今ここにある「聖家族」の記録

村岡由梨第一詩集『眠れる花』を読んだ。

 

長田典子

 
 

 

村岡由梨さんの第一詩集『眠れる花』(書肆山田刊)を読んだ。201ページの厚い詩集は、二部構成で、33篇の詩が収められている。

表紙には画家の一条美由紀さんによる「村岡由梨肖像画」が効果的に配置され、インパクトがある。一条さんの絵は、いつもとても個性的で不穏な物語性、そして詩的な不条理性を孕んでいるように感じて、目が離せなくなる魅力を感じる。その一条さんの絵が表紙なのだから、存在感を感じさせないわけがない。裏表紙には娘さんの眠さんによる「村岡由梨肖像画」が描かれている。コンテチョークで描いたのだろうか…一枚の絵なのに折り目を境に表情が明と暗に分かれるように巧みに描かれており、表紙に負けない迫力で迫ってくる。タッチの違う描き手による村岡さんの肖像画は、激しい本の内容とよく合っている。
詩集の場合、自費出版のため、詩人本人が多くをプロデュースしなければならないことが多い。表紙はじめ本のたたずまいそのものに、どれだけ著者が心を込めて詩集製作に取り組んだかが現れることが多いように、個人的には感じている。村岡由梨さんの第一詩集『眠れる花』は、本を見た瞬間から、著者の強い思いを感じさせる。

もともと映像作家である村岡由梨さんは、詩作を始めてすぐの2018年11月からウェブサイト「浜風文庫」で発表を続けた。2021年1月まで書かれた作品を2021年7月31日発刊の201ページもの詩集に纏めてしまった。創作への熱いエネルギーを感じる。著者自身は、あまり意識していないかもしれないが、初めから、ご自身の内部を言葉にしてさらけ出す、さらけ出してしまえる凄さは詩を書く大きな才能だと注目している詩人だ。

タイトル『眠れる花』は、長女の眠(ねむ)さんと次女の花さんの名前から付けられており、詩集中に同タイトルの詩が収められている。村岡さんの娘さんたちを想う気持ちが伝わってくる。多くの詩の中に、思春期真っ只中で、感受性が人一倍強い娘さんたちのエピソードや、精神的に揺らぐ母親の村岡さんを娘さんたちが励ます言葉、やはり鋭い感受性ゆえに揺れ母親としてこれでいいのかと自分を厳しく問いただす村岡さんの悩み、映像作家の夫の野々歩さんも登場し、家族の温かくも危うい日常が描かれている。娘さんたちのピリピリした感受性に、村岡さんも野々歩さんも同じ目線の高さで対応し、受け止め、お互いの鋭さが音叉のように共鳴し合い増幅する。壊れそうなお互いを、必死に支え合う家族の姿は、「今ここ」にある「聖家族」の姿をリアルに描いている。

村岡さんの詩は、夢やイメージが唐突に出てきて唐突に途切れたりする。読んでいる方は、混乱する。だが、その混乱した世界こそが、村岡さんの世界なのだと知る。もしも、手慣れたやり方で、それぞれの連の運びをスムーズにしようとしたら、もう、村岡さんの詩ではなくなってしまう。

村岡さんは詩のなかで、自身の過去をどんどん暴いていく。自身に付きまとい激しく苦しめる自己憎悪の原因をつきとめようとする。村岡さんの感じている自己嫌悪や自己否定感は、そのへんにある生半可なものではない。非常に激しく厳しく救いようがないほど深い感情だ。村岡さんは、常にその忌まわしい感情と闘っている。隙あらば自分を抹殺しかねないほどのどうにもならない感情なのだ。さぞきついだろうと思う。
村岡さんが今まで11本の映像を制作し、2018年から詩を書き始め追及していることは、自身のその自己憎悪と自己否定を表現すること、そして、映像制作や詩作で、そのありかを実体として掴み抽出しようとしている行為のように思う。実体が把握できれば、うまく共存することもできるようになるかもしれない。

「クレプトマニア」という詩では小学生の頃の万引きの話が描かれている。そして自分へ自己憎悪を言葉として形にして受け止めてみる。当然、当時の母親や父親の言動も思い出すことになる。そしてさらに救われがたく深く落ち込んでしまうのが行間からうかがえる。しかし、娘さんたちの次のような健気な励ましの言葉や行動を思い出し書くことで、何とか立ち上がろうともがいている。

 

中学3年生の娘が言いました。
『嫌い』っていう言葉は人を傷つけるためにある言葉だから、
簡単に口に出してはいけないよ

でも、私は、私のことが嫌いです。

小学6年生の娘が言いました。
「私が私のお友達になれたらいいのに」

 

また、

 

「ママさん、ママさん」
そう言って、ねむは
はにかみながら私を抱きしめる。
「人ってハグすると、ストレスが3分の1になるらしいよ。」
そう言って、はなが
ガバッと覆いかぶさってくる。

 

「イデア」では、それまで過激な表現が多かった映像作品から脱皮したような穏やかな家族の日常と病弱な愛猫の死を通して、存在とは何かを問いかけているように感じる11本目の同タイトルの映画「イデア」の感想を夫の野々歩さんが言う。

 

「君が今日まで生きてきて、この作品を作れて、本当に良かった。」

 

初期の頃から一緒に映像制作をしていた野々歩さんの言葉の重みを感じ、読者もほろっとする。ここでも、村岡さんは、激しい自己憎悪と自己否定感から、何とか救われようと言葉を連ねる。

『眠れる花』は、ストレートで散文的な言葉に圧倒される。そして強烈な場面が次々に描かれている。現代詩を読み慣れている人にとって、これは詩なのだろうか、と疑問をもつかもしれない。わたしは愚かにも、散文かエッセイのように、行分けされた詩を頭の中で繋げてみた。もちろん、繋がらなかった。これは、まぎれもなく詩なのだと再認識した。詩集中の多くの詩は、詩の概念やロジックからはみ出ている。そこが凄い。村岡さんの大きな才能を感じずにはいられない。

「青空の部屋」では、

 

太陽に照らされて熱くなった部屋の床から
緑の生首が生えてきた。
何かを食べている。
私の性器が呼応する。
もう何も見たくない。
もう何も聞きたくないから。
私は自分の両耳を引きちぎった。
耳の奥が震える。
私が母の産道をズタズタに切り裂きながら生まれてくる音だ。

 

植物のような緑の生首は、新鮮で生命力にあふれかえっている。それは、母の産道を切り裂きながら産まれてくる著者自身だ。現在、精神的な病を抱えている村岡さんは、娘さんたちのために、常に「よい母親」でなければならないと思っている。生首のイメージが現れたとき、村岡さんの母親と自身が母親であることが重なってしまい、「性器が呼応する」。激しく自己を憎悪し、「耳を引きちぎ」りたくなる……。

 

そして、漆黒の沼の底に、
白いユリと黒いユリが絡み合っていた。

 

自分が分裂していく…。その姿を詩の言葉で確認する。そして再生への道を模索していく……。そんな、懸命に生き延びようとする村岡さんの姿に感動する。

「ぴりぴりする、私の突起」では、助産婦に

 

「乳首を吸われると、性的なことを想起してしまって、
気持ちが悪くて、時々気が狂いそうになるんです。
乳首がまだ固いから、切れて、血が出るんですけど、
自分の乳首が気持ち悪くて、さわれなくて、
馬油のクリームを塗ることができないんです。」

 

と打ち明け、笑い飛ばされてしまう。おそらくこの助産婦は極めてフツーの人で、フツーの発想以外を信じないタイプの人だ。しかし、人を相手にする仕事の人だったら、相手が抱える深い闇を見抜き、寄り添おうと努力して欲しいものだと思う。また、村岡さんだけでなく、赤ん坊に乳首を吸われて性的なことと結びつけてしまう女性は、口には出さないだけで、案外多くいるように思う。あたりまえのことではないか……。ただし、村岡さんは誰よりも強い自己憎悪の感情の持ち主だ。だから、自分の乳首を気持ち悪くて触れない……。このことを多くの女性を相手に仕事をしている助産婦さんには理解して欲しかった。

自分のことで恐縮だが、わたしは、妊婦を見かける目を逸らしたくなる。妊婦の膨れたお腹の中に、赤ん坊とは言え、もう一人の人間がまるまって、そこにいる……そう考えただけで、正直、気持ち悪くて直視できない。妊婦は未来を育む赤ん坊を身籠っているというポジティブなイメージしか世の中の人は認めない。でも、わたしには、どうしても受け入れられない存在だ。わたしは妊婦には絶対になりたくなかった……。30代になってから10年以上に渡って下腹部がのたうち回るほど酷く痛み、遂に何も食べられなくなって体重が30キロ台になりガリガリに痩せてしまった時期がわたしにはある。男性と同様に社会で働きたい(働くべきだ)という強い気持ちから、女性性や母性を激しく否定する潜在意識が宿っているのだろう。跡取りとして長男の誕生を切望されていたところに女児として生まれてしまった生い立ちも、深く影響しているはずだ。やっかいなことに潜在意識はコントロールできない。痛みは月経の周期に合わせて月に3週間は襲ってきた。子どもを孕みにくい月経が始まったとたんに身体はすっきりと痛みから解放され、月経が終わると再び断続的にやってくる七転八倒するほどの痛みが続いた。やっとの思いでよい医師に出会え、原因が激しい鬱状態からくる痛みだとわかった。クリニックに通い適切な投薬を受けていることもあり、現在は痛みの症状が出なくなった。これも激しい自己嫌悪や自己否定の類からきているはずだ。こういう自己嫌悪、自己否定の在り方についても、世間の人はなかなか理解できないだろう。

女性、特に母親に対して、世間はいまだに固定的観念を押し付け、抑圧する。しかし、21世紀の現代、その固定的で抑圧的な観念から、進化できないものかと思う。女性であろうと母親であろうと、十人十色の生き方や感じ方があっていいはずだ。

「絡み合う二人」では、母である村岡さんと思春期の娘さんとの微妙な愛情関係が描かれている。微妙な愛情関係とは、母と娘、母と恋人、母と女友だち…そんな複雑な温かい関係だ。しかし、思春期の娘の胸のふくらみに、母として、いつか自分から巣立って離れていってしまうという不安がよぎる。そこから母乳で娘さんを育てるご自身を回顧する連が強烈だ。

 

青空を身に纏った私は、
立方体型の透明な便器に座って
性の聖たる娘を抱いて、授乳をしている
娘が乳を吸うたびに
便器に「口」から穢れた血が滴り落ちて、
やがて吐き気をもよおすようなエクスタシーに達し
「口」はピクピクと収縮痙攣した。
無邪気な眼でどこかを見つめる娘を抱いたまま
私は私を嫌悪した/憎悪した。

 

この鮮やかな連にわたしは驚愕し、感動した。ここには、「新しい、誰も描かなかった母子像」が輝くように存在している。後光を放っている「現代の母子像」として、わたしの胸を射抜いた。

 

小さくて無垢な娘は、お腹がいっぱいになり、
安心したように眠りに落ちていった。

あなたは、悪くない
ごめんね。
ごめんなさい。
穢れているのは、あなたではなく、私なのだから。

 

美しく眠る赤ん坊に向かって謝る村岡さんがいる。読者であるわたしは、思わず声をかけたくなる。「あなたはちっとも穢れてなんかいない。並外れてご自身に、ご自身の身体に、敏感なだけなんだよ。」と伝えたくなる。ありていな言い方になるが、多くの女性は母性と経血を結び付けたりはしない。村岡さんだからこそ、感じられる特別な感覚であり感性だ。村岡さんには、自分の感じたイメージを迷いなく言葉にしていく凄さと度胸を感じる。

詩集には「眠は海へ行き、花は町を作った」「変容と変化」「新しい年の終わりに」など、家族の危うくもほのぼのとした内容の詩も多く含まれている。

2021年6月6日(日)、13日(日)にイメージフォーラムで行われた「村岡由梨映像展<眠れる花>」で上映後のトークで村岡さんは、「日頃、実体に対する不安があり、フィルム制作そのものに実感を感じる」と話していた。会場で配られたパンフレットの2016年に制作した「スキゾフレニア」(16ミリ)の説明には、「私は今、ここに存在しているのでしょうか。今、このキーボードをたたいているのは、本当に私なのでしょうか。このキーボードは本当に、ここに存在しているのでしょうか。この椅子は、本当に、ここに存在しているのでしょうか。この、床は、本当に、ここに存在しているのでしょうか。……」と魂の悲鳴のような言葉が書かれている。村岡さんが一人の人間としてぎりぎりのところで懸命に踏ん張り、生きていることがわかる。

自分の存在、自分を取り巻く世界の存在を確かめるために、映像制作をしてきた村岡さん。その制作体験を礎にしながら、今度は言葉にして、存在を確かめ、書くことを始めた村岡さん。事象を客観視し気付いていく様子が、行を追う読者にもリアルに感じられ一緒に納得させられる。ぎりぎりの状態まで追い詰められながらも、家族の存在に助けられて生き抜いてきた。激しい自己嫌悪と自己憎悪に苦しめられつつも、村岡さん自身も家族を支え大きな力になっているはずだ。これからも、ご自身の感覚や感性からの表現を大切にし、映像制作、そして詩作を続けていただきたい。あえて詩について注文するとしたら、ざっくりと捉えた粗削りな言葉の中味を、さらに開いて細かい表現の仕方にも触手を伸ばして欲しい。とても楽しみな映像作家であり詩人だ。

村岡由梨さんの第一詩集『眠れる花』には、裏表紙となった娘さんの眠さんの絵はじめ、花さんの詩や夏休みの立派な工作の写真、そして病のため1年で命を終えた愛猫のしじみの写真、夫となった野々歩さんとの運命の出会いの話なども織り込まれている。今ここにある「聖家族」の記録となっている。真摯で壮絶な家族の物語は、どこの家庭にも潜んでいる狂気を暴いているようにも思える一冊だ。

 

 

 

 

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