駿河昌樹
詩を書いています
とか
詩人です
とか
そんなことを言わないようにして
しかし
自由詩形式と
日本での定型詩の代表形である短歌形式を
長い年月
使い続けてきてみた
ここには
もちろん策略がある
1990年代以降の
日本における詩の扱われ方
とりわけ
その極端な衰退
共感者の過度の減少
それを観察し続けた上で
モダニズム詩や
シュールレアリズム詩に感性的な傾きのある自分が
どのように
言葉ならべをしていけるのか
いけないのか
数十年にわたる実験を続けてきた
このあたりのことは
言いはじめれば
無限に語り続けることになる
1980年代から1990年代
さらには
2000年代
ぼくのまわりでは
思い切って金をかけて詩集を出す人びとや
歌集を出す人びとが
いっぱいいた
すでに詩歌の時代は過ぎ去っているのに
わからないでいた人びと
小説の時代さえ
底から崩れていっていたというのに
わからないでいた人びと
そういう人たちが
どのように残っているか
彼らの出した本が
どのくらい残っているか
見まわすと
いま
もちろん
ほぼ全消滅している
本を出した人は金と労力をムダに失って
本など出さなかった人と
まったく同じ無痕跡に落ち着いていってしまったことになる
本など出さなかった人のほうが
金をムダにしなかった分
社会生活では勝ったことになる
多少なりとも
詩歌の世界からそれ以外の世間に
名のうっすら残っている人は
団塊の世代までの人
現代日本の詩歌はあぶないぞ
団塊の世代の一部までのみを残そうとする
数世代の陰謀だぞ
その下の世代は御神輿を担がせられ
忖度ばかりさせられて
ただでさえ売れない詩歌本を次々とバカのように買って
まるで
革マル派や中核派の
団塊の世代連中の年金を
若い世代の連中が担ってやっているようなぐあいで
ようするに
詩歌ばかりか
文芸全般が
老いゆく極左連中の介護と同じ状況に入っていっている…
ぼくはずっと
こう観察してきた
やがて
紙媒体で雑誌を作ったり
冊子を作ったりすること自体が
ムダ過ぎるというより
リサイクルゴミに出す労を人にかけてしまう時代に入り
ぼくはサッと紙を捨て
メール配信に切り替えた
メールだと人は迷惑メール設定にすればいいだけなので
簡単に処分できる
それだけでも配信先の人たちへの配慮というもの
紙媒体のものは
封筒の口をハサミやナイフで開け
内容物を取り出し
サッと見て
リサイクル用の紙ゴミを置くところへ持っていくことになる
かかる時間は数分だとしても
これが何年も何十年も続くとなれば
大変な時間的・労力的損失を引き起こしてしまう
なにより大量の紙媒体を郵送されていたぼく自身が
ひどく困っていた事態だ
いまでも紙媒体で
人にものを送ったりしている人は
時代の幾重もの変化の最初の波を
いまだに乗り越えられていない人たち
もう終わっている
いくらなんでも
もう終わりすぎている
あなたの紙媒体に時間を労するほど
みなさん暇だと思ってますか?
なのである
詩歌は書くべし
どんどん作るべし
しかし
絶対に詩集や歌集は作ってはならない
奇特な出版社が
ぜんぶ自社持ちで本を作るというのなら
その場合は作ったらよろしい
その際にはその出版社持ちのブランドのひとつとして
せいぜいよく売れる商品を作っていったらよろしい
資本主義後期どころか
資本主義崩壊期
資本主義変容期の詩歌書きは
最低限こうしたコンセプトを持ってやっていかないといけない
売れないものを本にする
などという異常さが
だいたい
どうかしているのだ
ただの無料配布のパンフならいい
しかし
値段をつけたり
バーコードをつけたりする商品を作ると決めたら
それは絶対に売れないといけない
利益率をどう設定するか
そこから経営学的考察に入らないといけない
こう言うと
詩歌が売れるはずないだろう
などと
平気で返してくる人がいる
なにをバカな!
商品を作るならば売れる商品になるべく
最初のコンテンツから売れ筋にするための構想しなければいけない
書きたくもないことを
さももっともらしく書くことで
商品はできあがっていく
マーケティングをちゃんとして
どんな単語をどう並べれば
最近の若い子は反応してウッカリ買っちゃってくれたりするのか
そこからしっかり商略を立てないといけない
ぼくは大学の授業も
マーケティングにしっかり利用してきた
テーマを自由に設定していい多人数講義で
現代詩を扱ってみたこともある
500人相手に
現代詩界隈では有名な作品を印刷して配り
とにかく読んでもらい
朗読したり
説明したり
意見を聞いたりしてきた
2000年代の段階で
すでに反応は絶望的だった
時代をグッと後退させ
宮沢賢治や中原中也や萩原朔太郎や島崎藤村などを読ませると
詩歌に親しんでいない若者たちにも
いきなり反応はよくなる
どうやら
現代詩と呼ばれたひとかたまりの時代と
そこを満たしていたコンテンツが
まるごと忌避される時代に入っているな
とザッと判断せざるを得なかった
2000年に入ってからの若者の大半は
もう現代詩とその後流の読者には成っていかない
しかし一方
詩歌への反応が失せてしまったわけでもなく
もっと余韻のあるもの
もっと古風なもの
もっと心を遊ばせてくれるもの
などには
それなりの反応は続いていきそうな気配があった
これを
保守化と呼んでしまえば
呼べないこともない
しかし
田中冬二や立原道造や津村信夫のほうがいいなあ
などと感じるのを
保守化と断じて
それで済ましてしまっていいのか
そう簡単ではないだろう
極めつけは
CDをかけて聞かせた吉増剛造の朗読だった
詩集を
何ページもコピーして
テキストも見えるかたちにして
けっこうな時間
『石狩シーツ』の朗読を聞かせた
結果は散散だった
わからない
というのはもちろんいいほうで
気持ち悪い…
どうしてこういう異常なものが詩とか呼ばれるのか…
二度と聞きたくない…
こんな醜いものを聞いたことはない…
などなどの大合唱となった
2000年に入ってから
若者の感性世界であまりにはっきりと変質したものの一端を
うまくマーケティングできた
とぼくは思った
なにかが完全に終わっていて
もうどうにも後戻りできない感性の変化が起きている
これに対してガタガタ批難しても
ドストエフスキーの『悪霊』の
ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーにしか見られない
1945年の敗戦とともに
鬼畜米英がガラッとアメリカ万歳に変わったように
ニヤッポン列島の言語快楽感性は
ガラッと豹変してしまったのだ
かろうじて
茨木のり子や石垣りんなどの言語配列だけが
詩歌として許容される時代に
すっかり変わってしまっていたのだ
もちろん
ぼく(ら)には策略がある
長い時間
潜伏に潜伏を重ねて
ついに
時来たって
事をはじめたホー・チ・ミンの
あの策略