夢素描 12

 

西島一洋

 
 

 

林君は中京テレビのテレビ塔のてっぺんに立てこもっている。周りが騒いでいる。中継もしているようだ。

テレビ塔というのが良いと言う人の声。今どきこんな純粋な人がいるんだという人の声。総じてというか、全ての人の声は賛辞ばかりである。そして、すごく、とてつもない人気だ。

テレビ塔に向けて、どんどん人が集まってくる。テレビ塔に向かう道は、すべて人が押し合いへし合いしながら、ぐぉーと進んでいる。まるで祭りの夜店のように店も出ている。僕も、そのテレビ塔に行こうと人混みを掻き分けていく。

ふと見ると、もうひとつの人の動きが合流していた。それは、原さんの今度の新しい芝居の最初の顔見せ会。役者や照明や音響や美術など、始める前の打ち上げというか、宴会というか。とにかく関係者全員が集まるという。

もうひとつの人の動きは、先のテレビ塔への人の動きと渾然一体のようになっているが、目的地は違うのだ。ただ、こちらの方の、もうひとつの人の動きは、テレビ塔に向かう人々の様に、目的地にむかって様々な方向から移動しているのではない。一旦どこかに集まって、それから、どこかへみんなで移動しているのだ。

しかし、その目的地が誰もどこかよくわからない。開始時間に遅れているようで、焦って迷っているようでもある。

でもこの集団は、一旦どこかの建物に入ってしまった。偶然だったが、おそらく、ここが会場だということだ。でもまだ宴会は始まっていなかった。豪奢というか、贅を尽くした、すごく豪華なところだ。

ホテルのロビーのような、ロビーというか床が広くて、そこに点々と人がいて、風景は鮮明に思い出す。調度品というか、机というか、ドジョウ屋のような、ドジョウ屋は行ったことないが、だだっ広いところで、大広間だが、天井は低い。

とにかくまだ始まってなくて、というより待たされてというか、待たなくてはいけない。待ち時間は2時間位とか。とにかく始まるのは午後8時半ということらしい。ということで、始まるまで、どこかで時間をつぶしてくるため、みんな一旦ばらばらになった。それぞれがどこかに出ていった。

実は僕は無意識のうちに、このもうひとつの人の動きの方にも合流していた。

僕も外に出た。

そこを出て、うろうろして、ただ、ただ、うろうろしていたばかり。しかし、うろうろしてるうちに、位置感覚を失ってしまった。つまり、道が分からない。宴会場に戻らなくてはいけないのだがそこがどこかわからない。

ふと見ると、ずっと出演者が並んでいたのでそこの一番後ろにつくことにした。ついてはいたが、とにかく先に行こうと思って一旦列を離れた。

その列が、トンネルというか、小屋の隅というか、アーケードというか、細いので、人が一人ずつしか通れない。つまり、一列しか人の流れができないのだ。しかしその列から外れて先に行こうと思った。

ちょっとしたアイデアがあった。

つまりその細いトンネルのようなところから、横に飛び出して、もうひとつの空間というか通路にひょいと身を投げた。追い越そうと思って行ける隙間を見つけたのだ。隙間だが、結構広くてゆったりとしている。これならスイスイと先に行けることができそうだ。

追い越している最中に、途中に、円楽が話しかけてきた。円楽はこの芝居の昔の役者だった。もと一緒だったが今は外れていた。円楽は、林君が立てこもっている中京テレビのテレビ塔に一緒に行こうと言った。僕は道が分からないので、円楽が案内してくれるとのことだった。

とにかくテレビ塔まで一緒に行こうということになった。ただ、何故か分からないが遅れているような感覚があった。途中から、案内する人が平山君も加わった。そのうち円楽はいなくなって、平山君一人になった。とにかく人混みを掻き分けて進んだ。みんな中京テレビのテレビ塔に向かっている。

人を掻き分け掻き分けテレビ塔に向かった。

テレビ塔の下では人が集まっていた。テレビ塔は、塔というよりも、高い建物が3つぐらいあって、その3つのうちのそれぞれに屋上に人が集まっていた。

ざわざわしていた。明かりも付いていたし、照明も当たっていた。そのどこのビルに林君が立てこもっているのか近くにいる人に聞いてみると、あそこの遠いほうのちょっと低い所のビルだと言っていた。

そこへ向かおうとしたが、宴会の開始時間が迫っていたので、一旦宴会場に戻ってから、もう一回こようと思った。

宴会場に戻ろうとしたら色々と話し声が聞こえてくる。テレビ塔に立てこもっている林君のことを、若い女性たちが、現代のキリストだと言ったり、この時代でもこういう心の綺麗な人がいるんだとかとにかく、相当周りの人が持ち上げ持ち上げてまるでスーパースターのようになって、どんどんどんどん人が集まってくる。

僕は一旦会場に戻ろうとして、会場と言うのは宴会場なのだが、人ごみに紛れて道もわからない。

通りがかりの小学生くらいの女の子に、道を聞くと、直接に案内してくれると言う。そこでその子についていく。一旦その子の家にたどり着く。学校から帰る途中だったようだ。
でも彼女の家も宴会場に行く道の途中でもあったようだ。彼女の家は、下がっていく坂道の途中だった。何人かは他の子供達もついてきた。
僕が林君のことを言うともう彼女が知っていた。だから余計に親切もしてくれた。
とにかく、途中までは送ってくれたとき、もうちょっとのところだから、あとは僕一人でも道はわかるので、と僕は言って、彼女に帰ってもらった。もう時間が遅いので、おそらく心配している彼女の家に、お礼とお詫びの電話をかけた。彼女の名前は忘れた。

それからひとり歩き始めると、ある建物があった。ここも何かの宴会場だったような気がするが、とにかくそこを通り抜けようとして、人に道を聞くと大体こっちの方向だと言うことが正しいと言う事だけはわかった。

しかし、さらに迷って歩き続けていると、この辺が前後するが、宴会場に入るときに、靴を脱ぎ棄て裸足になってしまった。トイレに入ったような気がするが、とにかく脱ぎ捨てた靴を探そうとする。

どこに行ったかどこに脱いだかわからない。店の人に聞くとこちらではないかと言うが、結局見つからない。

それから携帯が壊れてしまってどのボタンを押してもどんどんどんど変な画面が出てくるだけで全く反応しない完全に壊れている完全に壊れている。つまり携帯も使えないってことだ。

とにかく林君と原さんに電話をしようとしたがどうしようもない、連絡が取れない。

とにかく宴会場に戻るのが先決だ。さらに人混みを掻き分けて行く。

中京テレビのテレビ塔に立てこもっていた林君が自刃したという。覚悟をしてテレビ塔に立てこもったと言うことらしい。

僕はすぐにテレビ塔に戻ろうとしてさらに人を掻き分けて行く。

そういえばテレビ塔から宴会場に戻るときに途中で、古い製麺所があった。うどんを作るところ。黒い囲炉裏のようなすごくでかい穴蔵があってその中でうどん粉をこねるのだと言っていた。

とても凄い所だし、人気の場所で人気の場所でたくさんたくさんの人が生のうどんを買いに来てた。

僕は時間がないのでとにかく先を急ぎたかったのでまた来るよと言って通り過ぎた。割烹着の女店主がいた時代は昭和20年代から30年代な感じかな。

 
 

さて、後記。

おそらく、もう忘れたことがたくさんある。

とにかく異様な夢である。
上記はメモにしかすぎない。

林くんはふんどし姿だった。
遠目でしか見ていないが、
かなり小さくしか見えていないが、
あれが林君だということがわかった。
頭にハチマキをしていた。
なぜあの時すぐにテレビ塔に登りにいかなかったのか。
すぐに死ぬと思わなかった。

僕としては、とにかく宴会場に戻ってから、
「今、林君がテレビ塔にいる、行かなくてはならない」と皆に言って、すぐにテレビ塔に戻ろうと思っていた。
林君はアジテーションで僕の名前も出していたようだった。
悔やまれる。

原さんのお芝居はたくさんの出演者がいた。
おそらく100人ぐらいか。

もちろん、後記も夢である。

 

 

 

夢素描 11

 

西島一洋

 
 

ピアノ

 

ピアノを買った。

おそらく170,000円か180,000円位だったと思う。と言うのは、今日買ったピアノはあまり値段を覚えていない。前に買ったピアノはいくらだったかなあと思い夢を見て思い出すことにした。

夢の中で、さらに夢を見るという行為である。そうすると、170,000円か180,000円程度だった。168,000円だったかもしれない。

グランドピアノではないが、木製の黒いごついやつである。業者がというか、ピアノ屋が直接運んでくれた。

部屋はかなり大きい。おおよそ30畳ぐらいあるかな。天井は極端に高くはない、そこそこ高い、3.5メートル位かなあ。外光は入ってきてないが、暗くは無い、と言って明るくもない。どんよりとした明るさか。

値段を思い出すために、以前の夢を思い出そうと思って寝た。と言うことで一応値段は思い出した。

同時に他にも思い出すことがあった。以前の夢では、もう1台既にピアノがあった。そのもう1台のピアノは、エレクトーンというか、いわゆる電子ピアノで、でもそこそこの大きさがあり、なぜか電気スタンドが3つほどくっついている。

僕は大きな黒いピアノを見ながら、その電子ピアノを弾いていた。曲は特にない。と言うよりピアノ弾くテクニックは持ち合わせていないので、ランダムというか適当に弾いているだけである。

最初のピアノは、つまり最初の夢に出てくるピアノは、左上のところに大きな傷が付いていた。

でもすぐに気がつかず、業者が帰ってから気がついた。すぐに連絡すればいいものを、躊躇している間に3日ほど経ってしまった。となると、最初から付いていた傷なのか、自分でつけた傷なのか、微妙な感じになってしまったが、最初から付いていた傷と言う事は確かである。でも日を追うごとに、苦情というか、連絡をするのが億劫になってしまった。

でも大金を払っているし、このままでは自分も気持ちが悪い。何度か電話をしようと思ったが、電話がしづらく、もう一つ別の夢を見ようと思った。

そうして、またもう一つ夢を見たと思う。いや、二つも三つも見たと思う。夢の記憶は消滅してはいないが、思い出すことができない。

ある時、それら夢の記憶が浮上する時があるだろうが、それらが、なぜ浮上したのか、その時はきっと忘れているだろう。

記憶ヲ忘却セヨ、ソシテ、ソノ忘却ヲ記憶セヨ。

 

 

 

夢素描 10

 

西島一洋

 

欲望と願望とカタルシス

 
 

だろうなあと思う。

夢というのは、自己浄化作用があって、懺悔すらも吸収してくれる。
だから、夢は薬みたいなものかなあ。
というより、精神のというか、心のリハビリみたいなものだ。

だから、いくらでも夢を見て良いし、いくらでもその夢を忘れても良い。

感動して書きとめてたくなる夢もあるが、それはそれで良いと思う。その夢には、自浄作用があるに違いないので、繰り返し思い出しても良と思う。

見たくない夢もある。
それも、思い出しても良い。
思い出したくなければ封印しても良い。

ただ、夢の記憶というのは無くならない。
これは、経験上断定できる。
詳しくは、前に書いた。

もうそろそろ寝よう。
というか、寝なければならぬ。
明日のというか、明日もというか、肉体労働。
その前に風呂に入ろう。

そして、何日かが過ぎた。

何日過ぎたのだろう。数日とも言えるし、十数日とも言える。
ただ、一ヶ月は経っていない。
とにかく、何日かが過ぎた。

このところ、よく眠れる。
このところとは数日かな、いや、十数日かな。
ただ、一ヶ月前より、もうちょっと近い頃からだ。

トラックの仕事をしている。
ドライバーというと聞こえは良いが、
実労は人夫である。
重い荷物を押したり引っ張ったり、荷役とも言う。
六十二か六十三歳の頃から、十年間の予定で始めた。
「絵幻想解体作業/行為∞思考/原記憶交感儀/労働について」だ。
長ったらしいタイトルだがしょうがない。
まあ肉体労働である。
仕事そのものより、体の痛みとの闘いである。

で、六年間ほどは、朝三時から午後三時だった。
仕事をしている時に日の出がある。
そうして、昼過ぎには帰って来て夕刻五時か六時頃には寝る。

ところが、突然、コロナ禍で会社の仕事が減り、やむなく夜の仕事になった。突然の十二時間逆転である。
昨年の十一月より、そのようになった。

午後三時から午前三時。
センターに向かう時、太陽を背にしている。
そして、夕刻になり…。
太陽とは縁遠くなってしまった。
ただ、月はよく見る。

このところ、よく眠れる。
昼夜逆転し、しばらく、三ヶ月くらいかな、眠れない日が続いた。
太陽がのぼって明るいときに寝なければならない。
これが辛い。

このところ、よく眠れる。
十二時間熟睡する時もある。
おおよそ、寝れば起きるまで。
つまり、途中で起きて何度も寝るということが無くなった。
これが続くと良いなあと思うが、
今これを書いていて、夜明けになってしまった。
どころか、もう午前九時だ。
やばい。

今頃はぐっすり眠っている時間帯なのだ。
こんな時間まで起きているのは異常な事なのだ。
女房はさっき、というか、一時間前に仕事に出かけた。

もうそろそろ寝ないと。
でも今日は休み。
といっても、と言いながら、少し横になった。

再び筆を取る。

その少しの間に、たくさんの夢を見たなあ。
でも、起きると同時に全部忘れてしまった。
いや、正確にいうと、忘れてはいない。
日常言語に置き換えられないパルスとしてどこかに存在している。これは間違いないというより、まさしくであって、そうして、かろうじて、精神の安寧を維持している。

雉鳩が鳴いている。
庭木で。

もう寝よう。
今日は良い天気で明るい。
雨戸を閉めるか。

 

 

 

夢素描 09

 

西島一洋

 

記憶喪失

 
 

夢ではない。が、前回幻覚と幻聴について書いたので、ついでと言っては何だが、記憶喪失について書いてみよう。

僕は、十六歳の時、一週間の記憶を喪失したことがある。

高校の柔道部の練習で投げられて、後頭部より畳に落ちた。そこまでの記憶は、はっきりとある。どうやって家に帰ったかも記憶に無い。それからまるっと一週間分の記憶を失った。

この喪失感というのは、文字にすることはとても難しい。喪失しているのは間違いないのだが、感覚的な喪失感というのが全く無いのだ。つまり、分かりにくいかもしれないが、喪失しているのに、喪失していないということだ。

でもこれはとても恐ろしい。

自分の知らないところで、ある時間、もう一人の自分が生きている。僕の場合は一週間だ。

もう一人の自分というのが生きていた痕跡がある。

痕跡は色々あったんだろうが、その当時の記憶として鮮明なのは、柔道の段取りの昇段試合の記録である。記録といっても小さな折りたたみ式のペラペラな紙のカードだ。

今は知らないが、柔道というとみんな講道館、あの嘉納治五郎創設のやつだ。家元制度といえば言えなくはないが、昇段試合にかかる費用はわずかだったと思う。「つきなみ」といっていたから、月一回だったのだろう。名古屋ではスポーツ会館でやっていたと思う。昇段試合といっても、負けても引き分けでも良いのだ。ポイント制で、負ければさすがに0点だが、引き分けでも僕の記憶では、0.5点、もちろん勝てば1点。何度でも昇段試合が出来るのだ。つまり、ポイントを積み重ねていけば、昇段できるという仕組みだ。

茶帯から黒帯になるのも、ちょろっとずつポイントを積み重ねていけば、そのうちなれるという、今から考えると、ゆるいシステムだった。そのおかげで、一応僕も黒帯にはなった。

その「つきなみ」のカードには対戦成績が記録してあった。

しかし、一週間前の「つきなみ」の記憶が無い。くどいようだが、明らかなる自分の行為の記録の痕跡。このもどかしさは、もどかしくもないのだ。

わかりにくいかな。自らの経験の痕跡として肯定はするが、つまり、きっとそうなんだろうとは思うが、自分の中では全く身に覚えがない。

以前の夢素描で、夢の記憶について書いたので、詳しくは書かないが、記憶というのは、極めて抽象的なもので、パルスというか、一生の経験の仔細まで、1秒にも満たないプシュッというか、ピュッというか、ツツツというか、それに完璧に集約されている。よく死ぬ前に、一生分の記憶が蘇るというが、僕は間違いなく本当だと思う。

ただ、いまだもって、あの一週間は喪失したままだ。

喪失は言葉にはできない。

 

 

 

夢素描 08

 

西島一洋

 

起きていて見る夢について

 
 

一般的には、幻覚とか幻聴というのだろう。
しかし本人にとっては、寝ている時に見る夢のリアリティと同じく、生々しい。

僕は、マリファナも含めて一切の薬物はやったことがない。
そして、酒を飲んだ時とか夢うつつの時とかでもない。

一番素晴らしく感動したのは、19歳の頃のある体験である。

当時、六畳一間、古い木造アパートの二階に住んでいた。北側にある、細く急な階段を上り、ギシギシと短かいが暗い廊下を踏み進み、突き当たりの焦茶に焼けたベニア扉の奥が僕の部屋だ。

扉にはノブが付いていた。このノブは内側からボッチを押すとカギが閉まる仕組みだ。よくカギを部屋の中に置いたままロックしたことがある。そんな時は、階段をとっとと降り、狭い路地を通って、表通りの飯田街道をひょいと渡り、すぐ向かいにある街路灯のついた電信棒、これに括り付けてある琺瑯看板のちょっと余った番線、つまりちょっと太い針金を、キコキコ…と…折り曲げ、何度もやってれば、切れて、それを携えて、トコトコと飯田街道を渡り戻り、急な木の階段をすっすいと登り、黒光りの廊下の奥の我が部屋の前に立って、ちょいとひと息。何度もやってれば手慣れたもので、針金一本で簡単にカギは開く。この鍵開けのテクニックで、ちり紙交換をやっていた頃、人を助けたこともある。また後年、ミャンマーでトイレに閉じ込められた時、何とか脱出したこともある。

扉を開けると、半畳のたたきというか床があり、そこから奥が六畳。出窓形式で炊事の場所は一応ある。トイレは共有。

扉は暗い廊下の奥だが、部屋自体は南向きで、飯田街道に面していて、日中は日当たりも良い。夜でも飯田街道の街路灯の灯りがあり、深夜でも真っ暗になることは無い。窓下には三叉路ということもあって、名古屋市バスのバス停が四つもある。下町だが、商店街というか、街の中だ。でも、深夜は静かだ。70年代の頃なので、国道153号線でもある飯田街道でも、深夜は車の通りも無く静かだった。

僕は17歳の時に、あることをきっかけに一生の仕事を絵描きと決めた。まあ、覚悟みたいなものです。まさに命がけです。そして、その後10年ほどの間に、強固で濃密な極私的絵幻想が形成された。端的にいうと僕のいう本当の絵というのは、美術史の文脈でいう絵画では無い。絵なのだ。絵というのは絵画では無い。つまり絵は芸術でも無く美術でもない。しかし、これを伝えるのは難しいし、伝える能力も無い。命がけで本当の絵をかくというのが僕の命題です。僕の現在行っている絵幻想解体作業はこの辺りを因として発しています。解体作業というのは破壊作業と違います。一度解体して、部品を整理して、もう一度構築できるかどうかを問う行為です。5年ほど前から行っている行為「行為∞思考/労働について」も絵幻想解体作業のひとつです。もちろん解体作業と並行して、絵も描いているのでややこやしいですが、そんなもんです。順番通りにはいきません。というか僕の中では、この絵幻想解体作業も絵を描いているのに等しいので、日常、さらには寝ている時も含めて絵を描いているのに等しいのです。言ってみればそれほど強固な極私的絵幻想なのです。これを社会的に一般概念に置き換える作業はしないというより、そこまでの素養は僕には無いです。

本題に戻る。というか本題は何だったっけ?
ということで一旦文頭から読み直し、推敲作業をしよう。

推敲作業をしていると段々文章が膨らんでくる。
なんだか、これはまずい。
でもしょうがない。

深夜。
窓下から、というより窓下はるか飯田街道の西の彼方から微音。
あたりは静かだが、その音も静かな音だ。
深い低音。
ブンブンブン…
ゆっくりと、ゆっくりと、本当にゆっくりと近づいてくる。
その音は近づいてくるにしたがって、徐々に分かってきた。
歌声だ。合唱だ。足音だ。
だんだん近づいてくる。
男たちの集団の歌声だ。
言葉は分からないが労働歌である。
反戦歌でもあった。
凄い。
凄い。
どんどん近づいてくる。
ドウドウドドン。
強烈な大きな音のうねりだ。
体の芯まで響く音というか振動というか。
たまらない。
窓下の前を横切る集団。

感動した。

僕も参加したいという衝動に駆られて窓を開けた。

突然、音は消えた。
誰もいない。

 

 

 

夢素描 07

 

西島一洋

 

 
 

虹…、漢字で書くとあじけない。
というか、ハエかカかアブのようだ。
まあいいや。

今、六十七歳だ。これまで虹を見たことは確かにある。ちょろっとした虹も含めて、何回見たのだろう。なんとなく記憶を辿る。

おそらく、二十回程かなあ。多分。もうちょっと多いかなあ。でもその倍の四十回としても、意外と見ていないのだなあ。

で、夢で見た虹の記憶は、おそらく一度だけだ。いつだったのだろう。

二階の窓を開けると、木製の朽ち始めた物干し台。ここは心の故郷のようなところである。今はもう無い。家も土地もすでに人手に渡って、解体撤去されて、今は違う建物が建っている。というか元々借家なので人手に渡るという表現は正しくはないが、大正時代から祖母が借りていた家なので、愛おしい。鶏小屋を解体した材木で造ったボロ屋である。二階の六畳に僕ら親子五人。祖母は一階の二畳くらいのところ。僕が住んでいたのは、五歳頃から十九歳頃まで、十九歳にはすぐ近くの六畳一部屋のアパートに独り住まいで転居した。記憶の中ではもっと長い間ここで暮らしていた感じだが、計算してみると実際は15年に満たないのか。しかし、記憶の中では、家の隅々まで、…ある。

ここからは何度も飛んだなあ。夢ではないが、この物干し台を伝って、二階の屋根にもよく登った。ある時、飯田街道を挟んだ向かいの自転車屋さんが僕の姿を見て、泥棒がいると、大騒ぎになったこともあった。裸足で瓦は熱かった。この物干し台では、よくしょんべんもした。

この物干し台から虹を見たのは夜である。真っ暗な天空を見上げると、虹。美しい。圧倒的な存在感だ。虚無感など微塵も無い。口の中のチョコレートの中のアーモンドの粒が次から次へと出てくるようだ。

七色では無い。三十六色だ。しかも、ど太い。天空の半分を占めている。色は鮮やかで、色と色の境界もくっきりだ。この時僕は思った。これで良し。これ以上のことは望まない。後は苦労しよう。苦労して、苦労して、そのまま死ぬのだ。

追記、何かあったが、忘れてしまった。思い出したらまた書こう。

追記の追記。
何を忘れてしまったんだろう。むしろ、忘れたことも忘れてしまった。忘れてしまったといううちはまだ良い。忘れたという感覚が無くなった時が危ない。

追記の追記の追記。
おそらくは、僕が見たのは真正の虹だった。オーロラのようなふわふわしたものではない。どでかく、どっしりとした、かっちりとした虹だ。あまりにも壮大な情景。そして、おそらくは僕一人で見た。音は聞こえない。見た時間は、実際には十秒間程だったが、百億光年だったかもしれない。

追記の追記の追記の追記。
先に「僕一人で見た」と書いたが、記憶を辿ると、「虹が出てるよ」と呼び掛けたような気もする。音のない世界で、僕の声は誰かに聞こえたのだろうか。僕の声は誰かに届いたのだろうか。そして、誰か来たかもしれない。でもその誰かが、この虹が見えているかどうか…。返事を聞いた記憶は無い。

この虹を見たのは、おそらく十歳くらいの時だったかもしれない。素晴らしい光景だったので、六十年近くたった今でも、鮮明に覚えている。

名神高速道路の高架下の日陰でこれを書いていたら、先ほど蚊に喰われた。左頬骨と右後ろ頸筋辺り。五十メートルほど逃げて、今日向にいる。僕は蚊に弱いのでムヒは常備している。液体タイプのやつだ。さっそく塗った。まだ痒い。今日は十月二十日。この時期の蚊は特に痒いのだ。蛇足から始まって、蛇足で終わる。

 

 

 

夢素描 06

 

西島一洋

 

飛ぶ(飛ぶ方法)

 
 

トントントンと走って、トトントンのト、で、すうーっと垂直に天空に。簡単だ。でもこのタイミングが微妙に難しい。

いったん、この状態になれば、あとは結構自在だ。フワフワとして若干降下し始めた時は、地上の細い細かい尖端を見つけて、そこをツンと軽く蹴れば、さらにグーンと高くにいくことができる。

時に、崖っぷちのようなところに降り立って、悩んでいても、それそこに、とんがった尖端が、あるではないか。そうそう、そこを蹴れば良いのだよ。またまた、ツーンと高くに、すぐに行っちゃう。ピョーン、ピョーン、ピョーン、というよりも、トンスーッ、トンスーッ、トンスーッ、という感じ。

景色はかなり悲惨だ。街は全て崩れている。人の声も聞こえるが叫び声でも、呻き声でもない。ひそひそと話している。その、ひそひその声は、倍音の二乗の繰り返しで豪倍音になっている。その割には、静謐感もある。

その辺りを、ヒョイ、ヒョイ、とすり抜けて、やっぱり天空へ。ああ、天空は良いな。何も無くって。だが、漂うことはできない。あるところまでくると、急に失速し、というより落下し始める。落下する時間感覚は、ここまで上昇してきた時間感覚よりはるかに早い。ビューとさらに加速度的に落下し始めるのだ。

でも、安心、どっかに突起物があるだろう。そこに、ツンとやればまたピューンだ。

まだ他にも色々な飛び方がある。たくさんたくさんあるので迷ってしまうが、今回はもう一つだけ書いておこう。

屋根、何故か黒瓦。二階の物干し台からポンと降りればこの黒瓦屋根、だから、一階の屋根なのだ。面積は身体感覚からいえば若干広い。頂点つまりうだつのところまで上がり、滑り台では無いけれど、道路、ここが結構具体的なのだが、飯田街道に向けてスルスルというか、ヒヨヒヨというか、つまり、若干瓦より数ミリ程度浮いた状態で街道に向けて滑り落ちるのだ。

瓦屋根の先端の縁からヒュイと街道に落ちるのだが、ダメかというすれすれで、ビュイと宙空に身体が放り出されるのだ。これが飛ぶ瞬間だ。この時は結構長く飛べる。というか、いったん飛び始めるとあとは自在だ。

でも、そんなにそこから遠くへ行くことは無い。周辺をヒョロヒョロと飛び回っているだけだ。でもそれが逆にリアリティが生じてしまうのだ。薄暗いが、妙に輪郭がくっきりしているのだ。石っころも、うどん屋のコールタールの塗ってあるトタン壁も、曙町子供会開催のお知らせのための自転車の後ろに乗っている少女の呼び鈴も、銭湯の壁で鳴いている蝉も、理科室のアルコールランプの匂いも、川名神社の石垣にいた小さな草亀も、広路小学校の近くでアイロンで火災になって避難した山崎川のほとりとか、
 ‥とここまで書いて中断した。そして数日がたった。文頭から読み直し、若干推敲したが、読めば読むほど、元のが良いかと思われて悩んでしまう。

で、一応なる推敲作業を終えて続きを書こう。

なんといっても、やっぱり草むらだ。草むらの中ではなく、風景としての草むらだ。牛蛙が鳴いている。草むらの奥は川だ。ただここに突起物はないので、バサバサというかフワッというかボテチョというか、草むらのさらに草むらの凝集している若干固いところに着地するというか、まあ若干包まれるという感じか。でもそこでは寝れない。不安定ということもあるが、風が強い。この風に乗ればきっと飛べる。待とう。良い風が吹くまで。

草むらの風景はなぜだか暗い。蔓がある。牛蛙のこえ。自転車。遠くに光が見える。あそこはきっとエレベーターだ。あそこのに行けば、違う階に行ける。もう飛ばなくとも良い。あのエレベーターに乗ろう。

さて、今回は、意図的に中断する。次にいつ書くか不明だが、今月23日が締め切りなので、それまでには追筆すると思う。今日は、2020年9月4日。‥。

追記、エレベーターは、次回か次々回回しとしよう。

追筆、まずは、先端つっかけビューンの飛び方の方法の伝授をしよう。

飛び方はとても簡単だ。まず落ちる。飛ぼうと思ってはいけない。初心者は高いところからではなく、上記のように、一階建ての屋根ぐらいが丁度良い。飛ぶのに失敗しても、一階の屋根から飛び降りても若者だったら平気だ。(僕は夢では無く実際に子供の頃は一階の屋根から飛び降りていた。もちろん僕だけで無く、他の子供もビョンビョンとびおりていた。2メートル強3メートル弱くらいはあったと思う。)臆することはない。地面すれすれでビユイーンというかフワッと宙にうかび、そのままスイーッと飛ぶことができるのだ。

もうひとつ勇気のいる方法がある。高いところ、ビルの屋上とか高い崖の上とか、そこから飛び降りるには極めて勇気がいる。飛べるとは思っていても、不安はある。飛び降りてそのまま落下ということも否めない。やはりこの時は自分を信じる力だ。きっと飛べるというより、飛べないわけがないという感じかな。でも、心理的に恐怖はあるのだ。それなのに、ふっと宙空に。あら飛べた。やっぱり飛べた。飛ぶのはとても簡単なのだが、そこまでの心の揺らぎがあることは事実だ。

さらなる飛び方、色々あるが、きりがないのでとりあえず今回は筆を折る。

そう言えば、ここ最近、というか、長らく、おそらく20年ほど、飛んでないなあ。

 

 

 

夢素描 05

 

西島一洋

 

飛び転死

 
 

今回は飛ぶ夢について書こうと思っていた。最近は飛ぶ夢をあまり見ない。もしくは見ていても思い出せない。とはいえ、昔たくさん見たので、それらをのんびり思い出しながら書こうと思っていた。もちろん、書けないことはない。

しかし昨日見た夢が、特に鮮明だとか強烈だとかではないけれど、妙に心の奥底に引っかかっていて、やっぱり吐露した方がよいかとおもう。

これは夢ではないのだが、一回りほど年下の友人が、ある時ある集まりの中である出来事を述懐した。というより告白か。十人くらい居合わせたと思う。

子供の頃の体験談である。しかし、この日まで人に言ったことはなく、ずっと苦しんでいた。話したことで癒されるわけでもないが、この話は、もちろん本人にとっては切羽詰まった現実そのものなので、奇異とか面白いという類のことではない。

ただ僕は面白かった。何が面白いかというと、僕にはその情景がくっきりとイメージできたからだった。おそらくは、現実のイメージとは違うのだろうが、そんなことはどうでもよい。

薄暗い。水が流れている。勢いよく。溜まりもある。濁ってはいないが透き通ってはいない。流れてきた。少女だ。小さい少女だ。3歳ぐらいだろうか。最初はゆっくりと、そして、目の前に来た時は異様に早い。手は出せた。だが、怖くて動けない。少女はそのまま流されて、そして、死んだ。

さて、昨日見た夢だが、ここまで書き進んでいるうちに、なんだか、書く必要もないのかなあとも思えてきた。

ただ、どうしても気になるので、書いておこう。おそらく今書かなければ、きっと忘れてしまう。いや、書くことによって忘れてしまうということもあるので、記憶を留めるためには文字化しない方が良いのかなあ。

労働と死という夢であった。

この国では、死も労働として認められており、貨幣経済も認知されている。したがって、死ぬことによって労働の対価が支払われる。死ぬことに宗教とか哲学とか思想とかもちろん芸術とか一切の共同幻想は介在しない。死ぬことの大義名分も無い。

ただ、死ぬのである。なぜか、淀んだ水の中に飛び込んでそれでおしまいなのだ。死への労働志願者は途切れることなくどんどんやってくる。気になるのはその労働への対価は誰に支払われるのだろう。

夢だから情景は、くっきりというかもやもやというか、ただ、あっさりと死んでいく人たち、僕はまだこちら側にいたが、ああそういうもんだなあ、と、特に悲しくもなく、苦しくもなく、罪の意識も無く、ああ、いずれ、こんな感じで死んでいくのかなあという感じか。

でも夢のリアリティから離れてみれば、やっぱり死にたくは無いなあ。

 

 

 

夢素描 04

 

西島一洋

 

メタモルフォーゼ

 
 

いやあ、一昨日見た夢は怖かった。

一匹の蝿が鼠大に変形して僕に向かって来る夢だ。
避けようとして、ベッドから落ちた。
今も右後ろの背中が痛い。
肋骨骨折か、とも思ったがまだ医者には行っていない。

考えてみると、
いわゆる畳での布団歴より、木床でのベッド歴のがぐんと長い。
今、六十八歳。

0歳から17歳までは煎餅布団。
その後アパートを借り、木造モルタル六畳一室。
ベッドを自作した。
ベニアと角材で。
自作だから、サイズも自由。
幅90㎝×長さは2m。
寝床の下に画材などおさめるようにとこ板には工夫をした。
その後24歳で結婚し、県営住宅に住まいを移した。

そこでもベッドだった。
6年経って居を移した。
一戸建ての借家だったが、ベッドを置くスペースは無い。
子供が生まれ4人家族になり、六畳に4人分の布団。
本棚とかあるので、僕の下半身部分の布団は押し入れに突っ込んで敷いて寝た。
それから30年くらいは布団だった。

認知症の母の介護のため居を移した。
それからはベッドである。

その後何年かして彼女は死んだ。
死んだ彼女のベッドは今もある。
電動のフランスベッドで二十万円くらいした。
別々に足も背中も上がるツーモーター式。
介護度3だったのでショートステイ、
つまり介護施設での生活が多かったので、
このベッドもあまり使用していない。
欲しい人は、送料のみでOK。
連絡ください。

 
追記
蝿の描写。
数日前に、あいついで、蜂と百足を殺した。
殺虫剤で。スプレーの。
ともにしぶといので、何度も殺虫剤をかけた。
ヒコヒコしたのを通り過ぎて、
完全に死亡したのを見届けて、
というよりスプレーの薬剤で、
若干本体が白くなるまで。
私が苦しい。
私も苦しい。
私は苦しい
おそらくは、
夢というのは自己浄化作用というのがあるのだろう。
しかし、ベッドから落ちた時の背中は、
日増しに痛くなって来る。

 

 

 

夢素描 03

 

西島一洋

 

前書き

 
 

前回と前々回に、前書きの前書きの1と2を書いた。さて、ようやく前書きを書こう。

「夢記憶交感儀」については先に書いたが、この行為をする前遡ること半年くらいだと思うが、 元名古屋の裁判所で地階には元独房や元拷問室もあるがそこの三階の元食堂で二週間程「素描行為」を行なったことがある。明治の頃の古い煉瓦造りの建物である。

元食堂は、おそらく囚人のための部屋ではなく職員用だと思う。天井も高く広い。シャンデリアも吊るしてあり、まるで宮殿のようだ。僕は、ここに裸電球を一本吊るし、畳十畳分のゴザを敷き、小さなちゃぶ台の前に鎮座して藁半紙に鉛筆で素描行為「絵幻想解体作業/筆触について」を訪れた人と対話しながら続けた。部屋は薄暗い。

二、三人が僕の周りにいて、話しをしながら素描行為をしている時、ふと、今度の僕の展覧会は「夢記憶交感儀」で、何故それを行うかについて僕が話し始めた。

この時だった。突然、数十年分の夢を一気に全て鮮明に思い出したのだ。空間が歪み始めた。歪むという言葉は適切ではない。うまく説明できないが、空間認識及び時間認識が尋常では無くなった。目の前にあるものは確かに見えるが、全て存在感や位置感が尋常では無いのだ。言葉についても同じ様だった。突然失語症になったというというか、二言くらいまでは分かるが、その前後がどんどん欠落して行く。つまり、例えば「僕は、いま、絵を、描いています。」のうち「、」の区切りの前後が欠落して行くのだ。その場に居た人達に「今、僕はおかしい。」とだけ言い放って、部屋から外に出て、廊下で両手を拳で握り締め、「これではいけない。戻れ、戻れ」と力を込めて腕を振った。

三十分ほどだっただろうか、なんとかその状態を抜け出すことができた。しかし、同時にあれほど鮮明に思い出した数十年分の夢の記憶が全て思い出せない。ただ、思い出したということだけは間違いなく事実だ。そういう感覚だけは間違いなくある。
よく死ぬ前に、一生分全てを思い出すというが、これは間違いなく本当の事だろうと、この時体験的にそう思ったし、今でもそう思う。

記憶というのは、極めて抽象的なものとして体に残るのだろうと思う。だから、瞬時にして、数十年分を一気に思い出すことができるのだ。

ただそれらは、日常空間や日常時間の認識とは違う。インプットはされている。しかし、アウトプットするには、日常の空間時間認識に置き換え無ければいけない。そういう装置というか器官というか、それが無ければ、いくら思い出しても、言語化はできない。