夢素描 20

 

西島一洋

 
 

鉄球について

 

ここに直径60センチほどの鉄球がある。40年くらい前に拾った。

浅間山荘事件の時の鉄球によく似ていると思って、拾った。

名前があるというわけではないが、僕はこの鉄球に非殺生の力を感じるので、名前があるのかと聞かれると、安易にアヒンサと答えてしまっている。

中は空洞で、少し水が溜まっている。転がしたり、振ったりすると、その水が鉄球の内側を優しく撫ぜる音がする。しゅるらん、しゅるらん、しゅん、という感じの音。

重そうに見えるが、意外と軽い。展覧会のため韓国に郵送しようとして、その時に初めて重さを量った。重さ制限をこえていて、送れなかった。およそ、25kgである。

車で運ぶこともあるが、キャリーに乗せて歩いて運ぶ事が多い。国内だけでなく、ニューヨークやサンフランシスコなどの行為の時にもキャリーで持っていった。

晒し木綿を括り付けて、運ぶというか、転がしながら一緒に歩くという時もある。夏の炎天下、自宅から犬山のキワマリ荘まで17km、五条川を歩きながら鉄球を引っ張りながら遡ったこともある。翌日、強烈な歯痛。歯医者に直行。奥歯を噛み締めすぎて、溜まっていた歯石が歯茎に食い込んでいるとのことだった。

余談だが、子供の時から、歯磨きの習慣が無く、それでも虫歯が一本も無いというのが自慢の種だった。歯石が溜まっているのは知っていた。というよりも、歯石が溜まって、時折、その塊がゴソっと取れる時の快感に至福を感じていたくらいだった。このキワマリ荘までの17kmをきっかけに、歯を磨くようになった。歯間ブラシも使う。一転変わって、今や歯磨きの快感を享受することになった。

鉄球に戻る。

40年ほど前に、北陸、福井の原発内の浜で拾った。漂着物である。高いフェンスで覆われた立ち入り禁止の浜だった。

原発で勤めている絵描きの友人がいて、原発内の浜が美しいということで、10人くらいだったかな、写生会となった。

僕は元より原発に反対であるし、放射能も怖かったから、参加したくは無かったが、つい押し流されて、その浜に入ってしまった。浜に入る前に、原発の施設を通過しなければならない。被曝の計測の装置があり、入る時と出る時にチェックがあった。

押し流されているという軟弱な自分に対しての自己嫌悪は強くあった。

確かに美しい浜だった。両抱えできないほどの、極太の老松が浜にたくさん連なって林になっていた。土地名も美浜という。原発の立地は、もともと人口が少なく、したがって人に汚染されていない風光明媚な場所ということになる。原発は、そういうところに作るのだ。人口が少ないから反対する人も少ない。原発ができてからは、さらに人が訪れることもなく、浜は、時の痕跡を逆説的だが自然な形で残している。

写生会ということだったが、僕は絵を描く気には全くならない。浜をうろうろしていると、さまざまな漂着物がある。大砲の弾のようなものもある。なんの道具か、もしかしたら兵器の朽ちたものか、やたら錆びた鉄製のものが多い。大陸から日本海の浜に流れ着いたのだろう。

で、そのような雑多な漂着物の中に、この鉄球があった。

浅間山荘の鉄球をすぐに連想した。僕はほとんど無意味にこの鉄球を持って帰ろうと思った。しかし、この原発の浜は、フェンスに囲われており、監視カメラもある。持ち出すことは困難だと思われたが、意外にすんなりとフェンス外に持ち出す事ができて、誰かの車に積んだ。まあ、原発で働いてる友人の知り合いという事で、監視もあまかったのだろう。

で、福井から名古屋に持って帰ってきたものの、この鉄球自体が放射能に汚染されていないか、心配だった。

したがって、おためごかしかもしれないが、家族とは少し離れた、自宅裏にある三階建ての建物の屋上に置いていた。

ここからが若干複雑になる。

(複雑になる前に、さらに複雑な言い訳というか、成り行きとというか、まあ、孑孑彷徨変異というか。夢素描について、少し説明したい。端的に言うと、夢日記では無い。夢の記憶を辿る時の、思考回路を援用し、現実の記憶を構築する行為だ。したがって、夢そのものを筆記するときもあれば、夢でなく現実を筆記するときもある。この作業は同じ地平なのだ。端的にと言いながら、さらに分かりにくいかもしれないが、自分の思考回路というか、感覚に嘘はない。まあこれ以上、とりあえず今は説明しない。時間さえあれば、ちゃんと説明できるということだ。素描だから作品概念は無いものの対象化の作業はできるだけしている。)

鉄球を拾った当時、1980年代前半頃だと思う、僕は、飯田美研との濃厚な交流があり、彼等の考え方に強い影響を受けてもいた。

飯田美研というのは、長野県飯田及び豊丘村とかその周辺の現代美術家の活動体である。西村誠英と木下以知夫がその中核か。

西村誠英は、メールアートを通じて各国から紙片の廃物を集め、そこに文字(漢字の「死」の上に何か記号が書いてある)を書き埋め尽くし、それを細かく破っては、さらに糊でくっつけ、さらにそれを破り、それを繰り返すという作業(行為)を連綿と続けていた。西田哲学に強い影響を受けていたと思う。

木下以知夫は、廃物となったガードレールを山から拾ってきて、それを大きなハンマーを全身で叩きつけるという作業(行為)を連綿と続けていた。禅の思想が背景にあったのかもしれない。ある時作業中に、突然、柿の実が、自分の首筋後ろに落ちた時に「覚」があったとのこと、これは僕でもなんとなく分かる。

彼等飯田美研は、なぜ、こんな行為を続けているのか、僕なりに、よく分かっていた(つもり)。

彼等飯田美研は廃物、とりわけ人工廃物と、対話(闘って)していた。長崎や広島の原爆についても、人の営為の虚しさと限界について語っていたように思う。いや、もっと深い。

彼等飯田美研は、やたらと造語を使うので、とても難解だ。特に、書かれた長文の文章を読み解くには相当のエネルギーを要する。僕が、無学だからかもしれない。でも、僕は、感覚的に、飯田美研の言っていることを、断片的にせよ理解していた。

例えば、彼等飯田美研の言う「物力(ぶつりょく)」。

よく見ると、目の前にあるもの、そしてその周辺、さらにはそれを取り囲むものは、全て人工物で横溢している。全て人間が人間のために作ったものだ。まあ、厳密に言えば、作ったと言うより加工したものだ。

具体的に言うと、今、これを書いている状況では、手の先にiPad、それを支える空き箱、空き箱に入った飲み残した薬、消しゴム、ペン、すぐ横にはコンセントがいくつも刺さった電源、ちょと奥に目をやれば、ビデオカメラを修理しようとして本体から外した極小のビス、刺身皿大の陶器皿五個に分類して入っている、その横に冬だから使っていない電気蚊取り線香、上の棚に目をやれば、置き時計、ふと横を見れば、ベランダの掃き出し窓、その窓の向こうには、道をはさんで3階建てのマンションのまどのあかり。

何が言いたいかと言うと、生活用品も家も道路も人間のためにだけ存在させられている。彼等飯田美研の論法で言えば、物が人間の抑圧を受けて存在している。物力は封じ込められている。かなり分かりにくいかなあ。でも、僕は分かる。

ゴミとは人工廃物。人間が人間のために自然を加工して、人間が使用し、そして要らなくなって、打ち捨てられたもの。

彼等飯田美研はそこに、人工廃物に、物力が生じると言う。つまり、人間の抑圧を受け続けてきた物が、ゴミとなることによって、人間の抑圧から解放されて、本来の物力を取り戻すのだ。ゴミは人間にとっては廃物だが、物にとっては人間の抑圧からの自由解放で、本来の物力が生じるのだ。彼等飯田美研はその物力をリスペクトする。

だから、彼等飯田美研は、ゴミのリサイクルもジャンクアートも否定する。リサイクルは、ゴミとなってせっかく人間の用を離れて自由になったのに、もう一度人間の束縛を受けなければならない。ジャンクアートも然りである。せっかく自由になった物を拾い集めて、再びアートという人間の勝手な幻想のもとに束縛を与える、この矛盾。彼等は、愚直にも廃人となって、ゴミとの直接の対話の行為を選んだ。ジャンクアートではない。僕はそれが正しいと思う。とても苦しい修行のような行為だ。

僕は鉄球を拾った。

拾った時点でもう、間違いを犯していたかもしれない。せっかく人間の抑圧から逃れて自由になって、海を漂い、たまたま海岸で休んでいたのだろう。それを、僕が、拾って、無理矢理、福井から名古屋に持ち帰った。

安易だった。街の中をゴロゴロ転がせば面白いかなあ、その程度だった。

だが、飯田美研の人工廃物に対しての接し方を見ていたから、僕は、持ち帰った鉄球を側に置きながら、何もすることができなかった。鉄球との対話はした。自己問答のようなものではあるが、僕はまさしく鉄球と対話していた。

対話は続けていたが、何も出来ずに、五年程が経過した。僕にできることは、もう、海に還すしかない。というより、そのつもりになっていた。

五年ほど経過した頃に、ある展覧会があった。北川フラムが日本での受け入れ先となった「アパルトヘイト否!国際美術展」である。美術展の経緯や内容の説明は省くが、この展覧会は世界だけでなく日本では各地を巡回した。

名古屋展では僕が受け入れの事務局的な役割になってしまった。なってしまったというのは、当初市民運動家達中心の運営の催し物にということで、動き始めたけれど、彼らの動きに無理があって、結局美術家達側の僕が動かざるをえなかった。マネージメントとか、本当に大変だった。心身ともにクタクタになったし、もう二度とこのようなことに関わりたくないとさえ思った。

ただ、名古屋展は、この国際美術展を受け入れるだけでなく、同時に名古屋の美術家に呼びかけて、同時にメッセージを発信したいと思った。そして、「from our hearts」という展覧会を企画した。これは、事前に岐阜の美術館や名古屋のギャラリーで開催し、さらに国際展の行った名古屋国際センターで同時開催した。おそらく国際的にも異例なことだったと思うが、単にこの国際美術展を受け入れるだけでなく、自らも発信したいという想いが形になったのだと思う。

で、その美術展に、自分の等身大の人形を作り、その人形の上に鉄球をおいた。人形は寝っ転がって、鉄球を抱えている。正確にいうと、三回あった美術展のギャラリーでの時に出品した椅子の上に座っている人形を、最終の国際センターでの展示には寝っ転がして、鉄球をポンと置いた。

ポンと置いた時に、5年間対話していたことが少し分かった。僕は今まで、この鉄球と対話と言いながら、対等ではなく、僕の所持品としての物(ぶつ)だった。でも、この時、理屈ではなく、吹っ切れた。僕はこれまでこの鉄球を所持品と思っていた。それが違うということが分かった。

所持品という概念はすっ飛んでしまった。もっと言えば、主従の関係で言えば、一緒にいる時は、鉄球が主であり、僕が従であるという感じかな。できれば対等でいたいが、何故かしらまだ鉄球はそれを許してくれてはいない。まあ、僕としては、側に居させてくれているだけで嬉しい。僕の鉄球と関わる一連の行為は、追悼と懺悔である。追悼は永遠、懺悔は無限。

吹っ切れた僕は、それまでと一転打って変わって、鉄球を相当手荒く扱うようになった。一日中晒しで引っ張って、路上を転がしたり、建物の屋上からぶん投げたこともある。丈夫な鉄球であるが、結果、長年の間にかなり傷ついて、でこぼこになってきた。

最近はあまり見ていないが、10年くらい前だったか、何度か続けざまに、鉄球の夢を見た。そのほとんどが、鉄球が、紙風船がしぼむように、クシャクシャになってしまうという夢だった。

40年も一緒に居ると情が湧く。今でも路上を転がしたりはするが、昔よりは丁寧に優しく接している。

 

 

 

夢素描 19

 

西島一洋

 
 

死、その2

 

カヌーを見ると死んだ水野を思い出す。先程、僕が運転する4トン車の左横に信号で止まった赤い車。ルーフに赤いカヌーが一艘、ちょんと載っかっている。

水野は僕のひとつ下。高校の時、美術クラブで一緒だった。呑気なやつだった。喋り方もおっとりしている。「暑いなあ!」と言うと、必ず「夏だも…」と、若干だみ声で返ってくる。とりつくしまのないやつだ。

高校を卒業してからは、滅多に会うことはなかった。風の噂で、奈良でカヌーの小さな店を開いているということは、聴いていた。

いつだったか、夕刻、テレビをぼんやりと見ていると、唐突と言えばその通りだが、彼の死がニュースで流れていた。チャンネルを変えても、あちらこちらで流れていた。

彼はカヌーのツアーを主催していて、カヌーで沖に出たところ、参加者の一人が帰ってこなかった、彼はその人の助命と探索をするために再び一人で沖に出て行った、そして、その参加者は無事戻ってきたが、彼は戻ってこれなかった、彼は死んだ。責任を感じて必死に探したのだろう。

彼の死骸は相当傷んでいたらしいが、通夜での棺桶の中の、仰向けになった彼は、若干フランケンシュタイン状態ではあったが、それなりに綺麗に修復されていた。

さて、それが、いつだったか、記憶を順に辿って行こう。

昔であることには違いないが、大雑把に簡単に、そしてあっさりと「昔」…、ということで落着するわけには、いかない。「昔」でお茶を濁すことは許されない。つまり、その記憶の厚量というか、その濃厚さは尋常ではない。

おそらく、自分以外にとってはどうでも良いことに違いない。だが、いつだったか、が、気になる。

で、そのどうでも良いことをだらだらと書く。

僕が、あの家に住み始めたのは、二十九歳の時。長女が生まれる僅か数ヶ月前。長女が生まれたのが、1983年。その頃、僕はテレビを意図的に見ていなかった。

僕は基本的にテレビ嫌い、正確に言うとテレビは苦手、というよりも、テレビは僕の性質に合っていない。

どういうことかというと、一旦、スイッチを入れて、テレビを見始めると、何も手につかない、テレビに没頭してしまう、ただぼんやりと見ているだけなのだが、テレビを見ることしかできない、釘付けになってしまう。

しかも、何時間も何時間も離れることが出来ない。見たくもない番組でも釘付けになってしまう。完璧なテレビ依存症なのだと思う。だから、鼻っからテレビを見ない。

僕は、あの家に行ってから、テレビは持っていたが、アンテナも繋がなければ、もちろん電源も。

あの家に行ってから三年が経った。何故、三年というのを覚えているかというと、長女が女房の腹にいる時、あの家に住むようになった。そして、その長女が生まれ、三歳になった時、テレビ愛知の開局で、気になっていた写真家(名前が出てこない)が出るというので、それを見るだけのためにテレビをアンテナに繋いだ。

長女は、この時、三歳になって、実質テレビを初めて見る体験をした。実家とか、友達の家とかで、僅かな時間ではあるが、見る体験はしていたと思うので、テレビそのものの存在を知らなかったわけではない。

しかし、テレビの映像を見るという行為は、彼女にとっては強烈だった。テレビの映像に釘付けになって、動かない。まなこを見開いて、ただ、ただ、見入っている。

あまりにも、まばたきをしないので長女に、「目をパチパチとしなさい。」と言うと、自分の小さな両手を平手にし、目をバチバチと叩いた。

と、言うことは、つまり水野が死んだニュースを見たのは、1986年以降ということになる。ただ、僕の記憶では、僕は、ぼんやりとテレビを眺めていた。見入ってはいなかった。

まあ、記憶を辿るのはここまでか。

この頃は、体現集団ΦA ETTAの草創期、美術雑誌裸眼の編集発行や、アパルトヘイト否国際美術展の運営など、精力的に動いていた時期でもあった。

いずれにしても、水野は死んだ。ただ、それだけのことである。

下の名前が思い出せないので書かずにいたが、思い出した。三郎、さぶろうである。水野三郎か…。

水野のひとつ年上、山田省吾というのも死んだ。つい最近のことだ。つい最近と言っても、僕は知らなかった。

山田省吾は、僕の中では友人の中で濃厚な関係を持った一人、トップスリーの内に入る。つまり僕の親友三人衆のうちの一人である。

なのに、省吾を死んだことを知らなかった。

今年、つまり2021年の春だった。僕は、花粉症をこじらせて、苦しかった。それに加えて、虫歯が化膿し、鼻から脳天にかけての強い痛み。熱も37度5分越え、それが三日以上続き、ついには38度5分以上の高熱も出た。

一般の医者がもうやっている時間でもなかったので、時間外もやっている済衆館病院に電話をすると、高熱で新型コロナの可能性もあるからか、対応できないとのこと。結局、救急を通じて、小牧市民病院を紹介してもらい、診察してもらった。新型コロナの検査をしたわけではないが、症状から、副鼻腔炎、つまり蓄膿をこじらせていると診断され、翌日、町医者の耳鼻科に行った。

翌日のニュースで、昨夜最初に問い合わせて断られた済衆館病院で、昨日新型コロナの院内感染があり、数人が感染したらしい。それで、昨夜の済衆館病院の電話の応対が変だったのだろう。

副鼻腔炎だけではなく、虫歯の痛みも酷かったので、歯医者にも行った。歯医者は、その後、治療のため何回も通った。

何回目だったか忘れたが、その歯医者で、高校の時の同窓生、西安秀明にばったりあった。彼は、近くに住んではいるが、滅多に会うことはない。

西安は、「久しぶりだなあ」の後の開口一番、「省吾が死んだこと知ってる?」と言う。僕は知らなかった、唐突だった。

省吾というのは、山田省吾、高校時代の美術部で一緒だった。高校を卒業してからも受験のため、名古屋亀島にあるYAG美術研究所に何年かは一緒に通った。

何故か、苗字では呼ばなかった。山田とか、山田君とかと、そのように呼んだ記憶が全く無い。呼び捨てで、省吾だった。

あとで、西安が、省吾が死んだ日と死因をメールで送ってくれた。死亡日は前年2020年の11月2日、死因は胆嚢癌。

省吾は片目、つまり隻眼だった。どちらの目かは忘れた。すこぶる画面の中のヴァルールが整った美しい絵を描くやつだった。天性のものがあった。

僕が勝手に推察するには、片目の人は、両目で見るような立体感というか空間の三次元性が希薄だ。もちろん、片目でも、体を動かして、目の位置をどんどん変えれば、立体的空間感は把握出来る。両目が見える人は、常に、物が立体的に見えるのだ。意識せずとも。僕が思うには、この立体的な空間感に惑わされて、画面全体の調子とかヴァルールとかが狂ってくるのだと思う。

ともかく、省吾は死んだ。ただ、それだけのことである。もう会えない。それも、ただ、それだけのことである。

歯医者で同じ西安に、今度は僕の方からの死の情報「平松が死んだこと知っている?」と言った。彼は知らなかった。

平松明は、省吾と同じく、僕の中ではトップスリーの友人の一人だ。死亡日は2021年1月27日、死因は間質性肺炎。葬式は家族葬ということで行っていない。

平松は、小学校も、中学校も、高校も一緒だった。しかも、すぐ近くに住んでいた。しかし、不思議なことに、小学校も、中学校も、高校も、彼との付き合いは、皆無に限りなく近いほど、ほとんど無かった。

平松と付き合い始めるようになったのは、十九歳の頃だったと思う。僕は、飯田街道沿いの木造モルタル造りの古い六畳一部屋のアパートに住んでいた。

ある朝…、だったか、ある夜だったか、忘れた。部屋の出入り口の扉を中から開けると、暗い木の廊下に、汚い男が一人うずくまっていた。それが、平松明だった。

「帰って来た。」と彼は言った。「もう何時間もここに居た。」とも言った。状況はうまく掴めなかったが、とりあえず、僕は、彼を部屋の中に招き入れた。

ゆっくり、話を聞くと、彼は、東京から自転車で野宿しながら、ここに辿り着いたとのことだった。生家はすぐ近くなのに、何故家に帰らずに、僕のところの、しかも廊下なのか。僕の部屋のドアをトントンすることもなく。まあ、その辺は、いい感じということで端折ります。

彼は、東京の明治大学に通っていたのだが、自らの意思で中退したとのことだった。学生運動の内ゲバで、明治大学の校門のところ、目の前で、ツルハシでヘルメットの上から突き通し、つまり、そういう殺人現場を見たことや、学生運動の追い詰められた過激で情緒不安定な状況を話してくれた。

それからは、僕は同性愛者ではないが、男の裸が好きで、彼は僕の絵のモデルを快く引き受けてくれて、彼の裸をたくさん描いた。

平松明は多彩なやつだった。物言いは、ゆっくりおっとりしている、声は低く大きい。

その後、平松明と、彼の友人日置真紗人と、僕の三人で、ぴしっぷる考房という生活共同体を作った。雑誌ぴしっぷるを編集発行し名古屋の文化を担うくらいの思い入れと勢いがあったが、赤字が続き、主にデザインと印刷で収入を得ていた。三年ほどは続いたが、仕事も乏しく、生活も苦しく、解体した。

平松は、百貨店丸栄の奉仕課、つまりエレベーターガールと結婚して、五人くらいの子供を作った。

いつからか、あまり会うことが無くなった。いつだったか、そう、おそらく、水野が死んだ頃と同じ頃だったと思う、久しぶりに彼から電話があった。「躁鬱病なんだ。笑うことが全く出来なくなった。」この言葉は、不思議と今も覚えている。

そうか、平松明も山田省吾も死んだのか。そうなると、あと一人か。つまり、僕の中での、親友三人のうちの二人が死んだ。あと一人は生きているのだろうか。あと一人というのは、後藤久彰である。

後藤に連絡をした。後藤久彰は生きていた。彼は、平松の死も、省吾の死も、知らなかった。

生きてて良かった。もしかして、死んでるかしらんとも思っていた。まあ、彼についても、書きたいことは山ほどあるが、生きていたので、端折ります。

ただ、一言、彼、つまり後藤久彰は、優れて良い絵を描く。今は、描いていないかもしれぬ。

後藤久彰は生きていた。ただ、それだけのことだ。

 

 

 

夢素描 18

 

西島一洋

 
 

汚泥の夢

 

あまり書きたくない。
したがって読みたくもないだろう。
しかし、夢の記憶の中で重きを置いているので、通過儀礼としても書かなければならない。

とても多い。
夢の中のかなりの比重を占めている。
したがっていろんなパターンがある。

大きく分けると、ふたつ。
ひとつは、トイレを探している。
ふたつめは、汚泥の中を泳いでいる。
筆は進まないのに、膨大な夢の記憶がある。
しょうがないので、それぞれに三つづつ書くことにしよう。
三つということに特に意味はない。

トイレを探している。
その1。
その2。
その3。

汚泥の中を泳いでいる。
その1。
川、運河、人工河川。
流されてゆく。

その2。
その3。

と、ここまでというか、後で書こうと思い、題目だけメモった。元々筆が進まないので、ぼんやりとした時間だけが進む。

ふと、たけちゃんのことを書こうと思う。

たけちゃんのうちは貧乏だった。
トイレが、うちの外にあった。
便器は大きな壺で、壺の三分の二くらいが土に埋まっていた。
扉はあったが、腰扉だった。
僕はここで用を足したことはないが、ほぼ野糞と変わらない。
田舎ではない。家の前は飯田街道、角地なのでトイレのある方も道に塩付通に面している。人の往来は多い。

たけちゃんは、僕の小学校の時の同級生、僕のうちから飯田街道を挟んで向こう三軒に住んでいた。小学校の時のと接頭語を付けたのには意味がある。たけちゃんは中学生になったのかどうか記憶が無い。たけちゃんは、その辺あたり、つまり小学生から中学生になるはざま、春休みでは無いが、小学校卒業してから中学校が始まるそのはざま、そして中学校が始まっても中学生としてのたけちゃんの記憶は無い。もうすでに中学校に通う体力が無かったのか、そしてそのはざまあたりにたけちゃんは死んだ。死因は栄養失調だった。たけちゃんは映画どですかでんに出てくる主役の少年に姿形がとても良く似ている。

計算すると、たけちゃんが死んだのは1965年くらいかな。僕がたけちゃんのうちの前に引っ越したのは、小学校に上がると同時だったから、六年間ぐらいは一緒によく遊んだ。

たけちゃんは六年生の時、突然引っ越しをした。正確にはたけちゃんの家族全員が引っ越しをした。

と、ここまで書いて、たけちゃんのことを書いたメモがあることを思い出し、iPad のメモ内をたけちゃんで検索してみると、見つかった。今回は、排便つながりで、たけちゃんのうちのトイレの記憶から、たけちゃんのことを書こうと思ったが、見つかったメモとほぼ同じなので、それをそのままコピーして貼り付けます。重複した箇所や、たけちゃんのうちの便器のことを壺と言ったり、甕と言ったりしているが、これから書こうとする内容がほぼ一致しているので。ややこしいが、こうやって、記憶を辿るという行為は、夢の記憶を辿ることと同じことだと思っている。たまたま見つかったのはiPad のメモ内だが、僕の記憶では、それとは別にさらに過去に数回は書いた記憶があるので、そのメモも探したい。単なる白紙に書いたメモや、原稿用紙のもあると思う。

以下が今回見つけた昔に書いたたけちゃんのことについてのメモです。(どうやら、この時の記憶のきっかけは、傘だったようです。)

『もちろん、僕らが学校に通う時は、番傘の子はいなかったと思う。蝙蝠傘、黒くて、厚い布の濡れるとけっこう重いやつです。
向かいのたけちゃんの家が蝙蝠傘の修理屋だった。たけちゃんとはよく遊んだ。
でも、傘を直してもらった記憶もないし、おそらく、そういうことになっていただけのような気がする。
気がするというか、大人になってみて、分かった。
たけちゃんの家は知らない男の人たちが、入れ替わり出入りしていた。
たけちゃんのお母さんは売春婦で、売春宿だったんだ。
トイレは、外に甕が埋めてあって、それだけだった。一応扉はついていたが、腰までの扉だった。
たけちゃん一家は、僕たちが12歳くらいの時、引っ越しをした。川名中学校の近くにあるアパートだった。役場が、貧困家庭用に用意した施設でもあった。
ぼくも中学生になって、川名中学校に通うようになって、たけちゃんの家に行ったこともある。小綺麗だった。
数ヶ月後に、たけちゃんは死んだ。栄養失調とのことだった。
ちょっと戻る。
たけちゃんが、引っ越ししたあと、たけちゃんの家が解体される前に、同い年の友達数人で、探検に行った。探検というより、ボロ屋に入るのは子供達にとっては単に面白い遊びだった。
腐った畳というか、土のたたきというか、あまり区別もできないほど、建物の中は荒れ果てていたが、おそらく、一家はたけちゃんを入れて5人くらい。こんなところで生活していたんだ。考えてみると、たけちゃんとはよく遊んだが、家の中に入ったことはなかった。
ただ、僕たちは、嬉々となって、探索すると、大量の注射針が見つかった。僕たちは、宝物を探し当てたように、腐った畳や土をほじくってはいっぱい集めた。
大人になって考えてみると、おそらくは、たけちゃんのお父さんとかお母さんは、ヘロインとかヒロポンの中毒者だったのだろう。』

以上が昔、たけちゃんについて書いたメモ。

相変わらず、汚泥の夢の記憶については筆が進まない。
しかし、なぜ、たけちゃんのことを思い出したのだろう。
やはり、たけちゃんのうちの便器…だろうなあ。

 

 

 

夢素描 17

 

西島一洋

 
 

富岡荘物語 その2

 

夏の夜。深夜、午前二時頃だった。

5キロほど離れたところにある銭湯の帰り。自転車だった。パトカーに追い回され、富岡荘の路地に逃げ込んだ。別に何も悪いことをやってはいないので、「その自転車止まりなさい」というパトカーからの声を完全無視、逃げ切ったか…と一瞬思った。

しかし、警官数人はパトカーからかけ降り、狭い路地にドタドタと入って来た。警官達はしつこく、狭い暗い階段を駆け上がり、僕の部屋の前までくっついて来た。富岡荘二階の5号室が僕の部屋だ。警官達は何か言っていたが、僕は一切無視を通した。僕が鍵を開けると、警官達はバツが悪そうに目を見合わせ立ち止まったが、謝りもせずのそのそと帰って行った。

実言うと、この時、若干、警官を挑発していた。たまたま遭遇したパトカーを見て、わざと一気に自転車のスピードを上げたのだ。自宅の富岡荘のすぐそばだったこともある。このところ、職務質問ばかり何度も受けて辟易していた。ほんとうに面倒臭いとその都度思っていた。

また今回、挑発行為に及んだのは、度重なる職務質問の少し前に、理不尽な警官と口争いだが喧嘩したことがあったので、潜在意識として、警官に対する不信感が募っていたからであろう。

それは、深夜、銭湯に向かう時に警官に呼び止められた時のことである。深夜二時までやっている銭湯、ただ、急がないと閉まってしまう時刻だった。

僕はその当時、朝10時から夕刻6時までは松坂屋というデパートの電気売り場の店員として働いていて、その後ほぼ連続で、夕刻6時過ぎから深夜1時くらいまで大統領というキャバレーでボーイとして働いていた。

毎日、長時間汗だくで働いているので、風呂には入りたい。風呂が唯一の心身復活の場である。アパート富岡荘には風呂は無い。つまり銭湯に行くのが必須でもあった。

ただ、近くの銭湯は、12時過ぎには閉まってしまう。5キロほど離れたところにある銭湯は午前2時までやっている。仕事を終えてからでも間に合う。でも、ギリギリなのだ。

その銭湯に自転車で向かう深夜、同じく自転車の警官に呼び止められた。銭湯が閉まる時間ギリギリなので、職務質問に付き合っている時間は無い。ということで、とにかく銭湯まで一緒に来て、僕が風呂から出て来るまで待ってくれ、と伝えたが、意に解さない。押し問答で、とうとう喧嘩になった。結局、あの日銭湯に行けたかどうか、記憶に無い。記憶にあるのは、あの警官の言い草。「俺は今警官だが、もとヤクザだった。」ということで、なんか脅しを感じたこと、それに、こんなことに時間を費やして風呂に入ることもできなくなることに、僕は完全に腹を立て、「許せん」ということで、殴りはしなかったが殴る寸前までいった。結局は、仲直りして、握手までしたが、おそらく、銭湯の閉店時間には間に合わなかったと思う。

ということで、このところ、警官に対して、不信感というか、形一片で、融通が効かんという、なんとも理不尽さを実感していたので、先の、警官挑発に至った次第である。

で、この富岡荘の、狭い暗い急な階段のすぐ上には、和式便所が二つ。木のドアで、いわゆる鍵は無く、内側から小さな真鍮製のフックをかける。

で、この便所から派生する、排泄の夢の記憶を辿ってみようと思い、警官云々を前書きにした。

排泄の夢の記憶は、次回にしよう。

 

 

 

夢素描 16

 

西島一洋

 
 

部屋

 

十九歳から五年ほど、木造モルタルアパートの二階に住んでいた。六畳一部屋で、西側の窓の突き出しが、洗面台というか流し台というか、ガスコンロも置ける台になっている。一畳ほどの押し入れもある。南側にも窓がある。陽当たりは良い。一ヶ月の家賃は確か七千円だった。

南の窓の下は、飯田街道で、車だけでなく人の通りも多い。窓の正面はアイスキャンディー屋だ。売ってはいるが、主に菓子屋向けのアイスキャンディー製造所だ。そして、そこは三叉路でもあり、名古屋の市バスの停留所が往復で四つもある。つまり、窓下はバス停、とても交通の便が良いということだ。

部屋の真下の一階は饅頭屋だったが、息子の代になって途中で洋菓子店になった。洋菓子店になった時はびっくりした。通っていた美術研究所から夜に帰ると、南の窓がオレンジ色のテントで覆われている。スチールの骨組みに張った本格的なビニールテントである。もちろん、洋菓子店の店名のロゴも描いてある。朝になると、悲惨だった。部屋の中がオレンジ色なのだ。もちろんすぐに取り外してもらった。

西側の窓の下は路地というか狭い通路になっている。この通路の奥には、別棟のやはり木造モルタルのアパートがある。ここも人の出入りは多い。この路地を挟んで三階建ての鉄筋コンクリートの建物がある。美容院だ。一階が駐車場で、二階が美容室になっていて、三階は店の主人と家族、それから住み込みの若い女性従業員数人が住んでいる。西の窓と美容室の窓とは対面で、僕の部屋からは美容室の中がすっかり見えた。

深夜のある時、覗くつもりでもなく、ふと見ると、若い女性従業員が淡い黄色のネグリジェ姿で鏡に向かって髪を研いでいる。しかも、衣服に落ちた毛を払おうとしたのか、裾をまくし上げ、下半身が露わになった。僕は慌てて、部屋の電球を消した。

東隣の男性の部屋からは深夜、麻雀の音がする。北隣の女性の部屋からは男女のまぐあいの声がする。そして、床下からの洋菓子店のバニラの匂いが部屋を充満している。

ベッドは自作だった。1センチ厚のベニア板で造った。とこ下は、収納スペースだった。寝れれば良いので、市販のベットより幅はぐんと狭い。そのかわりと言ってはなんだが長さは充分にある。このベッドの上に敷く布団は、古い布団をはさみでジョキジョキ切って、縫って繕った。可動式の簡単な手すりもつけ、ベットから落ちないように工夫もした。

このベッドはそのまま飛ぶこともできた。寝たまま、宙空に浮かび、飛び交うことができた。

寝っ転がった状態で、足元の向こうが、ドアだ。このドアには、小さなガラスがはまっている。20センチ✖️30センチくらいの縦型長方形。すりガラスではないけれど、ギザギザのガラス。このガラスには、女性を僕が描いた肖像が貼ってあった。その女性とは現在の妻である。

どっと、今に跳ぶ。

寝っ転がって、目を瞑る。
そうして、あの部屋の、あの、空間感を、イメージしてみる。
そうすると、あの、出窓の台所も、ドアの向こうの黒光りした短い廊下も、ボロボロとあちこちが落ちてくる土壁も、南側窓下の群衆の強烈な労働歌も、畳、そういえば、鏡、自画像を描くために壁に取り付けた大きな鏡板、1メートル✖️2メートルくらい、大枚をはたいて買った、西側の窓が部屋の内側に突然倒れた、ガスコンロに長いホースをつけて、部屋の中央で焼肉中、びっくり、布団の下に、一万円札を何枚も並べてはさんで、ちり紙交換で、最初の月は二十万円、次の月は三十万円、古新聞紙、1キロ三十円した時だった、それにしても、バニラの匂いはきついなあ、麻雀の音も一声かけてくれればいいのに、あーうるさい、うるさい、まぐあいの声はしょうがない、それにしても、こっから、飛べるのかしらん、よし、飛ぼう、で、というか、このベッドだと、簡単に宙空に浮かぶ、そして、天空に、スイ、スイーッと、…。

そんなところかな。

入子状という言葉の意味を知らない。
知ろうとも思わない。

奥に、もう一つの部屋があって、その部屋はやけに広い。
というか、その部屋の向こうに、さらにもう一つ部屋があって、その部屋は押し入れのように狭いし、ベニア板でかこまれていて、極めて殺風景なのだが、そこに寄り添うことにする。

なぜか、暖かい。
ただ、光はない。

 

 

 

夢素描 15

 

西島一洋

 
 

野原(草叢)

 

牛蛙が鳴いている。
断続的にあちらから、こちらから。

断続的ではあるが、そのひとつひとつの声は、長い。

低いのもあるが、時折間違えたように、高いのもある。
高いというか、突っかかったようで、
間歇泉のように、不規則だ。

おそらく、一度だけ食べたことがある。
一度だけだ。
もうニ度と食べたくないと思ったわけでは無い。
普通にうまかった。
でも、食べるときに、あの声は聴こえなかった。
心の中でも聴こえなかった。

牛蛙の姿は知っている。
捕まえたこともある。
殿様蛙の色を鈍くしたような感じで、確かにデカイ。
これを見て食欲は湧かない。

牛蛙は本当に牛が鳴いているような声を出して鳴く。
低く、大きい。
夕刻というか、日没後の薄明かりのなかで、壮絶に鳴き合う。合唱ではないが、地から盛り上がったようなうねりがある。

でも、静かだ。
確かに鳴いていてうるさいはずなのに、静寂を感じてしまうのは何故だろう。
もとより、この声は無かったのではないか。
幻聴ではないか。

幻聴だ。
幻聴だ。
正しく幻聴だ。

耳鳴りみたいなものか。
大きくあくびをしよう。
できるだけゆっくりと。

肩が痛い。
腰も痛い。
膝も痛い。

風呂に入るか。
水風呂か、湯風呂かで迷う。
面倒なので、もう一度寝よう。

とっくに、牛蛙はいなくなった。

もう一度牛蛙の夢を見よう。
草叢を歩くところから。
いや、自転車でも良い。

牛蛙はもう居なくなった。
だから、声も無くなった。

もう一度、草叢だ。
夕暮れ。
といっても太陽はすでに沈んだ。
沈んだことに気がつかなかった。

遠くの方に、かろうじて薄明かりが見える。
どんよりと暗い。

草叢は、文字通り草の塊だ。
匂いがする。
草の匂いなのか、泥の匂いなのか。

蛙の声は無くなった。

やはり、草の匂いだ。
草の匂いが音を発している。

僕は自転車でその横を通り過ぎる。
草叢は塊になって、あちらこちらに散在している。

不思議と草叢の中に突入することはない。
礫層がむきでた黄土色の坂を上がると、不意に空が見えた。

そうか、まだ、いくらかは明るいのだ。
しかも、この中途半端な明るさが、ずっと続いている。

草叢は、遠い景色だ。
蛙の声はどうしたのだろう。
とんと、聴こえぬ。

草叢はとっくに集まって密談をしている。

 

 

 

夢素描 14

 

西島一洋

 
 

 

雨が降っている。

川の中だ。
浅い川だ。
川岸も川底も全てコンクリートだ。
川幅は広い。
暗渠もある。

濁ってはいない。
透き通っているが、臭い。
汚泥の匂いだ。
糞尿の匂いだ。
強い消毒薬の匂いも混じっている。

全身裸で横たわると、流されていく。

川底はスルスルとしている。
滑らかだが、藻ではなく、汚泥の沈殿物が、うっすらと覆っている。
沈殿物の中には、ドロドロになった便所紙もある。
表面は、細い髪の毛のようなものが、流れに沿って揺らいでいる。

半身は水面(みずも)より上に出ている。
時折、全身が沈み、
川底に当たり、クルクルと回転されながら流される。

すこーし傾斜が強いところに出ると、スピードが出る。
といっても、時速40キロメートルくらいだ。

流されていると、建物があるはずなのに、見る余裕が無い。
せいぜい川岸まで程しか視界に入らない。
流されることに必死だからだ。
ただ、建物に囲まれている気配は十分にある。
建物は、全てモノクロームで、凸凹(でこぼこ)したバロック建築だ。

人の気配は全く無い。
ずーっと一人っきりで流されている。
川の中にも、川岸も、それらを囲むように林立しているだろうと思われる建物の中にも。
人の気配は無いのだが、虫のような気配があるのが不思議だ。
ただ、生命体ではない。

動かない虫だ。
死んでいるのではない。
ただ動かないだけだ。

動いているのは、川と僕一人だけだ。
あとは、きちんと見えてはいないが、
気配としては、じっとしている、というのを感じる。
それらは動いていないのに、それらの気配だけは感じる。

川幅の広いところに出た。
突然、虫の気配も、建物の気配も無くなった

空間というか、天空というか、空というか、何も無いというか、そのような気配が生じてきた。
何もないのに、あるという気配ではない。
何も無いという、そのものの気配なのだ。
言葉的には矛盾しているが、無という有が感じられるのだ。

怖くは無い。

この辺りに来ると、川は二股に分かれている。
上流から下流に向けて二股になるというのは、不自然ではある。
しかも、二股になることによって、水量も増える。
流れの勢いも増す。
これも不自然だ。

血管で言うと、静脈でも動脈でも無い。
静脈は、山から、小さな川が、徐々に一つになって海に流れ込むという態だ。
動脈は、津波のように川が海から逆流して、陸の奥に行くに従って分散していくという態だ。
そのどちらでもないのだ。

雨も強くなってきたが、音が無い、静かだ。
しかし突き刺さるような雨の力だ。
豪雨を超えてはいる。
視界は薄暗いが景色はハッキリしている。

二股のどっちかを選ぶ余裕も無く、僕は左の方の流れにぐいと引き寄せられた。

雨はまだ降っている。
まだ降っている。
いつまでも降っているので、
雨に飽きてしまった。

もう少しで、橋の下をくぐる。
木造の橋である。
木は腐ってカスカスだ。
崩れる寸前の太鼓橋だ。

僕が行くまで崩れずに、
ずーっと待っていてくれる。

おそらく。

 

 

 

夢素描 13

 

西島一洋

 
 

銭湯の男達

 

おそらくは、子供の頃の記憶と混淆している。

銭湯には裸の男達が居た。

僕は湯船から上を見上げる。
天井は高く、中央に天窓の天空への窪みがある。
セミが飛び交っており、湯船にはザリガニも居る。

時折り、女湯との境にある小さな木の扉が開く。
もちろん僕たち子供は出入り自由だ。

湯船の縁に、片膝をくっと立てて座って居る小男は、長い間塑像のように微動だにしない。痩せてはいるが、骨格も筋肉もやけに美しい。指は細く長く、その指で膝をまあるく包み、片手で足を抱えている。

鏡にむかって顎を突き出している老人が居る。肌に艶は無く、よれよれで皺が寄っている。が、骨格はがっしりしている。骨も太い。筋肉は、もうしわけていどについていて、どちらかというと筋が目立つ。今、彼は髭を剃っているのだ。使い捨てのカミソリを拾って、それでゴリゴリやっている。よほどか丈夫な肌なのだろう。鏡の下に突き出したタイルの棚の上に拾ったカミソリを五本ほど並べ、とっかえひっかえ使っている。どれも大して切れないのだろう。

僕等は、湯船の中を潜ったり、湯船の内側のタイルを蹴ってスイーっと泳いだり、回転したり、足をバタつかせたり、まるで動物園のトドかアシカのように戯れている。誰も文句を言う人はいない。僕等も気を使って、湯船に浸かる人が登場したら、さっさと引き揚げる。そうだ、木の丸い桶…アレを二つ合掌させて、浮き輪がわりにもしていたなあ。湯船より大きな木船を浮かばせたこともある。二十人くらいは優に乗れる。船の上で踊っている奴もいる。

先の塑像のように動かなかった男が、湯船の縁からするりとタイルの床に滑り降りて、尻をベチャっとタイルにくっつけ、両脚を大きく開いて前屈運動を始めた。濡れた長い髪が、前屈するたびにタイルを叩く。

新たに、入り口の扉がスライドすると、デブと言ったら失礼かなあ、ともかく巨体の男が入って来た。その男は、そのまま湯船に直行し、ドブーン。湯船から大量の湯が溢れた。ざあーっと音を立てて、タイルの床は一瞬洪水となった。男は湯船の中でタプタプと浮いている。でかいが、大して重くないのだ。赤い顔をしてニコニコしている。禿げというか、ちょうどキューピーのような頭の毛だ。色も黄土色…、むしろオーレオリンかな、透明感がある。

服を着た若い女の人が一人ふわっと入って来た。女湯に男が入ることはたとえ服を着ていたとしても出来ないが、男湯には女の人の出入りは自由なのだ。まあそれが不思議なのだが。どうしてかなあ。ともかく、この女の人は、男湯にいる誰かの娘のようで、父親を探して右往左往しているが、見つからないようだ。服は着ているが、裸足だ。足が妙に生々しい。彼女は父親を見つけたのかどうか分からないが、大声をだしながら、湯船の湯面をパンパン叩いていた。何か黒い紐のようなものを引き摺っていた。

突然、湯煙が膨大に立ち上がり、周りが全く見えなくなった。しかし、明るい。湯煙というか、靄というか、霧というか、立ち込めている。ただ、妙に暖かい。もしかして、この靄が晴れて、無くなった時、誰もいないのではないか。また、人だけでなく、銭湯の空間も消えていて、でもただ光に溢れていて、存在という概念がハレーションを起こすのだ。と、ふいに、その恐怖感に襲われた。

靄は、ふっと無くなった。
視界がくっきりとなり、見渡した。

全て居た。
全てがあった。
銭湯はあったし、男達もやはり居た。
何事もなかったように。

 

 

 

夢素描 12

 

西島一洋

 
 

 

林君は中京テレビのテレビ塔のてっぺんに立てこもっている。周りが騒いでいる。中継もしているようだ。

テレビ塔というのが良いと言う人の声。今どきこんな純粋な人がいるんだという人の声。総じてというか、全ての人の声は賛辞ばかりである。そして、すごく、とてつもない人気だ。

テレビ塔に向けて、どんどん人が集まってくる。テレビ塔に向かう道は、すべて人が押し合いへし合いしながら、ぐぉーと進んでいる。まるで祭りの夜店のように店も出ている。僕も、そのテレビ塔に行こうと人混みを掻き分けていく。

ふと見ると、もうひとつの人の動きが合流していた。それは、原さんの今度の新しい芝居の最初の顔見せ会。役者や照明や音響や美術など、始める前の打ち上げというか、宴会というか。とにかく関係者全員が集まるという。

もうひとつの人の動きは、先のテレビ塔への人の動きと渾然一体のようになっているが、目的地は違うのだ。ただ、こちらの方の、もうひとつの人の動きは、テレビ塔に向かう人々の様に、目的地にむかって様々な方向から移動しているのではない。一旦どこかに集まって、それから、どこかへみんなで移動しているのだ。

しかし、その目的地が誰もどこかよくわからない。開始時間に遅れているようで、焦って迷っているようでもある。

でもこの集団は、一旦どこかの建物に入ってしまった。偶然だったが、おそらく、ここが会場だということだ。でもまだ宴会は始まっていなかった。豪奢というか、贅を尽くした、すごく豪華なところだ。

ホテルのロビーのような、ロビーというか床が広くて、そこに点々と人がいて、風景は鮮明に思い出す。調度品というか、机というか、ドジョウ屋のような、ドジョウ屋は行ったことないが、だだっ広いところで、大広間だが、天井は低い。

とにかくまだ始まってなくて、というより待たされてというか、待たなくてはいけない。待ち時間は2時間位とか。とにかく始まるのは午後8時半ということらしい。ということで、始まるまで、どこかで時間をつぶしてくるため、みんな一旦ばらばらになった。それぞれがどこかに出ていった。

実は僕は無意識のうちに、このもうひとつの人の動きの方にも合流していた。

僕も外に出た。

そこを出て、うろうろして、ただ、ただ、うろうろしていたばかり。しかし、うろうろしてるうちに、位置感覚を失ってしまった。つまり、道が分からない。宴会場に戻らなくてはいけないのだがそこがどこかわからない。

ふと見ると、ずっと出演者が並んでいたのでそこの一番後ろにつくことにした。ついてはいたが、とにかく先に行こうと思って一旦列を離れた。

その列が、トンネルというか、小屋の隅というか、アーケードというか、細いので、人が一人ずつしか通れない。つまり、一列しか人の流れができないのだ。しかしその列から外れて先に行こうと思った。

ちょっとしたアイデアがあった。

つまりその細いトンネルのようなところから、横に飛び出して、もうひとつの空間というか通路にひょいと身を投げた。追い越そうと思って行ける隙間を見つけたのだ。隙間だが、結構広くてゆったりとしている。これならスイスイと先に行けることができそうだ。

追い越している最中に、途中に、円楽が話しかけてきた。円楽はこの芝居の昔の役者だった。もと一緒だったが今は外れていた。円楽は、林君が立てこもっている中京テレビのテレビ塔に一緒に行こうと言った。僕は道が分からないので、円楽が案内してくれるとのことだった。

とにかくテレビ塔まで一緒に行こうということになった。ただ、何故か分からないが遅れているような感覚があった。途中から、案内する人が平山君も加わった。そのうち円楽はいなくなって、平山君一人になった。とにかく人混みを掻き分けて進んだ。みんな中京テレビのテレビ塔に向かっている。

人を掻き分け掻き分けテレビ塔に向かった。

テレビ塔の下では人が集まっていた。テレビ塔は、塔というよりも、高い建物が3つぐらいあって、その3つのうちのそれぞれに屋上に人が集まっていた。

ざわざわしていた。明かりも付いていたし、照明も当たっていた。そのどこのビルに林君が立てこもっているのか近くにいる人に聞いてみると、あそこの遠いほうのちょっと低い所のビルだと言っていた。

そこへ向かおうとしたが、宴会の開始時間が迫っていたので、一旦宴会場に戻ってから、もう一回こようと思った。

宴会場に戻ろうとしたら色々と話し声が聞こえてくる。テレビ塔に立てこもっている林君のことを、若い女性たちが、現代のキリストだと言ったり、この時代でもこういう心の綺麗な人がいるんだとかとにかく、相当周りの人が持ち上げ持ち上げてまるでスーパースターのようになって、どんどんどんどん人が集まってくる。

僕は一旦会場に戻ろうとして、会場と言うのは宴会場なのだが、人ごみに紛れて道もわからない。

通りがかりの小学生くらいの女の子に、道を聞くと、直接に案内してくれると言う。そこでその子についていく。一旦その子の家にたどり着く。学校から帰る途中だったようだ。
でも彼女の家も宴会場に行く道の途中でもあったようだ。彼女の家は、下がっていく坂道の途中だった。何人かは他の子供達もついてきた。
僕が林君のことを言うともう彼女が知っていた。だから余計に親切もしてくれた。
とにかく、途中までは送ってくれたとき、もうちょっとのところだから、あとは僕一人でも道はわかるので、と僕は言って、彼女に帰ってもらった。もう時間が遅いので、おそらく心配している彼女の家に、お礼とお詫びの電話をかけた。彼女の名前は忘れた。

それからひとり歩き始めると、ある建物があった。ここも何かの宴会場だったような気がするが、とにかくそこを通り抜けようとして、人に道を聞くと大体こっちの方向だと言うことが正しいと言う事だけはわかった。

しかし、さらに迷って歩き続けていると、この辺が前後するが、宴会場に入るときに、靴を脱ぎ棄て裸足になってしまった。トイレに入ったような気がするが、とにかく脱ぎ捨てた靴を探そうとする。

どこに行ったかどこに脱いだかわからない。店の人に聞くとこちらではないかと言うが、結局見つからない。

それから携帯が壊れてしまってどのボタンを押してもどんどんどんど変な画面が出てくるだけで全く反応しない完全に壊れている完全に壊れている。つまり携帯も使えないってことだ。

とにかく林君と原さんに電話をしようとしたがどうしようもない、連絡が取れない。

とにかく宴会場に戻るのが先決だ。さらに人混みを掻き分けて行く。

中京テレビのテレビ塔に立てこもっていた林君が自刃したという。覚悟をしてテレビ塔に立てこもったと言うことらしい。

僕はすぐにテレビ塔に戻ろうとしてさらに人を掻き分けて行く。

そういえばテレビ塔から宴会場に戻るときに途中で、古い製麺所があった。うどんを作るところ。黒い囲炉裏のようなすごくでかい穴蔵があってその中でうどん粉をこねるのだと言っていた。

とても凄い所だし、人気の場所で人気の場所でたくさんたくさんの人が生のうどんを買いに来てた。

僕は時間がないのでとにかく先を急ぎたかったのでまた来るよと言って通り過ぎた。割烹着の女店主がいた時代は昭和20年代から30年代な感じかな。

 
 

さて、後記。

おそらく、もう忘れたことがたくさんある。

とにかく異様な夢である。
上記はメモにしかすぎない。

林くんはふんどし姿だった。
遠目でしか見ていないが、
かなり小さくしか見えていないが、
あれが林君だということがわかった。
頭にハチマキをしていた。
なぜあの時すぐにテレビ塔に登りにいかなかったのか。
すぐに死ぬと思わなかった。

僕としては、とにかく宴会場に戻ってから、
「今、林君がテレビ塔にいる、行かなくてはならない」と皆に言って、すぐにテレビ塔に戻ろうと思っていた。
林君はアジテーションで僕の名前も出していたようだった。
悔やまれる。

原さんのお芝居はたくさんの出演者がいた。
おそらく100人ぐらいか。

もちろん、後記も夢である。

 

 

 

夢素描 11

 

西島一洋

 
 

ピアノ

 

ピアノを買った。

おそらく170,000円か180,000円位だったと思う。と言うのは、今日買ったピアノはあまり値段を覚えていない。前に買ったピアノはいくらだったかなあと思い夢を見て思い出すことにした。

夢の中で、さらに夢を見るという行為である。そうすると、170,000円か180,000円程度だった。168,000円だったかもしれない。

グランドピアノではないが、木製の黒いごついやつである。業者がというか、ピアノ屋が直接運んでくれた。

部屋はかなり大きい。おおよそ30畳ぐらいあるかな。天井は極端に高くはない、そこそこ高い、3.5メートル位かなあ。外光は入ってきてないが、暗くは無い、と言って明るくもない。どんよりとした明るさか。

値段を思い出すために、以前の夢を思い出そうと思って寝た。と言うことで一応値段は思い出した。

同時に他にも思い出すことがあった。以前の夢では、もう1台既にピアノがあった。そのもう1台のピアノは、エレクトーンというか、いわゆる電子ピアノで、でもそこそこの大きさがあり、なぜか電気スタンドが3つほどくっついている。

僕は大きな黒いピアノを見ながら、その電子ピアノを弾いていた。曲は特にない。と言うよりピアノ弾くテクニックは持ち合わせていないので、ランダムというか適当に弾いているだけである。

最初のピアノは、つまり最初の夢に出てくるピアノは、左上のところに大きな傷が付いていた。

でもすぐに気がつかず、業者が帰ってから気がついた。すぐに連絡すればいいものを、躊躇している間に3日ほど経ってしまった。となると、最初から付いていた傷なのか、自分でつけた傷なのか、微妙な感じになってしまったが、最初から付いていた傷と言う事は確かである。でも日を追うごとに、苦情というか、連絡をするのが億劫になってしまった。

でも大金を払っているし、このままでは自分も気持ちが悪い。何度か電話をしようと思ったが、電話がしづらく、もう一つ別の夢を見ようと思った。

そうして、またもう一つ夢を見たと思う。いや、二つも三つも見たと思う。夢の記憶は消滅してはいないが、思い出すことができない。

ある時、それら夢の記憶が浮上する時があるだろうが、それらが、なぜ浮上したのか、その時はきっと忘れているだろう。

記憶ヲ忘却セヨ、ソシテ、ソノ忘却ヲ記憶セヨ。