佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その8

「祖父佐々木小太郎伝」第8話 小話四題
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 
その一
昭和三年、世界日曜学校大会に出席し、アメリカ各地を漫遊していろいろ珍しいものを見た中で、バークレー市のカリホリニヤ大学で電子顕微鏡を見せてもらい、それを応用して写真が物を言うところも見せてもらった。すなわちトーキーで今だったら別に珍しいとも不思議とも思いはしないが、その頃日本にはまだトーキーがなく、映画はまだ活動写真と言って、動く写真だけだった。

それが物を言うのを聞いて、世の中にはまだ人間の知恵では計り知れない不思議のあることを知って、私は今まで聖書にある奇跡というものを信じることが出来なかったが、この電子の不思議を見て、マリアの懐胎も、五つのパンと二匹の魚とが五千人の空腹を満たしたことも、さては水上を歩み給いしイエス、波風をしずめたもうたイエイスなど、数々の奇跡も、必ずしもあり得ないことではないと信ずるようになった。

 
その二
それからウイルソン山上の天文台で、世界第一の直径百インチの大望遠鏡で、夜の木星を見せてもらって、今更のごとく宇宙の大なることを知り、この宇宙を創造し給いし神の力に驚き、一層敬虔の念を深うしたのである。

 
その三
帰路シアトルから加賀丸という大きな船で北回りwして帰る途中、猛烈な暴風に遭い、どの船室にも海水が侵入して、乗客一同生ける心地もなく立ち騒ぎ、食事をとった者は一人もなかった。

私はこの時ひたすら神に祈って動じなかったせいか、丹波の山奥に生まれて船に慣れず、体もあまり丈夫ではない私が、ただ一人平気で食事も常のごとく摂ったものである。私はガリラヤの海の難船で、ただ一人安らかに眠るキリストに対して多くの弟子たちが救いを求めた時、「ああ信仰薄きものよ」と憐れみ、たちどころに波風をしずめ給いしことと思い合わせ、それとは比べものにならないが、やはり、信じたから、祈ったから、弱い私があれだけ強かったのだ、と思わざるを得なかった。

 
その四
これは昭和十五年上海に行った時、ホテルから外出しての帰り道、中国人街見物をしようと思い、地図を買い、それを頼りに電車の通っている大通りから、とある横道に入った。折から夕刻で、中国人はみな軒下に集まって、にぎやかに食事をしている有様などを物珍しく眺めつつ町を歩いているうち、日も暮れかけ、雨さへえ降ってきたので引き返し、元の電車道に出て帰ろうとしたのであるが、どこをどう迷ったものか、道は見たこともない川にぶつかってしまった。

地図を見ても見当がたたず、雨はますます激しくなる。中国人が食事などをしている軒下は通れず、ズブ濡れで町をあちこっちと歩き回った。どの道を行っても川に行き当たるばかりで、電車道には出ない。ますますいらだち、ますますあわてる。尋ねようにも言葉の通じない中国人ばかりでどうにもならない。

ふと通り合わせた中国人の人力車夫に指を輪にして「金はいくらでも出すから乗せろ」という意味を身振り手振りで示して乗せてもらった。幌があるから濡れないだけでも極楽だ。こうしているうちにはなんとかなるだろう、と思っていたが、そのうち車夫がこの得体の分からぬ客を持て余したのか、「降りろ」と要求しだした。

私は財布から金をつまみ出して、「これだけやるから、もっと乗せろ」というのだが、車夫は正直に二十銭だけとって私を引きずり降ろしてしまった。私は途方に暮れて、もう歩く気もしない。

その時だった。私はやっと気づいてそこに佇み、救いを求めて一生懸命神に祈った。すると「その道を真直ぐに行け」という神のお告げを感じたので、元気を出して歩いた。
しばらく行くと兵隊らしい者に出会った。

兵隊らしい者は、途端に銃を構えて「止まれ!」と怒鳴り、誰何されたが、日本の兵隊だと分かった私が訳を話すと大いに同情して電車通りに出る道を教えてくれたので、ようやく無事にホテルに戻ることができた。

前の難船の話とともに、これは私が子供の頃から持ち続けてきた「祈れよ、さらば救われん」の実証で、私が七十年の生涯を、この恩寵の中に生きてきたことを疑わない。

 
あとがき
往年私が波多野鶴吉翁伝を書いたとき、それまであまりご交際もなかった佐々木さんからひどく褒めてもらい、深く感謝された。私はそれが丹波で初めて知己を得たような気がしてうれしかった。とともに、佐々木さんが無二の波多野鶴吉翁崇拝家であることを知った。

その後佐々木さんの丹波焼蒐集のお手伝いをしたりしているうちに、だんだん御懇意になり、時に身の上話なども伺ったのである。

最初母の眼病(「本書第一話」)の話を聞いた時、何という哀れな話だ、まるで浄瑠璃の赤坂霊現記を実話でいったようなものだ、と涙をこぼしこぼし聞いた。次に「父帰る」(本書第五話)を聞いた時、これはまた菊池寛の「父帰る」そっくりだと思い、「いつか私が暇にでもなりましたら、そんな話を私の筆でひとつ書かしていただきたいものですなあ」とあてもないことをいったのである。

その暇な時が頽齢七十になった私に回ってきたので、「ひとつ書かしてもらいますわ」ということになって、ことし晩秋の頃から年寄り二人が行ったり来たりして、書けたものをどうするというあてもなく、ポツリポツリと始めた仕事である。

佐々木さんは私より一つ年下であるが、まるで青年のごとく若々しく、記憶も至極確かであり、話もまことに卒直で書くにも書きよかった。私は今までこんな楽な書き物をしたことがなく、高血圧静養中の退屈しのぎの気まま仕事として願ってもない仕事だった、

やっている間に佐々木さんは、「これを本にして古希祝賀の記念にしたい」といわれ、佐々木さんの家で働いた人たちで結ばれている「佐生会」の人々にも相談して実現されることになり、途中から急に油が乗ってきたわけである。

ところが私の老筆はすでにカラカラにちび、それが高血圧二百の老身を労わりつつ、こたつ仕事でポツリポツリとやったのであるから、さっぱり問題にならない。あえて佐々木氏知遇の恩に酬うるに足らざるばかりでなく、「齢長ければ恥多し」を感じて、深く自ら恥ずる次第である。

 

    昭和二十八年歳晩  
                              生野の里にて 村島渚記

 
 

あとがきのあとがき

この半生記は、あとがきで村島氏が述べられているとおり、古希になった祖父が過ぎし波乱万丈の生涯を小冊子にまとめて親戚に配ったものをほとんどそのままリライトしたもので、孫の私も知らなかった行状が事細かに記されているのに驚きましたが、それ以上に明治、大正、昭和三代を駆け抜けた実業家、篤信家の波乱万丈、有為転変の軌跡が生き生きと活写されて興味深い読み物になっていると思います。

明治18(1885)年2月22日、京都府の山陰地方の小さな盆地、綾部に生まれた祖父は、その生涯の大半を養蚕教師、野心的な商人、宝生流の能楽師、経営者、そして敬虔な基督者として活動しましたが、昭和37(1962)年6月21日、大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」の言葉を最後に倒れ、あえて不遜な形容詞を使うなら、まことに恰好良く、78歳で天に召されました。

旧約聖書の「士師(しし)記」に、窮境を跳ね返して剣をもって奮戦したギデオンという立派な義士が登場しますが、この勇者の名前を冠した「国際ギデオン協会」という1899年に設立された組織があります。

わが国にも支部があって、昔からホテルや病院、刑務所などに臙脂色の表紙の英和併記の特別製聖書を寄付しているのですが、晩年の祖父は、この「ギデオン協会」のボランティア活動に熱中し、大津ホテルでの最期のスピーチもこれに因んだものでした。

全8回にわたる祖父、佐々木小太郎の半生記をお読みいただき、まことに有難うございました。

 
2024年3月20日
佐々木 眞

 

 

 

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