萩原健次郎
「滑るね」
「生きてるからね」
空空生きてるんだ。体皮が、裂けて液が流れ出している。ゴム底の
靴に液がからまって、ずるっとなる。急登の坂道に、夥しい数の
何かの幼虫が、もぞもぞしている。もう、そのもぞもぞまでしな
くなっているのもいる。腰を深く屈めてその姿を眺めると、黒い
点が、点が蠢いている。黒い点は、終始動いている。細い脚も敏
感に動いている。黒蟻。生きているんだ。
空空あざやかな緑色と水色の間のような、透明な体皮が噛まれてい
る。噛んだあとは、ぬるぬるを飲むのかなあ。
「滑るね」
「生きてるからね」
空空打鍵を逸する。指が滑って、誤った鍵を打ちそうになってふい
に指の力が緩んだ。美しい旋律のそれは要となる音であるのに、
打たなかった。身体の中心の軸の、さらにその芯のどこか。松果
体、それとも頭葉といったか。身体の、脳の中に生きている植物
みたいなものが繁っている。繁る、生きものが、温かな液を踏み
つけて、足許を逸したときを思い出させた。
「関係は、生きものだらけのことだなあ」
空空か細い、フォルテピアノを演奏していたとき。それは、おんな
の身体を撫でるような、弱音(よわね)の連なりなんだが、一瞬、
ある人の背中の触感を像として結んだ。背中であったか、背中の
窪みであったか、その谷から尻にいたる線のような地勢に、滑っ
た。
空空しかたがないから、谷を眺望し、まず右足を滑らせて、それか
ら左足も滑らせて、尻を濡れた地にべったりと付けて、川面まで
一気に下降していった。
生は、右。死は、左。
その区別もつかないまま、
幼生期の虫の胎を、明きらめた。
空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空(連作のうち)