あきれて物も言えない 21

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

毎日、詩を書いている

 

昨年、2020年の4月1日から、毎日、月曜日から金曜日まで、詩をひとつ書いて、「浜風文庫」に公開している。
もうすぐ、一年になる。

わたし一人ではなく、ロック・ミュージシャンの工藤冬里さんも毎日、詩を書いてくれて、浜風文庫に公開してきた。
また、写真家の広瀬 勉さんのブロック塀の写真も毎日、浜風文庫に公開してきた。

詩を書く、詩を毎日、書くということは、どのような行為なのだろうか?

わたしの場合は、毎日の自分の生活の事実に基づいて書いている。
ツイッターの「楽しい例文」さんからタイトルを借用して、本文にも、同じ例文を最終行に引用している。

まず、日本語で詩を書いて、次に英語に翻訳して、英語の詩と日本語の詩を繋げて、ひとつの詩としている。

例えば、今日は、以下の詩を書いた。

 
 

Something is wrong with the engine.

エンジンはどこか故障している。

 
 

this morning too

to the estuary
walked

I walked along the river

on the peninsula
the sun was shining

the wind was blowing

before noon
at the florist

I bought a white chrysanthemum for my mother-in-law’s Buddhist altar

soon
two years

in this world
is it the third anniversary

in the afternoon
I was listening to Haruomi Hosono’s “I’m only a little”

repetition
I was listening

the wind was blowing
I was walking in the wind

Something is wrong with the engine *

 

 

今朝も

河口まで
歩いた

川沿いを歩いていった

半島の上に
朝日は

光っていた

風が吹いてた

昼前に
花屋で

義母の仏前に供える白菊を買ってきた

もうすぐ
二年になる

この世では
三回忌というのか

午後には
細野晴臣の”僕は一寸”を聴いてた

繰り返し
聴いていた

風が吹いていた
風のなかを歩いていた

エンジンはどこか故障している *

 
 

日本語の詩を英語に翻訳するのは、英語にするとどんな言葉のニュアンスになるだろうかという異言語の語感の楽しみがあるのです。日本語を英語にするとき英語はわたしに主格と時制を要求して来ます。

毎回、そうですが、詩を書くときは、自分や他者の既存の詩のことを考えません。

詩は、ゼロになって、ゼロから書きはじめて、生きるものとして書きます。
自分の生活の事実に即して詩を書きはじめます。
それで「詩が成立した」と思える一瞬が、たまにあります。

「詩が成立した」と思えると、嬉しいのです。楽しいのです。
「詩が成立した」とはどういう事なのでしょうか?

わたしの詩の言葉は、言葉のコミュニケーション機能が破壊されて、わたしたちの心の底に沈んでいるわたしたちの言葉の「先祖」に出会う体験なのではないかと思うことがあります。

「先祖」といってもお祖父さん、お祖母さんや、曾祖父さん、曾祖母さんよりも、もっともっと昔の1,000年や10,000年、100,000年前くらい前の「先祖」、原人くらい前の言葉の「先祖」に出会うことじゃないかと思ったりすることがあります。

原人くらい前の「先祖」の言葉とはどのような言葉なのでしょうか?

今日、わたしは、朝、小川の土手を河口に向かって散歩していて菜の花が風に揺れるのを見たのです。
菜の花には朝日が斜めに射していて輝いて揺れていました。
その光景が眼に焼きついています。
眼ではなく脳に焼き付いているのでしょうか?
この眼と眼と脳を結ぶ神経と脳に焼き付いているのでしょう。

菜の花が風に揺れるのを言葉にすることはできるでしょう。
それで春が来ているというような意味のことを言うこともできるでしょう。
しかし、この眼と神経と脳に焼き付いている光景は言葉ではないのです。

その光景はこの世界そのものなのです。
わたしは、その光景に出会い、言葉を失います。
絶句します。
そして絶句の後に、言葉にならない言葉を探しています。

このわたしが感じることができる光景や、言葉にならない言葉の歓びが、
もしも、他者に届くことがあれば、それは、ありがたいことだと思うのです。

詩がなんであるのか、うまく言えません。

しかし、詩を感じることは、できるのです。
詩は、わたしたちの遠い「先祖」であり、いまを生きること、この世界そのものに出会うことの歓びであるように思います。

 

呆れてものが言えません。
ほとんど言葉がありません。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* ツイッター「楽しい例文」さんより引用させていただきました。

 

 

 

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