駿河昌樹
美は衆人の目を避ける。
うち捨てられ、忘れられた場所を求める。
そこでしか、その姿と、気品と、本質を再現する光に
出会えないことを知っているためだ。 エズラ・パウンド
題名も
作者名もなければ
よかったのに
と
思う
ものの見かたを限ってしまうような
一方向に導いてしまうような
紹介も
コンセプト解説も
なければ
よかったのに
と
たゞ
そこにある
置かれてある
それだけで
よかったのに
と
近寄って
もっとよく見てみようとしたり
遠ざかって見直そうとしてみたり
見に来たひとに
そうしてもらうだけで
よかったのに
と
そんなところから
その造形物のまわりに芽吹くかもしれないものが
芸術
ではなかったのか
と
ぼくはさびしむ
慰安婦像
などと
呼ばれてしまった像の顔は
むかし
むかし
東京の端っこの町で
まだ二歳や三歳ほどだったぼくと
着せ替えごっこやお手玉をしてよく遊んでくれた
近所のおねえちゃんたちの顔に
似ていた
むかし
むかし
といっても
もう戦争はとうに遠のいて
子どもが
たゞの子どもでいられるようになった
むかし
題名も
紹介も
解説もなければ
あの頃のおねえちゃんたちが
ちょっと疲れて
椅子に座っている姿に
ぼくには見える
その見えかたのおかげで
まだ二歳や三歳ほどだったぼくに
ひととき
ぼくは戻ることができ
厚紙の着せ替え人形を何体も並べていた
どこかのお家の畳のにおいや
小さい子にはちょっとこわく見えた
部屋の隅の薄暗がりや
お庭の生け垣や
立ち並ぶ柾木や菖蒲の葉や
舗装もしていない外の道の土のにおいまでが
いちどに蘇ってきて
あの像は
ずいぶん大事なぼくだけの世界への入り口になってくれる
どこの展覧会に行っても
美術館に行っても
題名も
説明も
いっさい見ないで
すぅっと
人影を避けて泳ぎ去る川魚のように
絵や
彫刻や
そのほかの造形物を
見て
流れていくのが
美術とかアートとか呼ばれるものとの
ぼくのつき合いかたに
いつのまにか
なったが
もとの淵に戻ってくる川魚のように
こころ惹かれたもののところには
また
ぼくは
すぅっと
戻ってくる
ひとつの絵や彫刻が
ぼくにとっての
ぼくにとってだけの
芸術に
なっていくのは
そんな回遊がくり返されたのちのこと
広告会社や
イメージ戦略ばかり考える
腹黒い大企業や
軽佻浮薄な表舞台で名利を得ようと必死の
ゲージュツカさんたちや
アーティストさんたちや
美術史家さんやキュレーターさんが醸し出す
あの
風俗業界の雰囲気によく似た
べったり感や
よどみや
ウルサさは
♪バーニラ、バニラ、バーニラ……*
と大音響を立てながら
少女たちを
現代生活という戦場の慰安所へ勧誘していくものの雰囲気に
ずいぶん似ている
そんな雰囲気のなかに棲みこんで
金と名を掻き集める者たちの
これっぽっちの控えめさも自己反省もない
居直り切った
押し売りそのもののプレゼン攻めに
(やめてくれ…
(頼むから…
と
うっかり
ぼくは
祈るような気持ちに
なってしまう
題名も
紹介も
解説もなければ
よかったのに……
見かたを
強いられることがなければ
よかったのに……
そういうのが
芸術
ではなかったのか
と
さびしむ……
まだ二歳や三歳ほどだったぼくと
着せ替えごっこやお手玉をしてよく遊んでくれた
近所のおねえちゃんたちの顔に
似て見えるとき
あの像は
ぼくのなかで
ほんとうに
平和の少女像となる
ぼくも近所のおねえちゃんたちも
むかし
むかし
東京の端っこの町で
人類史上めずらしいほどの
小さな平和にすっかり包まれて生きた!
そう生きることができた!
こう思うとき
あのおねえちゃんたちと同じ顔をしながら
そう生きることができなかった
べつの時代のおねえちゃんたちがいた!
という思いの流れの先に
時代や個人的経験に限界づけられたぼくひとりの目と違う
もっと大きな目が
きっと
開眼していく
なにも
見落さない
なにも
見逃さない
目……
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