今井義行
Ⅰ
テレビで 透明な、かえるを、観ました
あわい オレンジ色の 膜の
皮膚を通して 内臓の動きや体液の流れ
雌ならば卵塊の揺らぎなどが
かなり はっきりわかる かえるを・・・・
「北欧」 という 新宿西口の ベーカリーが すきです
そのあさ わたしは 「北欧」の
白パンを 生で 食べていて
過って くちびるを 噛んでしまった
「北欧」の 白パンの 生地に
真っ赤な 液が 滲み込んでいった
交配に 交配を かさねては──
透明な、かえるを 創った 主は
透明な、かえるを 創った 主は
生体実験 を されるが ゆえに
かえるに刃物を挿れたくない、と
繰り返し 言った── そうして
透明度を もっと もっと 高めたいと 言った
生と死の間の透明が
空白空白空白0うつくしい文脈とはかぎらない だから
空白空白空白空白空白空0かえる達は、さらに 抹殺されるかもしれない
ところで現代詩作家の荒川さんは
新聞で このように書いたそうだ
「読むに値する詩は少ないから、詩を厳密に読める人が増えたら
詩人は困る。しっかり読まれたら、終わりです」*引用
「詩人は困る」の「詩人」のなかに
荒川さんがいるのは あったりまえ
尖鋭な詩人と切開される詩人がいる
・・・・・・・・・・・・ っていう 訳なんだ
「読むに値する詩」と きたものだ
では、近頃の 詩のお仕事は 如何
技術の焼増し やってないですよね
詩を書いていて 人生のメロディラインは お好きですか
選考委員も多く務めてきているから
「詩を厳密に読める人」のなかにも
荒川さんは 含まれているでしょう
詩を書いていて 人生のメロディラインは お好きですか
見知らぬ人の書いた詩のメロディラインは 一筋縄ですか
平凡な暮らしって プリズムの結晶の前と 捉えてますか
ああああ。そんな、ばっかな 事態 ───!
現代詩作家、って 何ものでしょう
詩の表現者のエゴイズムに力業で冠
をつけたかのように 感じています
───そんな訳で これは皮肉です
ビジネスマン詩人に対する皮肉です
荒川さん側の申立ては無視してます
詩人は、透明な妖精たちなどでない
詩人は、たとえば 都心の交差点の
人ごみにまざって 衣服を着ている
透明な、かえるなのだ
自家中毒の 現代詩作家・荒川さんが 告発をするなら
詩人は 衣服を脱ぎ捨てる
文豪になるために 生まれてきた訳では ないのだから
詩人のそれぞれの 透明な胴体には
得体の知れない流動体が詰っていて
それらの或る一瞬一瞬が たとえば
カミ、などに転写され、観れば
詩は或る一瞬一瞬の心の迷彩文字だ
透明な、皮膚を 透して 読み
それでもメスを振るおうとするなら
わたしたちはもうメスの先に居ない
何故ならば ──────・・・・・
わたしたちは透明な、かえるだから
そのようなときには 既に・・・・・
わたしたちは、
あなたに観えない先へと撥ねている
Ⅱ
「文字言語を選び、闘ってきた詩にとって朗読は自殺行為だ。朗読を意識したら詩の言語が甘くなる。すぐれた詩には文字の中に豊かな音楽性があり、それで十分。文字を通して音楽性を感じる力が弱まったから声で演じたくなる。文字言語を通して考え、味わう力を詩人が捨てたら詩に未来はない」*引用
とも 現代詩作家の荒川さんは 言っている なるほどな。
≪荒川洋治≫という文字列 そこからは
内在する 硬い製鉄所の音が 聴こえる
カーン、カーン・・・・・・という音がひびく
だから ≪荒川洋治≫って名は「詩」だ
現代詩文庫で詩人の名前を一覧してみた
≪松浦寿輝≫≪川田絢音≫≪朝吹亮二≫など わたしは
彼らの 詩の よい読者で ないけれど
詩人の名前その文字から 何か聴こえる
だから それは既に「詩」なんでしょう
一方 ≪井坂洋子≫から何も聴こえない
だから この詩人から「詩」はできない
詩の題材にはならない 詩人がいるんだ
Ⅲ
転調する瞬間、これは、詩だから 荒川さんから 転調をします
或る 詩友、 彼の 処女詩集は 何だったか──
ずっと おもいだそうとしている
わたしは ちいさな部屋の ちいさな本棚を 探り続けた
買ったり 戴いたりした 詩集を
棚に収まらない分 横に積んだりもしているので
或る 詩友、彼の、処女詩集を 見つけることに
ずいぶんと 難航してしまうのだった
題名に 「帰郷」という単語が含まれていたか
或いは 「桔梗」、だったろうか
わたしは そのイメージから 野原を巡っていた
ああ── 彼の 第一詩集は なぜ、処女なのか
きよらかな 処女のように
丁寧に触れるべきだったと
わたしは、いまにして おもうのでした
処女の名を わすれるとは ───・・・・・
「処女航海」 という ジャズをおもう
はじめて・・・・・ 分け入るように
あの彼の、処女詩集を 見つけ出して 海へ出たい
大洋に浮かび 日輪に照らされ
あの処女詩集を静かに読みたい
トレーナーの袖で拭いたら 黒い水の跡 それでも ───・・・・・
生きてることの メロディラインは好き?
わたしは わたしに問いかける
メロディラインは好き とりわけ 転調する瞬間が
ことば と ことばの 連鎖が
ひとかわ 剥ける ときだから
こころの 冬星の 殻が 背から 割れて
中身が 渇き切るのを 待って
海へと 飛び立って いくとき
色々な 粒の 涙は あるけど
わたしは 太陽に添って 謳っていく いびつな航跡を残し
トレーナーの袖で拭いたら 黒い水の跡 それでも ───・・・・・
生きてることの メロディラインは好きだ
色々ないろの なみだが 零れるにしても
そこを 晒された生理で放浪できればいい
生きてることの メロディラインは好き?
転調する 瞬間が 好きなんだ だいすき
Ⅳ
転調する瞬間、これは、詩。 自由になれるから また転調するんです
▶火曜日は休息日 でも規則正しい生活リズムは保ちたい 写真のポスト
栄養バランスのよい食事 詩作を進めること 地道に焦らずに進みたい
新しい詩が ネット公開中です
▶先日の大雪には驚いた それでも遠くからデイケアに通所した人もいる
水曜日は肝機能改善のための注射 午後には武蔵野の公園を歩いてみよう
新しい詩が ネット公開中です・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここは 真冬の日の 煉瓦色の・・・ むさしの その土壌
散歩して 靴で 地を踏む度 ざくっ、と いう音がする
はつしもだ しもばしらが 列をなして 立っている・・・・
綺麗だなあ わたしは 薄ら陽に映える
凍った葉のうえを辿って 歩いていった
すると はつしもが 最もあつまっている 場所に
現代詩作家の 荒川洋治が 佇んでいる
広告で見たとおりの 苦々しい顔つきと
文学者っぽい寒色系のスーツと黒革の靴
載っていた写真の残像からわかる
鴎外のようなりっぱな公人なんだ
だから当然のように敬称略なんだ
現代詩作家の荒川洋治は
黒革の靴で もくもくと
ただ もくもくと しもばしらを
はつしもの しもばしらの
塊を 踏んで、踏んで、いった ざくっ、ざくっ、ざくっ、ざくっ、
真っ直ぐな ものが
粉々に、光の灰に、なって いった ───
しもばしらは 死んだのでは? と おもいながら
ざくっ、ざくっ、ざくっ、ざくっ、
わたしは 現代詩作家の荒川洋治に 訊いた
「はじめまして 荒川さんですよね」
さ、さくさくっとは さかせない
ざ、ざくざくっとは ざかせない
わたしは 現代詩作家の荒川洋治に 訊いた
「はじめまして 荒川さんですよね」
「え、・・・・・・ どなたでしょうか?」
「自己紹介します・・・・・・ わたしは
現代詩を書いている 今井義行といいます」
「申し訳ない お名前、知りません
どのような詩を 書いているのですか?」
「口語の時代は寒くない、という詩です」*
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
土にまぎれた 氷のつぶが
陽に照らされて ビーズの
ように光るのを むさしの、その ただただ ひろい場所で
しくしくと 感じていたら
いつのまにかビーズたちが軟らかくなった土壌から
冬眠していたはずの 夥しい かえるが
ぴょこん、ぴょこん、ぴょこん、・・・・・・・・
つぎつぎに はりきって 飛び出してきた
それらは みな 透明な、かえる達だった
生と死の間の透明が
空白空白空白0整った鼓動とはかぎらない だから
空白空白空白空白空白空0かえる達は、さらに 抹殺されるかもしれない
だから 負けまいと 跳ねたのかもしれない
そのようなとき 透明な、皮膚を 透して 読み
それでも 切先を向けようとするなら
わたしたちは もうメスの先に居ない
荒川さん ───・・・・・
わたしは わたしたち、という 言葉を 使いましたが
その わたしたちって いうのは
書きたい詩を 書きたい儘に 書いている
詩を 楽しむことを生きている 人たちのことです
技術に 穢れる ことだって、あると思っています
荒川さん ───・・・・
詩を 楽しむことを生きている 人たちのことです
荒川さん ───・・・・・
時代も 跳ねて 変わってきた、っていうことです
時代は 跳ねて 変わってきた、っていいたいです
*荒川洋治 1970年代の 発言に基づく
大胆な力作ですね。よかったなあ。
素晴らしい!
メロデイーを歌わせつつ和音を重層的に響かせているようです。これは企みか無意識下の振る舞いなのか小生には窺い知れませんが。
鈴木志郎康さま 早速のコメント、感謝致します。《大胆な力作ですね。よかったなあ。》 この一行で、この詩を書いてきた、一カ月間が、報われました。ありがとうございます。
佐々木眞さま 早速のコメント、どうもありがとうございます。嬉しいです。
《企みか無意識下の振る舞いなのか》 詩を書きつづけてくれば、嫌でも技術を知ってしまいますが、この詩の中では、技術批判も込めていますので、後者の、無意識下の振る舞い、でありたいと思います。
今、テレビドラマ化され話題になっている「わたしを離さないで」の原作者、日本生まれのイギリス人作家カズオ・イシグロさんは、『日の名残り』で1989年に英国のブッカー賞受賞の際、「作家というのはいろいろな習慣を身に着けてしまうわけです。特にその書き方を、世間から賞賛されたりした場合はなおさらです。でも、これが間違いのもとになることも多いんです・・何年も前には正しかった声に、作家が固執してしまう。でももはやそれは正しい声ではないのです」とインタビューで答えたそうです。(ハヤカワ文庫「わたしを離さないで」の柴田元幸氏の解説より引用)
作家と詩人という違いはあるものの、同じ表現をする者として、今井さんも、意識をもち、この詩で表現したのではないかと思いました。蝉が脱皮するような、きつい転調を繰り返しつつ、真剣に詩を希求する今井さんの存在を強く感じました。
ここで書かれている「荒川洋治」という存在は実は記号でもあり、言い換えれば、空疎な!?「詩壇」という存在ともいえる存在を示唆しているのではないでしょうか。そういったいわば「詩壇」の「権威・権力」への異議申し立てのようにも感じました。
すみません。前のコメントの下から6行目、言葉が抜けていました。
「・・・・・同じ表現をする者として、今井さんも、同様の鋭く尖った意識をもち」です。
よろしくお願いします。
長田典子さま 丁寧なコメントをありがとうございます。カズオ・イシグロさんの言葉 ≪何年も前には正しかった声に、作家が固執してしまう。でももはやそれは正しい声ではないのです≫に、共感致しました。そして、それをわたしにあてはめて ≪作家と詩人という違いはあるものの、同じ表現をする者として、今井さんも、同様の鋭く尖った意識をもち、この詩で表現したのではないかと思いました。蝉が脱皮するような、きつい転調を繰り返しつつ、真剣に詩を希求する今井さんの存在を強く感じました≫と書いてくださって、大変光栄です。
≪「詩壇」の「権威・権力」への異議申し立てのようにも感じました≫についてですが、「権威・権力」志向の詩人が居ても構わないのですが、それは例えば企業での昇進志向と同質で、「自由に、深く、自己を世界を、固有に、考察できるからこそ、詩という表現を選んでいる」わたしにとっては、それは、もはや異次元のものであるということです。詩集で受賞したいと思っていた時期もありましたが、時代は変わり、詩の賞は無実化し、そこに囚われることは、もはやありません。長い時間がかかりましたが、いまは、自分の「詩人としての立ち位置」を自覚できるようになりました。読者の正直な声に、真摯に耳を傾け、吸収したいことは吸収し、前へ進んでいくのみです。
骨頂ですね!素晴らしい。
どうもありがとうございます。とても嬉しく思います。これからも書きつづけますので、ご高覧くださいね。