役者の恋

 

長谷川哲士

 
 

紙で作った靴穿かされて
車に無理矢理乗せられて
ドライヴドライヴハイスピード
紙の靴なんて牛乳パック改造よ
臭くてぬるぬる
奴は此処で降りて歩いて行けと
言い腐った深夜のウォーキング
どこかで肉を焼いてる匂いがするよ
どうやって歩けと
行く先は何処なのだ苦しみはとこしえか
破れた靴で歩いて行く
ずるずる足の裏まですぐそこだ
底が消失した靴で荊道なんざ歩けませんよ
おい何とかしろよ
噛みつき不倫で悪いか俺名役者だぞ
あなたに恋をしただけだ
会社まで辞める必要はないよ
もう何年続いたのかな
お前熟女キャバクラで働くまでになり
俺は国宝役者のままフカッとした絨毯の上
ふらり六方踏むだけよンベンベンベンベンベンベンンッ
ぅよおおおおおっ
道ならぬ恋なんて有る筈も無くなんて勘違い
意識は飛ばされ未完の渦巻き星雲に
チューッと吸い取られ
僕俺儂と出世魚の如く一人称を変容させて
挙句の果てには儂から鷲への突発変容
遠くの空越え突き抜けて高速最高速最々高速
摩擦熱摩擦熱熱いよう
発火しながら飛行する鷲
入れ物の無い意識は笑いながら鷲と合一しようと
速く速く燃える飛ぶ追い越し合うふたつ
塵芥に成っても成りたくなってもどっちゃでもいい
とにかく行く
宇宙が見える
目ん玉の風景
両手の小指のみ震えているぷるぷる

 

 

 

拝啓大統領閣下

 

須賀章雅

 
 

拝啓閣下、親愛なる大統領殿
君と私は旧くからの友達だった
まだ頬も薔薇色の若造の頃から
大学でも任地でも一緒だったね
閣下、君は覚えているかい、ドレスデンの酒場での愉快な夜を
泥酔した私に君が肩を借してくれたあの夜を
あの頃の君はお喋りで冗談好きの目立たない諜報員
だが万事すぐに覚えて決して忘れない男
やがてベルリンの壁は壊され連邦は崩壊
一時はタクシーのドライバーで糊口を凌いでいた君は
やがて長官として腕を振るい始めた
その頃から閣下、親愛なる大統領殿
君の指令のままに私は一手に汚れ仕事を引き受けてきた
それから君は副首相から首相
そうしてついに昇りつめたのだ
この大国の王様に、大統領にね
私にしたって夢をみているようだった
度々起こる反乱も命の犠牲など微塵も省みず
「厠の中でも皆殺しにする」と
流血で制圧し強さのプロパガンダで君は民衆の支持を集めてきた
密命のままに私は活動家や女性記者、政敵や新興ブルジョワ等々
あまねく殺めつくし、容赦なく獄に投じてきた
そうして閣下、親愛なる大統領殿
この度の特別な軍事作戦開始以来
またまた君からの拝命のままに
君の秘密を知りすぎた人物達を次々亡き者にしてきた
しかしである、君の裏面を知り抜いている者といえば
この旧友の私に優る者はいないだろう
最近雇った家政婦も怪しいものだ
今夜のスープは毒入りだったのかもしれぬ
どうも先ほどから息苦しいのだよ、ところで
いま君に、友人はいるのか
いま君の、浮腫んだ微笑の下の心臓はシベリヤの監獄の壁より冷たいだろう
いま君の、蒼ざめた血液は冬の凍ったモスクワ川の水より冷たいだろう
家族と愛犬以外に隙をみせない君は
「人はいつか死ぬものだ」と
狩り集めた兵士の母親達に諭したという
閣下、親愛なる大統領殿、確かに
人は皆死ぬ、時が来れば必ず死ぬ
だが死と太陽は直視できないという
君は不死の霊薬を発明させる気なのか
瓜二つのAI人形を代役にする気なのか
どんな夢も永遠に続けば地獄と化すという
そろそろ私の終りの時が近づいてきたようだ
若くして逝った妻と逢えれば幸いだが
でもそれには悪いことをやり過ぎたようだ
さようなら閣下、親愛なる大統領殿
そろそろここらでお仕舞にすることとしよう

 

 

 

 

廿楽順治

 
 

声をだしながら
背後をあるいているひとはこわい

耳だけのものが
足下にいて

聞き取れなかった声を
(うまい、うまい)
と舐めているのかもしれない

声をだしているそのひとは
つまり
遠くにいるべつの「わたし」だ

(そうか)
会話だからこわいのか

「わたし」になれなかった
うしろの生きものが

舐めるように
かかとへ話しかけてくる

 

 

 

私を抱いて

 

加藤 閑

 
 

ガリバーの船に薄氷残りけり

巣箱置く水のにほひのする森に

春雷の夜に睫毛ある卵産む

薊反るチェロ抱くやうに私を抱いて

うぐひすの奥義は知れり系図消す

鳥帰る虹の断腸くぐりぬけ

虎杖に並びて立てど吾一人

白魚は泳ぎわすれて盛られけり

末黒野に背中冷たくして泣けり

光りとは朝鮮から来る蝶のこと

 

 

 

遠吠えするようになった猫

 

原田淳子

 
 

 

どっどど
と風が唸るとき

ふあんふあん
発作のように胸が疼く

きみと丸くなり
嵐が過ぎ去るのを待つ

ふあんふあん

あれは葉が揺れているだけ

ふあんふあん

かなしみが泣いてるように聴こえるのは

ふあんふあん

わたしの哀しみのファンが回っているのだろう

わたしのふあんが漏れたのか、
きみはさいきん、遠吠えをするようになった

あおーんあおーん

猫であることを忘れたように
あおーんあおーん

わたしがみえなくなると
難破船のように部屋を彷徨う

あおーんあおーん

あいごうあいごう
애호애호

猫の認知症があるという

きみをひとり哀号の船に乗せないように
わたしはいつもきみといよう

嵐のあと
窓をあける

風を残した
隣の畑にアラセイトウが揺れている

春だよ

18かいめの春だね

もうすこしで
地めんもあたたかくなる

きみはいつまでも
陽ざしのなかにいて

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その8

「祖父佐々木小太郎伝」第8話 小話四題
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 
その一
昭和三年、世界日曜学校大会に出席し、アメリカ各地を漫遊していろいろ珍しいものを見た中で、バークレー市のカリホリニヤ大学で電子顕微鏡を見せてもらい、それを応用して写真が物を言うところも見せてもらった。すなわちトーキーで今だったら別に珍しいとも不思議とも思いはしないが、その頃日本にはまだトーキーがなく、映画はまだ活動写真と言って、動く写真だけだった。

それが物を言うのを聞いて、世の中にはまだ人間の知恵では計り知れない不思議のあることを知って、私は今まで聖書にある奇跡というものを信じることが出来なかったが、この電子の不思議を見て、マリアの懐胎も、五つのパンと二匹の魚とが五千人の空腹を満たしたことも、さては水上を歩み給いしイエス、波風をしずめたもうたイエイスなど、数々の奇跡も、必ずしもあり得ないことではないと信ずるようになった。

 
その二
それからウイルソン山上の天文台で、世界第一の直径百インチの大望遠鏡で、夜の木星を見せてもらって、今更のごとく宇宙の大なることを知り、この宇宙を創造し給いし神の力に驚き、一層敬虔の念を深うしたのである。

 
その三
帰路シアトルから加賀丸という大きな船で北回りwして帰る途中、猛烈な暴風に遭い、どの船室にも海水が侵入して、乗客一同生ける心地もなく立ち騒ぎ、食事をとった者は一人もなかった。

私はこの時ひたすら神に祈って動じなかったせいか、丹波の山奥に生まれて船に慣れず、体もあまり丈夫ではない私が、ただ一人平気で食事も常のごとく摂ったものである。私はガリラヤの海の難船で、ただ一人安らかに眠るキリストに対して多くの弟子たちが救いを求めた時、「ああ信仰薄きものよ」と憐れみ、たちどころに波風をしずめ給いしことと思い合わせ、それとは比べものにならないが、やはり、信じたから、祈ったから、弱い私があれだけ強かったのだ、と思わざるを得なかった。

 
その四
これは昭和十五年上海に行った時、ホテルから外出しての帰り道、中国人街見物をしようと思い、地図を買い、それを頼りに電車の通っている大通りから、とある横道に入った。折から夕刻で、中国人はみな軒下に集まって、にぎやかに食事をしている有様などを物珍しく眺めつつ町を歩いているうち、日も暮れかけ、雨さへえ降ってきたので引き返し、元の電車道に出て帰ろうとしたのであるが、どこをどう迷ったものか、道は見たこともない川にぶつかってしまった。

地図を見ても見当がたたず、雨はますます激しくなる。中国人が食事などをしている軒下は通れず、ズブ濡れで町をあちこっちと歩き回った。どの道を行っても川に行き当たるばかりで、電車道には出ない。ますますいらだち、ますますあわてる。尋ねようにも言葉の通じない中国人ばかりでどうにもならない。

ふと通り合わせた中国人の人力車夫に指を輪にして「金はいくらでも出すから乗せろ」という意味を身振り手振りで示して乗せてもらった。幌があるから濡れないだけでも極楽だ。こうしているうちにはなんとかなるだろう、と思っていたが、そのうち車夫がこの得体の分からぬ客を持て余したのか、「降りろ」と要求しだした。

私は財布から金をつまみ出して、「これだけやるから、もっと乗せろ」というのだが、車夫は正直に二十銭だけとって私を引きずり降ろしてしまった。私は途方に暮れて、もう歩く気もしない。

その時だった。私はやっと気づいてそこに佇み、救いを求めて一生懸命神に祈った。すると「その道を真直ぐに行け」という神のお告げを感じたので、元気を出して歩いた。
しばらく行くと兵隊らしい者に出会った。

兵隊らしい者は、途端に銃を構えて「止まれ!」と怒鳴り、誰何されたが、日本の兵隊だと分かった私が訳を話すと大いに同情して電車通りに出る道を教えてくれたので、ようやく無事にホテルに戻ることができた。

前の難船の話とともに、これは私が子供の頃から持ち続けてきた「祈れよ、さらば救われん」の実証で、私が七十年の生涯を、この恩寵の中に生きてきたことを疑わない。

 
あとがき
往年私が波多野鶴吉翁伝を書いたとき、それまであまりご交際もなかった佐々木さんからひどく褒めてもらい、深く感謝された。私はそれが丹波で初めて知己を得たような気がしてうれしかった。とともに、佐々木さんが無二の波多野鶴吉翁崇拝家であることを知った。

その後佐々木さんの丹波焼蒐集のお手伝いをしたりしているうちに、だんだん御懇意になり、時に身の上話なども伺ったのである。

最初母の眼病(「本書第一話」)の話を聞いた時、何という哀れな話だ、まるで浄瑠璃の赤坂霊現記を実話でいったようなものだ、と涙をこぼしこぼし聞いた。次に「父帰る」(本書第五話)を聞いた時、これはまた菊池寛の「父帰る」そっくりだと思い、「いつか私が暇にでもなりましたら、そんな話を私の筆でひとつ書かしていただきたいものですなあ」とあてもないことをいったのである。

その暇な時が頽齢七十になった私に回ってきたので、「ひとつ書かしてもらいますわ」ということになって、ことし晩秋の頃から年寄り二人が行ったり来たりして、書けたものをどうするというあてもなく、ポツリポツリと始めた仕事である。

佐々木さんは私より一つ年下であるが、まるで青年のごとく若々しく、記憶も至極確かであり、話もまことに卒直で書くにも書きよかった。私は今までこんな楽な書き物をしたことがなく、高血圧静養中の退屈しのぎの気まま仕事として願ってもない仕事だった、

やっている間に佐々木さんは、「これを本にして古希祝賀の記念にしたい」といわれ、佐々木さんの家で働いた人たちで結ばれている「佐生会」の人々にも相談して実現されることになり、途中から急に油が乗ってきたわけである。

ところが私の老筆はすでにカラカラにちび、それが高血圧二百の老身を労わりつつ、こたつ仕事でポツリポツリとやったのであるから、さっぱり問題にならない。あえて佐々木氏知遇の恩に酬うるに足らざるばかりでなく、「齢長ければ恥多し」を感じて、深く自ら恥ずる次第である。

 

    昭和二十八年歳晩  
                              生野の里にて 村島渚記

 
 

あとがきのあとがき

この半生記は、あとがきで村島氏が述べられているとおり、古希になった祖父が過ぎし波乱万丈の生涯を小冊子にまとめて親戚に配ったものをほとんどそのままリライトしたもので、孫の私も知らなかった行状が事細かに記されているのに驚きましたが、それ以上に明治、大正、昭和三代を駆け抜けた実業家、篤信家の波乱万丈、有為転変の軌跡が生き生きと活写されて興味深い読み物になっていると思います。

明治18(1885)年2月22日、京都府の山陰地方の小さな盆地、綾部に生まれた祖父は、その生涯の大半を養蚕教師、野心的な商人、宝生流の能楽師、経営者、そして敬虔な基督者として活動しましたが、昭和37(1962)年6月21日、大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」の言葉を最後に倒れ、あえて不遜な形容詞を使うなら、まことに恰好良く、78歳で天に召されました。

旧約聖書の「士師(しし)記」に、窮境を跳ね返して剣をもって奮戦したギデオンという立派な義士が登場しますが、この勇者の名前を冠した「国際ギデオン協会」という1899年に設立された組織があります。

わが国にも支部があって、昔からホテルや病院、刑務所などに臙脂色の表紙の英和併記の特別製聖書を寄付しているのですが、晩年の祖父は、この「ギデオン協会」のボランティア活動に熱中し、大津ホテルでの最期のスピーチもこれに因んだものでした。

全8回にわたる祖父、佐々木小太郎の半生記をお読みいただき、まことに有難うございました。

 
2024年3月20日
佐々木 眞

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その7

「祖父佐々木小太郎伝」第7話 ネクタイ製造
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

昭和三年、世界日曜学校大会が米国ロスアンジェルスで開かれた時、私は高倉平兵衛氏と共に、日本代表中に選ばれて渡米した。その時私は、日本の主要輸出品生糸の消費状況に特に注意を払って視察した。

米国滞在中、しばしば信者の家庭に泊めてもらった。どこの家庭にも男子の部屋にはネクタイ掛があって、二三十本のネクタイがかかっている。婦人の部屋には靴下掛があって、十数足の靴下がかかっているのを見た。

この需要の多いネクタイと靴下は、無論米国でも盛んに作られているが、まだまだ輸入の余地がある。なお日本の洋服着用者が年々激増しているから、日本におけるネクタイ、靴下の需要も激増するであろう。
いま日本は、大量の生糸の殆ど全部を生糸のまま輸出しているが、せめてその一部をもって、需要の多いネクタイ、靴下に成品して内外の需要に応じたら有利だろう、と考えた。

またネクタイの方は小資本でやれるから、これはひとつ自分でやってみよう。靴下の方は大資本を要するから、これは原料生糸を生産する郡是に勧めてみようと思ったのである。

さて帰国して、郡是に靴下製造を勧めてみたが、遠藤社長、片山専務は、あくまでも製糸一本鎗を主張し、テンで耳を貸さない。ただ一人取締役平野吉左衛門氏は、あの温厚な人が非常な熱意を示してこれを聞き、その後も度々意見を求められ、遂に平野氏を社長とする絹靴下製造会社が、郡是の傍系会社として昭和四年塚口に設置され、一時試練時代の苦悩はあったが、今は靴下製造がやがて製糸を抜いて、全郡是を背負って立たんとする勢いを示している。

ネクタイの方は、私がアメリカから帰ると間もなく父が死に、この時都会の生活に疲れて乞食のようになって帰ってきた弟と共同で経営することにしたのは、前節に述べた通りである。

その頃アメリカでも日本でも、網ネクタイが流行していた。これはしごく簡単な設備でやれるから、少額の自己の資本だけで大阪都島に小工場を設けて創業し、その後二、三の友人の出資を得て合資会社として若干規模を拡張し、ようやく確信を得て、昭和十年資本金二十万円の株式会社東洋ネクタイ製織所を立ち上げた。

東洋ネクタイ製織所は、本社を大阪に置き、原糸を郡是に仰ぎ、京都西陣にネクタイ織物工場を新設、加工工場を東京、大阪に設け、染織を京都の一流工場に委託した。
厳格な製品検査を実施し、織、縫を一貫するネクタイ工場として、他に譲らざる体様を整え、一意良品の輸出に勤めたのである。

また波多野鶴吉翁が、郡是を創業、経営した精神に学び、次のごとき念願を定めて、一に神の御旨に叶う工場たらしめんことを期し、賀川豊彦、本間俊平その他キリスト教界名士の教訓指導を受けつつ、われらのささやかなる営みが、主の栄光を顕わす一端たらんことを祈りつつ進んだ。

 

吾等の念願

一 イエス・キリストを当社の社主と奉載して、日々その聖旨に従い、之を忠実に行わんことを期す

二 キリストの教訓に従い、己の如くその隣を愛する精神を以て、すべてのことを為さんことを期す

三 善因善果、悪因悪果の教訓に従い、各自謙虚を以て修養し、自己品性の向上を図るため最善の努力をなさんことを期す

四 常に考え、常に学び、常に励み、しかして常に何物かを創造せんと努めることを期す
五 目的達成のため信仰を養い、終わりまで耐え忍ぶ者は救わるべし、との信念を以て前進せんことを期す

                              株式会社 東洋ネクタイ製織所

 

私は昭和四年創業の当初から、年々洋服着用者の数を調べるため、調査員を四条大宮の京阪食堂の二階に陣取らせ、下の道路を行く洋装者を数えさせた。

最初の昭和四年は一時間に男子洋装者は三人くらい、女子は勘定にかからんほど少なかったが、三年経つと二倍に増え、その後の増加はまた著しいものだった。そんなことから考えて、工場をだんだん拡張していった。

ところが昭和十年に株式会社に改めてから、生産も大いに増加し、どうしても有力なデパートに売り込まなくては、製品の捌け口が足りないことになったので、その売り込みを始めた。

ところが、原糸から染め、織り、柄、加工のすべてに最善を期し、どこの製品と比べても遜色がなく、しかも値段は格外に安くしてあるのに、どこのデパートも全然相手にしてくれない。

本間俊平先生が、大丸重役の信者を通じて、一度買ってもらったが、あとが続かない。
賀川豊彦先生にも見本を持って頂いて、あちこち運動してもらったが、これもダメだった。

どうも不思議だと思って、いろいろ探ってみると、これはデパートの仕入れ係につかませたり、ご馳走したりして十分ご機嫌を取り結ばなければ、いかに良い品を安くしても、見向いてもくれないものだ、ということが分かり、弟ははやくそれをやろうといってあせるのであるが、いやしくも社主にキリストを戴いている私の会社で、そんな真似はできない。

ちょうどその頃、阪急百貨店が開業早々だったので、私はひとつ天下の小林一三さんにぶつかって、何とかして阪急に売り込もうと、一日阪急に小林社長を訪ね、見本を見せて取引を懇請した。

小林さんは、係の者にもそれを見せ、一応製品の優秀性は認めてくれたのであるが、値段があまりにも安いのを不審がり、しきりに小首を傾けるのである。

そこで私は、それは私の会社のは、他社のごとく仕入れ係への高い運動費を含まないだけ安いのだ、ということを、社主キリストの精神から説いて、大いに小林さんをけむに巻いたのである。

小林さんは、「よく研究して返事をする」ということだったが、私は確かな手ごたえがあったと感じた。

果たして数日すると、小林さんがただ一人自動車で「あなたの会社を探すのに一時間もかかった」と言いながら来訪され、次のような話をされた。

「いかにもあなたの言われる通り、開店間もない私の店の仕入れ係も、ワイロを取っていた。そこで後来のみせしめに、その仕入れ係三人をかわいそうだが解雇した。今後私の店は、あなたの会社のネクタイを中心に売ることにするから、せいぜい勉強して入れて下さい」と、まことに小林さんらしいパリッとしたご挨拶である。

それから阪急との間に、誠意を尽くした取引が始まった。
それはよいのだが、私は小林さんに首を切られた仕入れ係が気の毒でたまらん。

「その三人を私の会社の売り込み係に採用したい」といって小林さんに頼むと、就職難の時代ではあるし、大喜びで来てくれた。
二人は慶応出、もう一人は神戸商大出の優秀な青年で、よく働いてくれた。

「阪急のネクタイは安くて品が良い」という評判が立って、飛ぶように売れ、たちまち他店の売れ行きに響いたので、早くも大丸が二度目の注文を寄越したのを皮切りに、高島屋、三越、十合(そごう)、丸物に入れ、東京では、綾部出身の元三越重役松田正臣氏の斡旋で三越に入れ、続いて松坂屋、伊勢丹、白木屋(後の東急)など、その他岡山、広島の大百貨店とも取引が始まった。

多くはその店の株も持たされて、親善関係を結び、製品はどんどん売れ、我が社は繁盛したので、進んで輸出を計画し、横浜、神戸で外商目当ての見本市を開き、上海の西田操商会を支店同様にして売り込んだが、これは上海で米国製品に化けて売られたので、あまり名誉なことではなかった。

ネクタイの生命は、柄にあった。これで他社にヒケをとってはならじ、と京都高等工芸出の意匠図案係三名に、欧米の流行を参考して研究工夫させた。

たまたま郡是に、スンプ*という顕微鏡のプレパラート同様のものがあり、極めて簡単、即座に作れるものが発明されたのを応用して、動植物の部分を拡大して検べてみると、さすがに神の巧みは人間の工夫に勝り、千差万別の意匠が得られて製品の柄、模様に一新機軸を開くなど、ネクタイ製造に独特の地位を占めた。

このように我が社は、戦前の日本産業大飛躍時代に小粒ながらも一役を買ったのであるが、時代はやがて日華事変となり、それが太平洋戦争に進む頃には、洋服も背広も廃れて、国民服に取って代わられ、ネクタイは贅沢品として、さっぱり売れなくなってしまった。

あまつさえ昭和18年には強制疎開で工場はつぶされ、機械は金属回収で取り上げられてしまったので、会社は解散のやむなきに至った。

戦後になって復興させたが、今度は思い切って趣を変え、家内工業の小工場十余箇所に織機数十台を分置し、別に加工工場を置いて、兄弟二人だけの当初発足の昔に還った。

弟の死後は、長男がその後を継いで今日に及び、戦前ほどの華やかさはないが、まず以て堅実な経営を続けている。

 

*スンプとはSuzuki’s Universal Micro-Printingの頭文字をとったもの。郡是の鈴木純一が発明したプレパラート作製の一方法で、物体の表面の観察に用いられる。適当な溶剤で表面を柔らかくしたセルロイド板に被検物を圧着し,乾燥後これを取り除く。セルロイド板上には被検物の表面構造が転写されて残るという仕組みである。