くり返されるオレンジという出来事 5

 

芦田みゆき

 
 

犬は球体を吐き出す。

夕暮れだった。
いや、空は重たい発色だが、それは昼下がりなのかも知れない。
ともかく、犬は球体を吐き出し、よだれを垂らし、こちらをじっと見ている。
吐き出された球体が少し動いた。動いた、ように、見えた。
次の瞬間、
犬は鎖を引きちぎり暴走する。
スクリーンから犬ははみ出し、
もう見ることができない。
雨が降りはじめる。
球体は身もだえるかのようにもぞもぞと揺れて、転がり始める。初めはゆっくり。次第に、次第に速く、速く、速く、犬を追うかのように速く。

 

 

 

 

 

 

 

 

西壁の植物

 

芦田みゆき

 
 

 

草の記憶による再生は、私の接触によっても消えることはなかった。私は草をいっぱい抱えこんで向こう岸へむかう。草は匂いを放つことなく、一様にうなだれている。一歩、踏みだした私の足くびを冷たいものが掴まえる。私は振りかえる。何もみえない。瞬きをする。何もみえない。正確にいうと、私の掴まれた足くびの接触部分を除いて、全てが消えた。私ははじめから草など抱いてはいない。そもそも、私自身、発生していない。一面に草が茂っている。その上を靄が立ちこめている。

 

『ミドリとハエの憂鬱(メランコリア)』/思潮社2002年より

 

 

 

TERRACE

 

芦田みゆき

 
 

 

 

突然、そしてゆっくりと、目を、見開く。
ここは、どこなのだろう。遠くにミントグリーンの寺院が見える。
窓から傾れこむ騒音。生温い風。
私の背から、細い糸を引いて流れ出すものがある。
「お願いだ、放ってくれ」
空気中に散るセピア。
「吐かせてくれ、吐かせてくれ」

テーブルに置かれたコーヒーカップが、小刻みに震えている。
見ると、カップに残されたコーヒーの表面も、隣に置かれた、グラスに注がれた水も、同じように震えている。
それは、私の身体の一部が、テーブルに触れていることから起きているのだ。音。傾れこむ騒音が、ものすごい速度で空気を伝わり、私の皮フを震わせている。

ラヂオの音。モノラルの音が、ひとつひとつカタチを作っては、床に零れ落ちていく。
ネイプレスイエローのタイルに、血が混じる。
流れ、過ぎていく自動車の音。目の前で、煙草の灰が、崩れ落ちる。

 

(From notes of the 1980s.)

 

 

 

くり返されるオレンジという出来事 4

 

芦田みゆき

 
 

11月17日

また、ハエが増えはじめる。

あたしは床にしゃがみこんで、オレンジを産んでいる。
つるん、つるんと、つややかな実が、黒いカーペットに産みおとされていく。
ドアをたたく音。
「誰? 近寄らないで!」
産みおとされたオレンジは、全部で六個。
あたしはそれを拾いあげ、よく冷えた水槽に浮かべた。
カチャッ、鍵のあく音。
けれど、誰も入ってはこない。
「あぁ、お腹がすいた」
冷蔵庫をあける。二〇個のオレンジがキチンと並んでいる。
牛乳ビンを取ってきてごくごくと飲んだ。
そして、ゆっくりとベッドに横たわる。

 
乳房が張っている。
わけもなく涙があふれてくる。
ハエの音。
ハエの音。
まぶたを閉じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

くり返されるオレンジという出来事 3

 

芦田みゆき

 
 

11月17日

私は目撃した。
少女は老人と手を繋ぎ、路地裏に敷かれたボロボロの布団にくるまって死んでいた。驚いた私が瞬きをする間に、少女の死体は消えた。
老人は上半身を起こして、手のひらにのせた乾いた種を数えている。それから私をにらみつけた。私はうつむき、大急ぎで立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

くり返されるオレンジという出来事 2

 

芦田みゆき

 
 

「うまくむけないよ」

 

Qはオレンジに突き立てた爪を、ゆっくりとはずす。

 

手のひらを伝った果汁は、手首から肘へと流れていく。
Qはまだ固いオレンジの表皮に唇をつける。

 

雨がもっと降ればいい。

 

固く閉めきった湿度の高い部屋に、オレンジの香りが充満し、あたしは息苦しい。
もっともっと、あたしの内部を洗い流すように、降りつづけばいいのに。

 

あたしはQから乱暴にオレンジを奪い取る。
破れた表皮から溢れだすオレンジを舌で吸い上げ、おもいきり囓りついた。

 

内部が露出する。
あたしの乳房がオレンジの水玉に染まった。

 

 

 

くり返されるオレンジという出来事 1

 

芦田みゆき

 
 

一匹の犬だ。

その日、ホームセンターの駐車場で、犬はじっとこちらをにらみつけている。
街灯にしっかりと繋がれているが、今にもこっちへ駆けだしてきそうだ。よく
見ると、何やら口に銜えている。遠くからだと人形の頭のようにも見えたもの
で、ちょっとぎょっとして近寄ってみた。

口に銜えていたのは、一個のオレンジだ。歯が深くまで刺さり、果汁がだらし
なくしたたっている。食べているという感じでもなく、犬は、ただ、オレンジ
を銜えたまま、じっと遠くを視ている。

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タナカさん

 

芦田みゆき

 
 

「みゆきちゃん!」と呼ばれた気がして振り返ると、夜の道路の向こう側の、更に工事現場の向こう側から、腰の曲がったおじいちゃんが一生懸命呼んでいる。カメラを撮るジェスチャーをし、ぐるっと回っておいで!という仕草をする。どうしようかと迷ったのだけど、気になり、ぐるっと回って会いに行った。おじいちゃんは嬉しそうに何か喋っているが、何を言っているのか、所々しかわからない。「ホームレスみたいなもんだ」と言っているが、臭わないし、髪も髭も整っていて、綺麗な歯をしている。〈区役所の人〉とか、〈御苑〉とか、〈木〉とか、〈倒れた〉とか〈倒れない〉とか、〈仕事が出来ると追い出される〉とか。とにかく体じゅうで何かを伝えている。写真を撮ろうとすると、ちょっと構える。そしてまた話し出す。「ねぇちゃん」と呼ばれて、あぁ、みゆきちゃんではなく、ねぇちゃんだったんだ、とわかった。
 私はここにあった、柵に囲まれた植物に会いに来た。それらはひとつもなくなっていた。代わりにおじいちゃんがいた。私はそのことを伝えた。
 夜遅いからもう帰るよ、と手を振ると、無理に追う様子もなく、「名前はタナカ」と名乗った。私はみゆきと名乗った。どこの生まれ?と聞くと、「秋田」と答えた。風邪引かないでね、バイバイ!と手を振ると、おじいちゃんは磁石で止められているみたいに、その場から動かず、ずっと私を見ていた。バイバイ!おじいちゃん!

大通りに出ると、突然涙が溢れてきた。もういない父を思い出した。性格も見かけも全然違うけれど、仲が良かった頃の父と、にくんでいた頃の父がダブり、ゆらゆらと浮かんでは消えていった。