰も痛い。
膝も痛い。

風呂に入るか。
水風呂か、湯風呂かで迷う。
面倒なので、もう一度寝よう。

とっくに、牛蛙はいなくなった。

もう一度牛蛙の夢を見よう。
草叢を歩くところから。
いや、自転車でも良い。

牛蛙はもう居なくなった。
だから、声も無くなった。

もう一度、草叢だ。
夕暮れ。
といっても太陽はすでに沈んだ。
沈んだことに気がつかなかった。

遠くの方に、かろうじて薄明かりが見える。
どんよりと暗い。

草叢は、文字通り草の塊だ。
匂いがする。
草の匂いなのか、泥の匂いなのか。

蛙の声は無くなった。

やはり、草の匂いだ。
草の匂いが音を発している。

僕は自転車でその横を通り過ぎる。
草叢は塊になって、あちらこちらに散在している。

不思議と草叢の中に突入することはない。
礫層がむきでた黄土色の坂を上がると、不意に空が見えた。

そうか、まだ、いくらかは明るいのだ。
しかも、この中途半端な明るさが、ずっと続いている。

草叢は、遠い景色だ。
蛙の声はどうしたのだろう。
とんと、聴こえぬ。

草叢はとっくに集まって密談をしている。

 

 

 

夢素描 14

 

西島一洋

 
 

 

雨が降っている。

川の中だ。
浅い川だ。
川岸も川底も全てコンクリートだ。
川幅は広い。
暗渠もある。

濁ってはいない。
透き通っているが、臭い。
汚泥の匂いだ。
糞尿の匂いだ。
強い消毒薬の匂いも混じっている。

全身裸で横たわると、流されていく。

川底はスルスルとしている。
滑らかだが、藻ではなく、汚泥の沈殿物が、うっすらと覆っている。
沈殿物の中には、ドロドロになった便所紙もある。
表面は、細い髪の毛のようなものが、流れに沿って揺らいでいる。

半身は水面(みずも)より上に出ている。
時折、全身が沈み、
川底に当たり、クルクルと回転されながら流される。

すこーし傾斜が強いところに出ると、スピードが出る。
といっても、時速40キロメートルくらいだ。

流されていると、建物があるはずなのに、見る余裕が無い。
せいぜい川岸まで程しか視界に入らない。
流されることに必死だからだ。
ただ、建物に囲まれている気配は十分にある。
建物は、全てモノクロームで、凸凹(でこぼこ)したバロック建築だ。

人の気配は全く無い。
ずーっと一人っきりで流されている。
川の中にも、川岸も、それらを囲むように林立しているだろうと思われる建物の中にも。
人の気配は無いのだが、虫のような気配があるのが不思議だ。
ただ、生命体ではない。

動かない虫だ。
死んでいるのではない。
ただ動かないだけだ。

動いているのは、川と僕一人だけだ。
あとは、きちんと見えてはいないが、
気配としては、じっとしている、というのを感じる。
それらは動いていないのに、それらの気配だけは感じる。

川幅の広いところに出た。
突然、虫の気配も、建物の気配も無くなった

空間というか、天空というか、空というか、何も無いというか、そのような気配が生じてきた。
何もないのに、あるという気配ではない。
何も無いという、そのものの気配なのだ。
言葉的には矛盾しているが、無という有が感じられるのだ。

怖くは無い。

この辺りに来ると、川は二股に分かれている。
上流から下流に向けて二股になるというのは、不自然ではある。
しかも、二股になることによって、水量も増える。
流れの勢いも増す。
これも不自然だ。

血管で言うと、静脈でも動脈でも無い。
静脈は、山から、小さな川が、徐々に一つになって海に流れ込むという態だ。
動脈は、津波のように川が海から逆流して、陸の奥に行くに従って分散していくという態だ。
そのどちらでもないのだ。

雨も強くなってきたが、音が無い、静かだ。
しかし突き刺さるような雨の力だ。
豪雨を超えてはいる。
視界は薄暗いが景色はハッキリしている。

二股のどっちかを選ぶ余裕も無く、僕は左の方の流れにぐいと引き寄せられた。

雨はまだ降っている。
まだ降っている。
いつまでも降っているので、
雨に飽きてしまった。

もう少しで、橋の下をくぐる。
木造の橋である。
木は腐ってカスカスだ。
崩れる寸前の太鼓橋だ。

僕が行くまで崩れずに、
ずーっと待っていてくれる。

おそらく。