あきれて物も言えない 31

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 

 

花粉がきた

 

朝、起きてみたら、
来ていた。

泉のように水が流れでて止まらない。

くしゃみが、
立て続けにでた。

 

この2年は、
来なかった。

コロナ禍で家の外ではマスクをしていたからなのだろう。

ティッシュを、
箱ごと抱きしめて鼻のまわりを赤くするあの日々がはじまったのか?

昼前に近所の病院に行ってみた。
受け付けは昼で終了です午後3時に来てくださいと女の事務員は言った。

それで、近くの農家の無人販売所で蜜柑とデカポンを買ってそれからホームセンターに寄り小鳥の餌の剝き実を買った。

本の部屋の窓辺に蜜柑と剥き実を置き小鳥が来るのを待った。

雀が、
来た。

つがいで来た。

いつもこのつがいが来る。

元気な方が餌を啄ばみおとなしい方がおずおずと真似る。

今度はヒヨドリのつがいが来た。
ヒヨドリは雀を追い払い餌を食べ尽くすのだ。

そんな景色を見ていると時間になっていた。

病院に向かう。
病院の受付では風邪気味なのかコロナなのか花粉なのか、問われた。

コロナの可能性がある場合は外のプレハブの診察室で診察するようだ。
花粉か風邪かコロナかわからないから来てみたのだが患者がコロナかどうか問われる。可笑しい。

熱もないし、たぶん、花粉だと思います。

受け付けの女性は安心したのか一般の診察用待合室に通してくれた。

そこには老人たちがいた。
車椅子に乗せられて俯いている老人もいる。
歳を取ると自然とみんな持病を持っているのだ。
持病を持っているから年寄りはコロナで死んで行くのだ。

診察室に呼ばれた。
男性の医師だった。
マスクを外すように言われた。
鼻の奥と喉をペンライトを点けて覗かれた。
鼻の奥の粘膜が腫れているそうだ。

花粉だろうという。
わたしも同意する。

やっと来てくれた。
コロナやデルタやオミクロンを通さないようにしてきたマスクのはずだ。
そのマスクを通して、
花粉はわたしのところにやって来てくれた。

懐かしいバッドボーイにあったように思えた。

やっと来たのか、きみは。
すこしながい2年間だったよ。

鼻水がだらだらと流れ眼玉しょぼしょぼとしてクシャミ連発のあの憂鬱な花粉がこれほどに懐かしいと感じられるのは、
コロナ様のお陰なのだ。

コロナでこの日本では416万1,730人の人が感染し2万989人の人たちが亡くなったのだ。 *
世界では4億1,550万8,449人の人たちが感染し583万8,049人もの人たちが亡くなったのだ。 *

 

自宅に帰って駐車場で空を見上げた。
西の山のこちら側に雲が盛り上がっていた。

夏の入道雲のような大きさだが雲は灰色に盛り上がり冬の雲だった。
この巨大な雲は冷たい雪の結晶で出来ているのだろう。
灰色の雲の縁から太陽の光が斜めに射して来ていた。

その光の中にわたしたちがいる。
老人たちがいる。
車椅子に乗せられて無言で俯いている者たちがいる。
雀のつがいがいる。
ヒヨドリのつがいがいる。

それはこのひろい宇宙のなかのひとつのいのちということなのだろう。
いのちのひとつひとつが個々に光を灯しているのだろう。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知ってる。
呆れてものも言えないですが胸のなかに沈んでいる思いもあり言わないわけにはいかないことも確かにあるのだと思えてきました。

 

作画解説 さとう三千魚

 

* 朝日新聞 2022年2月18日 一面 新型コロナ感染者数詳細 記事より引用

 

 

 

あきれて物も言えない 30

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 

窓辺に、二羽の雀がくる

 

わたしの本のある部屋の窓の外には手摺りがあり、
そこに板を渡して固定してその上にチーズケーキの入っていた白い陶器の入れ物を置き、粟(あわ)、稗(ひえ)、黍(きび)などの剥き実を入れてあげて障子を閉めると雀がやってくる。

 

雀はいつも二羽で、
兄妹なのか恋人なのか夫婦か、わからない。

窓の内側には障子があるから、
二羽は、障子に影絵としてあらわれる。

まだ警戒している影絵は餌のそばにきてしばらくは動かないでじっとしている。
それから、怖がりでない方から餌に近づいて陶器からこぼれた餌を啄ばみそれから陶器の中に首を突っ込んで餌を頬張っている。

音を立てると逃げてしまうから、
わたしは障子のすぐこちらでじっと影絵のふたりの様子を見ている。

そこには、
ほんわりとした陽だまりがありふたりの生きるよろこびがあるように思われて、うれしくなる。

 

今日は午後から「ユアンドアイの会」の詩人たちとzoomで詩の合評会をしていた。
その間もふたりは窓辺でちょこちょこと動きまわっていた。

わたしは「犬儒派の牧歌」という浜風文庫に公開している詩で皆さんの講評をいただいた。
辻 和人さんが「さとうさんの詩は、ミニマルアートみたいに抒情をブツ切りにする詩ですね。」と言ってくれた。

うれしくなってしまった。

そうか、
わたしの詩は「抒情をブツ切りにする」のか。

「抒情をブツ切りにする」と残るのは骨片のようなものだろう。

骨片を拾う。

 

桑原正彦が4月に亡くなった。

そのことをギャラリストの小山登美夫さんから教えていただいた。
わたしはそれから身動きができなくなってしまった。
なにも、手がつかなかった。
わたしの詩集に桑原正彦の絵を掲載させてもらっている。
詩集には桑原の絵をずっと使わせてもらおうと思っていたから桑原正彦がこの世にいなくなってしまったということは受け入れられなかった。

桑原正彦が、
わたしの母のために絵を描いてくれたことがあった。
わたしの母はALSという筋肉が動かなくなる病気でわたしの姉の家で闘病していたのだった。
その母のために桑原はわたしが渡した母の写真を見て絵を描いてくれた。
わたしの神田の事務所に桑原正彦が絵を持ってきてくれた。
桑原はアトリエからほとんど外に出ないし誰にも会わないと知っていた。
その桑原がわたしの神田の事務所の応接間にきてくれた。
いまはもういない母の部屋の漆喰の壁にその絵はいまも掛かっていてわたしの姉の宝物となっている。

 

ここのところわたしはわたしを支えてくれた人たちを失っている。
中村さん、渡辺さん、父、母、義兄、兄、桑原正彦を失ってしまった。
最近では、家人や、犬のモコや、浜辺や、磯ヒヨドリ、西の山、羽黒蜻蛉や金木犀、姫林檎の木、雀のふたり、それと荒井くんや市原さんなどがわたしの友だちとなってくれている。
「浜風文庫」に寄稿してくれる作家たちと「ユアンドアイ」の詩人たちもわたしには大切だ。
詩や写真や絵や音楽を大切なものとして生の根底で共有できる人たちだ。
経済的なメリットからほど遠いが互いの生を理解して尊重できる人たちだからだ。

 

ここのところ新聞の一面には「国交省、自ら統計書き換え」* 、「赤木さん自死 国が賠償認める」* 、「森友改ざん 遺族側、幕引き批判」* 、「三菱電機製 重大な不具合 非常用発電機 1200台改修へ」* 、「アベノマスク年度内廃棄」* 、「日立系、車部品検査で不正 架空記載や書き換え」* などなど、この国の官民が不正を行っていることが露見しているようだ。

新聞記事に現れるのはごく一部なのだろう。
コストや人を極限まで削り下落させ成り上がる。
世界の経済は自己利益を優先することで回っているのだ。
格差が金を生む。
日本だけでなく世界の人々を自己利益の渦に巻き込みながらこれからも進んで行くだろう。
近代以降の資本主義の終着駅を過ぎ去るのだ。

 

窓辺には、二羽の雀がくる。

そこには、
ほんわりとした陽だまりがあり影絵のふたりの生きるよろこびがあるように思われて、わたしはふふんとうれしくなる。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知ってる。
呆れてものも言えないのですが胸のなかに沈んでいる思いもあり言わないわけにはいかないことも確かにあるのだとわたしには思えてきました。

良い年を迎えましょう。

 

作画解説 さとう三千魚

 

* 朝日新聞、2021年12月16日、21日、22日、23日、一面見出しより引用しました。

 

 

 

あきれて物も言えない 29

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

ひかりだね、と言った

 

高橋悠治のサティピアノ曲集「諧謔の時代より」のCD * を聴いて、
詩を書きはじめている。

詩をふたつ、
曲名からタイトルを引用して書いて浜風文庫に公開してみた。

「内なる声」
「犬儒派の牧歌」

高橋悠治のサティのピアノ曲集はソクラテスと共に若い時から聴いてきた。
“ピアノ曲集 01″ は1976年に、”ピアノ曲集 02” は1979年に日本コロムビアの第一スタジオで録音されている。

若い時から高橋悠治の弾くサティにもケージにも惹かれてきた。
理由がわからないが惹かれるということは恋愛みたいなものかもしれない。
恋愛はいつか壊れることもあるだろうけれど高橋悠治の弾くサティもケージも壊れることはなかった。
だから、サティもケージも恋愛とは比べられないだろう。

 

朝になった。
今朝も朝になった。

言語矛盾だが、
今朝も朝になった、そう思える。

窓を開けて西の山を見ている。
灰色の空の下に青緑の西の山が大きく見える。
今朝も西の山はいる。

佇んで、
いる。

詩の言葉もそのようにして佇むだろう。

人と人のコミュニケーションの道具のように言葉は使われることがあり「コミュニケーション力」という言葉を聞くことがあるが、
詩の言葉はその対極にあるものかもしれない。
詩の言葉は言葉の伝達が終わった後の”絶句”からはじまるようにわたしには思えます。
言葉が絶句して佇むところに詩は生まれるように思えます。

 

いつだったか、
新丸子の夜の東急ストアの明るい光の中でわたし電話を受けました。

画家の桑原正彦からの電話でした。
近況を話しているうちに桑原正彦は自身の絵について「ひかりだね」と言ったのでした。
わたしも「ああ、そうね」と言ったのだと思います。
そのことがいまでも何度も思い出されます。

その言葉に桑原正彦という存在が佇んでいました。
その言葉に桑原正彦が佇んでいるといまのわたしにははっきりと思えます。

 

そして桑原正彦は遠く逝ってしまいました。
わたしは桑原正彦の絵をいくつか持っています。
いまはリビングに3つ、この部屋に一つ、桑原正彦の絵を掛けています。
押入れにもいくつかの桑原正彦の絵がしまってあります。

いま桑原正彦の絵がわたしとともにあることがわたしには希望となっています。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知っています。
呆れてものも言えないのですが胸のなかに沈んでいる思いもありますし言わないわけにはいかないことも確かにあるのだとわたしには思えてきました。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代より」

 

 

 

あきれて物も言えない 28

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

Cheep Imitation

 

ここのところ、
高橋アキがピアノを弾いているCDで「Cheep Imitation」* を聴いています。

「Cheep Imitation」とは、
“安っぽい模造品”という意味だそうです。

昨夜も聴きました。
いまも聴いています。

 

今日は、
日曜日、

よく晴れた秋日和です。

音楽のおかげか、
すこししあわせな気持ちです。

我が家の金木犀に黄色い花が咲きはじめました。
清々しい香りの花です。

朝には、
道端の陽だまりにオキザリスのピンクの花たちが風に揺れていました。

もう午後ですが、
まだ陽はあたたかく窓辺から射し込みます。

静かです。
小鳥の声も聴こえてきます。

「Cheep Imitation」は、ジョン・ケージによって作曲された曲です。

高橋アキがピアノを弾いている「Cheep Imitation」は、
高橋アキのピアノソロで「Cheep Imitation」が弾かれて、
その後にモートン・フェルドマンが編曲し高橋アキに捧げられたピアノとフルートとグロッケンシュピール(鉄琴)のための「Cheep Imitation」の演奏があります。

「Cheep Imitation」は、
サティの「ソクラテス」を題材としてジョン・ケージによって作曲されました。

サティの「ソクラテス」をわたしは若い頃から、聴いてきました。
デルヴォー指揮でパリ管弦楽団、ソプラノのマディ・メスプレがパイドン役として歌っていました。

「Cheep Imitation」はケージがサティに捧げた音楽です。
その曲をモートン・フェルドマンが編曲して高橋アキに捧げたのです。

 

そこに小さな光が見えます。
そこに幸せがあるでしょう。

「Cheep Imitation」は、”この世界”へのとてもやわらかい”捧げ物”と言って良いと思います。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知っています。
呆れてものも言えないのですが言わないわけにはいかないとわたし思えてきました。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 高橋アキのCD「高橋アキ プレイズ ケージ × フェルドマン via サティ」(カメラータ・トウキョウ)

 

 

 

あきれて物も言えない 27

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

滝が落下していた

 

ここのところ絶句している。

ほとんど、
絶句している。

朝には窓を開けて西の山を見ている。

昨日の朝も、
窓を開けて西の山を見ていた。

絶句している。
6月の終わりに桑原正彦の死の知らせを聞いてから何も手につかない。

桑原とはこの疫病が終わったら神田の鶴亀でまた飲もうと思っていた。飲もうと約束もしていた。
もうあのはにかんで笑う桑原と会って話すことができない。

絶句している。

昨日の朝も、
窓を開けて西の山を見ていた。

それから松下育男さんの詩「遠賀川」と「六郷川」という詩を読んだ。
それらの詩は「コーヒーに砂糖は入れない」という今年18年ぶりに出版された松下育男さんの新しい詩集に入っていた。

それらの詩をわたしは既に読んでいてどこかわたしの川底のようなところに沈んでいたのだろう。
松下さんの詩は川底のような場所から語られた声だったろう。

そして、
窓の遠くに見えていた青緑の西の山に滝が流れ落ちるのが見えた。

幻影だった。
松下さんの詩を読んだことによる幻影だったのだと思う。

 
 

空0多摩川は下流になると六郷川と名を変えた

空0私が育ったのは六郷川のほとり

空0川は私たちの生活のすみずみを流れていた

空0日本人のふりをしていたが
空0私たちは実のところ川の人だった *

 
 

そう、松下育男さんは「六郷川」という詩で書いている。

わたしも川のほとり、雄物川という川の近くで生まれて育った。

子どものころ、
ただ、川を見に行くことがあった。
釣りをする人たちを後ろから見ていた。
夏休みには川で遊んでいた。
川に潜って川底を泳ぐ魚たちを横から見ていた。
川の人は魚の言葉がわかる人たちだろう。
声を出して話さないが魚たちにも言葉があるだろう。

西の山に真っ直ぐに落下する白い滝を見てわかったような気になった。

水は上から下に落ちるのだ。
それで川になる。
川は流れて海になる。
それからいつか海は空にひらかれる。

当たり前のことだ。そんなことが腑に落ちた気がした。

 

今日は日曜日だった。
雨の音がした。
朝から雨が降っていた。
西の山は灰色に霞んで頂は白い雲に隠れていた。

午後に雨はあがった。
姉から秋田こまちの新米が届いた。

高橋アキの弾く「Cheep Imitation」を聴いていた。
「Cheep Imitation」はサティの「ソクラテス」を題材としてジョン・ケージによって作曲されたという。
それはケージがサティに捧げた音たちだったろう。

 

そこに言葉はなかった。
そこに小さな光が見えた。

呆れてものも言えないが言わないわけにはいかないと思えてきた。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 松下育男 新詩集「コーヒーに砂糖は入れない」(思潮社)から引用させていただきました

 

 

 

あきれて物も言えない 26

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

東京五輪は閉幕した。「 自分で身を守る段階 」になった。

 

ここのところ絶句している。

ほとんど、
絶句している。

ここのところ、
部屋で、
ジャズばかり聴いている。

ALBERT AYLER.

THELONIOUS MONK.

MAL WALDRON.

LES McCANN.

JUTTA HIPP.

CLIFFORD BROWN.

BUD POWELL.

JOHN COLTRANE.

今日は敗戦の日、雨の日曜日だった。
前線が停滞し西日本各地に豪雨をもたらしている。

絶句している。
6月の終わりに桑原正彦の死の知らせを聞いてから何も手につかない。

 

犬のモコと散歩している。
車で海を見に行く。
ジャズを部屋で聴いている。
女が刻んだサラダを馬のように食べている。

東京五輪は終わったという。
東京の感染は「制御不能」なのだという。

「医療 機能不全」
「自分で身を守る段階」
という見出しが新聞に立っている。

遠い昔のことのように思えるが現在の日本のことなのだ。

この日本という泥舟の船頭たちは操縦を誤まっているように思える。
敗戦を終戦と言い繕い高度成長という神話に酔い失われた20年を通過して時間は随分と過ぎてしまった。
この泥舟の船頭たちはもう一度、新自由主義グローバリズムの先に高度成長の夢をオリンピックでみようとしたのだったろう。

東日本大震災からの復興を世界に示すというビジョンは、
いつコロナに打ち勝つというビジョンに取り替えられたのだったか。

あきれて物も言えない。

夕方、クルマのプレーヤーに宇多田ヒカルをコピーした。
女とクルマで港町を流した。
宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」を繰り返し聴いてクルマを流した。

曇り空の下に灰色の海は広がっていた。
海は空の色を映す。
雲の隙間から光が海面に射していた。
海は河口からの濁流でまだらに茶色く濁っていた。

「誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いているよ」* と宇多田ヒカルは歌っていた。
「もう一度、あなたを抱きしめたい、できるだけ、そっと」* と、

歌っていた。

 

そこに小さな光が見えた。
呆れてものも言えないが言わないわけにはいかない。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 宇多田ヒカル「誰かの願いが叶うころ」から引用させていただきました

 

 

 

あきれて物も言えない 25

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

東京五輪が開幕した。絶句した。呆れた。物が言えない。

 

ここのところ絶句している。

ほとんど、
絶句している。

あきれて物も言えない。

夕方に、
モコと散歩して近所の黒白のノラに会う。

挨拶する。

工場の倉庫のパレットの上で、
鬱陶しそうにノラはこちらを見ている。

この暑いのに暑苦しいおじさんと家犬のチビが来たわいと思っているのだろう。
この男には夕方に犬と散歩して黒白のノラと会うのがほとんど唯一の楽しみになってしまった。
地上では東京五輪がお祭り騒ぎのようだ。
TVのチャンネルを変えてもどこもオリンピックの映像が流れている。
ニュースもこの前まではコロナ映像が多かったがいまはオリンピックが主役になってしまった。

真剣な選手の皆さんに申し訳ないですが、
オリンピックをこれほどくだらないと思ったことはなかった。
オリンピックのプレゼンテーションの際にこの国の首相がマリオになった時もくだらないと思ったが、
今回の開会式の映像も途中でTVの電源を切った。

これがクールジャパンなのか。
呆れる。
物が言えない。

東日本大震災からの復興を世界に示すというビジョンは、
コロナに打ち勝つというビジョンに取り替えられたのだったか。
日本の被災地の人々の本当の姿が発信されているわけでもないし被災地の復興の現在が発信されているわけでもない。
日本はウイルスに打ち勝ってもいない。

嘘だった。
愚劣だった。
腐った意味を盛りだくさんに盛っていた。

女性蔑視発言でオリンピック組織委員会の会長を辞任した森元総理大臣を「名誉最高顧問」にするということが、
組織委員会と政府の間で水面下に進んでいるのだという。

日本はもう終わっているのだろうか?
日本の子どもたちはこの腐った政治家や大人たちをどのように見るだろうか?

体操の内村航選手が鉄棒から落下する映像とその後のインタビューの映像を朝のTVニュースで見た。
美しかった。
自分に失望しながらこの世界の地上に佇っているひとりの男がそこにいた。

そこに小さな光が見えた。

今日も、
夕方には犬のモコと散歩した。

近所の黒白のノラとあった。
ノラはこちらを鬱陶しそうに睨んだがわたし笑ってノラに挨拶した。

 

呆れてものも言えないが言わないわけにはいかない。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 

 

 

あきれて物も言えない 24

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」が届いた

 

24回目の5月には、なにを書こうとしていたのだったか?
5月の「あきれて物もいえない」を飛ばしてしまった。

“あきれて物も言えない 21 “では、わたしが毎日、詩を書くことについて、書いた。
2月だった。

“あきれて物も言えない 22 “では、モコと、女と、わたしの暮らしについて、書いた。
3月だった。

“あきれて物も言えない 23 “では、福島の原発汚染処理水の海洋放出ついて書いた。
4月だった。

書くべきことがないのはいつものことだった。
書くべきことがないということをいつもことさらに書いてきたのだった。

詩もそうだ。
はて、困ったと、いつも空を見上げて、書きはじめるのだった。

困ったなと、
あきれるところから書きはじめるのだった。

そして、
6月には、

工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」が届いた。
ボックスCD「goodman 1984-6」の工藤冬里の音楽を聴いている。

絶句した。
あきれた。

工藤冬里もあの1980年代を生きていたのだったろう。
ほとんどすべては終わっていたように思えた時代だったろう。

絶句の後に、
工藤は、
ピアノの鍵盤を叩いたのだろう。
ギターの弦を爪弾いたのだったろう。

演奏中に電話が鳴ったりしている荻窪のGoodmanという場所で仲間たちと鍵盤を叩いたのだったろう。

わたしはいま、
工藤冬里の「僕は戦車[I am a tank](20 Feb 1985)」に絶句する。

空0戦車の中でまどろんでいた
空0目覚めぬ見張りの鎧の中は血でいっぱい
空0血は戦車の内側に流れ出ていた
空0この辺り一帯は廃墟
空0ペリカンの上に空漠の測り網
空0やまあらしの上に荒漢の測り網が張り巡らされる
空0Singing’ with the harp
空0is prophesying my wars.
空0Singin’ with the harp
空0is prophesying the war. *

そして、「unknown Happiness ‘of’ the past(20 Feb 1985)」に絶句する。
そして、また、「guitar improvisation ‘86 7/3 at home」にも絶句する。

1980年代以降の資本主義は世界を平らに踏み潰していたのだったろう。
わたしもその時代を東京で生きていた。
わたしの知らなかった工藤冬里も荻窪のあたりで生きていたのだろう。
1980年代に「キャタピラー」というタイトルの詩をわたしも書いていただろう。
いま彼と彼の仲間たちの音楽を聴くと不自由の中での自由を感じることができるだろう。

工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」には、
「パラレル通信」[ GO AHEAD,MAKE MY DAY 1987 5.1 ]という当時の冊子の複写が付録として付いてきていた。
そこには1985年当時の工藤冬里のテキストが資料として掲載されていた。

「私達はコード進行をその生み出す種々の実によって選びとり、更生することができます。決してそこから別の音楽様式が生まれる訳ではありませんが、私達はそのことによって音楽に対する平衡のとれた態度を示すことができます。高さも深さも私達にとって意味のないものになろうとしています。深い精神性なるものも他愛のない子供の歌も同じ平面で考えることができるようになります。それは良い果実を生みだすこと、・・・・・・・・・・何であれそうしたものを思いつづけていることです。」

いま、新聞には疫病や、ワクチンや、非常事態宣言や、宣言の解除や、オリンピックや、オリンピックにおける政府と専門家との意見や、対立や、河合元法相の実刑判決や、原発汚染処理水の海洋放出や、ミャンマーのクーデターと市民への弾圧、香港リンゴ日報幹部の逮捕、イランの保守強硬派新大統領の誕生などなどの記事が掲載されています。

混乱した世界のなかで人々はどこに向かっているのでしょうか?

ここのところ工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」の音楽を聴きつづけていました。
工藤冬里の歌もこの世界の中にあります。

「それは良い果実を生みだすこと、・・・・・・・・・・何であれそうしたものを思いつづけていることです。」

私達はあの時代の中で発声された工藤冬里の苦渋に満ちた”肯定的な声”を聴くことができます。
そこに小さな光が見えています。

 

夕方の西の山は灰色の雲の下に青く佇んでいます。
呆れてものも言えないが、言わないわけにはいかないのです。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 工藤冬里の”僕は戦車[I am a tank](20 Feb 1985)”より引用しました。

 

 

 

あきれて物も言えない 23

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

処理水 海洋放出へ

 

毎月、19日は義母の月命日で墓参している。
女と車で霊園に向かい墓前に花を活け線香を立てる。

紫の煙が香る。

もう随分、たくさんのヒトたちを失った。
墓前では、もうちょっと待っていてね、もうすぐそっちに行くからね、と、祈る。

父も、母も、兄も、義兄も、義母も、友も、あのコも、詩人のあの人もあっちにいってしまった。

ともに生きた人たち、好きだった人たち、りっぱに生きていた人たちが骨になり煙となった。
しかし、わたしの中で彼らは生きていて、たまには会話する。

そして、今を生きている、遠い、家族たち、あのヒト、あの詩人、友たちの無事を祈っている。
ソファーで犬の首を撫でている。
もう、随分、釣りには行っていない。

小舟も売ってしまった。

 

さて、
2021年4月14日、新聞朝刊一面に「処理水 海洋放出へ」* の見出しを見た。

東京電力福島第一原発の処理水を海洋放出する処分方針を政府が決定したというのだ。
約一千基を超えるタンクに保管された原発汚染処理水、約125万トン、東京ドーム一杯分を海洋に放出するのだという。

確か、昨年の10月17日の朝日新聞の朝刊一面にも「処理水 海洋放出へ調整」と見出しがあった。
副題に「関係閣僚会議で月内にも決定」とあった。
それが、”月内”(2020年10月)には決定されずに、菅義偉総理が訪米しバイデン大統領と会談をする直前に決定された。
アメリカ大統領の承認を貰うためだろう。

海洋放出される原発汚染水は多核種除去装置(ALPS)で処理され、原発汚染物質はALPSで濾過され基準値以下まで下げられるが、ALPSで濾過できない放射性物質トリチウムは事故前の福島第一原発の放出の上限、年間22兆ベクレルを下回る水準にして30年以上をかけて放出するのだという。トリチウムの半減期は12.3年。トリチウムのベータ線は多様な海洋生物のDNAにダメージを与えるかもしれない。
海洋生物のDNAへのダメージは長い時間を掛けてわれわれやわれわれの子供たちに帰ってくるかもしれない。

処理水を海洋放出する前に、保管方法や処理方法の新たな開発、改善をこの国はできないのだろうか?

政府は「風評被害、適切に対応」* するという。
福島の漁民たちが震災、原発事故後に試験操業を開始し今年に終了させた10年の努力が無駄になるのだろうか。
海は世界に繋がっている。
大型の魚たちは世界の海を回遊している。
福島の漁民や日本各地の漁民、日本国民、近隣諸国や世界の人々はこの日本政府の決定に反発するだろう。

海に囲まれた島国の日本、
海の恵みを貰ってきたこの国の人々、
雨が、たくさん降り、雪もたくさん積もり、雨や雪は川となり、海に注ぐ日本という島国だ。
山々には豊かに樹木が繁り、雨が山々の養分を海に届けてきた。
何万年も続いた自然の豊かな循環なのだ。

戦後、原発は、政治家や官僚が作った「国策」によって、アメリカから移植されたものだろう。
わたしたちはTVで鉄腕アトムを観ながら育ったのだった。
安全なエネルギーと言われた原子力エネルギーがこれほどに日本国民を不幸にしてしまったことが残念でならない。
政治家と官僚に憤りをおぼえる。
敗戦後の政治の構図が、今、新たに明らかになっている。
原発も、防衛も、経済も、オリンピックも、コロナも、農民も、漁民も、サラリーマンも、人々は、この構図の中にあった。

魚は人と繋がっています。
魚たちはわたしたちと水で繋がっています。
魚たちはわたしたちの祖先であり、母であり父であり兄であり義兄であり義母であり友だちであり、わたしたち自身です。

トリチウムの半減期は12.3年だそうです。
どうか、海に、トリチウムを放出しないでください。
約一千基を超えるタンクに保管された原発汚染処理水のトリチウムは60年経てば半減を5回繰り返し現在の32分の1(3.125%)になるのです。

そこに小さな光が見えています。

 

この島国の日本から、この世界にとって取り返しのつかない事が起こりつつあるように思えます。
呆れてものも言えないが、言わないわけにはいかない。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 朝日新聞 2021年4月14日朝刊より引用しました。

 

 

 

あきれて物も言えない 22

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

モコという犬と、女と、暮らしている

 

朝になった。
机の前の窓の障子を開けると雨が降っていた。

ガラスには雨粒があり西の山は雨雲に覆われて灰白色の雲の中にいるのだろう。
時々、強く雨は降ったりしている。

朝の散歩には行けないだろう。
モコと女は、まだ眠っている。

モコというのは飼っているわたしの犬のことです。

ペットショップから連れて帰ってきたんです。
モコは、ミニュチュア・ダックスフンドの赤ちゃんでした。
ペットショップの低い柵の中で他の兄妹たちが元気に遊んでいる柵の奥の隅で、
ちいさく震えていたのです。

その震えているちいさな子が可愛くて連れて帰ってきたのでした。

顔がクリーム色のハート形で、その中に大きな黒い瞳ふたつと黒い鼻がありました。
ハート顔の外側は暗い茶色で頭と耳がついていました。
その暗い茶色が背中まで続いてお腹がクリーム色の熊の赤ちゃんでした。
熊の赤ちゃんの丸い顔は一年も経たないで鼻がすらりと伸びて大きな瞳の少女になってしまいました。

モコは小さいので夏の暑い日や冬の寒い日には散歩が苦手です。
体が小さくて足が短いので夏の地面やアスファルトの熱さや冬の寒さに弱いのです。
でも車の助手席に乗ってドライブするのは大好きです。

ペットショップからモコを連れ帰ってもう12年が過ぎました。
モコの仕草や吠え方でモコの言うことはほとんど理解できるようになりました。
モコもわたしが外出することを日本語で伝えると理解して仏壇の前の座布団に行って眠るようになりました。
仏壇は女の母の仏壇です。
義母が亡くなった時、義母の枕元にいてモコは義母の顔を舐めていました。
犬が舐めるというのは愛の行為なのです。

小さくてか弱いモコも少女になり、もう12年が過ぎて、おばさんになってしまいました。
でもわたしには、いまも、可愛い”少女”のように思えてしまうのです。

少女のように可愛い”おばさん”というのも、この世にいると思います。
できれば、そのような”おばさん”に会いたいですね。

 
昨日の夜は、深夜まで女が録画した相撲中継をソファーで見ていました。
モコは女の横で添い寝していました。
女がベッドに眠るときモコも連れていくのですがモコは寝てくれないのです。

わたしのたてる微かな物音を聞いてモコはベッドに来てと吠えるのです。
わたしは本の部屋で本を読んでいましたが、読書は中断してベッドのモコに添い寝しました。
そしてそのまま朝まで眠ってしまいました。

モコの体はふあふあで、あたたかいのです。
ふあふあのモコといると幸せになるのです。

 
あの地震が起こって、あの光景を見て、10年が経ちました。

まだまだ、大切な人や大切なものを失い避難されている方たちや、心や体に傷を抱えた方たちがいるでしょう。
福島の原発の処理はまだ終わらないでしょう。
オリンピック・パラリンピックは海外からの観戦者の入国を断念したそうです。
しかし震災からの復興を世界に示すという茶番は終わらないでしょう。
疫病の蔓延もまだ終わっていないです。
世界で紛争はまだ続いています。

流浪する人びとがいます。

たくさんの流浪する人びとがいます。
私たちもその一人です。
モコのふあふあのあたたかい体を抱いて、眠って、朝になりました。
流浪する私たちは私たち自身の底を破って、流浪する人びとと底の底で繋がるほかありません。

そこに小さな光が見えています。

 

呆れてものが言えません。
ほとんど言葉がありません。

 
 

作画解説 さとう三千魚