鈴木志郎康さんの思い出

 

長田典子

 
 

詩人であり映像作家であった鈴木志郎康さんが2022年9月8日に亡くなられてから一年以上過ぎた。鈴木志郎康さんは、ねじめ正一さんや伊藤比呂美さんはじめ、大きな作家や詩人を多く育て世に送り出している。

鈴木志郎康さんから詩について多くの教えを受けた一人として、いつも劣等生だったけど、何か言葉にしなければと思いつつも、志郎康さんがこの世にいないことを受け入れられず月日ばかりが過ぎてしまった。生前、志郎康さんの夢をよく見た。柔和な顔で、いつもにこにこ笑っていた。
ああ、亡くなられてもう一年が経つ…と思いながら眠ったせいだろうか。久しぶりに志郎康さんが夢に出てきた。志郎康さんはジャージ姿で、ご自宅のキッチンテーブルのいつもの場所に立っていた。なんだか忙しそうにしていた。わたしは、やっと志郎康さんの思い出を書く気持ちになった。思い出がたくさんありすぎて、どこから書いていいのかわからないけど、わたしにとって鈴木志郎康さんとはどういう存在だったのか、書いておきたいと思った。

志郎康さんは「先生」と呼ばれるのをとても嫌がっていたので、いつもわたしたちが呼んでいたように、ここでも志郎康さんと呼び、敬語も極力避けて書くことにした。

志郎康さんに詩の指導を受けた人は数多い。それぞれの詩人がどんな指導を受けたのかは人によって違うはずだ。志郎康さんの詩の指導は、まるでカウンセリングのようで、一編の詩に30分はかけて1対1で話し合いアドバイスをしてくれた。必ず良い所を褒めてから、気になる箇所について、見逃さないできっちり突っ込んだ質問をしてきた。必ず褒める、というのは、過去に辛口だけの指導をしていたら受講生が一人もいなくなってしまったという苦い経験があったとご本人から聞いたことがある。確かに志郎康さんの詩の教室では、逆にいつも自分の本気度を試されていた。

志郎康さんは、
「この行は、どういう気持ちで書いたの」
「それを言いたいのなら、この言葉では足りない。わからないよ」
「今喋ったことを、ちゃんとこの行に書かなくちゃ」
「たとえば、詩では、こんな言葉のやり方がある…」

など、個人の内面の奥底を引き出す形で、どんどん突っ込んで、本人すら気が付かなかった感情、書けなかった本心、抜けていた事柄を聞き出し、場合によっては例示もしてくれた。持参した原稿には志郎康さんの言葉をメモった字や矢印で真っ赤になった。それを頼りに家で書き直して次回持っていくと、また新たな課題をつきつけられる……。同じ教室の人は皆、志郎康さんのアドバイスをもとに何度も書き直しをして、もうこれ以上書けないというところまで頑張って一編の詩を仕上げていった。もうこれ以上は書けない……という感覚は、志郎康さんとの応答の中で個々に掴んでいったと思う。

「と思う」…と書いたのは、実は自分の詩をどうするかでいっぱいで、あまり他の人のことまで細かく気にできなかったからだ。もうこれ以上書けない……という感覚には個人差もあるし、自分は、最低3回は書き直し、アドバイスをしてもらったように思う。その過程で推敲の仕方や自分の詩を客観視する感覚を培うことができた。30分ぐらいの会話の中で、自分が言いたいことや表現したいことがあっても、人には自分が思うように伝わらないこと、ひとりよがりにはならないこと、詩を書くときに、それを批評するもう一人の自分が必要だ、ということが自然に身についていった。夜、一人で詩を書いていると、志郎康さんの声が頭の中で響いてきて「それじゃだめ」「そうかなぁ」など聞こえるようになってきた。もちろん、その声は書いている詩を客観視し批判する自分の声だ。

たった1回で、
「もう、これでいいんじゃない。よくできてる」
と言ってもらえる凄い詩人もいた。

 志郎康さんに初めてお会いしたのは1988年の秋頃だった。その日開かれたある講座にゲストでいらしたときだった。気さくに2次会にもお付き合いいただき、帰りに関内のホームで、個人的に詩の話をしたことがきっかけだった。
「もし、詩人になりたいなら僕の教室にいらっしゃい」
と誘ってくださったのは今でも自慢だ。そして詩人として本気で詩を書くことになる大きな転機ともなった。これは運命だと思った。今思えば志郎康さんは横浜で乗り換えて東横線で渋谷に行くはずだったのに、わたしが横浜で降りないので、詩の話をもっとしたいのだろうと察してくださって志郎康さんも降りなかったのに、志郎康さんの気遣いに全く気付かず、わたしは次の東神奈川でさっさと電車を降りてしまった。志郎康さんが東京方面にお住まいなので、品川方面に向かう京浜東北線に乗られたのかと勘違いしていたのだ。挨拶をして座席を立ちあがったとき、鳩が豆鉄砲をくらったような志郎康さんの戸惑いの顔が忘れられない。

それから一月ぐらい経過した年の暮れ、お送りした拙詩の感想とともに、詩を書く人たちが自主的に運営していた「卵座の会」への入会を勧めてくれた。「卵座の会」は、当時の渋谷東急BEカルチャーセンターで志郎康さんが教えている詩の講座が母体となり、週に2回では物足りないと感じていたメンバーによって、宇田川町の区民会館で隔週で開催されていた。他の人が皆、東急BEの詩の講座にも通っているのを知り、迷わずそちらにも通うことにした。毎週木曜日の夜は志郎康さんに詩の指導をしてもらえたのは本当に幸運だった。
「卵座の会」も東急BEの詩の講座も、すでに詩集を出版し評価されている詩人、まさに詩集出版に向けて仕事を進めている詩人が数人いて、詩集製作で葛藤する姿を目のあたりにでき大いに勉強になった。わたしにも詩集を出せることがあるのだろうか……と、どこか不安な気持ちで考えていたが、実際に詩人となって新詩集の製作に向かう詩人たちを目のあたりにしたことで、わたしも詩集を出してみたいと強く思うようになっていった。

会が終わると、近くの喫茶店に行き閉店の11時までは詩の話でもちきりになる。志郎康さんは2次会にも最後まで気さくにお付き合いくださり、同じ詩を書く立場としての様々な詩への思いを話してくれた。メンバーはJR渋谷駅の改札口前で話し足りなかったことを30分ぐらいは立ち話をしてから、三々五々、解散となっていった。わたしのような新参者には、他の人が、今何を考え何に向かおうとしているのかを聞くだけで、価値のある時間だった。わたしは時代の変化を意識することとは全く関係ない小学校教師の仕事に埋没していて、詩の世界のことや「今ここ」という感覚には非常に疎く、心底ハングリーだった。他の人は都心の企業で働く会社員や編集者で、別世界の人々と出会えたこともとても嬉しかった。小学校教師は室内で教えることより水泳やマラソンをやる体育や野外観察、劇薬を使用しての理科実験に加え、運動会や遠足等の行事が毎月あり、世間で思われている以上の肉体労働だ。わたしは、日によっては版画の指導で爪の奥まで真っ黒にしたままでも、電車で1時間半かかる郊外から帰宅を急ぐ人に逆流するようにバタバタと都心の渋谷に出かけて行った。都会の女性詩人たちの白くて美しい腕や手がとても羨ましく、眩しくて憧れた。

志郎康さんに初めてお会いした頃、わたしに言ったのは、
「人のことばかり書いていないで、まず、自分のことを書きなさい」
だった。確かに社会的な内容の詩も多く書いていたが、自分の生活のことも書いていたので、なぜ、「人のことばかり書いている」と言われたのかが全くわからなくて戸惑った。

ある日の2次回の喫茶店で、志郎康さんは、わたしに
「今、書いているような詩を詩集にしても、かなりいい詩集にはなるとは思う。でも、それだけじゃだめなんだ」
と言った。え、それだけじゃだめ、ってどういうこと?志郎康さんの教えは、わたしには高度すぎて、戸惑うばかりだった。あるときは、
「恥ずかしがり屋で、いくつになっても少女のような面がある人だけど、今書いているような詩を進めていくのなら、(恥ずかしさを乗り越えて)もっとはっきり書かなくちゃだめだ」
とも言った。
「それだけじゃだめなんだ」って何なんだろう……。出会ったころ聞いた言葉の意味を、あのときはうまく理解できなかったものの、当時の詩は、ある程度のレベルはクリアできていたかもしれないが、特別に抜き出た個性を放っているとは言い難かった。羞恥心を乗り越えて本気で書かなければ、人には何も伝わらないということも今ならわかる。
よく志郎康さんが言っていた「身を賭して書く」ということができていなかった。「身を賭して書く」とはどういうことかは、今ならはっきりとわかる。そしてわたしは、志郎康さんの言葉の通りに身を賭しエネルギッシュに書けた時期もあった。しかし、今の自分は、もう違うステージにきているようにも感じている。でも、やっぱり、わたしは「今の書き方ではだめだ」。志郎康さんの言葉が頭に蘇る。

バブル真っ盛りの頃に開いた第一詩集出版記念会では、詩集の感想とともに
「いろいろ引き出そうとしても、けっこう強情で……本心をなかなか出そうとしないんだけど、抱えているものをどう書いていいのかわからなくて苦しんでいたから、スカウトして僕の教室に来るようになった」
と紹介してくれた。初めてお会いした時から、わたしが重苦しい何かを抱え込んでいることを直感していたようだ。志郎康さんほど直観力や洞察力のある人は稀有だと思う。
当時、教師をしていたわたしに、
「今のお仕事との関係で大変でしょうけど、羞恥心を捨ててはっきり書かなくちゃ」
「すぐに説教臭くなっちゃう(のは駄目)」
「優等生の詩みたいでなんだか…(つまらない)」
とは、何度も言われた言葉だった。

体育が大の苦手でもともと体力のないわたしにとって、学校の仕事は自分の体力を大きく上回っていたため、精神的なストレスやトラウマが原因で心身を壊し、詩を書けない時期が数年続いた。ようやく恢復の兆しをみせ、詩作を再開できたとき、志郎康さんに久しぶりに書けた詩を郵送した。嬉しかった半面、うまく書けない自分に焦れて、かなりの弱音を手紙で吐いてしまった。あのとき、わたしは、志郎康さんに弱音を吐いてみたかったのだと思う。それは長引いた心身の病の恢復の兆しだった。志郎康さんはすぐに電話をくださり、どうしてそう思うのか、事細かに聴いてくれ、励ましてくれた。そのおかげで気分を切り替えて詩作を始められた。感謝でいっぱいだ。

志郎康さんは、詩の教室でもそうだった。調子の悪そうな人には、いつも励ましの言葉や褒める言葉を忘れなかった。調子の良さそうな人には、遠慮なく厳しい言葉をかけていた。志郎康さんは、その人の精神状態や詩の調子まで含めて指導をしてくれていた。

志郎康さんは、そのうち多摩美術大学でのお仕事が忙しくなり、東急BEの詩の教室も「卵座の会」も来られなくなった。志郎康さんと教室で直接お会いすることのない期間が10年以上はあっただろうか。退官されてお体の調子を悪化された頃に、「卵座」同人だった辻和人さんのお誘いを受けて、何人かで志郎康さんの書籍の整理などのお手伝いに御宅に伺うようになった。作業が終わると少しの間、志郎康さんとの歓談が楽しみだった。

志郎康さんが『ペチャブル詩人』(書肆山田/2014年)を出版された頃だったろうか。志郎康さんの発案で詩の合評会が始まったのは本当に嬉しかった。始めは1か月に1度、次第に2か月に1度になったが、3年近く「ユアンドアイの会」が続いた。「ユアンドアイ」は「友愛」→「You&I」からの造語だ。このグループは「友愛」を大切にして欲しい、という志郎康さんの言葉からだった。
その3年の間に、志郎康さんは『どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた』(書肆山田/2015年)、『化石詩人はごめんだぜ、でも言葉は』(書肆山田/2016年)、『とがりんぼう、ウフフっちゃ』(書肆山田/2017年)と、毎年立て続けに詩集を出版され、わたしたちを驚かせた。すでに80歳を超えた詩人とは思えないほど、エネルギッシュに、言葉と詩は相変わらず破壊的で志郎康さんよりずっと若いわたしたちを圧倒した。その頃だ。志郎康さんが、
「このままでは、小さくまとまってしまう」
と、ある詩を読んだときの言葉は忘れがたい言葉として頭に残っている。その場にいた詩人たち全員の胸にも強く響いたと思う。

志郎康さんは、世間の評判など関係なく、詩の形を最後まで破壊し高めていく、違うものを求めていく姿勢を貫いた。ものすごいエネルギーと精神力だ。そして強い人だ。強い人だから、あれだけ優しい人なのだと知っていた。
その後、志郎康さんは体調を悪化させ一緒の合評会が難しくなったことやコロナ禍もあり「ユアンドアイの会」は、ZOOMを利用するようになり現在も続いている。

鈴木志郎康さんの教え子たちのどのくらいの人がそう思っているかはわからないが、少なくともわたしにとって、志郎康さんは、父親のような存在だった。ベッドに伏しておられる志郎康さんを思い浮かべるたびに「いつまでもいつまでも生きていてください」と願い続けていた。父親のような存在だったから、新詩集を出すたびに、いちばんに読んで欲しい人だった。

志郎康さん、お会いしてから数々の助言をいただきながら出版できた第一詩集、そしてそれからずっと、きめ細かくご指導くださり、ありがとうございました。感謝でいっぱいです。雲の上から、また色々なアドバイスをしてください。というか、生き返ってください。わたしは、志郎康さんがいない今「小さい詩」しか書けなくなっています。ダイナミックで「身を賭した」ような詩を書けなくなってしまっています。

だから、はやく生き返って来てください。

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です