佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その7

「祖父佐々木小太郎伝」第7話 ネクタイ製造
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

昭和三年、世界日曜学校大会が米国ロスアンジェルスで開かれた時、私は高倉平兵衛氏と共に、日本代表中に選ばれて渡米した。その時私は、日本の主要輸出品生糸の消費状況に特に注意を払って視察した。

米国滞在中、しばしば信者の家庭に泊めてもらった。どこの家庭にも男子の部屋にはネクタイ掛があって、二三十本のネクタイがかかっている。婦人の部屋には靴下掛があって、十数足の靴下がかかっているのを見た。

この需要の多いネクタイと靴下は、無論米国でも盛んに作られているが、まだまだ輸入の余地がある。なお日本の洋服着用者が年々激増しているから、日本におけるネクタイ、靴下の需要も激増するであろう。
いま日本は、大量の生糸の殆ど全部を生糸のまま輸出しているが、せめてその一部をもって、需要の多いネクタイ、靴下に成品して内外の需要に応じたら有利だろう、と考えた。

またネクタイの方は小資本でやれるから、これはひとつ自分でやってみよう。靴下の方は大資本を要するから、これは原料生糸を生産する郡是に勧めてみようと思ったのである。

さて帰国して、郡是に靴下製造を勧めてみたが、遠藤社長、片山専務は、あくまでも製糸一本鎗を主張し、テンで耳を貸さない。ただ一人取締役平野吉左衛門氏は、あの温厚な人が非常な熱意を示してこれを聞き、その後も度々意見を求められ、遂に平野氏を社長とする絹靴下製造会社が、郡是の傍系会社として昭和四年塚口に設置され、一時試練時代の苦悩はあったが、今は靴下製造がやがて製糸を抜いて、全郡是を背負って立たんとする勢いを示している。

ネクタイの方は、私がアメリカから帰ると間もなく父が死に、この時都会の生活に疲れて乞食のようになって帰ってきた弟と共同で経営することにしたのは、前節に述べた通りである。

その頃アメリカでも日本でも、網ネクタイが流行していた。これはしごく簡単な設備でやれるから、少額の自己の資本だけで大阪都島に小工場を設けて創業し、その後二、三の友人の出資を得て合資会社として若干規模を拡張し、ようやく確信を得て、昭和十年資本金二十万円の株式会社東洋ネクタイ製織所を立ち上げた。

東洋ネクタイ製織所は、本社を大阪に置き、原糸を郡是に仰ぎ、京都西陣にネクタイ織物工場を新設、加工工場を東京、大阪に設け、染織を京都の一流工場に委託した。
厳格な製品検査を実施し、織、縫を一貫するネクタイ工場として、他に譲らざる体様を整え、一意良品の輸出に勤めたのである。

また波多野鶴吉翁が、郡是を創業、経営した精神に学び、次のごとき念願を定めて、一に神の御旨に叶う工場たらしめんことを期し、賀川豊彦、本間俊平その他キリスト教界名士の教訓指導を受けつつ、われらのささやかなる営みが、主の栄光を顕わす一端たらんことを祈りつつ進んだ。

 

吾等の念願

一 イエス・キリストを当社の社主と奉載して、日々その聖旨に従い、之を忠実に行わんことを期す

二 キリストの教訓に従い、己の如くその隣を愛する精神を以て、すべてのことを為さんことを期す

三 善因善果、悪因悪果の教訓に従い、各自謙虚を以て修養し、自己品性の向上を図るため最善の努力をなさんことを期す

四 常に考え、常に学び、常に励み、しかして常に何物かを創造せんと努めることを期す
五 目的達成のため信仰を養い、終わりまで耐え忍ぶ者は救わるべし、との信念を以て前進せんことを期す

                              株式会社 東洋ネクタイ製織所

 

私は昭和四年創業の当初から、年々洋服着用者の数を調べるため、調査員を四条大宮の京阪食堂の二階に陣取らせ、下の道路を行く洋装者を数えさせた。

最初の昭和四年は一時間に男子洋装者は三人くらい、女子は勘定にかからんほど少なかったが、三年経つと二倍に増え、その後の増加はまた著しいものだった。そんなことから考えて、工場をだんだん拡張していった。

ところが昭和十年に株式会社に改めてから、生産も大いに増加し、どうしても有力なデパートに売り込まなくては、製品の捌け口が足りないことになったので、その売り込みを始めた。

ところが、原糸から染め、織り、柄、加工のすべてに最善を期し、どこの製品と比べても遜色がなく、しかも値段は格外に安くしてあるのに、どこのデパートも全然相手にしてくれない。

本間俊平先生が、大丸重役の信者を通じて、一度買ってもらったが、あとが続かない。
賀川豊彦先生にも見本を持って頂いて、あちこち運動してもらったが、これもダメだった。

どうも不思議だと思って、いろいろ探ってみると、これはデパートの仕入れ係につかませたり、ご馳走したりして十分ご機嫌を取り結ばなければ、いかに良い品を安くしても、見向いてもくれないものだ、ということが分かり、弟ははやくそれをやろうといってあせるのであるが、いやしくも社主にキリストを戴いている私の会社で、そんな真似はできない。

ちょうどその頃、阪急百貨店が開業早々だったので、私はひとつ天下の小林一三さんにぶつかって、何とかして阪急に売り込もうと、一日阪急に小林社長を訪ね、見本を見せて取引を懇請した。

小林さんは、係の者にもそれを見せ、一応製品の優秀性は認めてくれたのであるが、値段があまりにも安いのを不審がり、しきりに小首を傾けるのである。

そこで私は、それは私の会社のは、他社のごとく仕入れ係への高い運動費を含まないだけ安いのだ、ということを、社主キリストの精神から説いて、大いに小林さんをけむに巻いたのである。

小林さんは、「よく研究して返事をする」ということだったが、私は確かな手ごたえがあったと感じた。

果たして数日すると、小林さんがただ一人自動車で「あなたの会社を探すのに一時間もかかった」と言いながら来訪され、次のような話をされた。

「いかにもあなたの言われる通り、開店間もない私の店の仕入れ係も、ワイロを取っていた。そこで後来のみせしめに、その仕入れ係三人をかわいそうだが解雇した。今後私の店は、あなたの会社のネクタイを中心に売ることにするから、せいぜい勉強して入れて下さい」と、まことに小林さんらしいパリッとしたご挨拶である。

それから阪急との間に、誠意を尽くした取引が始まった。
それはよいのだが、私は小林さんに首を切られた仕入れ係が気の毒でたまらん。

「その三人を私の会社の売り込み係に採用したい」といって小林さんに頼むと、就職難の時代ではあるし、大喜びで来てくれた。
二人は慶応出、もう一人は神戸商大出の優秀な青年で、よく働いてくれた。

「阪急のネクタイは安くて品が良い」という評判が立って、飛ぶように売れ、たちまち他店の売れ行きに響いたので、早くも大丸が二度目の注文を寄越したのを皮切りに、高島屋、三越、十合(そごう)、丸物に入れ、東京では、綾部出身の元三越重役松田正臣氏の斡旋で三越に入れ、続いて松坂屋、伊勢丹、白木屋(後の東急)など、その他岡山、広島の大百貨店とも取引が始まった。

多くはその店の株も持たされて、親善関係を結び、製品はどんどん売れ、我が社は繁盛したので、進んで輸出を計画し、横浜、神戸で外商目当ての見本市を開き、上海の西田操商会を支店同様にして売り込んだが、これは上海で米国製品に化けて売られたので、あまり名誉なことではなかった。

ネクタイの生命は、柄にあった。これで他社にヒケをとってはならじ、と京都高等工芸出の意匠図案係三名に、欧米の流行を参考して研究工夫させた。

たまたま郡是に、スンプ*という顕微鏡のプレパラート同様のものがあり、極めて簡単、即座に作れるものが発明されたのを応用して、動植物の部分を拡大して検べてみると、さすがに神の巧みは人間の工夫に勝り、千差万別の意匠が得られて製品の柄、模様に一新機軸を開くなど、ネクタイ製造に独特の地位を占めた。

このように我が社は、戦前の日本産業大飛躍時代に小粒ながらも一役を買ったのであるが、時代はやがて日華事変となり、それが太平洋戦争に進む頃には、洋服も背広も廃れて、国民服に取って代わられ、ネクタイは贅沢品として、さっぱり売れなくなってしまった。

あまつさえ昭和18年には強制疎開で工場はつぶされ、機械は金属回収で取り上げられてしまったので、会社は解散のやむなきに至った。

戦後になって復興させたが、今度は思い切って趣を変え、家内工業の小工場十余箇所に織機数十台を分置し、別に加工工場を置いて、兄弟二人だけの当初発足の昔に還った。

弟の死後は、長男がその後を継いで今日に及び、戦前ほどの華やかさはないが、まず以て堅実な経営を続けている。

 

*スンプとはSuzuki’s Universal Micro-Printingの頭文字をとったもの。郡是の鈴木純一が発明したプレパラート作製の一方法で、物体の表面の観察に用いられる。適当な溶剤で表面を柔らかくしたセルロイド板に被検物を圧着し,乾燥後これを取り除く。セルロイド板上には被検物の表面構造が転写されて残るという仕組みである。

 

 

 

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