利己的な遺伝子

 

一条美由紀

 
 


6畳の箱に住む住人
ゲームの山は優しく、
震える声は希望なのか
怒号ばかりの画面に、自分は
何者かに変わっていく。
怖さの中に
全てを簡単に単純に
ただ過ごしていく。

 


理想を追うほどに人は追い詰められる
最初は他人を否定し、
次に自分を否定して闇に閉じ込められる
だが、追いかけてきた先にドアはいくつか開かれている

 


半透明の子供が通り過ぎる
背中に落ちた枯れ葉が重い
石畳は過去の匂いを放つ

 

 

 

あきれて物も言えない 30

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 

窓辺に、二羽の雀がくる

 

わたしの本のある部屋の窓の外には手摺りがあり、
そこに板を渡して固定してその上にチーズケーキの入っていた白い陶器の入れ物を置き、粟(あわ)、稗(ひえ)、黍(きび)などの剥き実を入れてあげて障子を閉めると雀がやってくる。

 

雀はいつも二羽で、
兄妹なのか恋人なのか夫婦か、わからない。

窓の内側には障子があるから、
二羽は、障子に影絵としてあらわれる。

まだ警戒している影絵は餌のそばにきてしばらくは動かないでじっとしている。
それから、怖がりでない方から餌に近づいて陶器からこぼれた餌を啄ばみそれから陶器の中に首を突っ込んで餌を頬張っている。

音を立てると逃げてしまうから、
わたしは障子のすぐこちらでじっと影絵のふたりの様子を見ている。

そこには、
ほんわりとした陽だまりがありふたりの生きるよろこびがあるように思われて、うれしくなる。

 

今日は午後から「ユアンドアイの会」の詩人たちとzoomで詩の合評会をしていた。
その間もふたりは窓辺でちょこちょこと動きまわっていた。

わたしは「犬儒派の牧歌」という浜風文庫に公開している詩で皆さんの講評をいただいた。
辻 和人さんが「さとうさんの詩は、ミニマルアートみたいに抒情をブツ切りにする詩ですね。」と言ってくれた。

うれしくなってしまった。

そうか、
わたしの詩は「抒情をブツ切りにする」のか。

「抒情をブツ切りにする」と残るのは骨片のようなものだろう。

骨片を拾う。

 

桑原正彦が4月に亡くなった。

そのことをギャラリストの小山登美夫さんから教えていただいた。
わたしはそれから身動きができなくなってしまった。
なにも、手がつかなかった。
わたしの詩集に桑原正彦の絵を掲載させてもらっている。
詩集には桑原の絵をずっと使わせてもらおうと思っていたから桑原正彦がこの世にいなくなってしまったということは受け入れられなかった。

桑原正彦が、
わたしの母のために絵を描いてくれたことがあった。
わたしの母はALSという筋肉が動かなくなる病気でわたしの姉の家で闘病していたのだった。
その母のために桑原はわたしが渡した母の写真を見て絵を描いてくれた。
わたしの神田の事務所に桑原正彦が絵を持ってきてくれた。
桑原はアトリエからほとんど外に出ないし誰にも会わないと知っていた。
その桑原がわたしの神田の事務所の応接間にきてくれた。
いまはもういない母の部屋の漆喰の壁にその絵はいまも掛かっていてわたしの姉の宝物となっている。

 

ここのところわたしはわたしを支えてくれた人たちを失っている。
中村さん、渡辺さん、父、母、義兄、兄、桑原正彦を失ってしまった。
最近では、家人や、犬のモコや、浜辺や、磯ヒヨドリ、西の山、羽黒蜻蛉や金木犀、姫林檎の木、雀のふたり、それと荒井くんや市原さんなどがわたしの友だちとなってくれている。
「浜風文庫」に寄稿してくれる作家たちと「ユアンドアイ」の詩人たちもわたしには大切だ。
詩や写真や絵や音楽を大切なものとして生の根底で共有できる人たちだ。
経済的なメリットからほど遠いが互いの生を理解して尊重できる人たちだからだ。

 

ここのところ新聞の一面には「国交省、自ら統計書き換え」* 、「赤木さん自死 国が賠償認める」* 、「森友改ざん 遺族側、幕引き批判」* 、「三菱電機製 重大な不具合 非常用発電機 1200台改修へ」* 、「アベノマスク年度内廃棄」* 、「日立系、車部品検査で不正 架空記載や書き換え」* などなど、この国の官民が不正を行っていることが露見しているようだ。

新聞記事に現れるのはごく一部なのだろう。
コストや人を極限まで削り下落させ成り上がる。
世界の経済は自己利益を優先することで回っているのだ。
格差が金を生む。
日本だけでなく世界の人々を自己利益の渦に巻き込みながらこれからも進んで行くだろう。
近代以降の資本主義の終着駅を過ぎ去るのだ。

 

窓辺には、二羽の雀がくる。

そこには、
ほんわりとした陽だまりがあり影絵のふたりの生きるよろこびがあるように思われて、わたしはふふんとうれしくなる。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知ってる。
呆れてものも言えないのですが胸のなかに沈んでいる思いもあり言わないわけにはいかないことも確かにあるのだとわたしには思えてきました。

良い年を迎えましょう。

 

作画解説 さとう三千魚

 

* 朝日新聞、2021年12月16日、21日、22日、23日、一面見出しより引用しました。

 

 

 

君の脚音を集めて飲んだ

 

一条美由紀

 
 


美しい言葉の奥に潜む自己満足のあざとさに
むしろ醜いままの方がマシだと思う

 


乗客は残り少ない
何処かへ行かねば、、
目的は必要なのだ
たとえ嘘でも

 


日は沈み影絵のなかに車は滑る
宇宙のことわりの中に
答えのない問いかけは増えてゆく

 

 

 

あきれて物も言えない 29

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

ひかりだね、と言った

 

高橋悠治のサティピアノ曲集「諧謔の時代より」のCD * を聴いて、
詩を書きはじめている。

詩をふたつ、
曲名からタイトルを引用して書いて浜風文庫に公開してみた。

「内なる声」
「犬儒派の牧歌」

高橋悠治のサティのピアノ曲集はソクラテスと共に若い時から聴いてきた。
“ピアノ曲集 01″ は1976年に、”ピアノ曲集 02” は1979年に日本コロムビアの第一スタジオで録音されている。

若い時から高橋悠治の弾くサティにもケージにも惹かれてきた。
理由がわからないが惹かれるということは恋愛みたいなものかもしれない。
恋愛はいつか壊れることもあるだろうけれど高橋悠治の弾くサティもケージも壊れることはなかった。
だから、サティもケージも恋愛とは比べられないだろう。

 

朝になった。
今朝も朝になった。

言語矛盾だが、
今朝も朝になった、そう思える。

窓を開けて西の山を見ている。
灰色の空の下に青緑の西の山が大きく見える。
今朝も西の山はいる。

佇んで、
いる。

詩の言葉もそのようにして佇むだろう。

人と人のコミュニケーションの道具のように言葉は使われることがあり「コミュニケーション力」という言葉を聞くことがあるが、
詩の言葉はその対極にあるものかもしれない。
詩の言葉は言葉の伝達が終わった後の”絶句”からはじまるようにわたしには思えます。
言葉が絶句して佇むところに詩は生まれるように思えます。

 

いつだったか、
新丸子の夜の東急ストアの明るい光の中でわたし電話を受けました。

画家の桑原正彦からの電話でした。
近況を話しているうちに桑原正彦は自身の絵について「ひかりだね」と言ったのでした。
わたしも「ああ、そうね」と言ったのだと思います。
そのことがいまでも何度も思い出されます。

その言葉に桑原正彦という存在が佇んでいました。
その言葉に桑原正彦が佇んでいるといまのわたしにははっきりと思えます。

 

そして桑原正彦は遠く逝ってしまいました。
わたしは桑原正彦の絵をいくつか持っています。
いまはリビングに3つ、この部屋に一つ、桑原正彦の絵を掛けています。
押入れにもいくつかの桑原正彦の絵がしまってあります。

いま桑原正彦の絵がわたしとともにあることがわたしには希望となっています。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知っています。
呆れてものも言えないのですが胸のなかに沈んでいる思いもありますし言わないわけにはいかないことも確かにあるのだとわたしには思えてきました。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代より」

 

 

 

あきれて物も言えない 28

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

Cheep Imitation

 

ここのところ、
高橋アキがピアノを弾いているCDで「Cheep Imitation」* を聴いています。

「Cheep Imitation」とは、
“安っぽい模造品”という意味だそうです。

昨夜も聴きました。
いまも聴いています。

 

今日は、
日曜日、

よく晴れた秋日和です。

音楽のおかげか、
すこししあわせな気持ちです。

我が家の金木犀に黄色い花が咲きはじめました。
清々しい香りの花です。

朝には、
道端の陽だまりにオキザリスのピンクの花たちが風に揺れていました。

もう午後ですが、
まだ陽はあたたかく窓辺から射し込みます。

静かです。
小鳥の声も聴こえてきます。

「Cheep Imitation」は、ジョン・ケージによって作曲された曲です。

高橋アキがピアノを弾いている「Cheep Imitation」は、
高橋アキのピアノソロで「Cheep Imitation」が弾かれて、
その後にモートン・フェルドマンが編曲し高橋アキに捧げられたピアノとフルートとグロッケンシュピール(鉄琴)のための「Cheep Imitation」の演奏があります。

「Cheep Imitation」は、
サティの「ソクラテス」を題材としてジョン・ケージによって作曲されました。

サティの「ソクラテス」をわたしは若い頃から、聴いてきました。
デルヴォー指揮でパリ管弦楽団、ソプラノのマディ・メスプレがパイドン役として歌っていました。

「Cheep Imitation」はケージがサティに捧げた音楽です。
その曲をモートン・フェルドマンが編曲して高橋アキに捧げたのです。

 

そこに小さな光が見えます。
そこに幸せがあるでしょう。

「Cheep Imitation」は、”この世界”へのとてもやわらかい”捧げ物”と言って良いと思います。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知っています。
呆れてものも言えないのですが言わないわけにはいかないとわたし思えてきました。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 高橋アキのCD「高橋アキ プレイズ ケージ × フェルドマン via サティ」(カメラータ・トウキョウ)

 

 

 

ソシラヌ広場ーアンモナイトの見た夢 Ⅱ

 

南 椌椌

 
 

10月18日から青山ギャラリーハウスMAYAにて個展『ソシラヌ広場―アンモナイトの見た夢』を開催いたします。
個展に合わせて刊行の同名作品集より4点を「浜風文庫」に公開いたします。

 


 

猫とレインボー

 
猫の気持ちは わからないという人
猫の気持ちは よくわかるという人
ボクは猫だけど ボクの気持ちは
わかるようで わからない
それはどうでもいいでしょ
ボクは生まれてこのかた 猫だから

ボクのルームメイトはレインボー
なにが楽しいのか 虹の絵と歌ばかり
恋人もいないのに 恋の歌ばかり
レインボーの気持ちは よくわからない
それはどうでもいいでしょ
ボクは生まれてこのかた 猫だから

 
 


 

トンピナチョのはなし

 
農夫トンピナチョが 豊作のもろこしをロバに積み
千年伝えの 聖アルバンの森で  
ヤブに隠れて シッコロしてると
いにしえ絶滅したとされる マヤの聖獣トビハネマヤネズミが
怒り狂って トンピナチョめがけて 跳びかかってきたのだ
「聖獣のオレさまに シッコロかけるなんて このウンチョロたれが!」
「なにいうだ!シッコロかけても ウンチョロはたれてねえだ!」

  語るに落ちるとはこのこと
  てんやわんや アホらしい その後の委細は省きます

  (知りたい方には耳打ちします)

トビハネマヤネズミの正体は ウソかマコトか
組んずほぐれつ ほぐれつ組んず
聖アルバンの神々さえも 笑って見守るばかり
太陽なんか 膝をかかえて おねむの時間
もろこし積んだロバさえ トボトボ帰路につき
いつまでやるんだ トンピナチョ
「やってられねえ!」
トビハネマヤネズミは 我にかえって
聖アルバンの闇の彼方へ 消え去ったということだ

 
 


 

プラテーロの思い出

 
ヒメネスの「プラテーロとわたし」の舞台
アンダルシアのモゲールを訪ねたことがある
ポルトガルに近い ウェルバ駅からヒッチハイク
丘の上に白い宝石と 謳われた町並みがみえ
さっそく ひげたっぷりの爺さんと ロバがお出迎え

ヒメネスは快癒の日々を ここモゲールで
ロバのプラテーロとともに過ごし
詩人のことばで「プラテーロとわたし」を書いた

夢よりも 昔になってしまった
眩く光る広場から 花咲く小路を幾つも抜けて
日がな一日シエスタのような村
古い葡萄酒の酒蔵で一杯やってると
寡黙なプラテーロがウインクする

村はずれのモンテ・マヨールの丘に行った
ヒメネスとプラテーロがよく歩いた道だ
ふくろうのホーホーと啼く声を聞いた
丘をめぐって ホーホー探したが 姿は見えなかった

村の広場にもどって来ると
三角屋根の ソシラヌ移動遊園地が立っていた
塗りの剥げた さびしい回転木馬
オモチャのような観覧車が 空回りしていた

遠くから ほらホーホーという声が 聞こえてきた
そうだな もう酔うしかなかった
ホーホー ホーホー
        
 ✶ ファン・ラモン・ヒメネス作『プラテーロとわたし』理論社・初版1965年
  伊藤武好、伊藤百合子訳 理論社版の長新太の挿絵がたまらなかった。
  作品背景の写真はアンダルシアのフリヒリアナという町。

 
 


 

ハゴロモ

 
半島の舞姫がつま先あげて 肩で長短(チャンダン)
思い出したように ときめきの心躍りを
踊りましたね ありがとう
哀しみは 腰をおとして たひらかに
水の上から音もなく 舞いたつ
羽衣は 白いチョゴリのことだった
鹿の角生やした姉さんが
涙こらえて 頬染めている
どこから来たのか オアシスの仔象
長い鼻 ふりふり ダイジョブ ダイジョブ

✶ 長短(チャンダン) 韓国舞踊特有の調子のとり方。原マスミは「ハゴロモ」という曲で 「チョゴリよ チョゴリ わたしのハゴロモ」と歌っている。イ・チャンドンの映画「オアシス」には、壁のポスターの仔象が、ソウルの安アパートの部屋に出現する美しいシーンがある。

 
 

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2021年10/18(月)〜10/30(土)

南 椌椌 個展「ソシラヌ広場―アンモナイトの見た夢」

開廊時間:11:30am〜7:00pm(日曜日休廊 土曜日5:00pm迄)

〒107-0061 東京都港区北青山2-10-26
(地下鉄外苑前駅徒歩5分)
tel : 03-3402-9849
fax : 03-3423-8622


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