すべての選択肢が、テーブルの上に、乗っている。

 

佐々木 眞

 
 

 

天丼、うな丼、親子丼
タコ焼き、すき焼き、もんじゃ焼き
フレンチ、パスタ、懐石料理
すべての料理が、テーブルの上に、乗っている

回れ、回れ、グルグル回れ
回れ、回れ、グルグル回れ
テーブルの上に、あらないものは、あらない

コーヒー、紅茶、モンブラン
水蜜、干し柿、三浦西瓜
かりんとう、かっぱえびせん、五色豆
すべてのデザートが、テーブルの上に、乗っている

すべてが、欲しい
いますぐ、欲しい
なんでも、いいから
おいらに、寄越せ

モンロー、ヘップバーン、エリザベス・テイラー
原節子、若尾文子、大地喜和子
黒木メイサ、黒谷友香、比嘉愛末
すべてのナオンが、テーブルの上に、乗っている

浣腸、お漏らし、女装っ子
アナル、スカトロ、野外露出
鞭打ち、緊縛、女王様
すべてのヘンタイが、テーブルの上に、乗っている

すべてが、欲しい
いますぐ、欲しい
おれさえよければ、それでよい
お前のことなど、知らんわい

回れ、回れ、グルグル回れ
回れ、回れ、グルグル回れ
テーブルの上に、あらないものは、あらない

たけし、さんま、ぶらタモリ
くまモン、アトム、鉄人23号
七つ子、ドラえもん、サザエさん
すべてのキャラが、テーブルの上に、乗っている

パチンコ、水鉄砲、二丁拳銃、
大刀、脇差、切り出しナイフ
長刀、刺身庖丁、マシンガン、
すべてのお道具が、テーブルの上に、乗っている

すべてが、欲しい
いますぐ、欲しい
なんでも、いいから
おいらに、寄越せ

陸軍、海軍、空軍
原爆、水爆、化学兵器
ノドン、テポドン、サタン2
すべての軍備が、テーブルの上に、乗っている

秘密保護法、凶暴罪、密告社会
9条粉砕、憲法改悪、立憲主義蹂躙
1強独裁、1億奴隷化、1億玉砕
すべての元凶が、テーブルの上に、乗っている

安保法制、集団自衛権、行使容認
武器輸出、駆け付け警護、海外派兵
半島有事 カールビンソン 先制攻撃
すべての喫緊が、テーブルの上に、乗っている

回れ、回れ、グルグル回れ
回れ、回れ、グルグル回れ
テーブルの上に、あらないものは、あらない

すべてが、欲しい
いますぐ、欲しい
おれさえよければ、それでよい
お前のことなど、知らんわい

アメリカ、日本、北朝鮮
英仏、露中、シリアトルコ
スイス、吉里吉里国、ニューアトランティス
すべての「国体」が、テーブルの上に、乗っている

ポル・ポト、ヒトラー、スターリン
アベ、トランプ、キム・ジョンウン
ガンジー、ゲバラ、聖徳太子
すべての政治家が、テーブルの上に、乗っている

回れ、回れ、グルグル回れ
回れ、回れ、グルグル回れ
テーブルの上に、あらないものは、あらない

Go Go Go & Goes On!
ぐるぐる回る、僕らのテーブル
Go Go Go & Goes On!
お好きなものを、より取り見取り

Dance dance dance dance!
踊れ、踊れ、みんなで踊れ!
Dance dance dance dance!
猫じゃ、猫じゃと、みんなで踊れ!

 

*お断り
「すべての選択肢がテーブルの上に乗っている」は、米国のトランプ大統領のTwitterでの発言、「All options( are )on the table」を、「あらない」は、村上春樹氏の「騎士団長殺し」の用語を、「Go Go Go & Goes On!」は、故糸居五郎氏の決め台詞、「Dance dance dance dance!」は、A.ランボーの「地獄の季節」から無断引用しました。

 

 

 

旅の日のモーツァルト

音楽の慰め 第15回

 

佐々木 眞

 
 

 

1787年の秋、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトとコンスタンツェ夫妻は、ウイーンを発ち、3頭の郵便馬に曳かれた駅馬車に乗ってプラハに向かいました。

故郷ザルツブルクやウイーンと違って、つねにモーツァルトに好意的だった中欧の音都で、彼の畢生の傑作歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を初演するためでした。

メーリケの小説「旅の日のモーツァルト」(岩波文庫・宮下健三訳)を読むと、この秋の日の天才音楽家の浮き立つような高揚した気分が、めまぐるしく回転する車軸の軋みと共に、読む者に生き生きと伝わってきます。

この年の5月には父レオポルトに死なれ、ウイーンでの暮らしにはいささか暗雲がたちこめてきた31歳のモーツァルトでしたが、名作「フィガロの結婚」に続いて「ドン・ジョヴァンニ」を書き終えたこの若者は、「ウイーンが駄目なら、プラハがあるさと」ばかりに、胸に希望を膨らませながら、橙色の美しい駅馬車に乗り込んだのでした。

この生きる喜びにあふれた「旅の日のモーツァルト」にもっともふさわしい音楽、それは彼が女流ピアニストのジュノーム嬢に捧げたピアノ協奏曲第9番変ホ長調K.271の第3楽章2分の2拍子のロンドでしょう。

たとえ世の中に絶望と不安が渦巻き、心身共に疲労困憊していても、モーツァルトの希望の調べを耳にすると、たちまち一縷の光が前途に差し込んでくるのですから、音楽の力は偉大です。

では早速、わが内田光子嬢の若き日の演奏で聴いてみましょう。第3楽章の冒頭から終りまで聴いた後、第1楽章から全曲聴いて頂けたらうれしいです。

 

 

*写真の前列左端が、1840年78歳のモーツァルトの妻、コンスタンツェ。彼女はその2年後に没した。

 
 
 

関東大震災後のモノクロームがじわーっと来たね。

 

鈴木志郎康

 

 

俺っち、戸田桂太の
『東京モノクローム 戸田達雄・マヴォの頃』を、
詩に書き換えつつ、
じっくりと、
読み返してしまったっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
読み終わって、
詩に書いて、
じわーっと来たね。
長い詩になっちまったっちゃ。
東京モノクローム、
モノクローム、
関東大震災の後に、
マヴォイストたちなどの、
多く人と交わって、
自分の表現と生活を獲得して行く、
若い男タツオの姿が見えてくるっちゃ。
東京モノクローム、
モノクローム、

わたしの親友の
戸田桂太さんよ、
おめでとうです。
息子が書いたこの一冊で甦えった
今は亡き父親の戸田達雄さん
おめでとうです。

一九二三年九月一日
午前十一時五十九分から
三回の激震があったっちゃ。
関東大震災だっちゃ。
十九歳だった
戸田達雄さんは、
丸の内ビルヂングの
ライオン歯磨ショールームの地下の仕事場で、
切り出しナイフを砥石で研いでいたっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラ。
あわてて地下から一階へ外へ逃げたというこっちゃ。
その若者を「タツオ」と名付けて、
桂太は青年時代の父親を
一冊の本に蘇らせたっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。

激震の直後に、
タツオは上司の指示で、
同僚の女の子を、
向島の先の自宅まで送り届けることになるのだっちゃ。
地震直後の、
炎を上げて燃え上がる街中を、
タツオと女の子は、
何処をどう歩いて行ったのか。
ギイグワギーッ、
グワグワ。
そこで、ドキュメンタリストの
戸田桂太が力を発揮するんざんすね。
東京市役所編『東京震災録 別輯』なんてのによって、
時間を追って燃え盛る街の中を
逃げ行く二人の足取りを蘇させたっちゃ。
タツオが生きた身体で活字の中に現れたっちゃ。
俺っち、タツオと親しくなってしまったよ。
ガラガラポッチャ。

東京の街中を、
走り抜けるタツオ。
勤め先の若い女性を
丸ノ内から向島の
彼女の家族のもとに送り届けるために、
燃え広がる
東京の街を、
若い女性とともに、
走り抜けるタツオ。
ギイグワギーッ、
グワグワ。
膨大な震災記録を
縫い合わせて、
崩れた街の
日本橋から浅草橋へ、
更に、火の手を避け、
ギリギリのタイミングで、
吾妻橋で墨田川を渡って、
言問団子の先の堤で、
拡がってくる火におわれ、
猛火と熱風に煽られながら、
墨田川河畔を通り抜けて、
ギイグワギーッ、
グワグワ。
女の子を、
向島の奥の両親の元に届けたのだっちゃ。
ガラガラポッチャ。
タツオの足跡を
蘇らせた息子の桂太。
その夜は線路の上で、
尻取り歌を歌う老婆と過ごしたってこっちゃ。
ガラガラポッチャ、
超現実的な不思議な夜っちゃ。
直後の燻る焼け野を駆け抜ける身体で得た体験が、
父親の創造力の原点になってるってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
死者行方不明者が十万五千人超の関東大震災、
ガラガラポッチャ。
大震災を経験した
タツオがその後どう生きたかが
問題なんだ。
ガラガラポッチャ。
父親の人生を縦軸に、
東京の時代を語る
『東京モノクローム』が始まるんですね。
モノクローム、
モノクローム、
東京モノクローム。

大震災の年は、
前衛美術運動が沸騰した年でもあったってことだっちゃ。
タツオは五月の村山知義の展覧会で、
木切れ、布切れ、つぶれたブリキ缶などなどが縦横に組み込まれた作品を見て、
〈胸の奥底を揺すぶられるほど〉に、
仰天したってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
その村山知義、尾形亀之助らによって、
先端的な芸術運動の
「マヴォ」が六月二十日に結成されてたってこっちゃ。
そして、七月の「マヴォ第一回展」を見て、
村山知義の
〈「鬼気迫る」ような感じの盛られた作品に魅せられた〉
タツオの心はときめいたに違いないっちゃ。
そして知り合った尾形亀之助の魅力の虜になってしまうのだっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
マヴォ同人たちは
二科展に落選した沢山の作品を数台の車に積んで移動展覧会をやろうとしたが、
警官に阻止されてしまったってこっちゃ、
各新聞に掲載されて「マヴォ」の名は一躍世間に知られたってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
これが八月二十八日で、四日後の
九月一日に関東大震災が起こったのだっちゃ。
先端的芸術家たちの運動はどうなっちまうんだってこっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。

面白いねえ、
戸田桂太さん。
大震災と芸術運動と重なったところに注目してるんだねえ。
「マヴォ」同人たちの心の変化、
そして我が主人公タツオの心の変化。
震災後、タツオは、
ライオン歯磨を辞めさせられることになった
同僚の故郷の北海道に一ヶ月の休暇を取って旅行する。
上司から三十円の餞別をもらったっちゃ。
東京モノクロームの焼け野原を頭に抱えて、
そこで絵を描いたってこっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
十二月に東京に戻り、
〈丸ビルのウガイ室の壁〉で、
北海道で描いた小品の展覧会をしたのだったっちゃ。
翌年、タツオはライオン歯磨を辞めちまう。
画家として、表現者として自立したというこっちゃ。
食うや食わずの貧乏になるってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
タツオ、二十歳、
「マヴォ」に加盟して一番若いメンバーとなったのだっちゃ。
そして二、三ヶ月後の一九二四年の四月に、
タツオの郷里の前橋で「マヴォ展」が開かれて、
そこに萩原朔太郎が見に来たっちゃ。
ガラガラポッチャ。
展覧会終了後に「合作モニュメント作品」を進呈して、
朔太郎に喜ばれたというこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
タツオが勤めていた
「ライオン歯磨宣伝部」の
敬愛する先輩の大手拓次から
萩原朔太郎の『月に吠える』の初版本を借りて、
その初版本を読んだっちゃ。
『月に吠える』の初版本、
ガラガラポッチャ。
『月に吠える』の初版本を
タツオは手にしたってこっちゃ。
〈首ったけに魅了されてしまい〉
何年も返さなかったというこっちゃ。
タツオは朔太郎に会えて嬉しかったに違いないっちゃ。
それはそうと、
子供向け絵雑誌の画料で暮らす
タツオの貧乏は壮絶なものだったってことだっちゃ。
ところがマヴォイストたちは、
自分たちの作品で収入を得ようと、
「マヴォ建築部」を作って、
バラックや店を黒山の見物人の前で、
歌を歌いながらペンキで塗って行ったというこっちゃ。
タツオは風呂屋の富士山のペンキ絵も描いたってこっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。

「マヴォ」とは縁が切れた
尾形亀之助を、
タツオは「亀さん」と呼んで
この不思議な魅力がある人物のとりこになっていたってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
〈美青年でお金持で、たいそうおしゃれで、
ネクタイをたくさん持っていて、
飯を食わせてくれて、絵の具を使わせてくれる、
そして、高価なものを行き当たりバッタリで買ってしまう〉
尾形亀之助は、
銀座でばったり会ったタツオを誘って、
二等車で上諏訪まで行ったっちゃ。
そこでただピンポンする、酒を飲むだけだったといこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
無為を楽しむ亀之助さんか。
「オレもう東京に帰りたくなっちゃった」と
二十一歳のタツオは一人で汽車賃をもらって帰ったというこっちゃ。
タツオは亀之助とは違う人生を生きるってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。

そして、タツオは、
東京では「マヴォ展」などに作品を発表して、
表現者として活躍を始めたのだっちゃ。
その時に、
タツオが玄関を間借りして寝起きしてた
同郷の親しい萩原恭次郎が、
震災の体験を踏まえた、
東京のダイナミズムに立ち向った、
図版や写真を使った構成物としての
衝撃的な詩集『死刑宣告』が出版されたっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
そこにタツオたちマヴォイストの、
リノカット版画が挿絵に使われてるってこっちゃ。
タツオはもはや尖鋭的な表現者になったのだっちゃ。
ガラガラポッチャ。
版画は震災体験に触発された白黒のモノクローム、
それが「東京モノクローム」、
モノクローム。
尾形亀之助は尾形亀之助で、
詩や絵画などの芸術表現を作家の収入に結びつけようと、
雑誌『月曜』を編集発行したってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
島崎藤村や室生犀星などの大家が寄稿し、
宮沢賢治が「オッぺルと象」を発表し、
タツオも寄稿したりしたが、
資金回収もできずに失敗に終わってしまったってこっちゃよ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。

その後、タツオは
薬局のショーウィンドウの飾り付けの仕事に精を出して、
仲間とともに、
広告図案社「オリオン社」つくることになったってこっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
宣伝美術の仕事は時代の最先端を行く仕事だったっていうこっちゃ。
美術家集団の「マヴォ」は、
風刺漫画を描いたりする社会的思想的行動派と、
ショーウィンドウを飾る商業主義に直結した街頭進出傾向との、
二つの流れを作ったってこっちゃ。
ガラガラポッチャ。
大震災から二年余りで設立した「オリオン社」は、
時代の流れに乗って、どんどん成長して行き、
東京のど真ん中、銀座に事務所を構えて、
十年後には、株式会社となっちゃって、
タツオは戸田達雄専務取締役になるのだっちゃ。
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
尾形亀之助とはどうなったか。
少し羽振り良くなったタツオが、
趣味の銃猟で撃つたツグミなどの小鳥を持って、
久しぶりにそれで一杯やろうって、
亀之助を訪ねると、
雨戸を閉めた真っ暗な部屋で、
〈亀さんは一升壜の酒を手で差し上げ、雨戸の節穴から差し込む細い太陽光線をその壜に受けて「ホタルだ、ホタルだ」と歓声をあげてはラッパ飲みをし、次々とラッパ飲みをさせているところだった。〉
タツオは、
〈これはいけない、別世界へ迷い込んでしまったと思って、すぐに外へ出た。そして逃げるようにその家を後にして歩き出した。〉
ガラガラ、
ガラガラポッチャ。
それ以来、タツオは尾形亀之助に会っていない。
東京モノクローム、
モノクローム。
関東大震災から八十八年後に東日本大震災が起こったっちゃ。
戸田桂太は、
〈そこに生きた個人の気分にふれたいという思いを懐いただけ〉というこっちゃ。
ガラガラ
ガラガラポッチャ

タツオは、
震災後の若い芸術家たちの中で、
生きるための道を探り歩いて行ったんですね。
息子の戸田桂太は
その青年の父親を、
見事に蘇らせた。
親友のわたしは嬉しいです。
ラン、ララン。

ところで、
俺っちの親父さんは
若い頃、何してたんだろ。
戦災で辺りが燃えて来たとき、
親父から、
「何も持つな、
身一つでも逃げろ」って、
言われたっちゃ。
ああ、あれが、
親父の大震災の体験だっちゃ。
ガラガラポッチャ。
聞いた話って言えば、
若い頃、下町の亀戸で
鉢植えの花を育てて、
大八車に乗せて、
東京の山の手に
売りに行って、
下りの坂道で、
車が止まらなくなってしまって、
困った困ったって、
話していましたね。
大八車に押されて、
すっ飛ぶように走ってる
若い親父さん。
いいねえ。
ラン、ララン。

 

(注)本文中には、戸田桂太著『東京モノクローム 戸田達雄.・マヴォの頃』2016年文生書院刊からの多数の引用があります。〈〉内は本文そのままの引用。

 

 

 

シンプル ファースト

 

みわ はるか

 

友人の結婚式の当日の朝。
まだどのワンピースを着ていくかで悩んでいた。
クリーム色のふんわり型のワンピースで行こうか、ワインレッドのタイトなワンピースにしようかぐるぐる迷っていた。
ネットで注文しておいた新しいスマートフォンケースもギリギリ届いて写真の準備は万端。
素直で甘いものが大好きな友人の門出を祝うような快晴の空模様は、参列者のわたしの気持ちまでわくわくさせてくれた。

値段が高くて練りに練られた料理はやっぱりおいしい。
だけれども、それがたいして親しくない人との席だったり、一人であったりしたらちっともおいしくない。
親しい人との食事がどんなにいい時間で貴重なものかとここ数年で思えるようになった。
それがたとえ白米と味噌汁だけであったとしても。

きれいに手入れされた畑を見た。
わたしの大好きなチューリップがものの見事に咲いていた。
赤、黄、白、紫…。
一緒にきれいだねと思ってくれる、感じてくれるそんな人の存在は心を豊かにしてくれる。

NHKをじっと見る。
抑揚のあまりない話し方にほっとする。落ち着く。安心する。
きちんと丁寧に化粧をして、物怖じせず話す知的な姿に憧れる。
季節にあった服装も上品で素敵だ。

学生時代は最後には卒業という目標があった。
特に先のことに迷うことなく生きていた。
周りのサポートしてくれる大人にも恵まれた。
今、社会人になった今、しっかりと輪郭のあるものが見えにくい。
そして色々考えるようになってたまにぷしゅーと空気が抜けてヘロヘロになってしまう。
せっせせっせと自分でまた空気を足して立ち上がる。
心に響いた言葉や、新しい信頼できる人との出会いを材料にして、また頑張るぞーと進み出す。

シンプルで丁寧な生き方が素敵だなと思う2017年、春。

10時のお店の開店に合わせて、買い忘れたご祝儀袋を手に入れるべく自転車に急いで飛び乗った。

 

 

 

シンプル ファースト

 

みわ はるか

 
 

友人の結婚式の当日の朝。
まだどのワンピースを着ていくかで悩んでいた。
クリーム色のふんわり型のワンピースで行こうか、ワインレッドのタイトなワンピースにしようかぐるぐる迷っていた。
ネットで注文しておいた新しいスマートフォンケースもギリギリ届いて写真の準備は万端。
素直で甘いものが大好きな友人の門出を祝うような快晴の空模様は、参列者のわたしの気持ちまでわくわくさせてくれた。

値段が高くて練りに練られた料理はやっぱりおいしい。
だけれども、それがたいして親しくない人ととの席だったり、一人であったりしたらちっともおいしくない。
親しい人との食事がどんなにいい時間で貴重なものかとここ数年で思えるようになった。
それがたとえ白米と味噌汁だけであったとしても。

きれいに手入れされた畑を見た。
わたしの大好きなチューリップがものの見事に咲いていた。
赤、黄、白、紫…。
一緒にきれいだねと思ってくれる、感じてくれるそんな人の存在は心を豊かにしてくれる。

NHKをじっと見る。
抑揚のあまりない話し方にほっとする。落ち着く。安心する。
きちんと丁寧に化粧をして、物怖じせず話す知的な姿に憧れる。
季節にあった服装も上品で素敵だ。

学生時代は最後には卒業という目標があった。
特に先のことに迷うことなく生きていた。
周りのサポートしてくれる大人にも恵まれた。
今、社会人になった今、しっかりと輪郭のあるものが見えにくい。
そして色々考えるようになってたまにぷしゅーと空気が抜けてヘロヘロになってしまう。
せっせせっせと自分でまた空気を足して立ち上がる。
心に響いた言葉や、新しい信頼できる人との出会いを材料にして、また頑張るぞーと進み出す。

シンプルで丁寧な生き方が素敵だなと思う2017年、春。

10時のお店の開店に合わせて、買い忘れたご祝儀袋を手に入れるべく自転車に急いで飛び乗った。

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 35

 

今朝
車できた

新丸子の部屋の
最後の掃除にやってきた

掃除機をかけ雑巾がけをした

部屋に残ったのは
カーテンと

ベッドと
青い本棚だけだった

絵が架かっていた壁に四角い影が残っていた

影はわたしの債務のようだ
債務はわたしの欲望の裏側にある影絵だ

 

 

 

貨幣について、桑原正彦へ 34

 

昨日の夜
ひかりで東京から帰った

燕たちが飛んでる

お茶の水で千先さんと会った

千先さんは
アマゾンの怪魚を撮ったといった

白目が
綺麗な白だった

それから
浅草橋で荒井くんと会った

荒井くんは
富山から帰っていた

浅草橋の駅で総武線が通過した

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第11回

第4章 ケンちゃん丹波へ行く~いざ綾部へ!

 

佐々木 眞

 
 

 

「よおし、分かった。僕はすぐに綾部へ行く。お前もすぐに由良川へ戻って、みんなに安心するように伝えてくれたまえ」

と、ケンちゃんは漱石の坊っちゃん風に水盤に向かって叫びました。
それを聞いたQちゃんは、思わず、

「やったあ、やったあ、ついにウナギストとしての使命を果たせたぞお。うれしいなあ、うれしいなあ!」

と、本日最長不倒距離の跳躍を試みて、その喜びを力強く表明したことでした。

ケンちゃんは、波頭を超えて数千里の大冒険が終ったばかりだというのに、ふたたび命懸けの大旅行へ旅立つ、か細いQちゃんの背中を、そっと人差し指で名でなでてやってから、水盤の中のQちゃんを、手のひらですくいとり、自宅の前をさらさらと音を立てて流れる滑川の支流へ、そっと放してやりました。

Qちゃんはケンちゃんに向かって尾ひれを小さく3回振って、さよならをいうのももどかしそうに、彼なりの全速力で下流めがけて泳いでいったのですが、Qちゃんのそんな姿を、この付近をいつも周回しているシラサギとカワセミが、無言で見送っていました。

「さ、急に忙しくなったぞ。今日中にぜんぶかたずけなくっちゃ」

ケンちゃんは、ふだんはやりませんが、やる時はやる男の子です。
その日のうちに全教科の1週間分の予習復習宿題その他もろもろを一気にやっつけてしまうと、大好きなお母さんと兄貴のコウちゃんに宛てて、さらさらと書き置きをして、冷蔵庫の扉に貼り付けました。

そしてドラエモンの貯金箱を金づちでぶち壊して出てきた全財産を、着替えと一緒にリュックの中に入れ、その日の午後1時5分、十二所神社発鎌倉駅行きの京急バスに飛び乗ったのでした。

冷蔵庫のメモにはこう書かれていました。

「お母さん、コウくん、お帰りなさい。突然ですが、綾部へ行ってきます。
由良川の魚たちが、悪い奴らに滅ぼされてしまいそうなんだ。
そして、僕しか助けられないんだ。
だから、2,3日綾部へ行ってきます。
5月の連休で学校も日曜を挟んで3連休だからいいでしょ?
綾部のおじいちゃんとおばあちゃんに、電話しといてください。
お金は、貯金を使うからダイジョウブ。
心配しないで帰りを待っててネ。バイビー!
追伸 勉強はぜんぶ終わらせといた」

そしてその日の午後3時ごろ、鎌倉駅から横須賀線に乗ったケンちゃんは、一路丹波に向かったのでした。

横浜駅で新幹線に乗り換え、京都に着いたのが午後7時半、そこから山陰本線の急行で1時間半、ちょうど夜の9時過ぎにケンちゃんは綾部の旧市街の目抜き通りににある「てらこ」の入り口に立っていました。

「こんばんは、ケンです!」

と言ってケンちゃんが、既に店仕舞いを終えたのに煌々と明かりをともしている下駄屋さんのガラス戸をとんとんたたくと、おじいちゃんとおばあちゃんが、2人揃って飛び出してきました。

「おお、、おお、よおきたのお、ケンちゃん。鎌倉のお母さんから電話があったから、まだか、まだかと待っとったんやど」

セイサブロウさんは、そういって可愛い孫の顔をうれしそうに、心配そうに、のぞきこみました。おばあちゃんのアイコさんは、黙ってケンちゃんを抱きしめ、ほっぺたにブチュっとキスをしました。
ケンちゃんはすぐに逃げ出そうとしたのですが、アイコさんはなかなか放してくれません。

その夜は、久しぶりに話が弾みました。
綾部と鎌倉の2つの町を結ぶ有名な武将の話を、セイザブロウさんがしてくれたのです。

室町幕府を開いた足利尊氏の母は、その名を上杉清子といい、上杉の本貫地は丹波の上杉でした。彼女は上杉の光福寺というお寺で生まれ、少女時代を過ごしたのです。
光福寺はのちに丹波安国寺になりますが、このお寺は足利氏支配下の全国に設置された安国寺の筆頭と定められ、最盛時には寺領三千石、塔頭十六、支院二十八を数えました。
丹波梅迫の安国寺は、綾部の市街地から由良川を隔てた北の山の斜面にあり、本堂の右手の木陰に清子と尊氏、そして尊氏の妻、赤橋登子の墓が並んでいるそうです。

その足利尊氏は鎌倉に住み、後醍醐天皇の命によって、新田義貞などと共に鎌倉幕府を倒し,京に室町幕府を開いた人ですから、綾部に生まれ、京に遊び、鎌倉に住むケンちゃんのお父さんと少し共通点があるような気もしますが、時代も人物のスケールもまったく違うので、やはり全然関係ないのでしょうね。

ところでケンちゃんのお父さんのマコトさんは、半年前に会社の仕事でNYに出張したのですが、一週間で帰国するはずが、どういうわけか行方不明になり、NY市警に捜索願を出したのですが、今のところなんの手がかりもないのです。

支店の人の話では、なんでも三カ月ほど前にブロンクスで黒人の女性と一緒に歩いているところを見かけたそうですが、それっきり。
みんなは、事故にでも遭ったのではないかと心配しているのですが、じつはマコトさんは以前スペインのマドリードでも行方不明になり、半年後に突然成田に元気な姿を見せたので、会社も家族も、もうすぐ帰ってくるだろうと、たかをくくっているのでした。

そんなわけで父親不在のケンちゃんでしたが、とっても元気。
アイコさん心づくしのタケノコご飯を、おいしくいただき、その夜はぐっすりと眠りました。

 

空白空白空白空白空つづく