子宮更年期の憂い

 

正山千夏

 
 

あいつが来ない
今までずっと来ていたやつが
時々来なくなり
やがてはまったく来なくなる
悲しくはないけれど
どこか少し怖いような
夜の砂漠を月夜に彷徨うような
月の砂漠のラクダたちは
それでも歩いてゆくのです

運ばれていく私の子宮は
しずかに閉じていくのか
なにを失いなにを得るのか
いやあらかじめ決められたことなのか
ホルモンだかフェロモンだか
自律神経失調症コンチクショー
微細な物質クスリくれ命の母
実家の母 父の母
それなり歳を取りました

日々の波乗りは緩慢に
けれどカラダは効率よく
駆使していたいsurf of life
我慢がつらい思考まとまらない
急げないのは走れないから
訳なんかないもう野望もない
希望も絶望もそこそこに
ブルースをうたう女たちが
それでも歩いてゆくのです

 

 

 

冬空のもとで

 

ヒヨコブタ

 
 

ひとつき前はいまを想像できずにおり
ひとつき後をいま考えるのはよそうと

色がついて見えるような景色の日はさいわいだけれど
そんな日々ばかりでもないことにうつむくこともないのかもしれなくて
わたしはもうずいぶんと永く生かされている気がするのだ
あるはずもなかった日々が穏やかでなくとも
悲しみすぎることもないのではないか
悲しみとさみしさはいつでもこちらを向いて待っているから
わたしはふふと笑い飛ばすんだ
そうできぬときには横たわるけれど

流行り病が収まらぬなかのあらゆる不穏は
じぶんのなかで増幅させることをやめる
さんざん繰り返してもう厭きたじゃないかとふふと笑うんだ

このあたりの冬の空は青く覚えている冬の淀みがときどき懐かしい
雪も氷もどんなだったろう
暖かさのなかにいるときにだけ
ほんとうに思い出せばいいほど芯から冷える冬に

 

 

 

じっとする力

 

辻 和人

 
 

じっとじっと
じっとしている
頭を伏せた姿のレドだ
大怪我で排尿障害になり病院で尿を取ってもらっていたレド
なんと
母から電話があって
数日前から自宅でカテーテルでの排尿ができるようになったという
今まで何度も失敗していたが
「拡大鏡のメガネをかけてみたら、すごいのよ、するっと入るようになったのよ」
すごい、すごいよ
ぼくもやってみたい
土曜日に実家にすっ飛んで
でもって今からやる
おかあさん、ご指導お願いします
テーブルの上を片付けてレドを座らせる
おとなしくうずくまるレド
目を半分くらい細くしてじっと真正面を見つめている
自分が何をされるか
悟りきった表情だ
排尿は2人がかり
まず念入りに両手を消毒
父が左手で首を押さえ右手でペニスの位置を探す
小さな小さな包皮をゆっくり剥いていくと
ちゅいっ
小さな小さなペニスが飛び出る
うわぁー、うまいなぁ
熟練工みたいだよ
87歳にして覚えた手技
「はい、それじゃ拡大鏡かけて、穴見えるでしょ?」
ほんとだ
きれいなピンク色だ
潤滑ゼリーを塗ったカテーテルを近づける
「怖がらないでそのまま落ち着いてきゅっと入れちゃって」
きゅっ
入った
一発で入ったよ
すごい、すごいよ
動物病院で何度やってもうまくいかなかったのに
レドはびくっと体をひねるような仕草をしたけどすぐに前を向き直る
じっと
じっとしている
「はい、入った。今度はゆっくりカテーテル押し込むの。
尿道はまっすぐじゃないから入らなくなったら一旦止めて、
少し引いてまた押し込んでいけば大丈夫。あせらないあせらない」
って言われてもねえ
2センチくらい押し込むとすぐ止まっちゃう
あせるよ
あせる、あせる
「少し引いてゼリー足して。まあ、だいたい15分くらいはかかるから気長にね」
お母さん
その気長ってのが難しいんだけど
レドが白い足を軽くバタバタ
すかさず父が白地に黒い斑の入った頭撫で撫で
レド
じっとなった
じっと
すごい、すごいよ
すごい力だ
じっとする力
レドはわかってる
何をされてるかわかってる
自分に必要なことだってわかってる
動きたくなるのにその動きを自ら止める
じっとじっと
動きに対する
更に大きい「反・動き」だ
レドが「反・動き」の力を必死で出してくれてるから
のろのろとではあるが作業が進む
じっとじっと
あ、入ったぞ
するするする
3.5センチくらい一気に入った
「はい、線のところまで入ったからもう大丈夫。
今度はゆっくり尿を抜いていくよ。結構力いるからね、ゆっくりね」
カテーテルに注射器を取り付けてゆっくりピストンを引いていく
黄色い液体がカテーテルをつたって流れ始めた
レドはもう微動だにしない
ピストンを引いてから尿が流れるまで少し時間がかかる
それまで引いたままの状態を維持しなければならない
ほんとだ、力がいる
じっとする力だ
レドもぼくも
じっとする力で頑張る
注射器がいっぱいになったら盥の中に流してもう1回
じっとする
じっとじっと、じっとじっと
腕が痺れてきた頃
あ、最後の一滴か
もうピストンを引いても尿は流れない
「はい、お疲れ様。39CC。
ちょっと少ないけど朝は45CC取れたから今日1日としては十分ね。
こういうの、朝晩毎日やってるのよ。
大変だけど少し慣れてきたかな」
ありがとう、ありがとう
お母さんの助言がなかったらお手上げだったところですよ
お父さんのペニスを飛び出させる手際も見事だった
高齢の父母がここまでやれるとは
ほんと、頭が下がります
でも
一番頑張ったのはやっぱりレド
じっとじっと
じっとして
「反・動き」を全開させてくれた
すごい、すごいよ
父から撫で撫でされた後
解放されたレドは自力でひょいとテーブルから降りて
ピョタッ、ピョコタ
ソファーに這い上がると何事もなかったかのように悠々毛づくろい
尿を取ってもらってスッキリしたろう
ファミも冷蔵庫の上から降りてきて
「大丈夫か」とでも言うかのようにレドに近づいて耳の匂いを嗅ぐ
じっとじっと
じっとする力
まじまじ見せてもらったよ
すごい、すごい力だよ

 

 

 

諏訪大社上社本宮境内

 

狩野雅之

 
 

写真は演繹すべき物ではない。写真は過去の一点で立ち止まっている。写真は未来を志向しないし過去を振り返らない。写真は写されたものの存在証明であり、存在の現れの記録である。同時に写真は表現を志向することによって芸術へと向かう。しかしそこにおいても芸術となるのはそこに写されたものであって「写真」そのものが芸術として現れることはない。写真はメディアではないし存在を入れる(あるいは保存する)容器ではない。
 
個人的にはそんなふうに考えています。

なにも考えずに浸っていただければこれに勝る喜びはありません。

 


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