猫のいたずらに思う

 

ヒヨコブタ

 
 

猫が落としたその詩集は
若き日講演会のあとにサインをしてもらった懐かしいものだった
そのときのことを緊張のあまりわたしは覚えておらず
付き添ってくれた友が
後々今まで笑って話してくれる
ペンは友のものだったこと
筆圧が強いのですねと言われ
間髪を入れずにはいと答えたこと
それらのやりとりすべてが
懐かしく愛おしい時間だ

こころしずみがちであるいまも
そのことを思うと
くすりとするわたしがいる
確かに
あの時間は存在したのに
遠く、友とわたしだけの作り話のように

そのひとは世を去り
たくさんのことばを遺した
わたしのなかには
穏やかに微笑むそのひとが
いつもいるような気がする

猫はよくわたしにとってかけがえのないものに
いたずらをする
けれども
このいたずらは
すこし苦くて
ほんのり甘いような日々を連れてきた

あの頃が総て愉しく充実していたはずもない
苦しくてもがいていたのはいまと同じだ

ただそこに若さがあり
友からペンを奪い取るような
情熱もあった

あの大教室で
最後の三人になって
交わしたことばは
わたしの明日をいつも照らす
いつも、これからもおそらくは
変わらずにあたたかいだろう

 

 

 

桑原正彦のドローイング “はなとゆめ” を掛けた

 

さとう三千魚

 
 

日曜日の
午後の

海の

ひかるのを見た

浜辺の

渚の
家族たちの

遊んでいた

海は
凪いでいた

子どもたち石を投げてた
カニを捕まえた

クルマで帰った

走って
帰った

帰って居間の壁に
桑原正彦のドローイング “はなとゆめ” を掛けた

かつて

新丸子の
夜の東急ストアーで

桑原から電話をもらったことがあった

光だねと
桑原は

かすかに言った

うん
光だ

そう応えた

はなも
ゆめも

光だった

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

TORI209

 

工藤冬里

 
 

、夏至の夕暮れに

6月22日
@oshienai_0 柳瀬尚紀の名訳ですね
https://twitter.com/oshienai_0/status/1406993454786236421?s=20

https://pic.twitter.com/DQipQw6yax

6月23日
@jjjuliaaaa 新日本紀行で覚えているのは夕日の川崎の工場地帯にピンクフロイドの風のDbmとG#mのオルガンが流れるところと、倉敷の回の、池のほとりで三上寛が「ションベンだらけの湖」を歌うところです。
https://twitter.com/jjjuliaaaa/status/1407207439536070663?s=20

6月24日
陸上部だったんですごいわかる
スポーツで病むというのはドングリを自覚しないからだ
優雅な労働を体育に置き換えて
ギリシャを越えるべきなのだ
idolがエディプス複合発症を生む
僕はジョギングシューズを買えなくてそれでも是認を得ようとブラバン後の頭ノ向部落一周を課していたので右足首を壊した
https://twitter.com/franzkafkabot/status/1407801715693215745?s=20

Para todo hay un tiempo determinado; un tiempo para buscar y un tiempo para dar por perdido

曇り空、アガパンサス並に風化したアガペー
猫動画で麻痺させるゾンダーコマンド

オリンピック選手に選ばれた人は最晩年に出場出来るシステムにすれば老化と死の原因が際立って良い証言になるだろう。
同じように徳のある素晴らしい人物も、百歳以上にならないと政治家になれない法律にすれば自治の限界が明瞭になって良い結果を生むだろう。

昔泥棒日記的な生活を送っていた頃の万引きの師匠で社青同解放派の某君が霞が関とNHKを占拠して吉本隆明を呼んで首相になってもらう、というプランを語っていたが、百歳以上制が確立されたいま、そういう夢のある考え方は過ぎ去った、ということだ。

6月25日
Ellos son los que salen de la gran tribulación

2010年代が非常に神話的であったことを確認するのが20年代のいまである
00年代は今考えると前世紀よりも古かった
それは世紀末がちゃんとしてなかったことによる
19世紀末しか存在していない
ロシアは完全に何も信じていないので大幅に歴史を変えることが出来る
中国は古代をまだ信じている
日本は坩堝

どびゃあ
https://twitter.com/ParksJindai/status/1408051226474811394?s=20

はなまるで冷麺風冷かけを食べていたから土砂降りになった

メルシャンで出たグレープフルーツのシードル!?が飲みたくないのに飲まなくてはいけなくなった状態の時に飲むものとしてまあまあいける
ほかのものは何口か飲むことを想像しただけで滅入ってくるがこれにはそれがなかった
何も飲まずに寝ればいいという話ではあるが

6月26日
今日のきみ剣が少し錆びている
アキノノゲシ

スペリオールに松本大洋が原田左之助のことを漫画に仕立てたのを出している。松山の奴なんだよね。南堀端に碑がある。
一つの世代の中には過ぎ去りゆく者とまだ生きている者の二つの濃淡が交りあっている。それは出エジプトでも特攻隊でも、そして新選組でもそうだ。その機微が、よく描けている。

6月27日
土から生えるとなよなよしてもよくなる
考えてみればワカメも海底の岩から生えている
東京のアスファルトに生えた水草は水の駅の階段をたくさん歩いて腰が鍛えられている
浮草は水が床
友達はあめんぼう
あまえんぼうのトチメンボー

Hagan por los demás todo lo que les gustaría que hicieran por ustedes

私はだるい
私はだるいと言う者が
森の中で眠り
蚊に食わ
人類と地球の本来の姿
子孫はアダムの罪に何の責任もないので
贖いの知識が力を持つ条件は感謝
人類と地球の本来の姿

https://imslp.org/wiki/Category:Rzewski,_Frederic

 

 

 

#poetry #rock musician

島影 32

 

白石ちえこ

 
 


愛知県蒲郡 人魚

海水浴が苦手だった。
子どものころ、波にのまれて海のなかで宙返りした。浅いはずなのに足がつかず、深い海底に投げ出された感じがして恐ろしかった。あぶくと闇と光がごちゃまぜになった水の中で、一瞬、人魚の尾びれが見えた気がした。

 

 

 

夢素描 15

 

西島一洋

 
 

野原(草叢)

 

牛蛙が鳴いている。
断続的にあちらから、こちらから。

断続的ではあるが、そのひとつひとつの声は、長い。

低いのもあるが、時折間違えたように、高いのもある。
高いというか、突っかかったようで、
間歇泉のように、不規則だ。

おそらく、一度だけ食べたことがある。
一度だけだ。
もうニ度と食べたくないと思ったわけでは無い。
普通にうまかった。
でも、食べるときに、あの声は聴こえなかった。
心の中でも聴こえなかった。

牛蛙の姿は知っている。
捕まえたこともある。
殿様蛙の色を鈍くしたような感じで、確かにデカイ。
これを見て食欲は湧かない。

牛蛙は本当に牛が鳴いているような声を出して鳴く。
低く、大きい。
夕刻というか、日没後の薄明かりのなかで、壮絶に鳴き合う。合唱ではないが、地から盛り上がったようなうねりがある。

でも、静かだ。
確かに鳴いていてうるさいはずなのに、静寂を感じてしまうのは何故だろう。
もとより、この声は無かったのではないか。
幻聴ではないか。

幻聴だ。
幻聴だ。
正しく幻聴だ。

耳鳴りみたいなものか。
大きくあくびをしよう。
できるだけゆっくりと。

肩が痛い。
腰も痛い。
膝も痛い。

風呂に入るか。
水風呂か、湯風呂かで迷う。
面倒なので、もう一度寝よう。

とっくに、牛蛙はいなくなった。

もう一度牛蛙の夢を見よう。
草叢を歩くところから。
いや、自転車でも良い。

牛蛙はもう居なくなった。
だから、声も無くなった。

もう一度、草叢だ。
夕暮れ。
といっても太陽はすでに沈んだ。
沈んだことに気がつかなかった。

遠くの方に、かろうじて薄明かりが見える。
どんよりと暗い。

草叢は、文字通り草の塊だ。
匂いがする。
草の匂いなのか、泥の匂いなのか。

蛙の声は無くなった。

やはり、草の匂いだ。
草の匂いが音を発している。

僕は自転車でその横を通り過ぎる。
草叢は塊になって、あちらこちらに散在している。

不思議と草叢の中に突入することはない。
礫層がむきでた黄土色の坂を上がると、不意に空が見えた。

そうか、まだ、いくらかは明るいのだ。
しかも、この中途半端な明るさが、ずっと続いている。

草叢は、遠い景色だ。
蛙の声はどうしたのだろう。
とんと、聴こえぬ。

草叢はとっくに集まって密談をしている。