最後の詩

 

村岡由梨

 
 

眠と二人で訪れた名古屋のビジネスホテルで、
やっと寝息をたて始めた眠を起こさないよう、
備え付けの小さな机のデスクライトを点けて
私は、いつになく気落ちしていた。
昼間上映会場で見た、
自分の映像作品の未熟さを思い出して
気落ちしていた。

野々歩さんが数日前にプレゼントしてくれた
深緑色のセーターを着て
ホテルのメモ用紙に言葉を書き留めながら
東京にいる野々歩さんとMessengerで
他愛もないやり取りをする。

「今、詩を書いてる。これが最後になるかも」
「大丈夫。いつまでも『最後』の作品にならないように、
 君の創作ノートやメモの類を片っ端から破っていくから(笑)!」
「……」
「……」

野々歩さんとのやり取りが終わって、
「おやすみ」と送ってスマホを閉じた。
そして、服を脱いで、
居室のバスルームにある
大きな鏡に映った自分の裸を見た。
体重が増えて、やや大きくなった乳房。
眠と花を生んで、色が濃くなった乳首。
ずっとずっと見ていた。
なぜか、ずっと見ていたかった。目が離せなかった。
そこには、紛れもない「今」の私が映っていた。
今年の秋に40歳になって、
20代の時のように、
鏡に映る自分の体に欲情することは少なくなったけれど、
いつまでも風変わりで美しいものに執着していたい。
そんな気持ちだった。
でも、40歳。
「自分は20歳になるまで生きられない」
そう信じていた頃の自分に、
どうしようもない後ろめたさを感じてしまう。
「死んでしまいたい」
そんな熱情のような気持ちを初めて自覚したのは、
多分14,15歳の頃。
それから25年が経って、
かつての熱情は、冷たくて硬質な覚悟に変わった。

 

シャワーを浴び終わって、部屋着に着替えて、
ベッドに潜り込んだ。
眠はよく眠っているようだ。
目を閉じて、東京にいる花のことを考える。
期末試験があり、一緒に名古屋へ来られなかったのだ。

ちょっと前にあった幸せなことを思い出す。
その時、私は三軒茶屋へ用事があって
自転車を走らせていた。
すると、数十メートル先から
学校帰りの花が歩いてくるのに気が付いた。
「おーい」と言葉には出さないけれど、
私は大きく手を振った。
すると、気付いた花も大きく手を振って駆け出した。
家の外で抱きしめ合うのは恥ずかしいから、
ハイタッチをして、他愛のない会話をした。

この日、私たちが幸せだったことを、
私はずっと忘れない。

 
 
 

先日、野々歩さんと、
高校に残されている眠の荷物を引き取りに行った。
ロッカーに教科書が数冊、
化学の授業に使う白衣とゴーグル
教室には緑の上履き入れ。
あっけないほど少なかった。
放課後の教室には、眠のクラスメート(だった)子達が
まばらに居残っていた。

私の知らない場所で、
ロッカーから教科書を出し入れしていた眠。
教室で一生懸命に授業を受けていた眠。
文化祭の催しに使う看板をひたむきに作っていた眠。
眠は、確かにここにいたのだ。
そう思うと、涙がこみ上げた。

 

眠も花も野々歩さんも私も、
今、確かに、ここにいる。
鏡に映るのは、紛れもない「今」の私たちだ。
未完成で不完全な私たちだ。
かつて「滅んでしまえばいい」とさえ思い、
憎んでいた世界の地面に、私たちは
二本の足を踏みしめて立っている。
悩んだり、憎んだり、苦しんだりしても
きっと最後は幸せな詩が書けると信じている。

「いってきます」の代わりに「さよなら」と言う
その日が、いつか訪れても。

 

 

 

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