淡路

 

工藤冬里

 
 

α波の上限近く、11.7Hz
https://youtu.be/jjmfRAlkpTQ
https://twitter.com/_yukiohakagawa/status/1474354700451737604?s=21
人間は縦横を組み合わせたがるがそれはあまりにも人間的だ
基本的には上下しかない
横はさまざまだからだ
ベッドのまま運ばれて
焼かれる前に
南極を上から見てみたかった
四方から見られている
厨房の仕切りのない
部首のレストランで
漢字を食べてみたかった
日が陰っただけで人を殺す奴は馬鹿だ
子供を抱いた女、と思ったら犬を抱いた女だった
木がそこら中に生えている
雲の切れ目から降りてくる光の束にそれぞれに違った角度が付いているのは何故ですか?
太陽は雲と同じくらいの高さにあって、大きさも月と同じくらいなのではないですか?
年が変わるというのは公転とは関係なく、かりそめの四季を支配者の在位年に重ねていただけだとしたら、冬至や正月の神聖の押し付けは何処から来ていますか?
人が大勢死ぬ予告を前にして矮小化した愛の定義を繰り返すのは、スーパーの惣菜売場に流れている霊に同化した頭蓋が、反帝国主義とレッドパージの枠組みの中で凍てつき縮みきっているのと同じです
海馬はさらに萎縮してもの忘れや失敗が多くなるでしょう
絵に描いたトラをどう退治しますか
https://youtu.be/-92gC_f0PMQ
光は波でもあるので雲間から広がって干渉します
意識しないときっぱりとはいきません
うすぼんやりと残ります
忘れようとすると一粒の実体になり忘れている時は波になっています
眞子に佳子
皇族に流石にキラキラはない
真理への匕首は初霜に珪角を表す
福引きは八ので付く二八日で終了
餅つきは九の付く日は避ける
ヤギ譲とヴァニ諦レコードを振り返る類いの旧市民の年末
カヴァーをディスってディスカヴァー
死人に口なしてほぶらきんのレコードにも書いてあったね
正月くらい自分で作れ
と茨木のり子のようなものに叱られても
正月は暦の中を毎年移動するし
毎日が正月、とも言えず
いきさつを楽に棄てていくことしか
わたしにはできない
漏らしたことが多すぎて
竹で編んだ笊のような球
分画は受け入れ
借り物の体に対して罪を犯す
人生の目的が分からないとボルヘスbotが言うので
悪いなボルヘス、俺は知ってるよ、と返したことがある
行えてはいないが知ってはいるからだ
分からないという人の強みは行えていないという罪悪感がないことだ
ただ、そうした保留された状態に留まって居られる期間は限られている
その限られた時間を活性化しようとしても空しいだけだ
行えてはいないが知ってはいるという人のための時間も限られている
知っていることを誇ることもできないし、知らない人を見下すこともできない
見下さないということを主題にすることもまた空しい
知っていて行う人が一番幸せだというのはこういうことだ
カントはこれも駄目それも駄目と言った
ヘーゲルは駄目と駄目との隙間を生きた
人類社会の全ての家族はその創世の最初期から喪中に付き年始のご挨拶は控えさせて頂いております。ここに本年中に賜りましたご厚情に感謝致しますと共に、皆様に良き年が訪れますようお祈り申し上げます。
トンネルの青魚
幸せの蛸
海の区分された色
全部やったという気持ちにさせるために
淡路には粒と波が与えられている

 

 

 

#poetry #rock musician

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