彗星パルティ―タ

 

今井義行

 

 

詩を書いているとき わたしはおおきな鷲になり
樹々にとまり 街々をわたり 見つめました
ああ、あれが愛知県の半田市だ 暁子の棲む知多半島のなかばにある海の街

暁子はTOYOTAの関連工場で部品を検品しているが
多忙すぎて湘南海岸に棲むママにはあまり連絡しない

オペラグラスでながめた空のなかにはオレンジの月があったはずだが
わたしはわたしで 月光のなかに銀河空港を造り
そこに─── ひそやかな憩いの場を描いた

CDプレーヤーに嘗て買ったアルトサックスの音盤をセットしてみた

『彗星パルティ―タ』 それは わたしが詳しくない
ジャズの故・阿部薫氏の遺したアルバムのタイトルである
阿部氏のフリーは鼠花火のようにどこへ飛ぶのかわからず
彼は「詩なんて、遅すぎる」と罵りました
そうかしら? 彼は はやくに死んだけれど
わたしは ながく生きて 詩を書きたいなあ・・・・・・・・・

≪嗚呼、こどもにあえぬ アル中おんな ミユキが ないているよお≫

夜間診療の帰り道 ひとで溢れた繁華街でめがねをはずすと
すべての街燈が打ち上げ花火に思えたものでした
なにかの 祝祭かしら・・・・・
そうして パパの形見の懐中時計を間近に引き寄せて
深夜の総武線に乗ったりしました

わたしは パパがきらいだった
よちよちあるきのころから わたしに
≪この世に出してもらえたことをありがたくおもえ≫
と 刷り込み その一方で
とても 小心者であった あの男が

パパの辞世のことばは
「家族っていいなあ/生まれてこなければよかった」
という 相反するものだった
けれど わたしは
ときには パパが 東海道線に興味をしめした
ちいさなわたしに気づいて
湘南電車沿線につれていってくれたことや
わたしが 電車に「さようなら」といったこと
わたしと いもうとの暁子に
「にほんとせかいのむかしばなしとしんわ」を
よみきかせてくれたことなどを薄く憶いだしたりもした

明け方から早朝に移る真夏の空に流線のような彗星パルティ―タ
が明滅している あれは何のフリー

わたしは湯のみで白湯を呑みからだを浮き雲にかえた───
そのように ちいさな風穴があけられて
コミック雑誌の巻末のカラーページを見ていたら
水木しげる氏の 絵画エッセイのようなものが載っていた
最初の1ページ 作者であろう「わたし」が
妻とともに 調布の野川に散歩でもいこう
ということになり 「ああ、カワセミがいる
それにしてもみんな高そうなカメラで撮っているんだナ」と呟いた

3・4ページ・・・・
見開きいっぱいに 野川の全景が描かれている
わたしは 調布に住んだことがあったけれど
これほどに うつくしい完璧な真夏の樹々を見たことはなかった

スマホ 高級デジカメ 絵筆
Googleの社員は自分の足で世界中を歩きまわっているらしい
まあるい EARTH RING それは
地上戦と 電子戦のいきかう戦場なんだな いまもなお

木曜日の午後、院長ミーティングに初めて参加した日
それは双方向性のフリーミーティングだということだったので
わたしは 自己紹介をかねてこのような話をしてみた
「わたしは病気で会社を辞め その後は退職金と精神障害者年金を切り崩して
暮らしているのですが 詩を書くこととは生きること
そして───
ことばに対して官能的、に接していくということで
わたしのしごととは詩人です わたしは、死ぬまで詩人です」
そう喋ったあと誰からも質問はなかったので患者にとって詩ってそういうものかと思った
そして こころやからだが疲れるので 茣蓙でごろごろしていたら
臨床心理士の倉澤さんが「あの、今井さん ちょっといいですか」と尋ねてきた
「詩人ていうものは いつから詩人になるんですか
わたしは詩が好きで中学生の頃からずっと詩を読んだり書いたりしていたんです
詩人になりたいと願っても どこからが始点かわからなくて
結局 臨床心理士になりました」
倉澤さんのまなざしはめがねごしにきらきらとかがやいている

≪嗚呼、こどもにあえぬ アル中おんな ミユキが ないているよお≫

「倉澤さん、詩人は詩人になろうと願ったときに詩人になるのだと思うんですよ」
「わたし 中学校の国語の授業で『夕焼け』という詩に感動したんですが
国語の教師が この詩は作り話なんだよといったもので驚愕したんです」
その詩は 国民の多くに愛されている あれだった

夕焼け 吉野弘

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。 
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて—–。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。

(そつなくかいて、ゆるされるのは、『世間知ラズ』の、谷川さんのみじゃないか・・・・・・?)

「どの詩も 全部が全部作り話じゃないと思いますよ
きっかけになるできごとがあって そこに詩人の想像力が加わって
そうして虚構としてひろがっていって成り立つんだと思いますが」
「今度 わたしが書いた詩を読んでくれますか わたしは詩人になりたいんです」
「倉澤さんはまだ若いし いまからでもぜんぜん遅くないですよー
臨床心理士として 毎日多くの患者さんと接しているわけですから
わたしからみたら詩の題材の宝庫でうらやましいくらいなんですけど───」

古いフランスパンのように表面がぽろぽろ剥がれる上履きで
わたしはクリニックのなかのリハビリルームを歩いた

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

わたしは パパがきらいだった
よちよちあるきのころから わたしに
≪この世に出してもらえたことをありがたくおもえ≫
と 刷り込み その一方で
とても 小心者であった あの男が

パパの辞世のことばは
「家族っていいなあ/生まれてこなければよかった」
という 相反するものだった

1987年から2015年まで わたしはずっと詩だけを書いてきました
小説ではだめだった 音楽にも映画にも飽きてきた

そのなかで 思わず かいた わたしの詩は
最終的には 虚構の いいえ
実から虚 実への織物 個人史のつもりです

いいえ 個人史、 なのです

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

詩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なのですよ
この次には無責任に
横須賀に生まれてみたい

親は無く
友は無く

カレンダーは無く

路は無く
壁は無く

駅は無く

光は無く
闇は無く

噂は有る

そのような街で一生を棒に振るの

予め
目標なんて
一粒も無い
予め
甲斐なんて
一滴も無い
予め
外等見ない

そのような街で一生を棒に振るの

横須賀に生まれてみたいね

朝は無く
夜は無く

トレーラーは無く

風は無く
雲は無く

鳥は無く
蝶は無く

泥は有る

空は無く
石は無く
砂は無く
・・・・・・・

そんな街に

阿部薫氏の「詩なんて、遅すぎる」とは29歳の口から出た皮肉だったでしょう
アルトサックスはソプラノサックスより彼の体感に合っただけだったのだと思う

明け方から早朝に移る真夏の空に流線のような彗星パルティ―タ
が明滅していた あれは何のフリー

後日わたしがまた茣蓙でごろごろしていたら
倉澤さんが「あの、今井さん ちょっといいですか」とまた尋ねてきた
「これ、わたしが高校生の頃に書いた詩なんですけど・・・・・」
すこし黄ばんだプリント用紙に記されていたのはこのような詩

雨の日に火曜日になったわたし
Kの詩篇 No.9

冷たくなっていた白米のひとつぶが割れて
そこから間歇泉の雨がふきだす
火曜日に変ったわたしは暖かく濡れながら
空を仰いでいる

時にはばらばらに成りかけた心を合わせて
あたらしいひとつぶになりたいと
木目調のドアのレバーを回して進むと

木目調の木目の緩やかな流れに添うように
緩やかな砂利道が在ったのだ
緩やかな砂利道に添うように
もうすぐ咲きそうな白木蓮の蕾が直立し

服役していた訳でもないのに安堵をして
野原に座る 火曜日に変ったわたし
こどもおとなのようにわたしは爪を噛んで
要らなくなった爪の薄皮を剥がす
そのときに また──

緑地から間歇泉の雨がふきだす
火曜日に変ったわたしは暖かく濡れながら
空を仰いでいる

しあわせになりたいと想ったことはない
(傲慢なのだろうか、わたしは・・・・)
というのは 周りに嘆くひとが多過ぎた
最低限に暮らせていければそれでいいと

ただ 火曜日に変ったわたしは嬉しいのだ
この場所では どんな友に逢えるのだろう
月曜日に変った友 水曜日に変った友・・・・
木曜日に変った友 金曜日に変った友・・・・
土曜日に変った友 日曜日に変った友・・・・

それぞれにかわすことばの体温を知りたい
火曜日に変ったわたしは高熱なのだろうか
いまのところ わたしのこころは涼やかで
周りの光景のほうが眩しく高温のようだが

(倉澤さん、どこから それを まなんできました?)

あなたの詩は、彼方へ届くか
わたしの詩は、彼方へ届くか

≪嗚呼、こどもにあえぬ アル中おんな ミユキが ないているよお≫

「こういうの毎日 書き溜めていたんですが」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「わたしは きれいな嘘がすきだったんでしょうか
それから こういう詩もです」

器械体操
Kの詩篇 No.12

機械体操ではなく器械体操なのだったと
錦絵の秋に想いだした
暮れ方になればライトアップされた床で
一枚の葉が舞い続ける
廻りながら捩れながら
一枚の葉は処女だった
機械体操なら装置なのでスイッチが要る
器械体操なら品位なので陶然と成るのみ
痴態とはならない一葉
機械体操ではなく器械体操なのだったと
沙羅の秋に想いだして
機械体操ではなく器械体操なのだった・・・

(倉澤さん、どこから それを まなんできました?)

「わたしは きれいな嘘がすきだったんでしょうか」

「わたしは きれいな嘘がすきだったんでしょうか」
そんな倉澤さんの問いには こたえず
わたしは 薬局に寄り 早い夕飯を
駅ビルの 安いイタリアンレストランでとり
それから まっすぐにアパートに帰って
横たわっていたら 夕暮れは夜に変わり
早い夜は 深い夜へと 変わっていった
わたしは 睡眠薬を飲み ベッドですとんと眠りに落ちて
あっというまに夢を通りぬけながら・・・・・
夢のなかでも詩を書いていて空を仰いだ
明け方から早朝に移る真夏の空に流線のような彗星パルティ―タ
が明滅していた あれは何のフリー

詩人って、なんだろう
『わたしの「詩人」の定義は、(今井さんの場合 限定かもね) 詩のかみさまと契約を結んでいるひと、です。かみさまに「自分を捧げるから、どうぞ詩の言葉を書かせてください」と祈って、その祈りが受け入れられた人。』 
そのような お手紙を サトミさんから いただきました
とても うれしかったけれど わたしってなにものなのだろう

≪嗚呼、こどもにあえぬ アル中おんな ミユキが ないているよお≫

 

 

 

この秋の訪れは独眼流のウインク生活となっちゃった。

 

鈴木志郎康

 

 

秋の訪れだ。
九月になって、
曇って、
雨が降ったり止んだりが続いていたが、
午後のひととき、
さっと晴れて、
日差しが戻ってきた。
秋の陽だ。
秋の陽だ。
懐かしいなあ。
記憶にぐいぐいと引き込まれていく。
勝手口から差し込む強い日差し、
六年前に、
そこにわたしがいて、
そして入院したんだった。
背中を切られた。
腰部脊柱管狭窄症の推弓切除。
そして更に翌年の秋には、
右の人工股関節置換の手術。
その前の冬には
左の人工股関節置換の手術。
そして更に又もや
それは夏だったけど、
腰部脊柱管狭窄症の再手術、
張り付いた神経をはがすのが、
大変だったと、
医師が言った。
強い秋の日差し、
入院の時の日差しが
頭にこびりついている。
秋の日から始まって、
その後、
手術が繰り返されちゃったんですね。
今や外に行くには電動車椅子、
家の中では二本の杖。

それからの
毎日は、
パジャマ姿で
午後はベッド生活
テレビで刑事ドラマ、
訳ありで解決する
平穏なテレビ画面。
そこに、
突然、濁流が流れちゃたんですよ。
濁流が家々を押し流して行くんですね。
すごい、すごいね。
ベッドで、
ぐいぐいと引き込まれ、
でも、
わたしはのうのうと、
ヘリコプターの中継を見ていて
いいんだろうか。
高みの見物になちゃう。
鬼怒川の堤防の決壊。
2015年9月10日の午後ですよ。
押しなされて行く寸前の家から、
人が自衛隊のヘリに吊り上げられちゃってる。
あっ、濁流の中に立つ電柱に掴まってる人がいる。
二時間、どうなっちゃうのって目が離せない。
ようやく吊り上げられましたよ。
ほっとしたよね。
翌日の朝日新聞を見ると、
「増水一気つかんだ電柱」
の記事で、
彼は64歳のタクシー運転手の坂井正雄さん
という人だったんだ。
息子さんも
奥さんも無事で、
よかったっすね。

ところで、
わたしは、
その翌日、
ベッドから起きたら、
立てかけてある大きな一枚の写真が
ずれて二枚重ねなってるじゃん。
うそっ、
一枚が二枚に見えてる。
物が二つに見えるんですね。
テレビの二つの同じ画面が交錯しているじゃん。
メガネがおかしくなったかって、
動かしても重ならない。
こりゃ、目が変になったと、
その翌日、
麻理と、
代々木上原駅近くの
代々木上原眼科に電動車椅子で行って、
いろいろと検査して、
診てもらったら、
眼球には異常はないとのこと。
複視は、
神経の問題だってこと、
総合病院の神経内科に行くように勧められた。
それから、
家に帰って、
物を取るときは
片目をつぶって
ウインク生活。
活字を読むときは
別のメガネの片方のレンズに紙を貼っての
独眼流、
独眼流でウインク生活、
ウインク生活の独眼流。
麻理が
眼帯を作ってくれて、
独眼流で、
パソコンに向かって、
詩を書いてる。

一週間後、
2015年9月18日、
東邦大学医療センター大橋病院の
神経内科の
麻理の難病を見極めてくれた
中空医師を頼って、
診てもらいに行った。
中空医師は
若くて飾らない人だった。
わたしの話を聞いて、
採血と
脳のCTの検査をして、
脳梗塞の疑いで、
更に詳しい検査をするために、
即入院となって、
車椅子のまま
病室に運ばれた。

入院とは思ってもみなかったから、
何の準備もしてないので、
一時的退院の許可を貰って、
家に取って帰して、
麻理と手早く、
ボストンバッグに、
洗面道具やら
下着やら
何やら
いろいろ詰めて
タクシーで再入院となったんですね。

ベッドに横になると、
血液をサラサラにするための
点滴が始まり、
夕食になった。
いやー、
その夕食が、
「擬製豆腐の煮付け
春雨の中華和えに
海苔の佃煮」って献立で、
美味しかったね。
カードを差し込んで、
有料テレビを見ていると、
九時には消灯、
病室の
カーテンで囲まれたベッドは
真っ暗、
うとうとっと、
ひと眠りしたかと思ったら、

奴らが跳び出て来て、
パジャマダンス、
ウッソ!
奴らが跳び出て来て、
パジャマダンス、
ウッソ!

てな事で闇の中で、
言葉を追っかけてったわけ。
そんな日が続いてると、
旧友で親友の戸田桂太が
思いがけず見舞いに来て、
何か欲しいものがないか、
と言うので、
懐中電灯が欲しいと言ったら、
病院の外まで行って探して
買って来てくれた。
嬉しかったね。
それで、
真っ暗夜中、
枕元の小さな目覚まし時計の
針を見れるようになったんだ。
病室の夜中の時間、
時計の針が生きてくる。

入院は5連休を挟んで、
九日間。
連日の12時間の点滴と、
血液をサラサラにする薬と
日替りメニューの美味しい食事。
何と、
2キロも痩せたぜ。
女の子にはダイエット入院がお勧め!
夜中、何度も車椅子で
トイレに運んでくれた
看護師さんたち、ありがとう。
その間に、
MRIなど詳しい検査で、
脳梗塞の疑いは晴れたが、
複視は治らなかったけんど、
複視の原因は不明で、
更に通院で、
詳しくMRIを撮って、
原因追求を続けるって、
美人の担当医師の佐々木先生のお言葉。
連日の朝方、
四時頃に目が覚めて
六時点灯までの、
白けて行く窓ガラスを眺めて、
ごちゃごちゃの物思いちゃっ。

病室ぞ
秋の明け方
詩を思う
わたしゃ、八十
複視になっちゃって

はは、短歌になってるじゃん。
朝日歌壇に投稿してみっか。
ワクワクするね。
九日間の入院生活を終えて、
9月26日に退院となりました。
家に戻って、
またまた、続く
独眼流ウインク生活。

 

 

 

ある日の休日 その後

 

みわ はるか

 

 

前回の知人とテニスをしたあとの話。

わたしたちはものすごく空腹だった。
久しぶりに大量の汗をかくほどの運動をした後だからなのか、9月下旬とは思えないほどのぎらつく太陽にエネルギーを奪われたからなのか・・・。
とにかく何かを胃に放り込みたかった。

そのスポーツ施設は主要幹線道路沿いに位置していたため飲食店はわりとたくさんあった。
休日だからだろう。
どこのお店も家族連れや友達同士、カップルなどで賑わっていた。
わたしたちは少し考えた。
そこから幾分移動しなければならなかった が、昔ながらの家々が立ち並ぶ地域まで足をのばすことにした。
その辺りには昔から家族で代々経営しているのであろう飲食店がいくつかあった。
車も時々しか通らないような静かな場所だった。
そんな町の中を知人と一緒に歩くのも楽しかった。
わたしたちはある中華料理店を見つけた。
小さな平屋造りの店だった。
2人で顔を見合わせ思い切って入ってみると、カウンター10席ほどの場所に先客は1人だった。
小太りの40代半ばと思われるお腹がぽっこりと出たおじさんだった。
その男性はわたしたちのことを一瞥したもののすぐに何事もなかったように食事にもどった。
わたしたちは遠慮がちにその男性から2席空けて 座った。
見下ろすように設置してあるテレビからは今日のニュースをアナウンサーが読み上げている。
白髪、小柄、白のユニフォームを着たおじいちゃんがその店の店主だった。
たくさんのメニューがある中からラーメン、餃子、串カツを注文した。
その少し後知人が遠慮がちにわたしに尋ねた。
麻婆豆腐を追加で頼みたいというのだ。
もちろん好きなもの食べてと伝えるとにこーっと笑みを浮かべた。
わたしは今まで知らなかったが知人は麻婆豆腐が死ぬほど好きらしかった。
知人の新たな面を知れた瞬間だった。

黙々とその店主は料理を作っていた。
慣れた手つきで黙々と。
すると、奥か ら40代くらいだろうか、1人の女性が入ってきた。
栗色に染めた髪はよく手入れされていて、決して派手ではないが小奇麗な人だった。
そこに嫁いだお嫁さんであることは容易に想像できた。
店主とはとくに目を合わすことや、談笑することもなく料理の手伝いを始めた。
ただそれは見ていて自然というか、不快なものではなく、長年一緒に生活を共にしていてできあがった形な気がした。
むしろ心地いいものだった。

料理は一気に運ばれてきた。
わたしたちはそれを分けっこして食べた。
知人は何よりも先に麻婆豆腐をむしゃむしゃとほおばった。
よっぽど気に入ったらしくずっーとそればかり食べていた。
このままでは全部食べられてしまうとわたしも横から自分のレンゲを入れ、すくい、口に運んだ。
ぴりっと辛いそれは申し分なくおいしかった。

1人で食べていたらきっとちーっともおいしくもなく楽しくもなかっただろう。
お店の敷居を一緒にまたぐ、椅子に座る、メニューを一緒に覗き込む、料理が運ばれてくるまで一緒に店内をみまわす、運ばれてきたらもぐもぐと口を動かす、感想をぺちゃくちゃと言い合う、そしてまた始めと同じ敷居をまたいでその店を後にする。
ただそれだけのことなのに、誰かと一緒に時間を共有するのはこんなにも自分を愉快にしてくれる。

別れの時間だった。
次いつまたこんな時間が作れる かはわからない。
お互いわかっているのに「またね。またテニスしよう。」とどちらからともなく言い合った。
「またね」なんて無責任な言葉だ。
けれど自分たちに言い聞かせるような言葉でもあると思った。
知人はいつもわたしの背中が見えなくなるまでずっとにこにこと手をふってくれる。
少し寂しそうにも見えるその笑顔をいつもわたしは忘れられない。
「またね」が近いうちにあることを願ってわたしも最後に大きく手を振った。

そんなある日の休日はこれで終わり。