萩原健次郎
川上から流れてくる人
強いられているのではなく
意志を固めて、眼をしっかり見開いて
身体は、上下に揺れることもなく
流れてくる。
ひとり、ふたり、さんにんと
等間隔で、川下に向かい
微笑んでいるようにも見える。
そうかもしれない。
自らの動力も気力も
発露することなく
ただ、上から下へと
地点を代えているだけなのだから。
生動の川は、無情ではない。
両岸に、四季の花々が咲き
風が吹き、
草木が潤い、また枯れ
滅していく。
光景は、拝まれている。
祈られている。
そして忘れ去られている。
そうかもしれない。
音楽のように、生きて鳴ったと思えば
生動の川も、無情ではない。
秋桜を
岸を歩いている
こどもたちに、あげよう。
言葉ではなく
聴いてきた、音楽の旋律をなぞって
しらせてあげよう。
溺れているように見えるかもしれないが
ただ、生動しているだけなのだ。
地上は、暴かれているだろう。
この真昼も
川の中から
拝んであげよう。
祈ってあげよう。
この世は、きょうも
生きるために、動いている。