愉快、愉快

 

駿河昌樹

 
 

―自由詩形式を使うのは
ある意味
もっとも原初的な文字の書き付けに
遡るっていうことだろうね

―そう
韻律さえ採用しない
最初期の
書きつけにね

―文章形式を採らない
というのは
すでに文章やさまざまな詩形式や
くわえて
短歌や俳句どころか
メール形式やショートメール形式や
LINE形式まで
出現してしまった後の
現代という時代においては
ひじょうに
大きな選択だと思う

―というか
自由詩形式の地点から見れば
それらすべてが
自由詩形式の枠内に
収まってしまうんだよね

―文章さえもがね
ちょっと
適切な改行の配慮やセンスのない
羅列記号伝達線として
見えるね
そういうのも
自由詩形式は包含してしまう

―ほら
欧米の定型詩を
日本語で翻訳する場合に
ほとんどの翻訳は
ちゃんと定型詩にしてないでしょ?
それ自体が
どうしようもない茶番で
許されざる蛮行なんだけれど
意味だけ伝えればいい
みたいな
ヘンな居直りが許されてちゃってる

―それでいて
形式は原詩のかたちを踏襲する
みたいなね
主語や動詞や形容詞や副詞などの配置は
まったく違っちゃってるのに
笑っちゃうよね
詩にとっては
じつは各品詞や各単語の配置そのものが
最重要で
それが動かされてしまえば
もう
まったく別のものになってしまうのに

―詩の翻訳なのに
文章の翻訳と同じでいいと
勝手に決められてしまっていて
それに従って
文章ならざる改行を施されたかたちが
提示され
詩でございます
と言われちゃうのね

―まるで
犯罪を犯した中年女性のことを報道する写真に
中学生時代の
お下げ髪の写真を使うような……

―しかも
全国放送のテレビニュースで
大々的に映しちゃう
みたいな……

―そんな粗い手つきが
共通してるよね
みたいな……

―ま
外国の詩を読む際の
いちばん正しい手順というか
所作というか
それは
やっぱり
ABCからその外国語を学んでいく
っていうことで
誰かが意味だけを伝える翻訳を
ヘンな詩のふりのかたちに並べたものを読むのとは
まったく違うと思うね
この言葉では
「花」を
こんなふうな綴りで書いて
こんなふうな音で発音するのか
なんて
そんなことに感心することのほうが
ひとつの特定の詩には
よっぽど近づいていける

―そうだろうね
文章と詩では
もう
まったくアプローチが違う

―ところで
こんな話をするつもりじゃ
なかったんだがね
つい
うっかり
つまらない話に入っちゃったね

―ま
つまらなくもなかったけれど……
それじゃ
きみの思う
「おもしろい」話に
なんとか
転じさせようじゃないか
どんなのが「おもしろい」のか
わからないけれど

―転じさせよう
って
なると
あれかな?
小津安二郎の『東京物語』みたいに
登場人物のおやじたち
三人で
「愉快、愉快」
とかいって
居酒屋で
むりに盛り上げ直そうとするみたいな
あれ?

―居酒屋で
夜も遅くなって
ずいぶん酔ってきたのに
三人で飲んでいる
あの場面ね
話が子どもの話になってさ
子どもをふたりとも戦争で亡くした
十朱久雄演じる代書屋は
笠智衆演じる平山と
東野英治郎演じる沼田の議論には参加せず
もう飲めない…と
ひとりで
ふらふらしてしまっている

―そうね
三人でいっしょに並んで飲んでいながらも
生き伸びている子どもの話には
彼は入り込みようがない
三人でいっしょに飲んでいても
彼ひとり孤独
話を合わせようとしても
ひとり孤独
座って
酔って
ひとりでゆらゆら揺れているしかない理由が
あまりに明瞭すぎて
とてもわびしい場面だよね

―十朱久雄は
むかし
テレビの子ども番組の『丸出だめ夫』で
お父さん役をやっていたよね
どうでもいいことだけど

―いや
そういうことがさ
どうでもよくないんだよ
森田拳次のマンガが原作のやつだよね
丸出だめ夫のお父さんは「丸出はげ照」といって
頭のてっぺんが禿げているが
すごい科学者なんだ
ロボットならぬ「ボロット」などを発明し
ノーベル賞を取れそうで取れないほどの天才科学者で
ちょっとおじいさんっぽく見えるが
実年齢は30代後半らしい
それでね
なぜ
十朱久雄が丸出だめ夫のお父さんを演じていたのが
どうでもよくないことか
というと
1966年から1967年にテレビ放映されていた『丸出だめ夫』を
見た子どもたちは
もちろん子ども時代に1953年制作の
大人向きの超渋い『東京物語』なんて同時代には見やしないから
『東京物語』を見るのは
だいぶ成長して大人か青年になってからに決まっている
そうして
ある時
小津のこの名作映画を見てみて
おや
この代書屋を演じているオジサンは
『丸出だめ夫』のあのお父さんじゃないか!
とrecognizeするわけよ
そうするとさ
いくら『東京物語』のこの場面が
多義的な意味性に富む「深い」場面だとしても
同時に『丸出だめ夫』のお父さんとしての十朱久雄の姿が浮かんでくるし
しかもどっちの映画の場合も
ハゲおやじだものだから
『東京物語』の中の息子ふたりを戦争で失った代書屋の
さびしい泥酔ぶりを見つつも
『丸出だめ夫』の天才科学者「丸出はげ照」が
そこにぴったり二重写しになって
こころの中ではやっぱり笑ってしまう
という内的事件が起こる
しかも
テレビ隆盛期をしっかり多量にテレビ漬けで育ってきた子なんかは
彼の娘が
映画にもテレビドラマにもCMにもいっぱい出ていた
なかなか美人の十朱幸代なのも知っていて
よくこんなオジサンから
あんな娘が生まれてくるもんだなあ
などと子ども時代に不思議に思ったりもしていたものだから
そんな疑問も
『東京物語』鑑賞中にこころに蘇ったりすると
『東京物語』の代書屋の「内なる悲劇」になんて
没入するどころではなくなる
わけだよね

―そういうのも
あれだね
間テクスト性ってやつかね

―インター・テクスチュアリティーね

―で
『東京物語』では
子どもに期待しすぎるのは親の欲だ
というところで
三人の居酒屋談義は一応の結論に達し
みんな酔いに酔って
疲れて
代書屋以外のふたりもふらふらしてきたところで
「愉快、愉快」
という言葉がくり返されるわけね

―愉快でもなさそうなのに
「愉快」
とわざわざ言うことで
無理にもこころを
「愉快」
のほうに持って行こうとしているかのようで
逆に
さびしさが出てくる……

まあ
映画紹介とかなら
ニッポンお得意のお涙頂戴路線へ
傾けていこう

する
ところ

―あの「愉快」という言葉は
映画の最初のほうでも
中学生の子どもが
「ああ愉快だね、ああ楽ちんだ」
と言うところで出てきていたけれども
もともと
学校の応援歌などで使われていたようだよね
今でも
早稲田大学や
群馬県立太田高校や
神奈川県立厚木高校の応援歌で
「愉快だね節」
というのがあって
これらは小津の映画よりも後に作られているのだけど
昔の高校などで
けっこう歌われていた元歌があったらしい

―よく知ってるじゃない?
太田高校の「愉快だね節」なんかは
こんな歌詞になってるんだよね
 

   ああ 愉快だね 愉快だね
   ああ 愉快だね 愉快だね
   ああ 愉快だね 愉快だね
   ああ 愉快だね 愉快だね
   もしも 太高が 負けたなら
   電信柱に 花が咲く
   絵にかいた ダルマさんが 踊りだす
   焼いた魚が 泳ぎだす

 
https://www.youtube.com/watch?v=3ufryMSK5Rw

 

 

 

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