訪問看護はいかがでしょう? III
(全員 ノー・マスク)

 

今井義行

 
 

《03までのながれ》
  
「ところで わたし 訪問看護ステーションの所長さんに ご提案が あるのです」と わたしは 言った

「看護師さんの 訪問看護は 30分間ですね 最初の15分間は 体温測定・血圧測定・脈拍測定ですね 残りの15分間は 健康相談や雑談となっています

この後半の15分間の内 5分間から10分間を 希望する患者さんへの オプションとして『ディープ・キス』へと 充ててみるのです」

「普通のキスではダメですか?」
「ディープです」

「実際のところ わたしたちのビジネスとは『風俗経営』に少し近いものだとは 分かっているんです・・・
けれども 突然の 提案に すっかり驚いてしまいました・・・
ところで『くちづけ』には 患者さんの 気持ちとしては どれくらいの 金額を お考えですか?」 

「税込み5000円です 看護師さんの『指名』をするときには プラス税込み1000円です 後腐れのない『医療行為』としての『くちづけ』は いかがでしょうか?
わたしには 既に 指名させてもらいたい 看護師さんが 3人います」

「・・・まあまあの 金額設定だとは思います しかし現在よりも 収益は
上がるのだろうか・・・?
ところで 患者さん コロナ対策については どのように お考えですか?『くちづけ』は 濃厚接触になると思いますが」

「コロナ感染を危惧する 訪問看護師さんたちには 大変申し訳ないですが 退社していただきます コロナ感染を危惧しない若い看護師さんたちは オーディションで 積極的に 採用をしていきます

「・・・患者さん 応募者はいると お感じですか?」

「おそらく いま 生活に 困窮している若い看護師さんたちは とても 多いのでは
ないかと 想像しています・・・」

「患者さん とても メンタル面での著しい低下を抱えているようには見えないですね
患者さん もしも よろしければ わたしたちの ビジネス・パートナーになって
もらえませんか 一緒に考えてもらいたい事など 多くあります
わたし 今日は これで 失礼します
これから 早速 訪問看護ステーションのリニューアルについて 検討に 入って
みなくてはなりません」

「その調子です 新人看護師さんたちの オーディションを行なう際には 必ずわたしも同席させてください」

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

※ 前置きが 長くなってしまいました
ここからが「訪問看護はいかがでしょう? 03」の始まりです

※作中「わたし」は 重い精神疾患を抱えており 訪問看護師さんが来ない日には 殆ど
部屋に籠もりベッドで寝たきりになっている

※訪問看護師さんは「精神疾患」に特化した看護師さんたちであり 週に2回「わたし」を訪ねてきてくれている

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

後日 訪問看護ステーションの所長から 電話がかかってきた

「患者さんからのご提案 実行に移す事に いたしました」

「ほほう」

所長は 語る
「訪問看護ステーションのホームページに『訪問看護師急募・看護師のお仕事の他に幾つかのオプション・サービスがあります』と載せたところ 希望者がオフィスに訪れましたよ 今のところ 応募者2名 若くて 清楚な看護師さんたちです」

「ほほう」

「患者さんが お気に入りの 3名の看護師たちも 再就職の目処が立たないから 退職はしないそうです」

「ほほう」

「ところでわたし 患者さんが提案したオプションの他に もう1つ オプションを
考えついたんです」

「ほほう」

「それは『緊縛』です!!ディープ・キスの他に 同じ税込み5000円で考えています」

「ほほう」

「わたくしの訪問看護ステーションの看護師たちは 面白そうねと はしゃいでいる
んですよ もちろん看護師たちの給与も大幅にアップしますから」

「ほほう 所長さんからも 素敵なオプションが 提案されるとは驚きました!!」

「『緊縛』のために 丈夫な縄を用意しています!!」

「ほほう 所長さん はりきっておいででいらっしゃる」

「所長たるもの どんどんアイデアを考えませんと!!こういう世の中ですからね
ところで オーディション会場は わたくしたちのオフィスではなく 患者さんの
アパートにさせていただけませんか?ベッドで横たわっている事が多い患者さんに
ご無理をさせてはいけませんから」

「ほほう もうそこまで考えていらっしゃる!!築30年以上 6畳1間 陽当りの悪い このスペースでよろしければ」

「では 決定です 応募者には わたしから 説明しておきます 1週間後に この
スペースを 面談場所に 使わせていただきます」

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

1週間後の午後2時 ドアを強く叩く音がした「わたしです 参りました」

ドアを開けると 所長と若くて綺麗な女性2人が 立っていた

(ほほう いいんじゃない いいんじゃない!!)

「散らかっている部屋ですけど どうぞ どうぞ」わたしは 小さなテーブルを真ん中に置いて 彼らを招いた そうして わたしと
3人のお客さんは 向かいあって座った

「今日はここで オーディションを行います」と 所長は言った 審査員は わたしと
患者さんです」

「はじめまして 患者です!!既に所長さんからお聞きになっているかもしれませんが こちらの訪問看護ステーションでは 精神疾患者への 基本的なケアだけではなく
オプション・サービスを行ないます
看護師さんからは 次のような サービスを提供いたします」

応募者の 女性たち2人は わたしの説明を 真剣な表情で 聞き入ってくれている

所長は 語る
「1つ目は 患者さんからの要望で 好きな看護師さんを『指名』できるという事 2つ目は 患者さんからの要望で 『ディープ・キス』ができるという事 そうして!!3つ目は わたしからの提案で 看護師さんを『緊縛』できるという事 このプランは 決して
『女性蔑視』ではありません『医療行為』なのです。質問があったら お聞きいたします」

女性2人は 口を揃えたかのように「いいえ ありません・・・」と 言った
そして その内の1人は こう言った
「患者さん わたしには 暮らしがあります・・・けれど 何よりも 患者さんたちには 喜んでいただきたいと 思っているのです・・・」

そう言った女性の 瞳からは 涙が こぼれ落ちていた もう1人の女性の瞳からも
涙が こぼれ落ちていた・・・

(ああ わたしは 女性たちを 泣かせてしまった いったい 何をやっているんだろう わたしは・・・)

「・・・わたしは あなた方を悲しませてしまいました 本当に ごめんなさい・・・」
わたしは そう言って 2人の女性に 深々と 頭をさげた

所長も「本当に あなた方には 申し訳ないと思っています ごめんなさい・・・」
所長も そう言って 深々と 頭をさげた

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

「それでは これから 応募者のお2人と 患者さんで オプション・サービスの
シミュレーションをしていかなければなりません」 

まずは『ディープ・キス』からです お気持ちを楽にしてくださいね さあ 向かって
左側のあなたから」

「はい はじめまして ◯◯と申します」

そうして わたしは 女性の顔に 口を近づけて くちづけをした

(ああ・・・・・ あまい・・・)

「次は 向かって右側の女性に 移ります」

「はじめまして ◯◯と申します」

(ああ・・・・・ あまい・・・)

「それでは『緊縛』に移ります」と わたしは言った 向かって左側のあなたから
荒縄なので 少し 痛いかもしれません」

わたしは 所長から借りた 荒縄を 女性の首から腰まで 縛っていった 

(ああ・・・・・ 食い込んでいる・・・初めてだな こういう事は・・・)

「あの 少しだけ 痛いです」
「分かりました 緩めますね」

(ああ・・・・・ 食い込んでいる・・・)

「次は 向かって 右側のあなたです」
わたしは 右側の女性を 縄で縛っていった

(ああ・・・・・ 食い込んでいる・・・)

「どうでしたか?」

「痛くもなく 緩やかでもなく ちょうど良かったです・・・」と 右側の女性は言った

「このように お2人は コロナの時代にも 毅然とした態度で 就労に対して 考えていらっしゃいます」と 所長は言った 
「お2人を 採用してみても 良いのではないでしょうか 患者さん?」

「そうですね わたしも そのように思います では 就労開始はいつからなど
細かい事は 所長さんと 訪問看護ステーションで 話し合ってください これで
シミュレーションを終わります」

わたしは言った
「皆さん これで 面談は終了です お疲れ様でした」
そうして 3人は 玄関から出ていった

3人が 出て行くとき わたしは思った

(看護師さんたちも 所長さんも皆んな 働く事のできる 身体なんだなあ・・・)

(ああ これで わたしは また1人きりになってしまうんだなあ・・・)

 
・・・・・・・・・・・・
 

「患者さん このプラン いけそうだと思いますか」
「そうですね 30歳以上 歳の離れた2人の女性たちは 了承してくれた
感じがします・・・」

1時間くらい経って 所長から電話がかかってきた

「わたし 訪問看護ステーションのホームページから もっと 応募者を 募って
いきたいと思います」

「そうです そうしてください 所長さん 新しいビジネス・プランは うまく成り立ちそうな気がいたします」

「わたしたち これからは 手を取りあって がんばって いきましょう」
「そういたしましょう」

 
・・・・・・・・・・・・・・
 

「さあ これから 忙しくなるな」と 所長は 電話の向こうで 半ばこわばっている
ような声で言った」

「注意事項ですが 所長さんは 応募者に対して シミュレーションを しては
いけませんよ 大切な大切な 応募者たちなのですから」

「ええ それは 分かっています わたしはあくまで 訪問看護ステーションの 経営者なのですから ね」

「万歳 万歳 万歳 万歳・・・・(空疎)」

「万歳 万歳 万歳 万歳・・・・(空疎)」

(ああ これで いいんじゃない いいんじゃない・・・かな・・・)

(それにしても いま わたしがいるところは ベッドが置かれている 小さな
アパートの部屋だ)

(わたしは とても疲れたので これから少し 昼寝でもしよう・・・
何だか とっても 寂しい 気持ちに なってしまったので・・・)

 

 

 

ラ・ツーダ・デイズ 02

 

今井義行

 
 

ある日 突然脚が痙攣して歩きづらくなった
家でも 外でも 両脚が 絡まり合って 転倒 転倒 転倒・・・!!
昨日は買い物をして 両手が塞がった状態で
歩いていたら 玉砂利に脚を取られて転倒した 顔から出血 痛いッ 痛いよッ 
玉砂利に 顔から溢れた血が 広がっていった

わたしは 精神疾患が 重くって
ラツーダという特効薬を 3錠服用していた

そこで わたしは 心療内科の主治医に
相談して みたんだよ──

「なるほど 脚が痙攣して 歩きづらくなったわけだね
よし 試しに ラツーダを 1度 切ってみよう」
「ラツーダ」というのは 新しい 向精神薬
それは キモチを引き上げてくれる クスリ
どのような出来事が起きても ハイになれる

「ラツーダ」と いう名前の向精神薬に
「なかぐろ」を 入れて
「ラ・ツーダ」と歌えば ハイになれます
「ラ・ツーダ」って ラテン音楽みたいな
響きでしょう?

ホラッ トランペットが 興奮してます
ホラッ パーカッションが 興奮してます

ささやかな出来事しか起きていないのに
嬉しさに変わってしまう不思議なクスリ
の はずなのに・・・
わたしは 特効薬のラ・ツーダを 切る事になったんだ

そうして主治医は言ったんだ
「もしかしたら パーキンソン病を患っている可能性もあるねえ・・・」
パーキンソン病は 脚がだんだん痙攣していく病気 最後には車椅子になるらしい
1人で暮らしているわたしは暗澹としてしまった
もし そうなったら どのように 暮らしていけばよいのだろう・・・?
脳の病気らしいのだけれど原因はまだ解っていない そういう難病である事は知っている

ラ・ツーダは 新しい 向精神薬
それは キモチを引き上げてくれる クスリ
どのような出来事が起きても ハイになれる

「ラツーダ」と いう名前の向精神薬に
「なかぐろ」を 入れて
「ラ・ツーダ」と歌えば ハイになれます

「ラ・ツーダ」って ラテン音楽みたいな
響きでしょう?

ホラッ トランペットが 興奮してます
ホラッ パーカッションが 興奮してます

ささやかな出来事しか起きていないのに
嬉しさに変わってしまう不思議なクスリ
の はずなのに・・・

わたしは 特効薬のラ・ツーダを 切る事になったんだ

就寝前に 服用してきた ラ・ツーダ 3錠
そんな日々を わたしは ラ・ツーダ・デイズと 呼んでいました

ラ・ツーダ・デイズでは
毎日 ものごとを 上向きに 感じては
毎日が 嬉しい 事ばかりに なるんだ

ラ・ツーダ ラ・ツーダ ラ・ツーダさん
わたしは あなたを 信頼していたんだよ

両脚が 痙攣して 怖れに 震えてしまう
「ラ・ツーダ」って 何だか
ラテン音楽みたいな名前なのに
パーキンソン病の疑いがあるなんて!!

わたしは 新しい向精神薬で いつまでも
嬉しすぎる ヒトに なれて しまうはずだったのに・・・

就寝前に 服用する ラ・ツーダ 3錠
そんな日々を わたしは ラ・ツーダ・デイズと 呼んできました

ところがだ
ラ・ツーダ3錠を切ってみたらね
なんということ・・・・・!!
なんということ・・・・・!!
両脚の痙攣が 収まってきたんだよ
普通に 歩けるように なってきたんだよ

これでパーキンソン病の可能性は消えた!!

ラッキー!!

ところがだ ね
普通に 歩けるように なったものの
今度は 精神疾患の症状が
首を もたげてきたんだよ ねえ・・・

主治医がふたたび わたしに言ったんだ
「歩けるようになってきたから ラ・ツーダ もう1度 投薬してみようか?
3錠から 2錠に減らして・・・」

えー・・・!!

「先生 そうしたら また 脚の痙攣が 始まってしまうのではありませんか?」
「そうかも しれないけれど 試してみる価値はあるね」

ああ せっかく 脚の痙攣が収まったというのに・・・

ラ・ツーダ ラ・ツーダ ラ・ツーダさん
ラ・ツーダ ラ・ツーダ ラ・ツーダさん

ラ・ツーダさんの 大バカヤロー!!
ラ・ツーダさんの 大バカヤロー!!
オレを 振り回すんじゃ ねーぞ!!

今度オレを痙攣させたら タダじゃおかねーーぞ!!だって あなたは 天使でしょ??

ラ・ツーダさん あなたは 精神疾患を やわらげる おくすり なんでしょう 
ラ・ツーダさん わたしを 何とかして ちょうだい よ!!

そうして ラ・ツーダ2錠 服用してみたら
脚の痙攣は出なくなって 精神疾患も 和らいできたって わけなんたよ

ラッキー!!
ラッキー!!

やっぱり ラ・ツーダは わたしを 天国に導いてくれる天使だった

 

 

 

シングル・マザーとともに
(2019年作品の改作)

 

今井義行

 
 

おめでとう リアン!

「記憶にのこすのではなく 記録にのこしてほしい」と シングル・マザーの
アルジェリーが言ったので
わたしは いま この詩を書いています

アルジェリーの 長女のリアンは
母が 出稼ぎ労働をしている
ドーハに 今年 単身渡って
レバノンの男性と 結婚したという
彼女はもう22歳になっている

写真にうつっている レバノンの男性は 
リアンの腰に 優しく手を回している

おめでとう リアン!

・・・・・・・・・・・・・・・・

わたしは 2年前には婚約していた
相手は14歳年下の フィリピーナ
彼女の名は アルジェリーといった
わたしたちは日本で暮らしたかった
けれどねがいは無くなってしまった

どちらがどう ということではなくて・・・・・・・・・ アハ 考え甘かったね

わたしは 彼女を妊娠させる事はなかった
彼女には 既に3人の娘がいて
わたしたちには 4人目の子どもを育てる余裕などなかったのだ 

・・・・・・・・・ アハ 考え甘かったね

長女のリアンは 20歳で美しかったよ

・・・・・・・・・・・・・・・

フィリピンでかんがえていた あいについて ────
(そんな事 わかるわけ ないでしょう)

さらりとした 夏の気候の アルジェリーの家で
日本では そろそろ 春が 近い
けれど わたしの こころは 春から とおい

・・・・・・・・・・・・・・・・

それは どちらからともなく
あいが とおざかって いこうと していた からだ

(あいって なに・・・?)
(そんな事 わかるわけ ないでしょう)

日々に 薄らいで いくものは
どうする ことも できない

42日間の 滞在期間のなかで
わたしたちは しばしば 手をつないで ショッピングモールに出かけた
「Do you love me ?」
大通りで 乗り合いジープを 待ちながら
あなたは しばしば 私に 問いかけてきた

けれども あなたの 手からは 
伝わって くるものが なかった
いや わたしの手が 
何も 伝えて いなかったのか

「Yes, of course」と わたしは 言ったのだが ───

愛って なんだ ────・・・・・・・・・?
(そんな事 わかるわけ ないでしょう)

ある日の ショッピングモールの ホーム用品売り場で
アルジェリーは 電球を 1個買った
フィリピンでは
電球のことを 「 Akari 」と いうのだった

「 Akari 」わたしは その言葉に 惹かれた
なにか とても あたたかい言葉

家に戻って 電球を 新しいものに 取り替えた
煌々とひかる Akariに わたしは見入って
なにか 健康的な象徴を 見つけたような気がした

夜には わたしたちは
ふたり ならんで ねた ────
きまって アルジェリーは 先に 寝息をたてた

ときに 明け方に
アルジェリーは わたしのからだに しがみついてきた
黒い髪が わたしの口に 入ってきた

「Do you love me ?」
あなたは わたしに 問いかけてきた
「Yes, of course」と わたしは 言ったのだが ───

わたしたちは 服を 脱がなかった

それから・・・・・・・・・・
「トイレに行ってくる」と 言って
あなたは しばらく 戻ってこなかった

やがて 部屋に 陽がさしてきて
戻ってきた あなたは
わたしの首に 腕を巻きつけて

「Good morning, Yuki!」と 明るく笑った
わたしも
「Good morning!」と 明るく笑った

わたしは「Do you love me ?」と 言わなかった

・・・・・・・・・・・・・・・

アルジェリーのアイディアで
わたしたちは フィリピンから 少し 足をのばして
ブルネイ王国に
旅をする ことになった

ブルネイ王国には アルジェリーの
クラスメイトの ネリヤがいるのだ

空港では ネリヤと彼女の夫のジェームスが
にこやかに歓待してくれた
ネリヤは晩い第1子を身籠っていて
そのすがたを ジェームスが傍らで 見守っていた

ネリヤとジェームスは
5日間かけて 車で
ブルネイ王国を 案内してくれるという

・・・・・・・・・・・・・・・

何といっても美しかったのは
3日目の 早朝の青いビーチだ

わたしたちは はだしになって 寄せる波と戯れた
アルジェリーは 両手に
一生懸命 貝殻を 集めていた

わたしたちは ネリヤとジェームスが 用意してくれた
朝食を 木の椅子に 座って 一緒に食べた
そこで 記念撮影をしあおう ということになった

わたしは 寄り添い合って 微笑んでいる
ネリヤとジェームスを 撮影した
「今度は わたしが 撮るわよ」と ネリヤが言った

わたしとアルジェリーは 並んで砂浜に立った
「手でも つないだらどうだい?」と ジェームスが言った

わたしは しずかに アルジェリーの肩に手を回した
ネリヤが「そうそう いい感じ」と言った

わたしたちが撮ってもらったその1枚 ────それが
わたしたちにとって 一緒に写っている 1枚の写真になった

・・・・・・・・・・・・・・・

ブルネイの ホテルでは
わたしたちは シャワーを浴びたり
共同のキッチンで
コーヒーを 飲んだりして過ごした

わたしは ぼんやり 考えていた

日本では そろそろ 春が 近い
けれど わたしの こころは 春から とおい

・・・・・・・・・・・・・・・

それは どちらからともなく
あいが とおざかって いこうと していた からだ
日々に 薄らいで いくものは
どうする ことも できない

愛って なんだ ────・・・・・・・・・?
(そんな事 わかるわけ ないでしょう)

部屋の中で 持ち物の整理を していた時のこと
アルジェリーが 咄嗟に
わたしのパスポートを掴んで においを嗅いだ

「Bad smell!!(悪臭ッ)」
それが あなたの わたしへの印象だったのか

わたしは 黙っていた

ダブルベッドで わたしたちは
ふたり ならんで ねた ────
それから アルジェリーとわたしは 抱きあった

抱きあいおわって
ぼんやりとした 空間が わたしたちに残った

しばらくして
わたしは アルジェリーに 囁いた

「Let us break our engagement and become just friends.
I think it is good. (わたしたちは 婚約を解消して 普通の お友達になりましょう
それが良いと わたしは思います)」

アルジェリーは うなずいた
そして
あなたは ゆっくりと こう語ったのだ

「My love for you is gone… I dont have love for you anymore Yuki…
before when we met in the first time, I love you … but now no more…
(わたしのあなたへのあいはきえてしまった・・・もうあいがないのですユキ
わたしたちがはじめてあったときわたしはあなたをあいしていた・・・でもいまはもう
I tried to love you again but I cant!! Friend」
わたしはもういちどあなたをあいそうとしたの でもできない 

・・・・・・・・・・・・・・・

アルジェリーは 再婚しなかったという
アルジェリーとリアンとその夫の
しあわせそうな写真が 何枚も送られてきた

リアンは いまでも わたしの事を
「お父さん」と 呼んでくれている

アルジェリーは 家族の写真とともに
「How are you, Yuki?」と 
わたしに メッセージも添えて送ってくれる

「Fine!!」と わたしも メッセージを
添えて返信する

わたしたちはとても良い友達になっている

 

 

 

ラ・ツーダ・デイズ

 

今井義行

 
 

「ラツーダ」というのは 新しい 向精神薬
それは キモチを引き上げてくれる クスリ
どのような出来事が起きても ハイになれる

これまでの 精神を安定させる
「パキシル」4錠に 上乗せされた クスリ

昨晩(ゆうべ) それを 飲んだのさ
就寝前に 2錠を──

正式名を「ラツーダ」と いうのだけれど
「なかぐろ」を 入れて
「ラ・ツーダ」と歌えば ハイになれます

両手が 痙攣して
喜びに 震えちゃう
「ラ・ツーダ」って 何だか
ラテン・ミュージックみたいな名前でしょ?

ホラッ トランペットが 興奮してます
ホラッ パーカッションが 興奮してます

ささやかな出来事しか起きていないのに
嬉しさに変わってしまう不思議なクスリ

わたしは 新しい向精神薬で いつまでも
嬉しすぎる ヒトに なって しまうのかなあ・・・

水曜日 西友で 1週間分の多くの食材を 買い求めた
もう 買いすぎちゃって 困っちゃったよ・・・

帰り道 わたしは1メーターだけ タクシーを利用した

決まって 水曜日に 利用するので
わたしは あるタクシー・ドライバーさんに ずいぶん
覚えられてしまって

「バスロータリーをUターンして
それから 真っ直ぐ進んで
郵便局のところにきたら左折・・・
・・・・・・・・・ええと
次の次の道を右折 それからまた右折・・・
でしたっけ?」

ドライバーさんが わりあい記憶してる それだけで 凄く凄く 嬉しいぞ

マスクを顔の半ばまで 覆ったところから
見える そのタクシー・ドライバーさんの目は
とても おおきく 見開かれているなあ・・・

ウレタンの 生地で 隠れているから
そういうところばかりに 視線が向かってしまう

なぜだか そういう事が わたしは とっても とっても 嬉しいぞ

就寝前に 服用する ラ・ツーダ 2錠
そんな日々を わたしは ラ・ツーダ・デイズと 呼んでいます

ラ・ツーダ・デイズでは
毎日 ものごとを 上向きに 感じては
毎日が 嬉しい 事ばかりに なるんだ

「ここで 良かったですよね?」 
タクシーが わたしの アパートに たどり着いた

わたしは 今日乗った タクシー・ドライバーさんの
喋りかけてくる 声のなかに
何処かしらの 方言が混じっている事に
気がついた ・・・熊本あたりか?

なぜだか そういう事が わたしは とっても とっても 嬉しいぞ

ある日 都営バスの 車内で ひとりだけで ニヤニヤ笑っている
高校生くらいの女の子を 見つけたんだ

そういう ヒトって いるでしょう?
そういう理由(わけ)が わかったよ

キミも イッチャッテ いるんでしょう?

わたしも 相手がいないのに ひとりで 笑ってしまうんだよ 嬉しくってねえ!

キミも ラ・ツーダ・デイズの
真っ只中に いるのでしょう きっと──

(キミ わたしの 仲間なんだろ)

「嬉しいかい?」と 語りかけてみなくても 
わたしと 女の子は それぞれに ニヤニヤニヤニヤ 笑いつづけているんだ

(キミも たどり着いちゃったね 楽園みたいな ところへ)

(地獄じゃないよ!! ここは 天国なんだよ!!)

それでも くるえないって いうのは 何だか つらいよね
そうして・・・・・・ わたし 勃起まで しちゃうんだよね!!

バイアグラ いらず!!!!

きっと 何にも 理由(わけ)も ないのに

ラ・ツーダ・デイズの 真っ只中に いて
笑いつづけている キミと わたし

ホラッ アコースティック・ギターが 興奮してます
ホラッ アップライト・ピアノが 興奮してます

ラ・ツーダ ラ・ツーダ ラ・ツーダ・デイズ!

ある日 部屋の なかに ひとりで いて
もう 秋なのに 冷房を最低温度にしてた
もう 秋なのに 肌寒い程の 季節なのに

(何やってんだ わたしは・・・)

なのに そういう事で わたしは とっても とっても 嬉しくなってしまうぞ
それが わたしの ラ・ツーダ・デイズ

ラ・ツーダ ラ・ツーダ ラ・ツーダ・デイズ!

「作業所」に出かける前 あんなに 不安の
かたまりに さいなまれて いたのに
いまは それが 待ち遠しくさえなってる 不思議だ・・・

嬉しい事なんて 何ひとつ 起きていないのに 

「最近 何だか あなた 変わったみたい」
作業所の 女性スタッフの 岩崎さんに
そう言われて なぜだか ゲラゲラ ゲラゲラ 笑いだしてしまった わたし

どうしてか そういう時が わたしは とっても とっても 嬉しいぞ

ラ・ツーダ ラ・ツーダ ラ・ツーダ・デイズ!

わたしは 以前の 向精神薬では
キモチが 安定していた だけだというのに
こうゆう 嬉しさって 何処から やってくるんだろう?

(一体 わたしの からだは 何から できて いるんだろう・・・?)
 それでも くるえないって いうのは 何だか つらいことだ・・・
(一体 わたしの こころは 何から できて いるんだろう・・・?)

なんちゃって ね!!!!

不思議だなあ いくら 考えても わからないぞ・・・!

作業所で 宅配釜めし「釜寅」の 割り箸と
しゃもじを セットしているとき
どうして こんなに 嬉しくなって きちゃうのかしら ね・・・
割り箸としゃもじの セット組みをしているだけなのに ね・・・

そうして わたしは ゲラゲラ ゲラゲラ 笑いだしてしまった
作業所のみんなも わたしを振り返って ゲラゲラ 笑いだした
ゲラゲラ ゲラゲラ ゲラゲラ ゲラゲラ・・・・・・

ラ・ツーダ ラ・ツーダ ラ・ツーダ・デイズ!

知らない 誰かが それらを いじってくれるから? 知らない 誰かが
それらを いじってくれるから? わたしの 知らない 誰かさんが
釜めしの割り箸としゃもじの セットを 生真面目に いじってくれるから?

ゲラゲラ ゲラゲラ ゲラゲラ ゲラゲラ・・・・・・
そういう事が わたしは 嬉しくって 嬉しくって たまらないぞ

ホラッ トランペットが 興奮してます
ホラッ パーカッションが 興奮してます

ラ・ツーダ ラ・ツーダ ラ・ツーダ・デイズ!

正式名の「ラツーダ」に
「なかぐろ」を 入れて
「ラ・ツーダ」と歌えば ハイになれます
ゲラゲラ ゲラゲラ ゲラゲラ ゲラゲラ・・・・・・ってね

ああ・・・・・・・・・・・・・

ラツーダという 新しい向精神薬を 処方して くださった
わたしのセンセイ どうもありがとうございます!!

わたし 嬉しくって 嬉しくって 本当に たまんないです!!

ゲラゲラ ゲラゲラ ゲラゲラ ゲラゲラ・・・・・・

わたし は いま この瞬間 も
嬉しくって 嬉しくって もう どうにも ならないんです
・・・・・・・・・!!

夜ごとの 就寝前の 2錠を── 3錠に増やしたら
もう トンデもない 事に なっちゃいます・・・・・・・・・!!!!

 

 

 

私的な詩論を試みる

 

今井義行

 
 

1 始まり

 
わたしは、今から「私的な詩論」を試みようとしているが、これは、あくまでも「私の経験」に基づいて書いていくものなので、この論考を書くにあたり、サイトや図書館等で調べたりという事は、行なってはいない。
調べると「ああ、この箇所は、いかにも、きっと調べたんだねえ・・・」という事が、読者に伝わってしまうからだ。後々に述べる事に関係するのだが、わたしは「詩集」は、殆ど読んではこなかった。「現代詩文庫」も、殆ど読んではこなかった。
この論考を書くに際して、わたしが思った事は、わたしは詩を書いてから30年以上経つが、詩に関する散文は殆ど書いてこなかった。わたしは、最近になってわたしが数年経つと還暦になるという事を知って、驚いてしまった。そこで「わたしは、わたしなりの「私的な詩論」を書いておきたい」と思ったのだった。
わたしは、小学生から高校生まで、国語の教科書以外では「詩」を読んだことはなかった。単行本としての「詩集」を読んで感銘を受けたという事もなかった。小学校中学年に、誕生日のプレゼントに、親から「宮沢賢治作品集」を買ってもらった事があった。そこには「童話」の他に「詩」も収められていたが、それらは、独特の文体だった事もあって、途中で読めなくなってしまった。
わたしが小学校中学年の頃に熱心に読んだのは、最近亡くなってしまった、日本のファンタジー作家「佐藤さとる」氏の「コロボックル・シリーズ」というファンタジー作品だった。それは、面白かったので、夢中になって読んで、わたしなりに「コロボックル・シリーズ」を真似て童話のようなものを書いてみたりした。しかし、物語を創作するという事は難しいもので、タイトルばかりは考えたものの、その物語が完結するという事はなかった。そこから「文学というものは難しいものだ。」という、先入観ができてしまったようだ。
しかし、その後、数年経った中学2年生のとき、たまたま、中央公論社編の文庫本「現代詩アンソロジー・上巻」を書店で見つけ、購入し、読んでみたのだった。そこには、戦後から1950年代までの現代詩人たちの代表的な詩篇が収められていた。「田村隆一」氏の代表的な詩篇は、とても格好良かった。また「谷川俊太郎」氏や「黒田三郎」氏といった詩人たちの代表的な詩篇は「何処が、とは説明出来ないのだが、その説明出来ないところが、とても良いなあ。」と感じられるものだった。何よりも、それらは「創造的」であると同時に、とても「解りやすい」詩篇でもあった。わたしはそのときに「現代詩」というものがあると知ったわけなのだった。けれど、その後「現代詩アンソロジー・下巻」を買う事がなかったので、1960年代以降に書かれた詩篇を読む体験は持たなかった。とはいえ「現代詩」というものがあるのだと知ったわたしは、書店で「現代詩手帖」という雑誌を立ち読みしてみた。そして、そこに載っていた詩や論考が、あまりにも難し過ぎて、わたしには、さっぱり理解できなかったので、それから「詩」という文学からの興味は、またわたしから離れていってしまった。
──それから随分と経ってから、わたしは、大学の法学部に進学した。そしてわたしは、法曹サークルではなく「児童文学」のサークルに入り、また童話作品の創作をしてみた。そのときに、わたしは、久しぶりに文学体験をしたというわけである。何故その後に、わたしが童話作品の創作から離れていってしまったかというと、わたしは「児童文学」に関わっているというのに、実は「子供が好きではない。」という事に気づいてしまったからだ。
ちなみに大学生になると、まるで、決められた事のように文豪の作品「罪と罰」のような作品に手を出してみたりするが、わたしは、それら有名な小説を、それなりに読み通しはしたものの、何が「罪と罰」なのだかさっぱり解らず、その内容は、きれいさっぱりと忘れてしまった。
話は戻るが、わたしは高校を卒業してから、大学の法学部に進学したわけなのだった。しかし、わたしは、法曹を目指していたわけではなかったし、公務員を目指していたわけでもなかった。ただ浪人をする余裕が家庭になかったので「将来的に潰しがきくだろう。」という理由だけで、合格した大学の法学部に進学したのだった。この事は、今になってつくづく思う事だが、進学をする場合「どこの学校に進学する。」のかという事が大切なのではなくて「何をやりたくて学校に進学する。」のかという気持ちが、本当に大切なのだという事だ。わたしは今、いろいろな経緯があって、「精神障害者年金」というものを受給しながら、また福祉的なさまざまな支援を受けながら、生活をしている。また、一般的な就労はもうできないため、殆ど寝たきりに近い生活をしている合間に、ベッドで詩を書いて、定期的な通院をしながら、住んでいる地域の「作業所」に通所して、日々を営んでいる。わたしは、精神疾患を持ってはいるけれども、この環境にようやくたどり着いて本当に良かったと感じている。
「作業所」に通所しているメンバーは、30歳台から70歳台までの精神疾患者であり、メンバーは、わたしのように「精神障害者年金」を受給しながら生活をしている人たちもいれば「生活保護」を受給しながら生活をしている人たちもいる。わたしたちは、軽作業をしながら一緒にできたての温かい昼食を取り、月に1回、僅かではあるけれども「工賃」を受け取る。わたしが「作業所」に通所していて思うのは、「作業所」のスタッフがとても心優しい人たちであり、そのスタッフたちが「直接的に社会の役にたちたい。」という動機から、福祉的な仕事を敢えて選択しているという事が伝わってくる事だ。「スタッフたちの給与は、それほど高いものではないだろう。」と察するのだが、スタッフたちは笑顔を絶やさないし、1日を精神疾患者たちと一緒に過ごす。
「作業所」には、割合頻繁に、福祉学校の生徒たちが実習生として訪れて、わたしたちと一緒に一定期間を過ごす事がある。なぜ実習生たちが福祉の仕事に就きたいという考えに至ったのかは、1人1人異なると思うのだが、はっきりとしている事は、高校在学中から「福祉的な仕事に就こう。」と明確に定めていたのであろうという事だ。これは、とても大きい事だ。将来的にやりたい事が決まっていれば、自ずと、どのような学校に進学したいのかが、決まってくるからである。わたしは、わたしに関わることがらを、後悔しない性質の人間だと思っているが、唯一、今、わたしには思う事があって「わたしは、直接、人々を支える事ができる「福祉の仕事」を、なりわいにすれば良かったな。」という事である。

 

2 「詩作」への入り口

 
わたしは、大学卒業後、民間の中小企業に就職した。初めの内は、何事も新鮮に感じられたし、やはり、わたしにとって嬉しかったのは、今まで手にした事のなかった給与を受け取る事ができた事である。その給与で、わたしはわたしなりの望むような生活がある程度可能になったし、実家に一定額のお金を渡す事もできた。
ところが、働いている内に、わたしは、1つの事に気がついた。社員の誰もが自分の部署の仕事に邁進しているように見えていたのだが、社員が担当している仕事が完結しつつあるというのに、どういうわけか、上層部の決裁により、簡単に人事異動が行われてしまうという事だ。もう少しで、出来かかっている仕事だというのに、その仕事を奪われてしまって、担当していた社員は「とても悔しい思いをしているだろうなあ。」と思った。そのような事は、わたしには、とても理不尽に感じられた。わたしは「わたしなりの仕事を完成させていってみたいと思っても、簡単にそれを奪われてしまう可能性もあるのか。」と思った。わたしは「何者にも奪われない、自分だけのものを得たいものだ。」と望むようになっていった。
その頃、わたしの勤務地は渋谷にあって、そして、渋谷の駅前には東急のビルがあった。会社から帰宅するとき、何気なく、そのビルの上階に昇ってみた。するとそこには「東急BE」というカルチャー・スクールがあって、講座のパンフレットを眺めてみると「現代詩講座」という講座があった。講師は、わたしの知らない「鈴木志郎康」氏という現代詩人だった。そのパンフレットには、このような事が記されていた。「詩を書いてみましょう。詩を書くと、毎日の生活が活き活きしたものになります。」その文章を読んで、わたしは「これだ!」と直感的に感じたのだった。(結局、生きていく上で最も大切な事は、そういう事なのではないか。)と思った。そしてわたしは、その講座を受講してみる事に決めたのだった。

 

3 現代詩人「鈴木志郎康」氏と創作仲間との出会い

 
わたしは、講師の「鈴木志郎康」氏という現代詩人の事は、何1つ知らなかった。そこで休日に神田の書店街に出向いて「思潮社」から出ている「現代詩文庫・鈴木志郎康詩集」という本を買って読んだのだった。けれども、その詩は、よく解らなかった。「解らないのに、講座を受講して大丈夫か?」という思いがよぎったが「とにかく、勇気を出して、受講してみよう!」という気持ちになったのだった。
実際に「現代詩講座」を受講する事となって、参加した初日、教室には、「鈴木志郎康」氏が座っており、その周りには受講者たちが座っていた。講座の進め方は、受講者が予めコピーしてきた詩作品をその場で読んで、感想を述べ合う合評会の形式だった。今でも忘れられないが、初めて参加した日の講座で合評する事になった詩作品は、詩人「北爪満喜」氏の「白色光」という作品だった。わたしは、それを読んで、すぐに「ああ、これは難しいな。」と感じてしまって、感想を述べる順番がわたしに回って来たとき、どうにもならず「・・・パス。」と言ってしまった。そうしてわたしは、他の受講者たちが「北爪満喜」氏の詩作品の感想を思い思いに述べているのを見たのだった。正直なところ、わたしは、面食らってしまったが、その後になって、とても物静かな佇まいの「北爪満喜」氏の使う言葉が、詩の中では、跳ねて動いているように、強く感じられたのだった。わたしには、現代詩というものが、普段使っている日本語から成り立っているにも関わらず、別の構造を持っている造形物として強く感じられて、やや萎縮もしたのだが、やはりその事よりも、現代詩への大きな関心の方が遥かに上回った。そうして「わたしもわたしなりに詩作品を書いて、提出してみたい。」と思ったのだった。
わたしは、その後、アパートの自分の部屋で、わたしなりに、原稿用紙に、初めて「詩」を書いてみた。その初めての「詩」は、現代詩を知らないわたしによる、初めてのものだったので、あくまで、日常的な日本語で書いた「詩」だった。
そのときに、今でも忘れられない出来事が起きた。──ビリビリと、わたしの頭の先から足の先まで、電流のようなものが、激しく突き抜けたのである。そのような出来事は、わたしにとって、今までに1度も起きた事のない経験だった。翌週、わたしは、わたしの書いた詩をコピーして「現代詩講座」に緊張しながら持っていった。わたしは、「鈴木志郎康」氏と受講している人たちに、わたしの書いた詩を配って、わたしは、その詩を朗読した。ぐるりと、受講している人たちがわたしの書いた詩について、感想を述べてくれた。その感想が、おおむね好意的な感じだったので、わたしは、胸を撫でおろし、本当に嬉しかった・・・
わたしは、詩を読む事や詩を書く事から「詩の世界」に足を踏み入れた者ではないけれど「詩の世界」に足を踏み入れて、自分の好きなように、詩を書き始めた。「鈴木志郎康」氏は、講座の中で「詩は、勉強するものではない。」と受講者たちに言った。だから、わたしは、「現代詩文庫」を買い揃えて、貪欲に有名詩人の詩作品を読む事は少なかったし、今では閉店してしまったが、その当時、渋谷にあった、詩の専門店「ぱろうる」で、熱心に詩集を立ち読みしたり、詩集を買ったりする事も少なかった。
それでもわたしは「現代詩講座」を受講しながら、詩を書き続けていく事にしたのだった。何故なら「詩作」は、わたしの日常生活を、とても活性化させたからだ。毎週「現代詩講座」が終了した後も、みんなで、喫茶店に移動して、その日提出された詩作品について、長い時間、感想を述べ合って、その時間も、とても熱気が籠もっていた──

 

4 「詩壇」というものについて

 
そうした生活の中で、わたしは、詩の世界には「詩壇」というものがあるらしい、という事を知った。
今、考えてみて「詩壇」というものがあるとするなら、それは詩集の出版社の最大手「思潮社」が形造ってきたものと言って良いと思う。詩集に「思潮社」マークが入ると、詩人として認められるところがあり「思潮社」が発行する「現代詩手帖」の中で、それなりの役割=原稿執筆等の仕事を果たしていくと「詩人は「新人詩人」から「中堅詩人」となり、「中堅詩人」から「ベテラン詩人」になっていくという構造になっているのだ。」と思った。その結果、詩人たちの作品は「現代詩文庫」に収められて、絶版になった詩集も、その中で読む事ができる。「ベテラン詩人」として認知されると、その詩人は、他の文芸出版社からも詩集を刊行していく事にもなり、広くとは言わないが、詩人は、社会的にも認知をされていく。その事は「詩の世界の中での「会社」のようなものだ。」とわたしは思った。しかし、それは、別に悪い事でも何でもない。例えば「中堅詩人」というものは、会社で言うところの「中間管理職」のようなものだと言えるだろう。
わたしは、「鈴木志郎康」氏の紹介によって「書肆山田」という出版社から、第1詩集を出版する事になった。詩集のタイトルは「SWAN ROAD」というもので「現代詩講座」で発表した詩を纏めたものだった。その詩集の出版の打ち合わせのために渋谷の喫茶店で、わたしは「鈴木志郎康」氏と待ち合わせをして、詩集用の原稿の束を「鈴木志郎康」氏に渡して、1通り読んでもらった。「あなたは、今、何歳?」と尋ねられて、わたしは「27歳です。」と答えた。「鈴木志郎康」氏は「第1詩集を出すのには、ちょうど良い年齢だね。・・・でも、この詩集は、あまり評判にはならないかもしれないね。」と言った。
わたしは、その頃「思潮社」から刊行されている月刊誌「現代詩手帖」をときどき読むようになっていて、その12月号は「現代詩年鑑」というもので、その中には、「今年の収穫」という記事があり、それは、その年度に出版された中で、アンケート結果によって、良かったと判断された詩集が、特集されるというものだった。わたしは、その「今年の収穫」を閲覧して、わたしの第1詩集「SWAN ROAD」の名を探したが、たくさんのアンケート回答者の中で、わたしの詩集を挙げてくれた詩人は、2名だけだった。まさに、「鈴木志郎康」氏の予想通りになってしまった。
その後、わたしは、5年後に、主に俳句や短歌の句集を刊行している「ふらんす堂」という出版社から「永遠」という第2詩集を出版し、それからまた3年後に「思潮社」に連絡をして「詩集を発刊したいのですが、引き受けてもらえるでしょうか?」と告げた。すると「はい、解りました。1度、編集部に、原稿を持って打ち合わせに来てください。」と言われた。「思潮社」の編集部は、有楽町線の「護国寺」のマンションの2階にあって、わたしは、原稿の束を持って、発行者「小田久郎」氏の次男である「小田康之」氏に会った。「小田康之」氏は「とうとう、訪れましたね。」と、わたしに言った。
わたしの第3詩集のタイトルは「私鉄」と決まった。12月号の「現代詩年鑑・今年の収穫」に間に合うように、制作を始めたはずだったが、結局、詩集の完成は「今年の収穫」には、どうしても間に合わなかった。「思潮社」から届いた年賀状に、発行者「小田久郎」氏からの1筆があって、大きな現代詩賞の1つである「高見順賞の推薦に1票投じました。」という事が書かれてあった。わたしは「高見順賞」の発表式に出席して、受賞詩集の発表の成り行きを見ていた。その結果、わたしの詩集の名が読み上げられる事はなかった。他の詩集の名が読み上げられたわけだが、そのとき、わたしは、選考委員長が受賞詩人に向かって「壇上から、目配せをした。」のを、はっきりと見てしまった。(こういう事を見つけるのが、わたしはとても早い。)そのとき、近くにいた「小田久郎」氏が「詩の賞なんて、つまらないものだ。」というような事をつぶやいていたのを記憶している。わたしはその後、何冊かの詩集を「思潮社」から出版していった。その行為の中でわたしが考えていた事は「やはり、何らかの「詩の賞」を受賞して、詩人として「それなりの、自分のポジション」を獲得していきたい。」という、言わば、1つの野心であった。しかし、先に述べた、1例としての「高見順賞」のように、何らかの「「詩の賞」を受賞するためには「ある程度有名な詩人との繋がりが、かなり必要なんだな。」と感じてもいて「その事は、あくまで「「個」としての「自分」にこだわって、詩を書いていきたい。」という、わたしの考え方とは、かなり相反する事のようにも感じられた。また、わたしはやはり個人的には、受賞していく詩集での詩の書かれ方や「現代詩手帖」に掲載されている詩の書かれ方の多くには、何らかの大きな違和感も感じていた。すべてとは言わないが、それらの詩の多くは、難解な言葉で造形されていて、ある意味「格好良いじゃないか。」と思わせる部分もあったのだが、よく読んでいくと、「詩人の手つきは見えるのだが、書かれた詩篇からは「人の姿が、何故だか、あまり感じられない。」という事だった。その違和感とは、何だったのだろうか。それは、言葉による「オブジェ」という感じだったろうか?
しかし、言葉によらなくても、美術作品にも「オブジェ」と呼ばれるものは数多く存在する。「オブジェ」という存在を見て、その形に惹きつけられる場合、見た者は、何に惹きつけられてその形を「面白い」と思うのだろうか?・・・わたしには、その「オブジェ」という存在は、ある形を成しているわけだが「その形とは、まず表現者の頭の中に概ねの形のイメージがあって、そこから、表現されていくものなのか、それとも、表現してみようという意識や無意識の中で次第に、ある形が表れてくるものなのか。」という考えを持った、そして「現代詩の形の場合も、そのような2通りのプロセスのどちらかをたどりながら、その形が成り立っていくのだろうか?」と、わたしは、想像をしてみた。

 

5 現代詩講座での「鈴木志郎康」氏による詩の書き方についての指導の行われ方とその後のわたしの現代詩に関わる足跡

 
話は戻るのだが「鈴木志郎康」氏の現代詩講座での、詩についての指導の行われ方について、これから書いていきたいと思う。
先に述べたように「現代詩講座」での、講座の進められ方というものは、受講者たちが予めコピーしてきた詩作品を合評会形式で感想を述べ合っていき、最後に「鈴木志郎康」氏が講評を述べるというものであった。そこで大変に印象的だった事は、提出された詩に対して「鈴木志郎康」氏が、いきなり「技術論」を語って詩の添削をしていくのではなくて、書かれた詩には「何らかの欠点」が含まれているわけだが、その詩の作者が、その詩に於いて「一体、どういう事を言いたがっているのか。」という事から入っていって、その実現のためには「どのような工夫が必要なのか。」という形での指導がなされたという事である。そして、この事は「現代詩講座」受講のパンフレットに記されていた「詩を書いてみましょう。詩を書くと、毎日の生活が活き活きしたものになります。」という文言に、まさに符合するものであった。「誰だって、自分が言い表したい事が形になっていく事は、とても嬉しい事ではないか。」わたしは「この指導の仕方は、とても優れた方法ではないか。」と強く感じた。
しかし、その指導の徹底的に厳しい行われ方は、生半可なものではなかった。「詩の作者が、その詩に於いて「一体、どういう事を言いたがっているのか。」という事から入っていって、その実現のためには「どのような工夫が必要なのか。」という事への作者との対話が細かくなされていった。その結果「この詩は、何回書き直してもこれ以上進む事はないから、次の詩へと向かっていった方が良い。」という発言さえあった。また、あまりの指導の厳しさに泣き出してしまう受講者もいた。けれども「ダメなものは、ダメ。」という事なのであった。
「現代詩講座」は、一定の期間を以って終了し、その後も継続して受講するのかどうかの判断は、参加してきたそれぞれの人たちに委ねられる事になるのだが、1期間だけで満足して辞めていく人たちもいたし、指導が厳し過ぎて辞めていく人たちもいたようだ。「鈴木志郎康」氏の指導は大変に厳しいものではあったけれども「もっと上達して、自分自身の書き表したい事を、実現させていきたい。」という参加者たちは、継続して「現代詩講座」の受講を続けていった。わたしも、そのように強く願っていたので、継続して「現代詩講座」の受講を続けていく事にした。
その一方で、受講者たちの有志によって、盛んに詩についての合評会が重ねられて、その結果を「卵座」という同人誌にまとめ、現代詩に関わる多方面の人たちへ発送しては、その反応を楽しみにした。但し、同人誌を発行して、それを、現代詩に関わる多方面の人たちへと発送して、または、逆に発送されてきて、その反応を楽しみにしあうという行為は「詩に関わる人たちの間での循環」ともなる。それは、それで有意義な事なのだが、偶発的に、わたしたちにとって、未知の詩の「読者」との出会い=接点を生み出す事は、稀であった、と言えよう。
わたしは、その後、いくつかの同人誌活動を転々としながら、詩集の出版も盛んに続けた。出版した詩集は、これまでに数冊となったが、今はもう同人誌活動をするつもりもなければ、詩集を出版するつもりも持ってはいない。(その間に、わたしは、46歳のとき、会社という組織の中にいる事がつくづく限界に達してしまって、精神疾患となり、会社組織から追われる事になったのだが、その事は、わたしを、つくづく、安堵させた。)わたしはもう、同人誌活動も、詩集の出版も行わない。この事は、わたしの経済的な状況によるところもあるけれども、もっと積極的な意味合いを持っている。

 

6 「現代詩」が盛んに読まれていた時代があったと言う

 
わたしは、中央公論社編の文庫本「現代詩アンソロジー・下巻」を読まなかったので、1960年代以降に書かれた詩がどのような詩だったのか、解らなかった。ある日、知り合いの65歳くらいの元コピー・ライターの男性から「1960年代の末頃に「詩」が盛んに読まれた時代があったのだけれども「詩」って、今どうなっているの?」と尋ねられた事があった。その男性の話によると「その当時盛んだった学生運動とリンクして、映画や演劇や文学書や思想書や漫画が観られたり、読まれていたりしていた。」という事だった。
そこでは「鈴木志郎康」氏の詩も盛んに読まれていたし、わたしが現代詩講座を受講した後に知る事となった「吉増剛造」氏や「天沢退二郎」氏や「清水昶」氏らの詩作品も数多くの読者に支えられていたという。また詩人・思想家「吉本隆明」氏の著作物や、短歌・現代詩等の詩歌、「天井棧敷」での演劇、前衛的な映画等多方面で活躍した「寺山修司」氏の活動もとても大きく支持されていたそうだ。わたしは、先述の、65歳くらいの元コピー・ライターの男性に、自分が出版した詩集を贈ってみたのだけれども、彼から見ると「今は、もう「現代詩」という分野の文学は、殆ど存在していないのではないか。」という見解になるのだった。
それは「現代詩」というものが、1980年代半ば以降から、しばしば語られていたように「現代詩を読む人たちよりも、現代詩を書く人たちの方が多い。」という状況を指し示しているのではないか、という事にも解釈できた。その一方で、わたしは「「詩を書いてみましょう。詩を書くと、毎日の生活が活き活きしたものになります。」という、わたしが「現代詩講座」を受講する事になった、現代詩の在り方は「基本的な事」であり、それで、充分なのではないか。」とも強く考えた。あくまでも「詩というものは、1個人の、何らかの生活上の出来事から発生する気持ち=素朴な表現意欲を出発点として、詩という言葉にしていけば良いのであって、それが、何かしらの「詩壇的現象化・社会的現象化」をしていく必要等は、ないだろう。」と、彼と話していて、わたしは考えたのだった。

 

7 「詩人」を名乗る事と現代詩の「賞」について

 
ここで「詩人」を名乗るという事について考えてみる。まず「詩人を名乗るという事」は「詩集」を出版している人たちを指しているという事なのか?
わたしは、そのようには思わない。詩集を発行する事は、自費出版による事が殆どなので、ある程度経済的に余裕がないと、それは実現しない。「詩人」は、出費ばかりが、かさむので、職業にはならない。わたしは独身生活を続けてきたので詩集の出版が可能となったが、家庭を持っていて子どもがいる人たちにとっては、詩集を出版するための費用を捻出する事はかなり難しい事であり「詩を書き続けてきてはいるけれど、一生に1度くらいは、自分の詩集を出版してみたい、と願っている人たちは数多くいるだろう。」とわたしは想像した。詩を書き続けていて「わたしは「詩人」だ。」と名乗れば、その人は、もう詩人なのだとわたしは思う。また「詩人」は「詩を書く才能」がある人がなるのだろうか?「詩を書く才能」とは、何なのか?「詩」を書くには、ある程度、持って生まれた資質というものもあるのかもしれないとも思うが、文章を書くのが、巧いという事とは、まったく違うと思う。形が「いびつ」でも構わないとわたしは思うし、やはり「詩をどうしても書いてみたい、という動機こそが「詩を書く才能」へと向かって、繋がっていくのではないか。」とわたしは思うのだ。そこには「生活の中の切実さを乗り越えていきたい」という事もあれば「生活の在りかたをもっともっと豊かなものにしていきたい」等、さまざまな事があるだろうが、そこには「詩」を書いていく、強い意志と粘りが必要とされる。但し、何の意識も持たずに、言葉を改行して、それを「詩」としてしまうのは「安直である。」とわたしは思う。言葉を改行する事には、言葉を改行するための積極的な意識が必要なのであり、そこを外してしまうと「詩」にはならないと思う。
ところでわたしは、何冊かの詩集を出版してきた。その行為の中でわたしが考えていた事は「やはり、何らかの「詩の賞」を受賞して、詩人として「それなりの、自分のポジション」を獲得していきたい。」という、言わば、1つの野心ではあった。そこで「詩人」が得るものは「ステイタス」というもので、それは「詩人たちの「詩壇」で認められたい。」という欲望を満たす。わたしは、「詩の賞」を「あらかじめ、受賞者が決まっているのかもしれない。」というような疑問を持っている事を書いたが、それは、すべての「詩の賞」に当てはまる事ではないかもしれない。ただ、選考委員会は、ベテラン詩人と中堅詩人で構成されており、中堅詩人は賞の候補になった詩集を丹念に読み込んではくるが「やはりベテラン詩人の意向が強く反映されていくのだろうなあ。」という思いは、個人的には拭い切れない。詩人の名が冠された「詩の賞」等は、概ね、詩人の出身地域の文化振興とも大きく関わっていると思うので「純粋に「詩という文学」について与えられるものでもない。」とも想像する。
そのような事もあって、わたしは、わたしの詩壇での評価は、どうでもよくなってしまった。
上昇志向=有名詩人になる、という考えを持つ事は、別に非難されるような事ではなく、そのような志向に向かって努力をしている詩人たちを非難するわけではないけれども、あくまで、わたしは、そのような考えを持つに至って「自分の好きなように、詩を書ければ、それでもう充分である。」というふうに感じたのである。その時期、わたしは、わたしの持病である、精神疾患が悪化していってしまったので「詩壇」で、多くの詩人たちと交流する事から遠ざかってしまったし、また住所も非公開にしてしまったので、詩人たちから詩集や同人誌が送られてくる事も激減してしまったのだった。そしてわたしは「もう、それで良い。自分の好きなように詩を書いていければ良い。そして、身近な詩友たちとの間で熱心に詩について考えを交わし合えれば、それで充分なのではないのか。」という考え方を持つに至ったのだった。
そうしてわたしは、その後、詩人「さとう三千魚」氏の主催するネット詩誌「浜風文庫」に詩を掲載させてもらう事になったのだった──

 

8 わたしから見た現代詩に見られる書法の特徴についてと詩が発表される「媒体」について

 
現代詩の書かれ方=書法には、代表的なものが、複数存在すると、わたしは考えている。まず、それらを列挙していってみようと思う。
「「現代詩」は、難解である。」と、しばしば指摘される。けれど、必ずしもそうとは言えないので、現代詩の在り方をひと括りにして、考える事はできない。そういう事を踏まえて、わたしは、わたしなりに、「現代詩」の書かれ方について、整理してみた。

① 作者と詩の中の話者が一致しているか、限りなく距離が近い詩。

※ 生活の場面に即したり、身近な風景に即したりしながら、素直に書かれている詩ではあるが、作者と詩の中の話者が一致しているか、限りなく距離が近いため、詩の作者の経験の範囲に基づく詩となり、詩の中の話者が動き回れる範囲は狹くなる詩。

② 主に「直喩」から造形化されていて、その中に「人の姿」が見える詩。

※ ①の詩に近いが「〜のような」という「直喩」の修辞が多用される詩。詩で表現される言葉の世界が、①の詩よりも、大きく拡げられる詩。

③ 主に「暗喩」から造形化されているが、その中に「人の姿」が見える詩。

※ 「直喩」を使わずに事物そのものを「暗喩」として例えるが、その技法の奥に「作者」または、詩の中の「話者」の姿が見える詩。造形化されていても、その中に「人の姿」は見える詩。

④ 主に「暗喩」から造形化されているが、その中に「人の姿」があまり見えない詩。

※ あくまで「暗喩」から造形化されている詩。形式を重んじて、作者の意識を投影しようとする意識はあるのかもしれないが、それが、充分にあるいは殆ど投影されずに、詩が形骸化されてしまう危うさを持っている詩。現在「現代詩手帖」に掲載されている詩作品は、このタイプのものが多いように、わたしは感じている。何故、そういう事になってしまうのだろうか?③のタイプの構造の詩が「模倣されて、模倣されていき、」その結果、書き手の手つきばかりが残ってしまい、そういう事になっていってしまうような気がしてならなかった。

➄ 作者と作品中の話者が分離していて、詩の中の話者が作者の想像力によって、自在に動き回れる詩。

※ 作者は作者として在り、話者は話者として在り、作者と分離した形で書かれる詩。書き手の生活体験、生活範囲は限られているわけだが、詩の書き手の想像力を駆使すれば、詩の中の話者は自由に動き回る事が出来る詩。
わたしは、今は、⑤の方法で詩を書いている。何故なら、わたしの生活と共に、詩作に於いても、「さらに「自由」になっていきたい。」と願っているからだ。そうする事によって「書いていて楽しくなれるし、おそらく読んでくれる人たちも楽しい気持ちになれるのではないか。」と思うからだ。

わたしは、ある日、詩人「辻和人」氏が、ツイッター上でこのようなツイートをしているのを見つけた。それは、このような1文だった。「「現代詩」ではなく「現代の詩」ではないか。」わたしは、ツイッターはツイートが流れる速度が早過ぎて疲れるため、滅多に見ないのだが、わたしは、このツイートは「とても重要な事を、言い表しているのではないか。」と思ったのだった。
詩の書かれ方、①②では、もちろん書き手の姿が充分に見えるけれども、詩としては素朴過ぎる事を免れない。けれど、人の生活を端的に切り取るという面では充分に有効だ。③では「現代詩手帖」に多く見られる書法であり、言葉によるオブジェのようなものではあるが、その向こうに「人の姿」は見える。④では、これも「現代詩手帖」に多く見られる書法で、言葉の形はあるものの、その向こうに「人の姿」はあまりよく見えない。この書法では、書き手の意識が詩に投影される力が薄い、もしくは存在していないかのように見えるので、詩が形骸化して、読者を詩を楽しむ事から遠ざけてしまう危険を孕む。③④のような詩の書かれ方が、現在、最も多いのではないか。その理由は「詩としての姿形=言葉の配置のフォルムが「スタイリッシュ」だから、好まれるのではないか。」と、わたしは想像する。さまざまな詩集や同人誌では、詩の書かれ方は、まちまちかもしれないが「現代詩手帖」では、しばしば、そのような詩が掲載されているように、わたしには感じられる。
最近、しばしば「ネット詩」という言葉が使われる事がある。往々にして「ネット詩」というものは「紙媒体」で書かれた詩とは異なり「扱いが便利なインターネット上に書かれた、何処か薄っぺらい詩」のような解釈も多くされているようだが、わたしは「決してそうではない。」と思う。「「紙媒体」で発表された詩も、「インターネット上」で発表された詩も、同様に「詩」なのであり、「詩」が存在している、その在り方が、かなり大きく異なっているのではないか。」とわたしは考える。また、詩の書かれ方が、それまでの「縦書き」から「横書き」になるため、あくまで頑なに「縦書き」にこだわる書き手からは、敬遠されるのではないか?では、「紙媒体の詩」「ネット媒体の詩」それぞれの媒体で書かれる「詩」の在り方とは、何か?
「紙媒体」の詩は、主に「見開き単位」で考えられている事が多く、また「本のツカ」が厚くなり過ぎてしまうため、ある程度、1篇毎の詩の行数が意識されなければならないという面がある。そして何よりも、詩集や、わたしがかつて所属していた同人誌「卵座」に見られるような書物の発送先が、「詩人」や、詩の「同人誌」や、詩の「出版社」等に限られてきてしまうため、詩に関わる媒体の中での循環となり、それぞれの詩集や同人誌間での「感想」のやりとり」となってしまう事が多い。「鈴木志郎康氏」は「詩は、感想を言い合うのは良いけれども、批評をしあうのは良くない。」という事を言っていた。それは何故なのかと言えば「「紙媒体」同士でのやりとりでは、書き手同士が対面して、リアル・タイムで話を交わす事がなかなか出来ないし、発送等の関係で、詩を読み合うまでの間に「時間差」が生じてしまうから、詩人同士の「「コミュニケーション」に「制約」が出てきてしまう。」という事ではないだろうか?
また「現代詩手帖」には「詩誌月評」「詩集月評」というものがあり、ここでは、選者の嗜好による「選ぶ、選ばれる」という関係性での批評がなされ、取り上げられた「詩誌」や「詩人」は、その事で一喜一憂するような傾向が見られる。
現在は、既に、SNSの時代である。わたしは今、SNSの中でも「Facebookが「現代詩ではなく現代の詩」を発信する事に於いて、最も適しているのではないか」と思っている。Facebookは、参加者が、ウェブ・サイト上で、名前や顔(存在)を示し交流しあっていく、という性質を持つものである。
わたしは今、Facebook上にある、詩人「さとう三千魚」氏が主宰するウェブ詩誌「浜風文庫」の場を借りて、詩を発表させてもらっている。そこでの詩の在り方は、「ネット上の空間に詩が固定されている。」というよりも「ネット上の空間に詩が浮遊している。」という感じだ。ここで、わたしが「良い事だな。」と思う事は、詩人「さとう三千魚」氏の手腕によるところが、とても大きいのだが、ウェブ・サイトへのアクセス数が大変に多くなってきているそうで、それは、自分の書いた詩を、普段、詩を読み書きしない人たちを含めたところまで、読んでもらえる可能性を多く含んでいるという事である。また、何処からか訪れる詩人の投稿詩が多くなってきているそうで、その事も「ネット詩」の可能性を大きく示唆していると言えるのではないか。また、発表された詩がアーカイブされる仕組みを持つ事も出来る、という特長もある。
ここでは「紙媒体」で書かれる詩と「ネット媒体」で書かれる詩の、どちらが上、どちらが下、等という比較をするつもりは、さらさらないが、時代の潮流としては、良くも悪くも情報の伝達方法はインターネットが主流となってきている。インターネット上の情報は、誤りも多く持っているかもしれないが、昨今の新聞やテレビ等の媒体が、かなりイデオロギーに支配されている事を考えると、その有効性は図りしれないところがある。
わたしは、持病を持っているので、基本的には「ベッドの中」で、詩を書いている。スマホのメモ帳アプリで詩を書いていき、それをメールでパソコンに送って、ワープロで清書、推敲というプロセスを経て、詩を仕上げていく。わたしは、パソコンの前に座っていられる時間が体の関係で30分くらいに限られているので、その方法は、わたしにとってありがたいものだ。「わたしには、出来ない事がいろいろとあるけれども、ああ、こうやって、詩を書いていけるんだな。」という喜びがある。
Facebookには、「コメント欄」という決定的な特長があり、詩を読み合った「感想」のみならず「批評」もリアル・タイムで書き込み合う事が出来る。但し、それが実現されるためには、「詩のサイト」の参加者が、積極的に、そのような意識を持ち合う事が必要になってくる。「黙っていては、何も進展しない。」のだ。「詩のサイト」の参加者が、参加者同士での単純なコミュニケーションに留まってしまうと、結局「紙媒体」の同人誌内で行われる「合評会」と同じ事になってしまう。ネット詩誌「浜風文庫」では、参加者が知らないところで詩が読まれている可能性が大いにある。「現代詩手帖」に詩を掲載している詩人たちが「浜風文庫」を閲覧してくれている事も増えてきているような傾向も見られ、時には、コメント欄に書込みをしてくれる事もある。また、わたしは、Facebookフレンドをどんどん増やしていけば良いと思う。最初は、躊躇があるかもしれないが、「シェア機能」を活用して、FacebookフレンドからFacebookフレンドへと「詩の読者」を増やしていく事が出来るし、実際、わたしの書いた詩をめぐって、FacebookフレンドとそのFacebookフレンドが感想を言い合ってくれたり、意見を交わし合ってくれたり・・・というような、嬉しい出来事も起きたりしている。
「コメント欄」を大いに活用して「「浜風文庫」のレギュラーメンバーのみならず、投稿者やまわりで閲覧してくれている多くの詩人たちが、幅広く、詩をめぐっての「対話活動」を盛んに行なっていければ良い。」とわたしは思う。
そのようにしていけば、あくまで現在に於ける可能性だけれども、作者の手を離れた詩について、参加者、読者同士の間で、その詩について語り合える喜びが次々に生まれていくようになっていくのではないか。 
「現代詩手帖」では、ベテラン詩人による「鼎談」がしばしば行われているが、ベテラン詩人以外の詩人による「詩」についての考え方の声=議論が、あまり見受けられないような気がする。この事は、残念な事だと、わたしは思っている。また、投稿作品に対しても、ベテラン詩人が2名いて、感想や意見を語っていき、最終的には「現代詩手帖賞」が選ばれる仕組みとなっており、主に「現代詩手帖」の熱心な若い読者たちが、それを目指して、詩を投稿していく形となっている。そこには、ベテラン詩人と詩の投稿者との対話は成り立っていないように思うし、投稿作品の多くが、ベテラン詩人の作風の模倣になっているような感じもあり「詩誌内での詩の執筆者と執筆者、詩誌内での詩の読者と読者との「対話」も、生じにくいのではないのではないか。」とわたしは思う。
ここで「わたしは、現代詩手帖」の在り方の、批判をしているわけではない。「紙媒体」で書かれる事への「限界性」について、書いている。
ところで「「現代詩」ではなく「現代の詩」ではないか。」という指摘は「さまざまな、詩をめぐる境界を打ち破れる可能性を持っているのではないか。」とわたしは思っている。それは「詩」に於ける「平和的融和」について、広く考えていけるという事だ。
「「現代詩」という呼称は、「思潮社」が発明したものである。」とわたしは思う。この呼称は、今後も、長く用いられていく事であろう。しかし、「「現代詩」ではなくて「現代の詩」」という風に、解釈を拡大すれば、今書かれている「「現代詩」と「現代の詩」との垣根は、取り払われて、もっと自由に行き来する事が出来るようになっていくのではないだろうか?」と、わたしは、そのような事を願っているのだが、どうであろうか?「現代詩手帖」と「詩と思想」という「紙媒体」の雑誌同士での交流は、生まれ始めているようだ。理想論かもしれないのだが、そこに「ネット詩誌」も加わって、より広い「詩人同士の交流」「詩同士の交流」が生まれていくというのはどうであろうか?少なくとも、わたしが「紙媒体」の編集者だったなら、そういう事を提案してみると思う。何故なら、その方が、お互いにしあわせな「言葉の交流」を図れる事になると考えるからだ。

 

9 最後に

 
数年が経てば、今まで長く活躍してきたベテラン詩人たちが次々と逝ってしまう事になるのだろう・・・それは「とても寂しい事だ。」とわたしは思う。しかし、寂しい事ではあるけれども、わたしたちの世代、また次の世代・・・というように「進んでいかなければならない。」と思う。
わたしは、30年以上、詩を書いてきたが、還暦近くになっても「詩論は、書いてこなかったな。」と思う。その事に関しては「わたしは、もしかして、怠惰だったのかもしれない。」という思いもよぎる。けれども、その理由は、はっきりとは解らない。だから「これからでも、きっと間に合う。」というつもりで、わたしは、詩にも詩論にも、向かい合っていこうと思うのだ。
それを引き受けて「詩は、「現代詩」ではなくて「現代の詩」」としての拡大解釈が有効になっていくのではないか。」とわたしは思っている。

 

 

 

訪問看護はいかがでしょう? Ⅱ

 

今井義行

 
 

ドアを開けたら ああ・・・とうとう あの 娘(コ)が 玄関に 立っていた
薄いピンクの マスクなど 付けて・・・

「お久しぶり」「お久しぶりですネッ!」

(その ネッ!っていう 感じが いかにも 親しげで イヤ〜!)

親しげだというのに まったく 笑顔というものが ない・・・
お若いのにね・・・どこまでも 無愛想な 訪問看護師さんの 〇〇さん・・・

(ああッ・・・ホントウに 無愛想で イヤだなぁ〜!)

「どうぞ おあがりください」
「はい はい」

(ああッ・・・その靴の雑な脱ぎ方 ホントウに 無愛想で イヤだなぁ〜!)

あまりにも 無愛想過ぎて つくづく
(ムダな 30分間を 過ごしたなぁ〜)と 猛烈に感じて 訪問看護ステーションの 
所長さんに 「あの 〇〇さんという  看護師さんだけは わたしに 派遣しないで
ください!!」と 電話をしかけた わたしだった・・・

その〇〇さん わたしの部屋に 入るなり
サッサと 足をくずして
サッサと 羽根さえ 伸ばしているようだった・・・

(ああ そのくつろぎ方・・・ホントウに 無愛想で イヤだなぁ〜!)

(無愛想〜!無愛想〜!無愛想〜!無愛想〜!無愛想〜!)

わたしは 訪ねてくる どの訪問看護師さんより 30歳くらい年上なので どの娘(コ)たちにも むすめみたいに 気を遣いながら 接してきたつもり だったのだが・・・

(申し訳ないが この看護師さんだけは ダメ〜!!)

「まず バイタル(血圧・脈拍・体温)を 測定しましょう!!」

わたしの腕に ゴムのチューブを ギューッと 巻き付けて
「血圧 上 128 下 86 はい 問題ナシ!」と 彼女は言った

(その 無愛想で 勝ち誇ったような 感じ 何だか とっても イヤだなぁ〜!)

ところが彼女・・・そのあと 脈拍・体温の測定を終えてから アパートの部屋の 
斜め上の 空間を そっと 見上げながら

「実は ワタシには 100万個くらいの 悩みが あるんです よ・・・」と わたしに 
言った・・・・

「100万個ですか それは ずいぶん 多くないですか?」

「はい ものすごく 多いんです・・・」

「失礼ですが あの どのような 悩みを 抱えていらっしゃるのですか・・・?」

「訪問看護ステーションの 看護師さんたちって 〇〇さんも 〇〇さんも 誰もが 
看護師さんらしい 看護師さんじゃありませんか・・・? 
ところが ワタシときたら・・・」

(ははーん この看護師さん 無愛想過ぎて 訪問看護ステーションに クレームが 相当 殺到しているのに 違いないな!)

「ワタシ その100万個の悩みを 1つずつ つぶして なんていうか 自己肯定っていうんですか・・・毎日 そういう事に 取り組んでいるんです・・・」

よく見ると 彼女の瞼には 薄く 銀の真珠の粉が塗られている・・・

(ああ 彼女 は 軽くお化粧を してきて いるんだな それに 彼女の睫毛には
気のせいかもしれないけれど 泪のようなものが 少し滲んでいる ような・・・)

(ああ 〇〇さん・・・100万個の悩みの事は 少しずつ 彼女の 親しい
女ともだちだけに 打ち明けてきているんだろうなぁ・・・)

そんな 彼女の 仕草を見つめていたら
わたし 何だか その娘(コ)が 少しずつ カワイクなって きちゃったんだ な・・・

「どんなお宅に 訪問するたびにも 胸の鼓動が 激しく鳴ってしまって・・・
あの お願いなんですが ワタシの・・・左の胸の上に そうっと 手を 置いてみて
もらえませんか?」

「えぇッ!! 左の胸の上に?」

わたしは 重い精神疾患を 患っているから 男性性なんて 既に すっかり 失っているのだけれど・・・だから 言われるままに 彼女の 左の胸の上に 手を 置いて
みた 

「ああ 確かに 静かな鼓動が 伝わってきます ね」 そうして わたしは 重い
精神疾患者だといいながらも イタズラごころで 彼女の乳首も ちょっと つまんで
みた よ

「ああ 乳首はダメです これでも 敏感な ほうなんですから・・・」

わたしは真珠の粉が 薄く 塗ってある 彼女の瞼を じっと 見つめた 

そうしたら 去年の10月 わたしが通っている 作業所のメンバーで 茨城県・大洗の水族館に 行った事を 思い出してしまった・・・

わたしは 体調が悪くて うまく歩けなかったので 受け付けで 車イスを借りて 
女性スタッフの 鈴岡さんに ゆっくり 車イスを 押してもらいながら 幅広い通路の水族館を泳いでいる 魚たちを 眺めていったのだった

(ああ 広い 水族館には 小魚たちが 気もち良さそうに 右に左に 上に下に 
群がって キレイに 回遊しているなぁ あの 銀色に輝く 小魚たちは きっと イワシたちなんだろうなぁ・・・)

(あの たくさんのイワシたちは たくさんの たくさんの 銀色の粒々のように 見える
よなぁ・・・)

「ああ 魚たち いっぱい 泳いでいるわねぇ とっても とっても キレイねぇ・・・」と スタッフの鈴岡さんも 感嘆していた

あの 銀色の 粒子のような イワシたち それが 今日 訪れた 訪問看護師 
〇〇さんの 薄いお化粧に すっかり 重なって わたしには 感じられてしまったの
だった・・・

それから わたしは アパートの部屋の 斜め上の 空間を ずっと 見上げている
訪問看護師さんの 〇〇さんに 思わず 話しかけていたのだった

「ああ・・・アナタは とても 素敵な ヒトだなぁと感じますよ 1人の 女性としても 
とても 素敵だと感じるし 1人の 訪問看護師さんとしても とても 素敵だなぁ・・・と
感じますよ!」

「えぇっ ホントウですか!?」

そのとき わたしは ふと 彼女の 「乳首」についての 話を 思い出した

(ああ 〇〇さんの その 敏感な乳首・・・おそらく 彼女には 彼女が寄り添う
素敵な 彼氏が いるのだろう なぁ・・・)

(だから 〇〇さんは あまり多くを わたしに 語らないのかもしれない なぁ・・・)

「ホントウです とっても失礼ながら 今頃になって わたしは アナタの魅力を 
しっかりと 感じたようなんです よ」
 
「じゃあ こんな ワタシでも また 訪問看護に来ても いいんですか・・・?」

「モチロンですよ!」

わたしは 彼女の右手を取って
「良かったら 訪問看護師さんとしてだけではなく わたしの・・・お友だちにも なって いただけませんか・・・?」

・・・・・・・・・・・

「・・・ハイ ワタシで良ければ」

それから わたしたちは LINEの交換をして お互いに 笑いあった

「アナタは シフトがいろいろあって なかなか 都合がつかないでしょうから アナタの 時間が空きそうなときに 連絡をください ご覧の通り わたしは こんなふうに 
1日中 横になっていることが 多いんですから・・・」

「・・・ハイ 連絡します ネ」

(ああ もう 無愛想な感じが しないなぁ〜 それは 何だか 随分と 不思議な事
だなぁ〜!!)

「この近くの 荒川沿いに 千本桜という 広くて キレイな 公園が あるんです 
モチロン 今の時期 サクラは 咲いていませんが・・・そこに いっしょに 行って
みませんか?」

「とっても キレイそうです ネ その千本桜という公園 行ってみたいです」

「もしも 千本桜という公園で わたしたちが 手をつないで 歩いてみたら・・・
わたしたちは どんなふうに 見えるのかなぁ〜・・・」

「手をつないでいても・・・やっぱり 親子に 見えるのかしら でも ワタシ とっても 楽しみにしています!」

それから 彼女は 玄関のドアを開けて 次の訪問先へと 向かっていった
ときどき こちらを 振り返りながら

・・・・・・・・・・・・・・・・

ああ そのような事を 「詩」に 書きとめている わたし

この詩が みじかい 人情噺に 終わってしまわない事を わたしは 強く 願っているワケです・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・

(ああ・・・愛しあい方にも いろいろ あるんだなぁ〜!!)って ネ

 

 

 

夢の ウグイスダニ

 

今井義行

 
 

いまは どこも コロナ禍で 閉鎖されて

しまって いるのだろうけれど

ウエノ アサクサ ウグイスダニは

東京の 3大・男街で

わたしは ウグイスダニの かなり古い

旅館へと 足繁く通う 常連客だった



番頭さんに 2000円 払って

「きょうは ちょっと 遅いんだね」なんて 言われて ロッカーで

浴衣に 着替えて 2階の部屋へ のぼっていったりした 部屋は 全部で
4つあって わたしのお気に入りは 薄ら陽の射すミックス・ルームだった・・・



そこには 4つの 蒲団が 並べられていて 天井には 紅いランプが

灯っていた そこでは もう 浴衣を脱いで絡み合っている 人たちもいれば

浴衣を着たまま うつ伏せになって

相手を 待っている 人たちもいた



わたしは 浴衣を 着たまま

仰向けになっているのが 好きだった

誰かがおとずれて 浴衣をめくられ

なすがままにされるのが 好きだった

・・・・・・・・・

ひと遊びしてから わたしは風呂に入った

そして からだを 丁寧に洗ってから

もう夜になっている ウグイスダニの街へ出て 屋台の焼き鳥屋で 焼き鳥を
食べながら コップ酒を2杯呑むのが 好きだった



そのあと わたしは 夜の ウグイスダニを 徘徊するのが 好きだった・・・

ラブホテル街を 徘徊していると

あちらこちらに タチンボが立っていた


ニホンジンも居れば ガイコクジンも居て 

わたしは 幾たびも 声をかけられた

わたしは タチンボを 買う気は無かったのだが ある通りへ出たとき

小さな交番があって 2人の若い巡査が 立っていた



小さな交番の前には 小さな通りを挟んで 

ガイコクジンのタチンボが 客引きをしていた 「オニイサン ドオオ?」

目の前で 客引きを しているというのに

2人の若い巡査は 何にも 言わなかった

不思議に思ったわたしは 若い巡査の1人に 「・・・あの 余計なお世話かも
しれませんが あのガイコクジン女性 注意しなくても いいんですか?」

「ああ いいんだよ 彼女は 若いアルゼンチーナで 毎日の生活が かかっている
んだもんね」

「ああ それは そうですよ ね」

「上司が 目を 光らせているわけでもないし 今では 彼女とは 友だちだよ おーい アルゼンチーナ 今夜の売り上げは どう?」

そうしたら 若いアルゼンチーナが 交番に近づいてきて

「オマワリサン コンヤハ ダメダメ」と 大げさな身ぶりで 答えた

「・・・ここのところ 何にも 事件が 起こるわけでもないしねえ ああ 
ちょっと お腹が すいてきちゃったなあ おい アルゼンチーナ 
それから アナタ せっかく会ったんだから めしでも 食いにいかないか? 俺が おごるから」

「アア イクイク」と アルゼンチーナは 跳び上がって 喜んだ

「じゃあ わたしも ご一緒させて もらいます」

「それじゃあ 行ってくるわ」と 巡査が もう1人の巡査に 言った

「おう 楽しんでこいよ」



わたしたち3人は 近くのラブホテルの1階にある ひなびた定食屋さんに 
入った

「いらっしゃーい おまわりさん! あら 今夜は 3人連れで 何だか 楽しそうねえ・・・!」

初老のおかみさんが エプロン姿で そう言った



わたしたちは 4人掛けの テーブルに座って 店に貼ってある メニューを見た

「俺は 天津丼!」

「アタシハ ショウガヤキテイショク!」

「アナタは 何にする? ここの餃子は 皮から手作りだから 美味いよ」

「じゃあ わたしは ジャンボ餃子定食!」



「せっかくだから ビールでも 飲もう!
オーイ おかみさん 瓶ビールの大きいやつ とりあえず2本ね」

「はい はい」

・・・・・・・・・・・

しばらくしたら 湯気を立てた 料理が運ばれてきた 

わたしたちは コップに ビールを注ぎあって 「かんぱーい」と 言った

「くうーっ ビールが 冷えてて 美味いこと!」

「ワタシノ ショウガヤキテイショクモ サイコウーッ!!」

「ああ おまわりさん ここの餃子 皮が モチモチしてて うま~い!!」

「・・・だろうっ?」

「おかみさーん ビール あと2本追加」



わたしたちは 最近あった 出来事など

ああだ こうだと しゃべりあって

顔を 赤く 火照らせながら

2時間くらい 楽しく 過ごした


・・・・・・・・・・・


「さあ そろそろ それぞれの持ち場へ

引きあげると するか! アナタはどこから 来たの?」

「調布市から 来てます!」

「気をつけて 帰りなよ また会おうな!」

「はい」

「オマワリサン ゴチソウサマデシタ」と アルゼンチーナも 言った

「JRの 山手線 間にあうかな」と

わたしも 言った


「また 待ってるよお」と
定食屋さんの おかみさんも 言った

わたしたちは 外へ出て

お月さまが 煌々と出ている 空を見た 



「ああ いい気分 おまわりさんなんて

バカバカしくって やってらんねえよ!」



そうして わたしは 巡査と アルゼンチーナに 手を振って

「じゃあ また 今度ね」って 言った



・・・・・・・・・・・



そういう 出来事から ずいぶんと 経つけれど わたしは もう 彼らとは 
1度も 会ってはいない


夢の ウグイスダニで 彼らは どうして いるのかなあ・・・なんて ときどき 
思い出したりは するけれど も・・・

・・・・・・・・・・・



わたしは今 東京の下町の  「平井」という 街に住んでいる

平井は おじいさん おばあさんの多い街だ



平井の駅前にも 小さな交番があって

わたしは 駅前に出る度に 交番を見てしまう



すると やはり 若い巡査が 立っていて  重いショッピング・カートを苦労して
押している おばあさんに つかつかと 近づいて 
ショッピング・カートを 一緒に押してあげたりしているのだ・・・


そんな時  わたしは 「こうゆう おまわりさんもいるんだな」と 
つい 思ってしまうのだった・・・・・・・・・・・



 

 

 

「かかと」の 儚い人生

 

今井義行

 
 

いろいろ 理由(わけ)が ありまして

わたしは 半年振りに シャワーを
浴びることに なりました・・・

からだを 立たせたままでは
腰が キツイので
わたしは 浴槽の なかで
あぐらを かく ことにしました



わたしは 半年振りに シャワーを

浴びることに なったので・・・
髪を洗い 次に胸 両腕 というように
スポンジで 体をこすっていくと

たくさんの 垢がでてきました
それから そけい部 両足というように

下へ下へ スポンジを移動させて かかとに たどり着いたとき

「あーん」と わたしのかかとが
喜ぶような 声とともに よりいっそうの

垢を出したのです・・・
「どうしたの わたしのかかと?」
と わたしがわたしのかかとに 尋ねると

「もっと あたしをこすって」と

わたしのかかとが わたしに対して
求めてくるでは ありませんか

「ねえ わたしのかかとさん 
あなたは いま どうして おんなことばで わたしに話しかけてくるのですか?」

と わたしがわたしのかかとに 尋ねると
「あたし 別に オカマではありまシェン

あたし じぶんが いま はやりの

LGBTQ の どれに あてはまるか
なんて わからないで シュ シュ
シュッ シュッ シュッ・・・・

でも そんなこと
どーでも いいんじゃ ありませんの?

あたしは もうそんな事 いちいち
カテゴライズしても しょうがないと

思って いるのよ シュッ」

「そうだね わたしのかかとさん・・・

ところで その語尾の シュッていうのは
なんなの・・・?」

「いわゆる オノマトペ でシュよ」
「ああ そうなんだ

わたしのかかとさん もしかして・・・
あなたは 詩人では ありませんか?」
「詩人って 何でシュの?」
「詩人っていうのは ことばを虚構にして

造形化していく 人たちのことだよ」
「ああ そうなのでシュ ね

あたしって 陸上競技のアスリートじゃ

ないから 目や 腿や 胸みたいに

意識されることが 少ないじゃないの?

だから いままで ずっと からだの

脇役だから ほんとうに かなしかった
つらかった もしかしたら

気づかれないまま 火葬されちゃうんじゃ
ないかと 想像したら こわかった
でも きょうは 一所懸命 こすられて
はじめて スポットライトが あたった!
きょうは あたしの 記念日なのでシュ」

「ああ・・・いままで ずっと
気づいて
あげられなくて ごめんね
わたしのかかとさん・・・!」
「いいのよ 気になさらないで・・・」
「わたしに してあげられる ことは

ありますか?わたしのかかとさん」
「そうでシュね・・・」

「じゃあ もっと 強く 強く 強く

こすってください まシュか?」
「ガッテンダだ わたしのかかとさん!」

そうして わたしは わたしのかかとを
ゴシゴシ ゴシゴシ ゴシゴシ
魂をこめて こすり続けました・・・
そうしたら・・・

「あ あっ いいでシュ!
あっ いくっ いっちゃうでシュッ!!」

その瞬間 わたしのかかとは
たくさんのしろいものを 吹きあげました

それは 精子なのか 潮なのか
わたしには わかりませんでした けれど
わたしは わたしのかかとが
なにかに 到達した
ことだけは わかりました

「ありがとう ありがとう!!」
「いいえ どういたしまして
これからは わたしのかかとさんを
もっと 強く 強く 意識して

スポンジで こするからね!!」

「ありがとう ありがとう!!」



いろいろ 理由(わけ)が ありまして
わたしは 半年に 1度くらいしか

シャワーを
浴びることが できないのですが・・・

今日から わたしと わたしのかかとさんのあいだには
あたらしい きずなが

生まれたという わけなのです・・・

 

 

 

書けば、形になる。 02

── もしかしたら「邦楽」の良い ものは1部に過ぎないのではないか?

 

今井義行

 
 

プロローグ

前回の「洋楽エッセイ」に続いて、「邦楽エッセイ」を書いてみる事にした。しかし、前回「洋楽エッセイ」を書いてみて驚いたのは、浜風文庫の読者は、大衆音楽を殆ど聴かないのではという事だった。これはとても意外な事だった・・・しかし、クイーンやカーペンターズやビートルズくらいは、さすがに知っているはずだとも思った。わたしは、その時、詩人というのは、俗っぽいものには背を向けてしまうのかもしれないと感じた。エッセイで扱う対象は必ずしも「詩」でなくてもいいはずだ。これが「クラシック」だったら、少しは反応があったのかもしれない。それは、純音楽だからだ・・・けれど、わたしは、凝りもせず「邦楽エッセイ」を書いてみる事にした。とはいえ、わたしは、実は「邦楽」の方は、あまり聴いてはこなかった。そのため「洋楽」よりも遥かに知識を持ってはいない。しかし、なるべくネットで調べて書く事はやりたくないので、「洋楽編」よりも短くなってしまうかもしれないけれども、あくまで自分の言葉で、取り組んでみる事にした。



(取り上げたアーティストは、ほぼ、順不同。またわたしの記憶によるエッセイである為、誤りがあるかもしれない。)

 

● フリッパーズ・ギターについて。

活動期間は1987年 – 1991年。初めは、5人編成からなるグループだったのだが、その後、小山田圭吾と小沢健二の2人組ユニットとなり、「渋谷系」と呼ばれる洒落た音楽を次々に世に送り出し、席巻を巻き起こした。
わたしは、フリッパーズ・ギターの大ファンで、CDは、リリースされる度にすべて買い集めた。小山田圭吾と小沢健二は、ともに和光学園の出身でとても仲が良かったようだ。
わたしは、その頃既に詩を書いていて、1963年生まれのわたしは、1968年生まれの彼らに、猛烈なジェラシーを感じていた。わたしは詩作に夢中だったけれども、実は音楽も演ってみたかったのだ。フリッパーズ・ギターの3枚目にしてラスト・アルバムとなった「ヘッド博士の世界塔」は、頭がクラクラするほど、サンプリングを多用した大傑作だった。
フリッパーズ・ギターは「ダブル・ノックアウト・コーポレーション」名義で、他のアーティストにも、よく楽曲を提供していた。
・・・ところが、その後、彼らはあっけなく、解散してしまった。しかもツアーの真っ最中の事だった。解散の理由は、「音楽的な意見の相違」などではなくて、楽曲を提供していた、元おニャン子クラブの「渡辺満里奈」の奪い合いだったという。本当に、何処か、笑えてしまうところのあるユニットだった・・・

 

● 小山田圭吾について。

今回の東京オリンピックのテーマ曲を担当する予定だった、小山田圭吾。20数年前の、身障者のクラス・メイトへの、壮絶なイジメが発覚して大炎上となり、結局、小山田圭吾はテーマ曲に関わる仕事を辞任する事となった。このイジメにまつわる事は、ヤフー・ニュースなどのコメント欄で本当に多数の書き込みがあって、小山田圭吾は、FAXとSNS上だけで謝罪し、小山田圭吾の所属事務所もまた形ばかりの謝罪をした。そういう経緯の後、オリンピックの主催者側も、大慌てで対応せざるおえなくなったという出来事は、まだ皆んなの記憶に新しいところだろう。

確かに20数年前の音楽雑誌のインタビューで、そのイジメについて、自慢気にベラベラ喋りまくっていた小山田圭吾は自業自得と言われても仕方がないだろう。20数年前の雑誌のカルチャーはそういうものだったという指摘もあるが、わたしはそうは思わない。
いま現在も、全国の何処かで、そのような「(身障者が対象となるような事をはじめとした)相手が死なない程度なら何をやっても良い」という悪質なイジメは行われているはずで、わたしも学生時代からそのようなイジメの現場はたくさん見てきた。そしていまわたしが思うのは、イジメられた側にとって、その体験とは大変な苦痛な事であり、その傷は生涯消えるものではないという点に於いて、小山田圭吾が音楽界から干されてしまいつつあるのは当然の成り行きだとは思う。しかし、クラスでのイジメの場では、報復を怖れたりして完全に傍観者となってしまう夥しい生徒たちもいるはずで、その事もとても大きな罪なのではないかとわたしは思うのだ。そして、わたしもまた、イジメが行われているそのような現場での、確かに傍観者の1人となっていた。このイジメについての問題は、もっと時間をかけて考えられなければならない事ではないだろうか?
ヤフー・コメント欄でわたしはこのような記事を見つけた。「小山田圭吾は、末期ガン患者の方が闘病している病棟で、真夜中に演奏して苦しんで呻き声を出すのを聞いて楽しんでいた」というものだ。こうなってくると小山田圭吾は、イジメの常習犯というよりも「変質者」に近いところがあるのかもしれない。
けれども、テレビにもよく出ている漫画家の蛭子さんは、ヒトの葬式に出席する度に、どうしてもゲラゲラ笑う事を止められないという。そのような蛭子さんが非難されず、小山田圭吾が非難されるというのは、キャラクターの違いという事なのだろうか?そこのところは、分からない。

ところで、この場では小山田圭吾の創る音楽について語らなければならない。わたしは、フリッパーズ・ギター解散後の小山田圭吾のCDは、最初のアルバムから、途中までは買っていた。最初の内は、それは完全に「ポップ・ミュージック」だったのだが、だんだん聴き進めていく内に小山田圭吾が関心を持って創作していくものは「ポップ・ミュージック」から、ブライアン・イーノが創る音楽のような「アンビエント・ミュージック」へと移行していくという事がだんだん分かってきた。わたしは、「アンビエント・ミュージック」にはあまり興味がなかったので、小山田圭吾の音楽は、次第に聴かなくなっていった。けれども、その音楽の方向性によって、小山田圭吾の音楽は、世界でも、知られるようにもなっていったのだった・・・そうして、小山田圭吾は、東京オリンピックのテーマ曲を担当する事になったのだった。


 

● 小沢健二について。

今度は、フリッパーズ・ギターのもう1人のメンバー、「オザケン」の愛称でよく知られている小沢健二について語る事にしよう。
先ず、わたしは、小沢健二の大ファンだ。ソロ・デビューから現在に至るまで、そのファン心は、一切変わってはいない。東大文学部卒業、指揮者・小沢征爾の甥というような育ちの良さがあるにせよ、そんな事はどうでもよく、小沢健二は、日本のポップ・ミュージック界に於ける、天才クリエイターである。ああ、オザケンは、なんて素晴らしいのだろう!!

1993年にリリースされた、セカンド・アルバム「ライフ」は、名曲満載である。「今夜はブキーバック」「ラブリー」をはじめ、捨て曲一切ナシ!!歌声の不安定さ(音痴)がよく指摘されるが、そんな事はどうでもよかった。とにかく、小沢健二は魅力的な声をしている。「フリッパーズ・ギター」時代にはまだ感じられる事のなかった、歌詞、メロディの秀逸さは、2021年になった現在でも、まったく色褪せる事は無い!!王子様キャラで、紅白歌合戦にも、2年連続で出演してしまった。
ところが、1995年だったか、1996年だったか、突然、日本から姿を消し、ファンをとても驚かせたが、近年、19年振りに50歳を超えた小沢健二はまたソロ活動を再開させて、これもまたファンならず日本のポップ・ミュージック界に大きな驚きを与えた。19年振りのシングル曲は、内容はかつてのように飛び切りにポップなものだったが、その曲のタイトルは、何と「流動体について」という、小沢健二にしかできない、まったく嫌味の無い、文学性に富んだものだった。歌声の不安定さ、声の良さは、実に健在!!わたしの心は、歓喜でいっぱいになってしまった・・・!!

ニュー・アルバムもリリースして、その内容でも、天才振りを存分に発揮。気まぐれな小沢健二は、これからも音楽活動を続けていくのか、それともまた、かつてのように突然ファンの前から姿を消してしまうのか?それが予測のできないところが、また素晴らしい!!と、わたしは思っている。
ああ、「オザケン」、アナタはわたしにとって、いつまでも変わる事のない、永遠の天才アーティストである・・・!!


 

● B’Zについて。

B’Zは秀でたルックス・歌唱力を持つ稲葉さんと卓越したギターの演奏力を持つ松本さんから成る、男性ロック・ユニットで、30年前のデビューから50歳代後半になった現在に至るまで、リリースする曲、リリースする曲、そのすべてを途切れる事なく大ヒットさせてきた、稀有なアーティストである事は、誰もが認めるところだろう。
B’Zは、実に巧いアーティストなのだが、彼らの創る音楽は、アメリカのベテラン・ロック・バンド「エアロ・スミス」をお手本にしている事は、誰の耳にも、明らかだった・・・

いつだったか、タモリが司会をする「ミュージック・ステーション」という番組にB’Zが出演して、そして、特別ゲストとして、本家の「エアロ・スミス」も来日・出演して、番組内で、順番に、パフォーマンスを披露する事となった。確かにB’Zは実力派のユニットなのだが、本家「エアロ・スミス」のパフォーマンスがあまりにも素晴らし過ぎたので、完全にB’Zのパフォーマンスは、影が薄くなってしまった・・・その事は、おそらく、その日の「ミュージック・ステーション」を観ていただろう誰もが気づいていたに違いないのだが、B’Zだけが気づいていない、というとても可哀そうな事態になってしまっていたのだった・・・
後日、わたしの女ともだちから電話が掛かってきて、「ねえねえ、この前のミュージック・ステーション観た?B’Zとエアロ・スミスが一緒に出た日!」「ああ、観てたよ」「わたし、よく本家のエアロ・スミスを目の前にして、自分たちも巧いと勘違いして、演奏できるものだと思ったら、こっちの方が、恥ずかしくなっちゃって、どうしようもなかったわよ!!」「ああ、確かに、そうだったよねえ・・・」

そのようなわけで、日本を代表するロック・ユニット、B’Zは、全国に、大恥を晒す事になってしまったのだった・・・

 

● YOSHIKIについて。

わたしは、ベテランロック・バンド「X JAPAN」のリーダー、YOSHIKIの事が、とても好きである。先ずは、50歳代半ばだというのに、とっても美しいがゆえに。どうしてあんなに美しさが保たれているのかは分からない。けれど、本人はインタビューに答えてこう言っている。「実は、僕は、影では、血の滲むような努力をしているんですよ」ああ、そうだろうなあ・・・と、わたしは納得したものだった。
・・・ところで「X JAPAN」の元々のバンド名は単なる「X」だった。それが、バンドが世界進出を目指すようになってから、バンド名は「X JAPAN」に改名された。しかし、世界を目指すからと言って新しいバンド名が「X JAPAN」とは、何とも単純過ぎるというか、アタマが悪そうというか、わたしはそのような気もちを押さえられなかった。でもそんな事、どうでも良いじゃないか、と、わたしは思ってしまうのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに。
「X JAPAN」は、メジャー・デビューしてから、わずか3枚しかオリジナル・アルバムをリリースしていない。3枚目のアルバム「DAHLIA」をリリースしてから、既に30年近くが経っている。けれど、YOSHIKIはインタビューに答えてこう言っている。「アルバムは、もう殆ど出来上がっているんです。でも、最後のパートで、どうしても納得がいかない箇所もあって・・・」多くのファンは、もうしびれを切らしているというのに。完璧主義過ぎなのか、それとも今や音楽の聴かれ方が、CDからダウンロードの時代になってしまったからなのか。今のところ、YOSHIKIは、明言をしてはいないようだ。でもそんな事、どうでも良いじゃないか、と、わたしは思ってしまうのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに。
さて、この場は「音楽についてのエッセイ・邦楽編」であるから、「X JAPAN」YOSHIKIの音楽的な特徴について、語っていかなければならない。YOSHIKIは、ピアノとドラムを演奏する事が出来る。けれども、わたしは楽器を演奏する事が出来ないのでYOSHIKIのピアノとドラムが巧いのかどうなのか、あまり判断できないのだけれども、YOSHIKIの演奏力は、何となく「普通」なのではないか、と感じてもいる。ピアノの方は優雅に弾いているが、もしかしたら「ヤマハ音楽教室大人クラス」程度なのではないかという気もする。ドラムの方は、一所懸命叩いているのは分かるのだが、演奏しきって、ステージに倒れ込み、失神する姿などは、失神しているフリをしているのではないかと勘ぐってしまう。しかし、わたしにとっては、そのような事は、どうでもよく思えるのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに・・・
なお余談になるけれども、ロサンゼルス在住のYOSHIKIは、とても流暢な英会話が出来るとも聞く。しかし、その英語力も、もしかしたら日本のECC音楽学院で駅前留学をして学んだのではないかという疑惑をわたしは持っている。しかし、わたしにとっては、そのような事は、どうでもよく思えるのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに・・・


 

● YMOについて。

いまでは世界中の殆どの音楽ファンが知っていると思われる、日本発の「テクノ・ポップ」のパイオニア、YMO。そのメンバーは、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏という充分にキャリアのある3人組である。かなり豪華なメンバーから成っていると言えよう。
しかし、わたしは、わたしが高校生の頃に流行った、初期のYMOのアルバムは、殆ど好きではない。有名な「ライディーン」や「テクノポリス」などの曲は、メロディーが陳腐過ぎて、発表当時から、かなりどうしようもないものではないかと思っていた。
わたしは、YMOのアルバムでは、そのキャリアの後期に於いて、優れたものが立て続けにリリースされたと思っている。「浮気な僕ら」「BGM」最後のアルバムとなった「テクノデリック」は、いずれも秀作ばかりである。
さて、YMOのメンバー、3人組の内、誰が最も才能があるのかについては、わたしが高校生の頃からかなり話題になっていた。やはり、日本の音楽シーンを1960年代後半からずっと牽引してきた細野晴臣ではないか、というのが、殆どの人たちの予想ではあった。しかし、メンバーの内、最も地味に感じられた、高橋幸宏が、実はYMOサウンドの要だったのではないか、というのが、最近のわたしの考えである。
アルバム「浮気な僕ら」は、YMOにとって、初めての歌モノ・アルバムで先行シングル「君に胸キュン」がヒットして、「歌のベストテン」に出演したりもした。またNHKの何かのキャンペーンに使われた「以信電信」は、わたしにとって、どこかビートルズ・サウンドを彷彿とさせるもので高橋幸宏は、ドラムが巧いだけにとどまらす、歌声もとても素晴らしいもので、本当に優れたアーティストだなと思った。
その高橋幸宏は、近年、脳腫瘍を患って、手術をして、その後、無事に回復をして「TAKEFIVE」というバンドを新しく結成した。高橋幸宏がリーダーのアルバムが近々リリースされる予定だったのだが、そのメンバーの中に、小山田圭吾が入っていたために、結局、発売中止になってしまった。何とも残念な話である・・・

 

● 坂本龍一について。

いまでは「世界のサカモト」として知られるようになったYMOのメンバーの1人、坂本龍一ではあるが、わたしは、坂本龍一の才能については、かなり疑いを持っている。
坂本龍一は、映画「ラスト・エンペラー」のテーマ曲を担当して、それが認められ、アカデミー賞最優秀作曲賞を受賞する事に至ったわけである。そして、その事によって、「世界のサカモト」と称されるようになったわけなのだが、アカデミー賞最優秀音楽賞受賞の最大の理由は、映画「ラスト・エンペラー」のテーマ曲がとてもオリエンタルな作風であったからだと、わたしは思っている。
では、坂本龍一の最高の作品は何かというと坂本龍一がソロ名義で創作した「千のナイフ」と大島渚監督の映画作品で担当した「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲、この2つだけだと考えている。
わたしは、かつて、坂本龍一が担当したすべての映画音楽を収録したベスト・アルバムのCDを購入した事があるのだが、何と驚いた事に、他の曲は、本当に、今1つ、今2つであったという出来事に・・・とても愕然としたという記憶を、今でも忘れる事ができない。
「世界のサカモト」と呼ばれ、押しも押されぬアーティストとして知られる事となった坂本龍一ではあるが、本人は、その事について、どのように感じているのだろうか・・・
東京芸術大学でクラシック音楽を学んだ坂本龍一、YMOでは「教授」の愛称で親しまれた坂本龍一ではあるが、だからといって、必ずしも優秀な音楽家にはなるわけではないという事を、わたしは知ってしまったような気がしてならないのである・・・

 

● MISIAについて。

このエッセイの中で、1人も女性アーティストを取り上げていないので、せめて1人くらいは取り上げておこうと思い立った。ところが取り上げてみたい女性アーティストがなかなか思い浮かばない・・・松田聖子、中森明菜、安室奈美恵などがちょっと頭をよぎったが、彼女たちについては、散々テレビで観てはきたものの、エッセイに書くほどの知識を持ち合わせてはいない。また松任谷由実、中島みゆきなどのシンガー・ソングライターについても、有名な人たちであるにも関わらず、殆ど聴いてきてはいなかった。

そこで、最近、「紅白歌合戦」の大トリを務め、日本中を感動させ、また、最近では、東京オリンピックでの国歌を斉唱した事などで、かなり露出の多くなってきたMISIAについてなら、多少なら書けるかな、と思って、取り上げてみる事にした。
MISIAは、1998年のデビューで、その女性ヴォーカリストとしてのキャリアは、既に20年を超えている。その頃デビューした女性ヴォーカリストは、ディーバと称され、かなりのアーティストがいたと思うのだが、わたしは、殆ど覚えていない。MISIAについては、名前が変わっていたので、かすかに覚えている程度である。それから現在に至るまでの間に、テレビ・ドラマの主題歌を担当して、その曲が大ヒットしたくらいならば覚えてはいる。
今では、巧いヴォーカリストは、男性ならば、玉置浩二、女性ではMISIAという聴かれ方が定着しているようだ。わたしは、昨年の「紅白歌合戦」で大トリを務めたときのMISIAの歌唱を聴いたが、その少し前にテレビ番組の収録中に落馬をして背骨を傷め、その出来事を押して出演したときのMISIAの歌声を聴いたが、かなり圧巻ではあった。しかし、それは洋楽に長く親しんできたわたしにとっては「日本では巧いヴォーカリスト」としてしか評価する事はできない、と感じてしまった・・・それくらい、海外の、特にアメリカでの女性ヴォーカリストの層は厚く、故・ホイットニー・ヒューストン、マライア・キャリーなど名前を挙げればキリはない。この差は、MISIAには申し訳ないが、ヴォーカリストとしての喉の構造が違うとしか説明はできないと思う。けれども、MISIAが日本を代表する女性ヴォーカリストとして長く活動をしていく事は、おそらく間違いはないだろう。余談になるけれども、MISIAは、動物愛護活動を長く続いているとも聞いている。


 

● 北島三郎について。

日本が世界に誇るソウル・ミュージック「演歌」についても書いてみたいのだけれど、日本人なのに、わたしはこのジャンルについてもめっぽう弱い・・・「演歌」は、日本の民謡から発展して、大衆音楽に発展したくらいの事しか知識がない・・・

けれど「サブちゃん」こと「北島三郎」についてなら、少しは何か書けるのではいかと思ったので、ここでは北島三郎について書いてみたいと思う。
北島三郎は、1958年にデビューして、その後、演歌一筋、日本を代表するヴォーカリストとして現在に至っている。そのヴォーカリストとしての実力は、玉置浩二の比ではなく、アメリカの・故フランク・シナトラと肩を並べるほどであると、わたしは思っている。
活動歴半世紀以上、紅白歌合戦への連続出場は連続50回という記録を持ち、その50回目を区切りに、紅白歌合戦からは身を引くという事となり、50回目を目指してあちこちに手を回し、紅白歌合戦への出場を目論んでいた、和田アキ子とは本当に精神性のレベルが違い過ぎるとしか言いようがない。日本のカーネギー・ホールとも言える「新宿コマ劇場」での座長としての貫禄あるステージ活動もまた、圧倒的であるとしか言いようがない、と聞く。家が八王子にある北島三郎に憧れて、若い歌手たちが頻繁に弟子入りに訪れるという事も、当然の事だと言えるだろう。
ところで、北島三郎の代表曲の1つで、若い層にも充分知られている「与作」という曲は、「与作は木を切る ヘイヘイホー」というフレーズが印象的な大変な名曲だと思われるが、「与作とは、一体、誰なのか?なぜ、そんなに夢中になって木を切っているのか?」・・・が、明かされていないのが、謎めいていて、本当に素晴らしいと言えよう。まさにレジェンドとしての仕事を全うしているとしか言いようがない。
北島三郎は、現在84歳。昨年の紅白歌合戦では、特別席が用意され、4時間以上もの歌手たちの歌唱にひたすら耳を傾けていたが、最後にウッチャンから、紅白歌合戦についての感想を求められて、このように述べたのだった。「いやあ、わたしは本当に感動をしました。わたしは、半世紀以上、歌手をやってきたわけだけれども、時代は移り変わって、ジャンルなどには関わらず、素晴らしい歌手たちが、これからの音楽界を引っ張っていくのだなあ、とつくづく思って、感無量になりました」と言い切って、その姿を観たわたしは、北島三郎に対して「国民栄誉賞」を贈っても良いのではないかと強く、思ったのだった。政府の政治家たちの耳は、一体どういう構造をしているのかと、激しい怒りが湧いてきたほどであった。
日本が誇る音楽界のレジェンド、北島三郎には、ぜひ長生きをしていただいて、その歌声を皆んなに届けてほしいものだと、わたしは強く願ったのだった・・・


 

● 岡林信康について。

わたしが、日本のフォーク・ソングを熱心に聴くようになったのは、高校1年生のときの事だった。最初に大ファンになったのは、吉田拓郎であった。インディーズ・レーベル、「エレック・レコード」から、メジャー・レーベル「CBSソニー」へと移籍してからは、フォークの神様と呼ばれ、リリースするアルバムのどれもが大ヒットして、その人気は、大変なものだった。
しかし、その後、吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるの4人が立ち上げた新レーベル「フォーライフ・レコード」の社長になってからは、吉田拓郎の音楽家としての才能は、どんどん枯渇したと感じたわたしは、だんだんフォーク・ソングからは離れていってしまった・・・
・・・さて、前置きが長くなってしまったけれども、わたしにとっての第2次フォーク・ソング・ブームが始まったのは、2年ほど前からで、誰のファンになったかというと、吉田拓郎の先行世代で1968年にデビューした、最初のフォーク・ソングの神様と言われた、岡林信康である。
岡林信康の実家は、京都の教会で、父親はその教会の牧師だった。そういう事もあって、岡林信康は、同志社大学の神学部に進学したのだが、その後、牧師の父親との確執のため、家出をして、姿を消してしまった。岡林信康は、職業を転々として、アコースティック・ギターを持つようになり、1968年にフォーク・ソング歌手として、デビューする事となった。そして、山谷の労働者の暮らしぶりを歌った、あまりにも有名な「山谷ブルース」、部落問題をテーマにして歌った「チューリップのアップリケ」「手紙」などの曲を次々に発表して、一躍、時の人となったのだった。
1969年に開かれた「全日本フォーク・ジャンボリー」で、岡林信康は早くも、アコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち替え、フォーク・ソングのファンからの罵声を浴びつつ、ステージに立ち、「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などのプロテスト・ソングを披露した。その時のバック・バンドの顔ぶれは、ベース・ギター細野晴臣、エレキ・ギター高中正義、鈴木茂、ドラムス松本隆、キーボード矢野誠(矢野顕子の元夫)という顔ぶれで、後の「はっぴぃえんど」の主要な顔ぶれとなるミュージシャンが3人も含まれていたというのは、凄い事である。この事からも、岡林信康の目利きぶりが、はっきりと分かると言えよう。ちなみに「はっぴぃえんど」は、初めての日本語のロック・バンドとして、今だに語り継がれているけれども、わたしは、そうは思っていない。初めての日本語のロック・バンドは、グループ・サウンズ「スパイダース」であり、「スパイダース」に続く「タイガース」や「テンプターズ」「ゴールデン・カップス」だと、わたしは捉えている。
岡林信康は現在、74歳で、今だにフォークの神様として活動を続けており、昨年23年ぶりのニュー・アルバムをリリースして、大きな話題となった。

岡林信康は、ライヴでのユーモアに富んだMCでも知られているのだが、Facebookでの「岡林信康・オフィシャルサ・サイト」の新しい記事には、次のような事が掲載されていた。

【近況報告⑥】

「散歩中の岡林信康さんが、神社の狛犬(こまいぬ)にかまれるという事件が起こった。フォークの神様と呼ばれた岡林さんを神社の神に仕える狛犬が「商売ガタキ」だと思っての犯行だと思われるが、単なる傷害事件か、それとも複雑な宗教論争に発展するような事件なのか、警察では慎重に捜査を進めている。
(イヌアッチケーニュース)」
2021年8月12日
岡林信康

岡林信康のユーモアは、ここでも健在で、岡林信康のライヴに1度は足を運んでみたいと思っているわたしは、岡林信康には、90歳くらいまで生きていただいて、現役「フォークの神様」として、歌い続けてほしいものだと願っているのだった。

 

● 小室哲哉について。

今では、過小評価、或るいは過去の人として扱われているようなところのある、小室哲哉ではあるが、小室哲哉は、J─POP史上最高の天才である。なぜわたしが、そう思うのかというと、1986年の渡辺美里の大ヒット曲「My Revolution」の作曲家であるという、この1点に尽きる。こんな名曲、そうそう、誰にでも創れるものではない。
1980年代の、TM NETWORK(小室哲哉、宇都宮隆、木根尚登の3人で構成される日本の音楽ユニット。このユニットにも、「GET WILD」という名曲がある)での活動を経て、プロデューサーとしても頭角をどんどん表していった小室哲哉だが、デビューしても鳴かずとまずだったアイドル歌手、安室奈美恵や華原朋美の才能に気づき、一流のアイドルとして成長させていった能力は、本当に大きいものだった。ただ小室哲哉のプロデュースから早めに手を引いた安室奈美恵に対して、小室哲哉と恋愛関係になり、すっかり寄り添って、結局、小室哲哉に捨てられて、自殺未遂をした後に、情緒不安定になり、どんどん人気が凋落していった華原朋美は、とても気の毒な事になってしまった。今では40歳代後半となり、一般人と結婚して、育児をしながら、ヒット曲はもう出ないが、今でもテレビで昔と変わらぬ歌唱をしている華原朋美を観ると、「がんばれ、トモちゃん!!」と応援してしまうのは、おそらく、わたしだけではないだろう。
さて、華原朋美を切り捨てた後、卓越したキーボード奏者の自分自身とヴォーカリストのケイコ、ラッパーのマーク・パンサーと組んで、1995年から1996年にかけて、J─ポップ界に小室哲哉をリーダーとしたグループ、globeを結成して、日本のJ─POP界に一大ムーブメントを巻き起こした事は、多くの人の記憶に残っている事だろう。
しかし、小室哲哉は、美輪明宏の言う「人生は、プラス・マイナスの法則で出来ている。人生をすっかり謳歌した人には大きな凋落が待っており、結局は、プラス・マイナス・ゼロなのである」という事を見事に体現してしまった・・・妻のケイコは脳梗塞で倒れ、自分自身は著作権関係の問題で逮捕され、財産を失い、とうとう還暦を前にして、音楽界から引退する事となってしまった・・・
そのような小室哲哉ではあるが、やはり彼の音楽家としての才能は、今でも色褪せる
事はなく、globeの残した数々のヒット曲には、必ず、再評価を得る時代が訪れる事であろうという、わたしの予想は、確実に当たると信じている。頑張れ、小室哲哉!!

 

* わたしはいま58歳で、10年経てば70歳近くになってしまうという事に、最近気がついた。日本人の寿命が長くなったとはいえ、70歳ちょっとで亡くなってしまう人たちは、かなり多い。10年経ってしまうのなんて、あっと言う間の事である。
* わたしは、30年以上詩は書き続けてきたけれども、散文の方は常に苦手意識があって、殆ど書いてこなかったという経緯があり「いま、書かなくて、一体いつ書くのだ」という気もちになり、遅ればせながらようやく散文を書き始めた、というわけなのである。これから先、エッセイだけではなく、たくさんの論考を書いていきたいと考えている。

 

2021年 8月16日 今井義行

 

 

 

訪問看護は いかがでしょう

 

今井義行

 
 

わたしは 週に2回 精神疾患に特化した 訪問看護を 受けている



今日の朝も まだ 成り立てだという 訪問看護師さんが 訪れた



その 訪問看護師さんは 猫柄の マスクなんて してる・・・



(それにしても なんて 若くて かわいい 看護師さん なんだろう)



「はじめまして」
「はじめまして」



訪問してくれる 訪問看護師さんは 決まっていなくて その日によって 変わる



(その 訪問看護師さんたちが 揃いも揃って 皆んな 20代前半の かわいい 
娘たちばかりなのは 何故なんだろう)




わたしは ピンッと きた




(訪問看護ステーションも ビジネスなので 応募者が 資格を持っているのは 当然のこととして 所長の採用基準が 20代前半の かわいい 娘たちばかりに 
絞り込まれているのは 明らかだな)




(これは 風俗 か)




「まず 検温を しましょう」

「はい」

「異常なし ですね」 

「次 血圧を 測りましょう」

「はい」

「異常なし ですね」

「次 脈拍を 測りましょう」

「はい」
看護師さんが わたしの手を 柔らかく 握ってくれた・・・

「異常なし ですね」



わたしは まず わたしの メンタル面での 著しい低下について 相談したかったのだけれど

訪問看護師さんの方から 先に わたしに 相談をしてきた



「わたし マクドナルドの マックフルーリー(アイスデザート)を 食べるのが 
好きなんですけど きのう 体重を 測ったら 1kg 増えてて ショックだったんです
どうしたら いいんでしょうか」



「アイスクリームは 300Kcalくらい ありますからね こまめに 体重測定をして 
体重の キープを 心がけていくのが 良いんじゃないでしょうか」



「わかりました そうしてみます」

「ところで 看護師さんは 何故 敢えて 精神疾患に特化した 訪問看護ステーションを 就職先に 選ばれたのですか」



「そうですね・・・それは わたしの 家族に 精神疾患者がいて それが きっかけで 看護学校に 進学して 何か 精神疾患者の役に立てないかなと 思ったからですね 他の看護師たちも そんな感じだと 思います」



「・・・そうなのですね」



わたしは 今日の 訪問看護師さんを 見送りながら

「看護師さんの お話を 聞けて 嬉しかったです ありがとうございました」

わたしは 頭を 下げていた



わたしはその晩 強い抗うつ薬と 強い睡眠薬を服薬して 就寝したものの 著しい
メンタル面での問題を抱えているにも関わらず どうにも気もちが 高揚してしまって なかなか 寝つく事が できなかった


わたしは 翌朝 訪問看護ステーションの所長宛てに メールを送ってみた



〈訪問看護ステーション

 所長 様



 いつも 大変 お世話になっております

 ところで どうしても ご相談したい事
 があるのですけれども〉  




1時間ほどして ノックを 強く 叩く音がした 訪問看護ステーションの所長が訪れた



「良かった・・・突然の 体調不良でなくて 安心しました」 



「心配おかけして 申し訳ありませんでした ところで 所長に 提案が あるのです

いつも 看護師さんたちには お世話になっていて ありがたい限りです

それなのに このような事を提案して 毎日 がんばっている 看護師さんたちには 大変申し訳ないとも思うのですが・・・



看護師さんの 訪問看護は 30分ですね 最初の15分間は 体温測定・血圧測定・脈拍測定ですね 残りの15分間は 健康相談や雑談となっています」



「そのような システムです」



「この後半の15分の内 5分を 希望する患者さんへの オプションとして
 「ディープ・キス」へと 充ててみるのです



昨日 訪問看護師さんに 脈拍測定をしていただいたとき 手を握ってもらいました そのとき 得も言われぬ 気もちが 湧き上がってきました 



就寝時間を過ぎても 

いつもなら メンタル面での著しい低下に 苦しむのですが 昨夜は とても 穏やかな気もちになって メンタル面での著しい低下が 収まったのです」 



「そうだったのですね」



「希望者する 患者さんには もう1つ オプションとして 訪問看護師さんを 「指名」できるというのは いかがでしょうか

断っておきますが このプランには 確かに「風俗的」な面はありますが これは 
あくまで「医療行為」として行なうものです」

「普通のキスでは ダメですか」 
「ディープが いいです」



「実際のところ わたしたちのビジネスとは「風俗経営」に属するものだとは 分かっているんです・・・

ですから 突然の 提案に すっかり驚いてしまいました・・・

ところで 「ディープ・キス」には 患者さんの 気もちとしては どれくらいの 金額を お考えですか?」 




(所長さんの ビジネス魂が 釣れたかな・・・) 




「税込み5000円です 看護師さんの「指名」をするときには プラス税込み1000円です 後腐れのない「医療行為」としての「ディープ・キス」は いかがでしょうか?

わたしには 既に 指名させてもらいたい 看護師さんが 3人います」



「・・・まあまあの 金額設定だとは思います しかし現在よりも 収益は上がるのだろうか ところで コロナ対策については どのように お考えですか?「ディープ・キス」は 濃厚接触の極みになると思いますが」



「コロナ感染を危惧する 訪問看護師さんには 大変申し訳ないですが 退社して
いただきます コロナ感染を危惧しない

若い看護師さんは オーディションで 積極的に 採用をしていきます



・・・もしも わたしが 指名させてもらいたい 3人の 看護師さんが 
辞めてしまったら 本当に 悲しいのですが」



「・・・患者さん 応募者はいると お感じですか」



「おそらく いま 生活に 困窮している 若い看護師さんたちは とても 多いのではないかと 想像しています・・・」



「患者さん とても メンタル面での著しい低下を抱えているようには見えないです」



「そうかも しれませんね けれども このような 対話も 既に わたしに とっては 大切な 「医療行為」と なっています



この提案は 訪問看護を受けている すべての精神疾患者にとって「救済」になると 思っています



何より わたしは この数年間 病気のため 「ディープ・キス」など 経験できては 
いませんから」



「・・・それでは よく考えさせてもらいましょう 患者さん もしも よろしければ 
わたしたちの ビジネス・パートナーになって もらえませんか 一緒に考えて
もらいたい事など 多くあります」



「はい いまは オリンピックなど 観ている場合ではないと 思うのです
この プランの方が よほど 「平和の祭典」になると思うのです」



「その通りかもしれません わたし 今日は これで 失礼します
これから 早速 訪問看護ステーションのリニューアルについて 検討に 入って
みなくてはなりません

何か ありましたら メールか スマホで 相談させてもらいます」



「もちろんです 新人看護師さんの オーディションを行なう際には 必ずわたしも同席させてください」



「あはははは・・・」

「あはははは・・・」




・・・・・・・・・・




「承知しました わたしたち これからは 手を取りあって がんばって いきましょう」



「はい がんばって いきましょう」